イザヤ書65章1~12節 「すべての主、すべての神」

いよいよイザヤ書のクライマックスに入ります。前回はイザヤの祈りから学びました。主がイスラエルの救い主となられたことはわかった、いつも共にいて、彼らが苦しむ時には苦しみ、その愛とあわれみによって彼らを贖い、昔からずっと背負い続けて来られたこともわかりました。だったらなぜこのような状況を許されるのですか?それがイザヤの祈りでした。それは具体的には、なぜバビロンによってエルサレムが荒廃しているということをお許しになられるのですかということです。そして、きょうのところでその理由が明らかにされます。

Ⅰ.不思議な神の救いの計画(1)

まず1節をご覧ください。 「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。」    「わたしに問わなかった者たち」とか、「わたしを捜さなかった者たち」とは、異邦人のことを指しています。神の民であるイスラエルは神の民であったのに、その神への反逆のゆえに、エルサレムは完全に荒れ果ててしまいました。でも、なぜ主はそのようなことを許されるのでしょうか。それは、神の救いの御手が、神を呼び求めなかった者たちに向けられるようになるためだったのです。

考えてみると、イザヤが預言者として召命を受けたとき、主は彼にこう仰せられました。「行って、この民に言え。聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」(6:9-10)本当に不思議な言葉です。これから預言者として神の言葉を語ろうとしているというのに、聞いても悟るなとか、見ても、知るな、その目を堅く閉ざせ、自分の耳で聞くなとか、立ち返っていやされることのないために、というのですから・・。それはいったいどういうことだったのでしょうか。このことのためだったのです。すなわち、そのように彼らが悟らないことによって、救いの御手が異邦人に向けられるためです。

ローマ人への手紙11章11~14節を見ると、ここには、ユダヤ人の救いに関する神の計画が書かれてあります。 「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。」

「彼ら」とはユダヤ人のことです。彼らがつまずいたのはいったい何のためだったのでしょうか。それは彼らが倒れるためではありません。むしろ彼らが救われるためです。彼らが神に反逆することによって、救いが異邦人に及ぶためだったのです。しかし、それだけではありません。そのように救いが異邦人に及ぶことによってイスラエルにねたみが起こされ、そのようにしてイスラエルが救われるためなのです。こうしてイスラエルはみな救われるという神の救いのご計画が完成するためだったのです。

「神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ローマ11:29)

これがイスラエルを救う神の計画だったんですね。いったいだれがこのようなことを考えることができるでしょう。だれもできません。ただ神だけがおできになることです。神は全知全能であり、その計画は測り知れず、私たちが考えることもできないような知恵を持っておられます。それゆえに、私たちはこう祈りながら、そのこの神の測り知れない計画にすべてをおゆだねするしかありません。ローマ人への手紙11章33~36節です。

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:33-36)

すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至るからです。私たちは、到底、神様の思いを知ることはできません。神様のご計画のすべてを、初めから終わりまで見極めることはできません。しかし、神様はその大きな知恵と豊かな知識をもって、私たちのために備えておられるのです。

先週、大田原に中国の家の教会出身の王淵さんのお母さんとお婆ちゃんが来会され、証をしてくださいました。王さんの通っておられる教会の牧師は、毛沢東によるあの文化大革命の時に何度も投獄されました。それは毛沢東の徹底した弾圧が加えられたからです。教会という教会は根こそぎにされたかと思われましたが、キリストの命は地下で脈々と生き続けていました。そして文化大革命が終わり1980年代に入ると家の教会はものすごい勢いで成長し、今では中国全土で1億3千万人以上のクリスチャンがいると言われています。いったいなぜ神様は中国にそんなにひどい迫害をもたらしたのでしょうか。  それは中国を救うためでした。文化大革命によって宗教が徹底的に否定され、教会や寺院、宗教的な文化財が破壊されてしまったことで、彼らから因習が取り除かれ、純粋に神を求める心が与えられました。また、そのようにして指導者が捕えられたことで、一般の信徒が家々で群れを導いていくことになったのです。 文化大革命は中国に激しい苦難を与えましたが、それによってリバイバルの備えができ、多くの人たちが救われる結果をもたらしたのです。

先日、ペルーに遣わされている下田宣教師からメールがありました。10月に滝元順先生がペルーに来て聖会を行うということで、その準備のために4時間くらい離れたところに車で向かっていたとき、運転手が居眠りをして大事故を起こしてしましいました。車は横転して何度も回転しぺしゃんこになってひっくりかえって止まりました。下田宣教師は額を何針か縫う怪我をして、顔面血まみれになりました。本当に生きているのが不思議なくらいの大事故でしたが、運転手はほぼ無傷でした。  運転手が警察の事情聴取を受けているとき、下田宣教師は運転手の後ろから、「こうして命があるのは奇跡だ。神様に感謝しなさい!!」とずっと言い続けたそうです。すると、この運転手クリスチャンではなかったのですが、下田宣教師の言葉を通してイエス様を受け入れたそうです。下田宣教師曰く、「人を一人導くために大変な怪我をした」

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

神の道は、私たちの道よりも高く、神の思いは、私たちの思いよりも高いのです。神は完全な計画を持っておられます。その神は今に至るまで、私たちのために働いておられるのです。問題はあなたがそのことを信じ、その神の御手にすべてをゆだねるかどうかです。もしあなたが、あなたの道を主にゆだね、主に信頼するなら、主が成し遂げてくださいます。

Ⅱ.反逆の民(2-7)

次に2節から7節までをご覧ください。それとは対照的に、自分は神の民だと自称しながらも、あくまでも神に反逆し、自分の思いに従って歩む者には、神のさばきが下ります。5節前半までをお読みします。

「わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、「そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている」と言う。

3節の「園の中でいけにえをささげ」とか、「れんがの上で香をたき」というのは、どれも異教的な礼拝のことを指しています。彼らは何度も何度も差し伸べられた主の御手をはねのけ、そうした異教の神々にいけにえをさささげたり、不道徳な祭りごとに夢中になり、神のみ思いを痛めるようなことをしていていました。

そればかりではありません。「墓地にすわり」とは、イスラエルでは厳格に禁じられていた霊媒のことを表しています。彼らは占いをするために墓を訪れ、死んだ者の霊との接触を試みていたのです。「見張り小屋に宿り」というのも超自然的な存在と接触しようとする試みのことです。彼らはそうした隠れた所で夜を過ごし、死者や悪霊から啓示を受けようとしていたのです。「豚」は汚れた動物として食べることが禁じられていました(レビ11:7)。「汚れた肉の吸い物を器に入れる」とは、その豚の肉を煮た汁を器に入れることです。彼らはこのような異教的な儀式に関わることで、自分たちが特別に聖い存在になっていると勘違いして誇り、そうでない人たちをさばいていたのです。神はイスラエルに何度も何度も救いの御手を差し伸べられたのに、彼らは何度も何度もそれを拒み、反逆を繰り返してきました。そのような神の愛の御手をはねのけて、自分の思いに従って歩んだのです。

皆さん、主の御手が短くて救えないのではありません。その耳が遠くて、聞こえないのでもないのです。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。そしてその結果は何かというと、神のさばきです。そのような人の上には神のさばきがくだるのです。5節後半から7節までのところにこうあります。

「これらは、わたしの怒りの煙、一日中燃え続ける火である。見よ。これは、わたしの前に書かれている。わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する。―山の上で香をたき、丘の上でわたしをそしったあなたがたの咎と、あなたがたの先祖の咎とをともどもに。わたしは、彼らの先のしわざを量って、彼らのふところに、報復する」と主は仰せられる。」

ここには「報復する」ということが3回繰り返して言われています。皆さん、神は報復する神です。「怒りの煙」とは、神の怒りの息づかいを表しています。また、「一日中燃え続ける火」とは、神のさばきの炎を象徴しています。そのような悪は神の前に置かれたノートにちゃんと記録してあって、決して見過ごされることはありません。彼らのした行いに応じて、必ず裁かれることになるのです。

皆さんはいかがでしょうか。こうした神のさばきを受けることがないように、差し出された神の愛の御手を受け入れておられるでしょうか。神の御手はいつもあなたの前に差し出されています。あなたは、その御手を受け入れておられるでしょうか。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16-18)

御子を信じる者はさばかれません。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれています。どうかさばかれることがないように、神の御子イエス・キリストを信じてください。キリストはあなたが神にさばれないように、代わりにそのさばきを受けてくださいました。十字架の上で・・・。ですから、あなたが、あなたの身代わりとなって、あなたが受けるはずの刑罰を全部受けて死んでくださったと信じるなら、あなたは神のさばきから救われるのです。救われて天国に行くことができます。これが福音です。グッド・ニュースです。どうかこの福音を信じて救われてください。また、この福音を信じて多くの人が救われるように、この福音を宣べ伝えていきたいと思います。

Ⅲ.わたしが選んだ者(8-12)

ところで、イスラエルは神に反逆したからといって、神は彼らを全く退けられたのかというとそうではありません。神は全く新しい計画をもって彼らを救われました。それが残りの民です。8節から12節までをご覧ください。8節にはこうあります。

「主はこう仰せられる。「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。」

どういうことでしょうか。神はイスラエルの全部を滅ぼすことはなさいません。そこに残りの民を残しておられます。それはちょうどぶどうのふさの中にある甘い汁のようなのものです。ぶどう全体が腐っていてもう食べられない状態でも、その中に甘い汁が残っているというのです。それは何でしょうか。それが残りの民です。彼らは神にとって祝福となるような存在です。神はイスラエルのために、その全部を滅ぼすようなことはなさいません。そこにちゃんと残りの民を残しておられるのです。                         9節をご覧ください。「わたしは、ヤコブから子孫を、ユダからわたしの山々を所有する者を生まれさせよう。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。」

神はヤコブから子孫を、ユダから神の山々を所有する者を生まれさせよう、と言われました。それが神の選んだ者です。神の選んだ者がこれを所有し、そこに住むようになります。しかし、聖書ではこのように神が選んだ者とは残りの民だけのことではありません。実は私たちクリスチャンもそうなのです。クリスチャンも神によって選ばれた者だからです。ヨハネの福音書15章16節にはこうあります。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

これはイエス様の言葉です。「あなたがた」とは弟子たちのこと、すなわち、キリストを信じるクリスチャンのことです。私たちがキリストを選んだのではありません。キリストが私たちを選び、任命したのです。それは、私たちが行って、実を結ぶためです。私たちは神によって選ばれた者、神の民なのです。そのような者は神の山々を所有するようになるのです。

そして、そのように神の山を所有する者はどのような祝福を受けるのかが10節にあります。 「わたしを求めたわたしの民にとって、シャロンは羊の群れの牧場、アコルの谷は牛の群れの伏す所となる。」

「シャロン」とは荒廃した地、「アコルの谷」とはのろいの谷という意味です。そのようにかつて荒廃していた地が羊の群れの牧場となり、のろわれた谷が牛の群れの伏すところになるのです。

神はご自分の選んだ民をひどくさばかれることはあっても完全に滅ぼされることはしません。そこにちゃんと救われる者を残しておられるのです。イスラエルであるからといって、すべてが神の民なのではありません。またイスラエルだからといって、すべてが主に反逆したのでもないのです。主はこのイスラエルの中に、本当のイスラエルを残しておられたのです。

パウロはこのことをローマ人への手紙11章1~5節のところでこう言っています。 「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」

これは励ましではないでしょうか。パウロはこの奥義を伝えるために、エリヤの時代に、バアルにひざをかかめなかった人たちのことを例に取り上げています。あのときアハブとその妻イゼベルは主の預言者たちを殺しました。エリヤをそれを嘆き、「主よ。私だけが残されました。彼らは今この私のいのちさえも取ろうとしています」と言ったとき、神は「エリヤよ、そうじゃないよ。バアルにひざをかがめてない人はあなただけではない。他に七千人の人をわたしのために用意している」と言われたのです。それと同じように、今も、恵みの選びによって残されている人たちがいるのです。ここにも。この大田原にも。

皆さん、私たちは時としてエリヤのように嘆いてしまうことがあります。「主よ、あなたを信じている人はほとんどいません。私はひとりぼっちです。孤独でさびしいです。どんなに伝道しても、だれも信じてくれません。私だけが、私だけが、残されています。」でも本当ですか。違います。あなただけではありません。あなたの他にも、神は七千人を、神のためにちゃんと残しておられるのです。今も、恵みの選びによって残されている人がいるのです。何と感謝なことでしょうか。私だけが・・・と思っていたらそうじゃない。私の他にも、残りの民がちゃんと残されているのです。神のために共に手を携え、共に祈り、励まし合う民が残されているのです。あなたは決してひとりぼっちではありません。これは励ましではないでしょうか。

一方、主に反逆する者たちには、一転して厳しいさばきが下されます。11節です。 「しかし、あなたがた、主を捨てる者、わたしの聖なる山を忘れる者、ガドのために食卓を整える者、メニのために、混ぜ合わせた酒を盛る者たちよ。」

「聖なる山」とは「シオン」のことです。このシオンを忘れるとは、神を礼拝することを止めてしまう、忘れてしまうという意味です。そういう人は、代わりにガドのために食卓を整え、メニのために、混ぜ合わせた酒を盛ったりします。    この「ガド」とは幸運の女神のことです。新共同訳では「禍福(かふく)の神」と訳しています。またメニは「運命の神」です。カナン人だけでなくアラブ人たちも信仰していました。いわば異教の神です。そうした神々に食卓を整え、混ぜ合わせた酒を盛ってドンチャン騒ぎをするのです。それは昔も今も変わりません。

現代でもこのガドとメニを求めて人々は走り回っています。幸運の女神、運命の神を求めて夢中になっているのです。たとえば、ギャンブルとか宝くじはそうでしょう。幸運の女神、運命の神と呼ばれています。そうした神々に夢中になって、本当の神がないがしろにされています。だれもそんなのに夢中になっていませんよ、と言うかもしれませんが、気がついたらいつの間にか買っていたりとか、気になってしょうがないということがあるのです。それは依存しているということです。

先日厚生労働省から発表された統計によると、我が国のパチンコや競馬などのギャンブル依存症の人の割合は成人人口の4.8%に当たる536万人だそうです。これは5年前の1.5倍に増えました。アメリカの1.58%、香港の1.8%、韓国のo.8%に比べても、日本の依存度は極めて高いことがわかります。オーエンさんが中国から来て驚いたことは、日本にはこうした娯楽施設がたくさんあるということです。これでさらにカジノも導入しようと検討されているわけですから、日本にはどれほどガド礼拝、メニ礼拝が多いかがわかると思います。幸運を求めて、運命を求めて走り回っている。まことの神を忘れて・・。それは神が忌み嫌われることなのです。そのような人には、神の激しいさばきがくだります。12節をご覧ください。

「わたしはあなたがたを剣に渡す。それであなたがたはみな、虐殺されて倒れる。わたしが呼んでも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行い、わたしの喜ばない事を選んだからだ。」

ここで神は、そのような人を剣に渡すと言っています。それで虐殺されて倒れてしまうのです。それは神が忌み嫌われることだからです。神が呼んでも答えず、語りかけても聞こうとせず、神の目の前に悪を行い続け、神が喜ばないことを故意に、意図的に行ってしまうのなら、そのような人には、当然、神のさばきが下るのです。なぜなら、わかっていても平気で逆らう、故意に、意図的に逆らうことがあるとしたら、それは聖霊に逆らう罪であり、決して許されることではないからです。イエス様は言われました。「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。」(マタイ12:31)

皆さんはどうでしょうか。神が選ばれた者、残りの民ですか。それとも神を忘れてガド礼拝、メニ礼拝に走り回っている人でしょうか。神が救いの御手を差し伸べているのに、故意に逆らって、神の怒りを引き起こしてはいないでしょうか。

どうか神に逆らわないでください。信じない者にならないで信じる者になってください。神はすべてのすべてです。私たちの思いをはるかに越えて神は働き、私たちの人生に完全な計画をもっておられます。その計画にすべてをゆだねてください。この神を信じ、この神に従うことが、あなたにとっての最善の道なのです。やがてそれが明になるでしょう。しかし、その前にどうかこの神の恵みを受け入れてください。神は今もあなたにその手を差し伸べておられます。どうかその御手に信頼してください。そしてこの驚くべき神の救いの計画を知り、共にこの神に心からの賛美と礼拝をささげたいと思います。