「すべての主、すべての神」
イザヤ65:1-12
Ⅰ.不思議な神の救いの計画(65:1-2)
「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(64:12)というイザヤの祈りに対する答えが65-66章に示される。「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。」(1)「わたしに問わなかった者たち」とか「わたしを捜さなかった者たち」とは異邦人のことである。神の御手は神の民であるイスラエルに差し出されたのに彼らはそれを拒んだので、その救いの御手は異邦人に向けられた。いったいそれはなぜか?それはイスラエルが倒れるためではない。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及ぶためであり、そのことによってイスラエルにねたみが起こされ、彼らが救われるためである。こうしてイスラエルはみな救われる(ローマ11:11-14)。これがイスラエルを救う神の計画だったのである。いったいだれがこんなことを考えることができるだろう。だれもできない。ただ神だけが考えることができることできる。すべてのことが、この神から発し、神によって成り、神に至る。神はすべてのすべてなのである。この神が私たちの人生にも深く関わっておられると信じ、神にすべてをゆだねなければならない。
Ⅱ.反逆の民(3-7)
なのに、イスラエルは神に逆らい、神の怒りを引き起こした。「園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ」(3,4)た。神は彼らに何度も何度も救いの御手を差し伸べたのに、彼らはその御手をはねのけて、自分たちの思いに従って歩んだのである。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。そのような罪に対して、神は黙っていない。必ず復讐する。神の怒りの煙、一日中燃え続ける火が彼らを襲う。そのような神のさばきに会うことがないように、差し出された神の救いの御手を受け入れなければならない。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16-18)
Ⅲ.わたしが選んだ者(8-12)
ところで、イスラエルが神に反逆したからといって、神は彼らを全く退けられたかというとそうではない。神は全く新しい計画をもって彼らを救われる。それが「残りの民」である。「主はこう仰せられる。「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、それをそこなうな。その中に祝福があるから」と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。」(8)イスラエルのぶどう全体が腐っても、その中に甘い汁が残るようにする。それが残りの民である。神はイスラエルのためにその全部を滅ぼすようなことはしない。そこに残りの民を残してくださるのだ。それは神にとって祝福となるような存在である。彼らはやがて神の山々を所有するようになる。イスラエルだからといってすべてが神の民なのではない。またイスラエルだからといって、すべてが神に反逆したのでもない。主はこのイスラエルの中に本当のイスラエルを残しておられたのだ。パウロはこの奥義をローマ人への手紙11章1~5節でこう述べている。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。それと同じように、今も恵みの選びによって残された民がいます。」
時として私たちはエリヤのように嘆いてしまうことがある。「残されたのは私だけ、だれもあなたを信じない。私だけが残されている。私はひとりぼっちでさびしい。孤独です・・・。」しかし、そうではない。あなただけではない。あなたの他にも、神は七千人を、神のために残しておられる。それは励ましではないか。あなたは決して一人ぼっちではない。神のために共に手を取り合い、共に祈り、共に励まし合う仲間がいる。神はちゃんと残りの民を残しておられるのである。
だから私たちは信じない者にならないで、信じる者になろう。神から差し出された愛の御手を拒絶するのではなく、感謝して受け入れ、その御手に信頼しよう。神はすべてのすべてであって、あなたのために最善の道を備えておられるのだから。