創世記4章1~16節

きょうは創世記4章から人類で最初に起こった殺人事件について学びたいと思います。アダムとエバの最初の子であったカインが、その弟アベルを殺したという出来事です。

 Ⅰ.カインとアベルのささげもの(1-7)

まず1節~5節をご覧ください。

「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、値の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た、主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」

アダムとエバに最初の子どもが与えられました。名前は「カイン」です。意味は、「わたしは得た」です。アダムとエバが神に背いて罪を犯し、エデンの園を追放された時、神は彼らに「女の子孫」から救い主を与えると約束してくださいました(3:15)。ですから、彼らに長男が生まれたとき「得た」と思ったのでしょう。しかしながら、それが間違っていたことがわかると、次に生まれた子どもを「アベル」と名付けました。意味は「空虚」です。神の救いがないことは本当に虚しいことだと悟ったのです。

さて、そのカインとアベルが成長して大人になった時、カインは土を耕す者に、アベルは羊を飼う者になりました。日が経って、神にささげ物をささげる時期になった時、カインは地の作物の中から主へのささげ物を持ってきましたが、アベルは羊を飼うものとして、彼の羊の中から、しかも羊の初子の中から、最上のものを持ってきました。すると神様は、アベルとそのささげ物に目を留められましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。いったいなぜ神様はアベルとそのささげ物には目を留められたのに、カインとそのささげ物には目を留められなかったのでしょうか。

その後で、そのことで怒り、顔を伏せていたカインに、神様は「あなたが正しく行ったのであれば受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口に待ち伏せしていて、あなたを恋い慕っている。」と言われました。すなわち、彼は正しく行なわなかったのです。いったいどういう点で彼は正しく行っていなかったのでしょうか。

このところをよく見ると、彼は土を耕す者になったのですから、その収穫の中から主へのささげ物を持って来たことは問題ではないかのように感じます。そこで多くの人はそのささげる態度に問題があったのではないかと考えます。アベル場合は最上のものを持ってきたのに対して、カインはそうではなかった。つまり彼は適当にささげたというのです。しかし、問題はささげ物の質で決まるのではありません。結果としてはそれも原因の一つであったかもしれませんが、ここでの問題は別のところにありました。それは、彼らがささげた物が何であったのかということです。つまり、血による犠牲であったかどうかが問われているのです。アベルは血による犠牲をささげたのに対して、カインは血のないささげ物をささげました。彼らはアダムとエバの子どもとし、神が受け入れられるささげ物とはどのような物であるのかを聞いて、それを知っていたはずです。すなわち、神が受け入れられるささげ物とは罪を贖うべきものであり、そこには動物の血が流される必要があったということです。なぜなら、罪の支払うべき報酬は死であり、命は血の中にあるからです。レビ記17:11とヘブル9:22に、次のように記されてあります。

「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(レビ17:11)

「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)

血を注ぐことがなければ、罪の赦しはありません。彼らはそれをアダムとエバから聞いてちゃんと知っていたはずなのです。なぜなら、アダムとエバが罪を犯したとき、自分たちが裸であることを知り、それで神の前に出るのが恥ずかしいと思いいちじくの葉で腰の覆いを作って着ましたが、その着物は神の御前には何の役にも立たず、そのために神様は別の着物を着せてくださいました。どういう着物だったでしょうか?そうです、「皮の衣」(3:21)です。それは動物の血の犠牲が伴うものでした。彼らはそのことを知っていたのです。アベルはそのことをわきまえて血の犠牲としてささげ物をささげましたが、カインはそうではありませんでした。それが問題でした。彼らはともに堕落したアダムとエバの子どもとしてエデンの園の外で生まれましたから、ともに罪人であるという点では同じでした。しかし、その罪の赦しを請うために、すなわち、神に受け入れられるための手段、方法は違っていました。アベルは神の方法に従って、神のあわれみによりすがり、血の犠牲をささげたのに対して、カインは罪の赦しを受けることなしに、自分の手のわざをささげたのです。しかし、自分のわざによっては神に近づくことはできません。ただ神のあわれみによらなければ、神に近づくことも、罪の赦しも受けることはできないのです。このことをわきまえないで、自分のわざによって神に受け入れられようとすることは、神の御前には傲慢以外の何ものでもありません。

このことは、神の小羊であられるイエス・キリストを信じる信仰を表していたことは明らかです。神はイエス・キリストの十字架で流された血潮によって、その名を信じる者を義としてくだり、はばかることなく、大胆に恵みの座に近づくことができるようにしてくだったのです(ヘブル4:16)。

神がアベルのささげ物を顧みてくださりカインのささげ物に目を留められなかったのは、そういう点でカインが正しく行っていなかったからであって、決して神が人をかたよって見ておられたからではありませんでした。神はかたよって見られる方ではないからです(ローマ2:11)。そういう意味では、ささげ物が受け入れられなかったとしてもその責任は神様にあるのではなくささげた側にあるのだから、神に対して憤ったり、顔を伏せたりすべきではないのに、カインは自分の罪をわきまえずにやたら腹を立て、ついには弟を殺してしまいました。罪深い人間の本性が、ここによく表れているのではないかと思います。

 Ⅱ.カイン、アベルを殺す(8-14)

では、その人類最初の殺人事件を見ていきましょう。8節から14節です。

「しかし、カインはアベルに話しかけた、「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれてりう。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」

ささげ物が受け入れられなかった責任は自分にあり、そのことを示されたカインは、神の言われることに耳を傾けるどころかアベルに嫉妬し、彼に襲いかかって、殺してしまいました。ここに最初の殺人事件が起こったのです。神に背き、神の言われることを拒んでいる罪人は、みなこのカインのようです。他の人を傷つけてしまうのです。それがこのような暴力的な犯罪につながることがあれば、暴力として表れなくても、苦々しい態度や、わがままな行動になってあらわれることもあります。しかし、それは結果的には悲惨的で、誰かを傷つけてしまうことになるのです。そして、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われても、そうした殺人の責任をとろうとするどころか、「知りません。私は弟の番人なのでしょうか」とうそぶいくことになるのです。カインは、神様が自分の罪のすべてを知っておられることがわかっていても、あるいは、その罰からのがれられないことがわかっていても、それでもなお悔い改めて赦しを得ようとしませんでした。むしろ自己憐憫から、自分の運命をのろい、神の罰が厳しいと言って、不平を述べているのです。そして、罰からのがれられないと見てとると、今度は深く絶望してしまいます。今度は、アベルを殺した報復として、だれかが自分を殺しはしないかと思い、心配しているのです。まさにこれが罪人の姿です。どこまでも頑ななのです。神は、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられます(Iテモテ2:4)。ですから、どんな罪を犯したとしても、ただ神の前に悔い改め、へりくだって歩めばいいのに、なかなかそれができないのです。そして、もっと、もっと意固地になって神をのろい、不平を並び立てながら、自分の人生をのろうのです。それが罪深い人間の姿なのです。

 Ⅲ.一つのしるし(15-16)

そんなカインに対して、神はどうされたでしょうか。15節と16節をご覧ください。

「主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。」

 

なんと、そのようなカインの嘆きに対して、神様は「それだから・・」と、だれも彼を殺すことがないように一つのしるしを下さいました。このしるしが何であるかはわかりませんが、いったいなぜ神様はこのようなしるしを彼に与え、彼を守ろうとされたのでしょうか。それは、神様はあくまでも彼が悔い改めることを願っておられたからです。そのために彼を守られる手段を講じてくださったのです。にもかかわらず彼は、そんな神様の愛の思いを悟ることができず、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住み着きました。「ノデ」とは「動揺」という意味です。神を離れてからのカインの毎日は、動揺にほかなりませんでした。それはさすらいであり、さまよいです。くる日もくる日も不安な動揺に終始しなければならない生活は、どんなに悲惨であったかがかります。

スタインベック原作の映画「エデンの東」は、ここにその名のルーツがあります。厳格な父に受け入れてもらえないジェームス・ディーン扮する主人公が、父に受け入れてもらうことを願いつつも、かえって背を向けて葛藤する様を描いています。

殺人の罪を犯しても、カインは真に悔い改めることをしませんでした。ところが、そんな彼の上にも、神様は「保護」という恵みを与えられました。神様はそれほどに人類が悔い改めて神に立ち返ることを願っておられるのです。私たちはカインの道、すなわち神様から離れた自己中心の道ではなく、アベルの道、すなわち、自分の罪を悟り、そのままの姿では聖なる神様の御前には出ることができないことを知り、信仰によって身代わりの犠牲をささげる。つまり、来るべき救い主イエス・キリストに信頼する道、信仰の道を歩む者でありたいと願います。