Ⅰテサロニケ1章4~10節 「すべての信者の模範となった教会」

きょうは、テサロニケ人への第一の手紙1章4節から1章の終わりまでのところから学びたいと思います。1章3節でパウロは、彼らの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしていると言いました。そして、4節から3章の終わりまで、その彼らの信仰の働きがどのようなものであったかが語られます。それは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範となるような信仰でした。きょうはその信仰から学びたいと思います。

Ⅰ.聖霊によって伝えられた福音(4-5)

まず4節と5節をご覧ください。4節でパウロは、「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。」と言っています。

彼らは、「神に愛されている兄弟たち」でした。それは彼らが神を愛したからではありません。神がまず彼らを愛し、彼らのためになだめの供え物としての御子を遣わしてくださったからです(Ⅰヨハネ4:10)。彼らは神に愛される資格など全くありませんでした。平気で罪を犯し、平気でキリストを十字架につけて殺すような者だったのです。にもかかわらず神は、彼らを愛してくださいました。なぜでしょうか。それは「あなたがたが神に選ばれた者」だからです。

彼らは神に愛されるように選ばれた者なのです。それは彼らだけではありません。私たちもそうです。イエス・キリストを信じたすべてのクリスチャンは皆、神に選ばれた者なのです。私たちはどこか自分で教会に来て、自分でイエス様を信じたかのような思いがありますが、実はそうではありません。神があなたを選んでくださったので、あなたは救われ、こうして教会に来ることができるのです。有名なヨハネの福音書15章16節には、次のようにあります。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」

また、エペソ人への手紙1章4節5節を見ると、このように書かれてあります。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。にしようとされました。」皆さん、私たちは生まれる前から、いや、世界の基の置かれる前から、救われるようにと定められていたのです。

このようなことを申し上げると、「じゃ、神は救われない人は、あらかじめそのように定められていたのか」とか、「信じていない人は救われないように定められているということなのか」「そんなの不公平じゃないか」という人たちがいます。しかし、決してそういうことではありません。Ⅰテモテ2章4節を開いてください。ここには、「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」とあります。皆さん、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるのです。それなのに信じようとしないのはそれはその人の側の問題であって、神の問題ではないのです。差し出された救いを自ら拒んでいるだけなのです。神の救いはすべての人に差し出されています。神は、すべての人が救われることを望んでおられるのです。ですから、もしあなたがその差し出された救いを受け入れるならば、あなたも神に選ばれた人になるのです。テサロニケの兄弟たちは、差し出された神の救いを素直に受け入れました。それは彼らが神に選ばれた人たちだったからです。

5節をご覧ください。「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。」

ここには、テサロニケの人たちが神に愛され、神に選ばれた人たちであると言える理由が語られています。それは、パウロたちによって彼らに伝えられた福音は、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。

どういうことでしょうか?Ⅰコリント人の手紙1章18節でパウロはこのように言っています。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)

また、同じⅠコリント2章4節のところでも、こう言っています。「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」(Ⅰコリント2:4)

パウロによって伝えられた福音はただのことばだけではなく、そこに御霊の力があったということです。それはここに、「私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。」とあることからもわかります。これはおそらくしるしや奇跡、いやしといった不思議なみわざもあったでしょうが、それ以上に、彼らの生活を通して、神の福音が力強く証されていたということでしょう。というのは、ここでパウロは福音のことを「私たちの福音」と言っているからです。「私たちの福音」とは何でしょうか。これは、私たちの所有となっている福音、私たちのものになっている福音という意味です。ただ私たちが信じた福音というだけでなく、その福音がすっかり板についていたということです。すなわち、彼らはこの福音に生き、福音に立って歩んでいたのです。そこにはものすごい聖霊の力が現れたことでしょう。その福音がテサロニケの人たちに伝えられたのです。

皆さんはどうでしょうか。「私の福音」になっているでしょうか。確かに福音によって救われたけれど、それは救われた時だけでした・・というようなことはないでしょうか。この福音が「私の福音」と言えるくらいになるまで、この福音にとどまり、福音に生き、福音によって成長していく人になりたいものです。そこに主の聖霊が力強く、豊かに働かれるからです。福音とは良い知らせ、グッド・ニュースです。神はあなたを愛しておられるという知らせです。どのように愛しておられるのでしょうか。神はあなたの罪を赦すために、ひとり子イエスを十字架につけてくださいました。それはあなたが滅びないで、永遠のいのちを持つためです。それは、あなたがどのようになっても変わらない永遠の約束なのです。たとえあなたが罪を犯しても、たとえあなたが道を踏み外したとしても、神は決してあなたを見捨てるようなことはなさいません。あなたの代わりにイエスさまが死んでくださったからです。だから、どんなことがあっても、あなたが救いを失うことは絶対にありません。あなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたを赦してくださいます。その約束はどんなことがあっても変わりません。それは永遠の契約なのです。すばらしい約束ではないでしょうか。この神の愛にとどまり、福音に生き続けるなら、神はあなたにも御力を表してくださるのです。

Ⅱ.聖霊による喜びをもって受け入れられた福音(6)

次に6節をご覧ください。ここには、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」とあります。

福音は、力と聖霊と強い確信とによってテサロニケの人たちにもたらされましたが、一方、テサロニケの人たちはそれをどのように受け止めたでしょうか。彼らもまた多くの苦難の中にあって、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れました。パウロたちのうちに働いた聖霊のみわざは、伝道の対象であったテサロニケの人たちにも同様に力強く働いたのです。テサロニケの人々は、当然迫害が予想される中でも、聖霊による喜びを持ってみことばを受け入れることができたのです。

皆さん、クリスチャンの歩みは、決して良いことずくめではありません。良いことがあれば悪いこともあります。クリスチャンになったら何もかもがバラ色になるというわけではないのです。イエスさまがいばらの冠を被らせられたように、クリスチャンの生涯にもいばらがあるのです。バラもあれば、いばらもあります。パウロは若き伝道者テモテにこのように書き送りました。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)

また、イエスさまは弟子たちにこう言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

しかし、そうしたいばらの中にあっても、クリスチャンは喜ぶことができるのです。なぜでしょうか。それは聖霊が与えてくれるからです。聖霊によって喜ぶことができます。たとえ外側からは多くの苦難があっても、聖霊によって内側から喜びが溢れます。

聖書が語っている喜びは、一般的に語られている喜びとは違います。聖書が語っている喜びはまわりの状況がどうであれ、決して奪い取られることがない喜びです。一般的には、健康の時には喜ぶことができても、いざ病気になったら、その喜びはすぐに吹っ飛んでしまいます。お金があれば喜べますが、無くなった途端に不安になります。友達がいれば喜べますが、友達に裏切られたり、見捨てられたりすると落ち込んでしまいます。それまで抱いていた喜びがいっぺんに吹っ飛んでしまうのです。しかし、聖書が与える喜びは、どのような状況にあっても奪い去られることはありません。それは聖霊による喜びなのです。テサロニケの人たちは、この聖霊による喜びをもっていたのです。

皆さんは、この聖霊による喜びを持っているでしょうか?いったいどうしたらこの喜びを持つことができるのでしょうか。それは信仰によります。クリスチャンは信仰によって、目に見える世界だけでなく、目に見えない世界も見ているのです。だから、たとえ現実の生活が苦しくても、喜ぶことができるのです。

使徒ペテロは、迫害によって散らされていたクリスチャンたちに対してこう書き送りました。

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:6-9)

「そういうわけで」というのは、イエスによって罪赦されて、永遠のいのちが与えられたので、ということです。そういうわけで、私たちは大いに喜んでいるのです。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。私たちはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。アーメン。

これは信仰の結果なのです。たましいの救いを得ているからなのです。それは人間の目で見ることはできません。それはただ信仰によって、聖霊がその真理を明らかに示してくださることによって見えるのです。それは信仰の結果なのです。だから、たとえ苦難にあっても喜ぶことができます。そして、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどることができるのです。

ですから、これが見えるか、見えないかは大きな違いです。信仰によってそれがはっきりと見えるなら、どのような苦難をもろともせずに、聖霊によって喜ぶことができますが、そうでないとまわりの状況に一喜一憂して悲しみに打ちひしがれてしまうことになります。ですから、この差は大きいのです。私たちはいつも聖霊による喜び、聖霊による力、聖霊の臨在にあふれるために、いつもこの信仰によって、自分たちに与えられている霊的祝福がどのように偉大なものなのかを見ていかなければなりません。

Ⅲ.聖霊によって広がり続けた教会(7-10)

第三に、その結果です。聖霊によって伝えられ、聖霊の喜びをもって受け入れられた福音は、いったいどのようになったでしょうか。7,8節をご覧ください。

「こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」

すばらしいほめ言葉です。激しい迫害の中、わずか3週間しかテサロニケに滞在することができませんでしたが、テサロニケのクリスチャンたちは、そうした多くの苦難の中にあっても、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、主とパウロたちにならうものになっていたのです。それを聞いたときパウロは、どれほど喜んだことでしょう。もう天にも上るような気持ちになったのではないでしょうか。この8節には、そんなパウロの喜びが表現されているように見えます。「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなた方の信仰はあらゆるところに伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」

この「響き渡った」ということばは、ラッパの響きが広がっていくのに似ています。彼らの信仰はマケドニヤとアカヤ地方だけでなく、すべての信者の励ましになって響き渡りました。この「響き渡った」ということばは実は完了形で書かれています。完了形というのは継続を表しています。つまり、響き渡り続けたということです。一時的に響いただけでなく、ずっと響き続け、広がり続けていったのです。

私たちの教会もそのような教会になりたいですね。私たちの主への信仰が、この大田原、那須ばかりでなく栃木県の全域に、いや日本全土に、そして全世界に響き渡り、多くのクリスチャンを励ましていくような、そんな教会になれたらと思うのです。絶対にそうなります。私たちは弱くても神は強い方だからです。聖霊には人を新しく作り替える力があります。この聖霊により頼むなら、かつてテサロニケでおこったことが、この大田原でも起こると信じます。かつての中国の教会がそうであったように、この日本の教会も多くの苦難の中で聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、主にならう者となるだけでなく、今度はここから出て行って、あらゆる所に響き渡るようにな、そんな教会になるように祈ろうではありませんか。

いったいそのためにはどうしたらいいのでしょうか。まず9節をご覧ください。「私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、」

パウロの宣教のことばが、神のことばとして彼らに受け入れられると、彼らは偶像から神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになりました。回心にはこの二つのことが必要です。つまり、離れることと、向かうことです。彼らは偶像から離れ、神に向かいました。このテサロニケにはどれほど多くの偶像があったことでしょう。テサロニケの町からはギリシャの神々オリンポスの山を眺めることができたと言われています。たくさんのギリシャ神話の神々を信奉している人たちがいました。それはパウロがギリシャ文化の中心地アテネを訪れた時、そこにあったおびただしい数の偶像を見て怒りを感じたことからもわかります。同じギリシャの地方都市であったこのテサロニケにも相当の偶像があり、それに支配されていたものと思われます。しかし、彼らはパウロを通して語られた神のことばを受け入れたとき、そうした偶像から離れ、生けるまことの神に仕えるようになったのです。この「偶像から」の「から」は、偶像からの明確な分離を示しています。それは中途半端な決別ではありません。明確な、歴然とした方向転換だったのです。

日本人の中には、白黒をはっきりさせない曖昧さをよしとする傾向があります。お正月は神社に行き、お盆なるとお寺に行く。そしてクリスマスになると教会に行ってお祝いするということが平気でできるのです。そうした傾向はクリスチャンになっても引きずっている場合が少なくありません。そして、クリスチャンになってもなかなか偶像から立ち返ることができないでいるということがあるのです。

この偶像というのは単に木や石できたものばかりではなく、私たちの中で作り上げているものもそうです。神以外のものを神よりも大切にするものがあるとしたら、それはその人にとって偶像なのです。クリスチャンもこうした偶像礼拝に陥っていることがあるのです。それがなければ生きていけないとか、絶対に失いたくないと、縛られているとしたら、それはその人にとっての偶像なのです。それが何であったとしても、テサロニケのクリスチャンたちが偶像から立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになったように、私たちもそうした偶像と明確に分離し、生けるまことの神に仕える者とならなければなりません。

それから、もうひとつのことが10節に書かれてあります。「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことはたの人々が言い広めているのです。」

これはどういうことかというと、テサロニケのクリスチャンたちは、キリストの再臨を待ち望んでいたということです。この「待ち望む」ということばは、赤ちゃんが生まれる時、両親がわくわくしながらそれを待望する姿に似ています。赤ちゃんが生まれてくるのがわかっているのでその備えます。いつ生まれてきてもいいように部屋の模様替えをしたり、ベビーベッドを用意したり、その脇にはオムツを交換する台を置いたり、暑ければエアコンを、寒ければ赤ちゃんの健康にいいヒーターを用意します。産着も、ベビー服も、おもちゃも、ミルクも、ちゃんと用意して待ちます。それと同じように、テサロニケのクリスチャンたちはイエスさまがいつ再臨してもいいように待ち望んでいました。いつ来られてもいいように、その備えをしていたのです。

皆さんはどうでしょうか。イエスさまがいつ来られてもいいように、備えておられるでしょうか。イエスさまがいつ来られてもいいように、イエスさまを信じて、その思いがイエスさまに向かっているでしょうか。偶像に仕える過去の生活から生けるまことの神に仕える現在の生活に一変させられ、そして将来はキリストの再臨の祝福にあずかる希望へと導かれるクリスチャンライフは、何と幸いなものでしょうか。テサロニケのクリスチャンたちはこのように歩みました。それはすべての信者の模範となるほど輝いていたのです。その信仰はあらゆる所に響き渡るものでした。それは私たちの模範でもあります。私たちも聖霊によって伝えられた福音を受け入れ、その喜びの中に入れられました。しかし、それだけで終わりではありません。福音は私たちの生活を一変させます。偶像から立ち返って、生けるまことの神に仕えるようにしてくれます。そこには明確な変化が伴います。そして、それはキリストの再臨の希望へとつながっていくのです。私たちもこのテサロニケのクリスチャンたちにならい、生けるまことの神に仕え、キリストの再臨を心から待ち望む者でありたいと思います。これが福音のもたらす大きな変化であり、祝福なのです。