きょうはⅠテサロニケ4章13~18節までの箇所から死者の復活についてお話したいと思います。タイトルは、「祝福された望み」です。パウロは4章でテサロニケのクリスチャンたちに三つのことを勧めています。一つは聖くなること、二つ目に互いに愛し合うことです。そして三つ目のことは、互いに慰め合うことです。きょうのところには、三つ目の互いに慰め合うことについて勧められています。いったいクリスチャンにとっての慰めとは何なのでしょうか。18節には、「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」とあります。これが慰めです。つまり、クリスチャンは死んで終わりではないということ、イエス・キリストが再び来られるとき死んだからだがよみがえり、朽ちることのない栄光のからだによみがえり、一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うようになるということ、そのようにして、いつまでも主とともにいるということです。これがクリスチャンの慰めなのです。私たちはこのことばをもって互いに慰め合わなければなりません。きょうはこのことについて三つのポイントお話をしたいと思います。
Ⅰ.知らないでいてもらいたくない(13)
まず13節をご覧ください。ここには「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」とあります。
「眠った人々」というのは、イエスさまを信じて死んだ人たちのことです。今、この中に眠っている方がおられるでしょうか?その人のことではありません。イエス・キリストを信じて死んで人たちのことです。
ヨハネの福音書11章には、マルタとマリヤの弟ラザロが死んだとき、イエスさまは「彼は眠っている」と言われました(11:11)。また、使徒の働き7章60節でも最初の殉教者ステパノが死んだ時、彼は「眠りについた」と言われています。ですから、眠っている人々というのは、死んだ人々のことを言っているのです。パウロは、この眠った人々のことについて、知らないでほしくないと言いました。なぜでしょうか。なぜなら、他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
皆さん、何をどう考えるかはとても重要なことです。なぜなら、それによって私たちの世界観が決まるからです。テサロニケのクリスチャンたちはイエスさまが間もなく再臨すると信じその日を迎えることに大きな確信と希望を抱いていましたが、パウロたちがテサロニケを去った後で何人かの兄弟姉妹が死んでしまった時、動揺を隠せませんでした。なぜなら、主の再臨を前にして死んだ人々は再臨の祝福とか、救いの完成にあずかることができないのではないかと思ったからです。しかし、それは彼らの誤解によるものでした。眠った人々のことについて彼らが正しく理解していたら、悲しみに沈むことはなかったのです。
それはテサロニケのクリスチャンたちだけに言えることではありません。私たちも死後のことを知らなかったり、誤解していると、悲しみに沈むことになってしまいます。ですから、聖書の教理を正しく知ることはとても重要なことなのです。私はあまり教理には興味がありませんと言う方もおられますが、もし知らなかったら、他の望みのない人々のように悲しみに沈むことになってしまうのです。そういうことがないように、私たちはこのことについての聖書の教理を正しく知らなければなりません。
特にこれはテサロニケのクリスチャンに向けて言われていることです。パウロはこのテサロニケに三つの安息日にわたって滞在しました。つまり、三週間程度しか滞在できませんでした。ユダヤ人の激しい迫害と妨害があって滞在することができなかたのです。そのような生まれたばかりのクリスチャンにとってどうしても必要な信仰の基礎しか話すことができなかったのです。そんな彼らに対して、眠った人々のことについては、知らないでいてほしくないと言いました。なぜならこれは救いに関する重要な教理だからです。知ってもいい、知らなくてもいいというレベルのことではなく、どうしても知っておかなければならない、キリスト教信仰の根幹に関わる重要な内容だったのです。皆さんは、このことについて知っておられるでしょうか。眠った人々がどうなるかについて、どのように受け止めて目おられるでしょうか。
私たちはイエスさまを信じれば救われるということを知っています。その人のすべての罪は赦されて永遠のいのちが与えられます。これを神学用語で「義認」(justification)と言います。そして、そのように罪が赦された人は、その罪の力から解放されます。それまでは罪の力に全く無力でしたが、罪が赦されたことによって徐々にその罪の支配から解放されて、罪に打ち勝てるようになりました。少しずつですが、イエスさまに似た者に変えられているのです。これを「聖化」(sanctification)と言います。このことはすべてのクリスチャンが経験していることです。しかし、救いはそれだけではありません。未来の側面もあります。やがてイエスさまが再臨される時どうなるかということです。そのときクリスチャンは、死んだ人も生き残っている人も栄光のからだによみがえり、一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うようになります。そのようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。このことを何というかというと、「栄化」(glorification)と言います。これが救いの完成の時です。パウロがここで言っていることはこの救いの完成、glorificationのことです。そのことはピリピ3章20~21節でも言及されています。
「20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
私たちはイエスさまを信じて、天に国籍を持つ者とされました。しかし、それだけではありません。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを待ち望んでいるのです。その時、キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださいます。もう二度と罪を犯すことのないからだ、病気になることのないからだ、死ぬことのないからだ、栄光のからだに変えられるのです。まずキリストにあって死んだ人が、次に、生き残っている人が、たちまち雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。そのようにして、いつまでも主とともにいるようになるのです。これが救いの完成です。これが救いの全貌なのです。何だかビフォアー、アフターみたいですね。それでは全貌をご覧ください。これがその全貌です。だからイエスさまを信じて救われたというだけでは、まだ建物の土台と骨組、屋根、壁が完成して住めるようになったというようなもので、まだ完成はしていないのです。救いの完成はキリストが再臨される時にもたらされます。これがクリスチャンの希望です。そのことがわかるとき、あなたは悲しみに沈むことはありません。このことを知っていたら、現実の生活の様々な困難と苦しみの中にあっても、生きる希望と力が与えられるのです。
Ⅱ.イエスは死んで復活された(14)
では、その根拠は何でしょうか。なぜそのように言えるのでしょうか。なぜなら、聖書にそのように書いてあるからです。このようなことを言うと、中には「何バカなことを言っているんだ」とか、「あれからもう二千年が経っているというのに、キリストの再臨なんかないじゃないか」、「それは象徴にすぎないんだよ」という方がおられるのです。これがノンクリチャンならまだしも、イエスさまを信じているというクリスチャンの中にもそのように言われる方がおられるのです。そこでパウロは、これが実際に起こることであるという根拠、あるいはその保証をここで述べているのです。それは何でしょうか。それはイエスの復活です。14節をご覧ください。ここには、「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。」とあります。
イエスさまが死んで復活されたのなら、そのイエスを信じるクリスチャンはキリストにつぎ合わされた者なのだから、キリストが復活したように、復活するというのです。「もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」というマルタに対して、イエスさまは、「あなたの兄弟ラザロはよみがえる」と言われました。いったいその根拠は何でしょうか。イエスさまはこのように言われました。ご一緒に読みましょう。ヨハネの福音書11章25節です。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)
イエスはよみがえりであり、いのちです。だから、イエスさまを信じる者は、死んでも生きるのです。これが根拠です。これが、私たちが生と死の中で生きなければならない不条理に対する究極の解決であり、慰めなのです。ラザロが死んで悲しみ、泣いているマリヤの姿を見て、また、彼女といっしょにいた人たちも泣いているのを見て、イエスさまは涙を流されました。英語ではたった二文字でこれを表しています。「Jesus wept」(John11:35)です。これは英語の聖書の中で一番短い聖句になっています。イエスさまはなぜ涙を流されたのでしょうか。人は、いろいろな時に涙を流すものです。悲しい時、同情した時、後悔した時、嬉しい時、いろいろな涙があります。しかしそこに共通していることは、人が涙を流す時には必ず何らかの感情が伴っている時であるということです。では、この時イエスさまはどんな感情を持っておられたのでしょうか。33節を見ると、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」とあります。イエスさまは、死んだラザロの墓の前で、姉妹のマリアが泣き、一緒に来ていたユダヤ人たちも泣いているのをご覧になられると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて涙を流されたのです。死という冷酷な事実の前に、人は全く無力であるということ、そして人間の愛は引き裂かれ、泣く以外にどうすることもできない存在であるという現実を前に、イエス様は憤りを覚え、心の動揺を感じて涙を流されたのです。つまり、イエス様が涙を流されたのは、人間的には同情の心から出たもののように見えますが実はそうではなく、それ以上に、死というものが、人間にこれほどまでの悲しみをもたらすものであるかを感じられたからなのです。
Ⅰコリント15章26節には、死は「最後の敵」とあります。この死に高らかに勝利したのが、ご自身の死と復活の出来事でした。その主を信じる者は同じように復活することを証明したのが、このラザロの復活という奇跡だったのです。イエス・キリストの死と復活を信じるなら、それを信じるクリスチャンの上にもそれと同じことが必ず実現するのです。
皆さんは、どうでしょうか。やがて朽ちることのないからだ、栄光のからだによみがえるという確信を持っておられるでしょうか。栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うという希望を持っておられるでしょうか。そう信じていても、いざそれが本当に自分の上にも起こるという確信を持てなくなる時があります。しかし、やがて起こるからだにの復活を、感情的にとらえてはなりません。それはただ不安を増大されることになるからです。そうではなく、死んでもよみがえることの保証をイエス・キリストの死と復活、そしてそれを信じる信仰の中に置かなければならないのです。それは変わることのない神のみことばによる約束だからです。
Ⅲ.こういうわけだから(15-18)
最後に、15節から18節までをご覧ください。15節には、「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。」とあります。
これはパウロが作り出した話ではなく、また、人間が勝手にあみだした教理でもないのです。これは主が語られたことです。それは主のみことばにしっかりと打ち出されていることなのです。その主のみことばのとおりに言うならば、主が再び来られる時まで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。どういうことでしょうか?ここには復活の順序について語られています。主が再び来られるとき、まずキリストにある死者がはじめによみがえり、次に生き残っている人が、たちまち彼らと一緒に雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。
ところでパウロはここで「生き残っている私たち」と言っています。彼は主の再臨が今すぐに、自分たちが生きている間に起こることとしてとらえていたのです。今この瞬間にも起こるかもしれないという切迫性をもって受け止めていたのです。皆さんはどうでしょうか。そのような切迫した思いでキリストが来られるのを待ち望んでいるでしょうか。もしそのように受け止めていれば、私たちの生活は一変するはずです。もし主が1時間後に来られるとしたらどうでしょうか?家に帰っていろいろ整理するかもしれませんね。これはいらないもの、これは必要なもの、でもやっぱりいらないか・・、と整理してみたら、何もいらなかったとか・・・。パウロはそのような切迫感をもって主を待ち望んでいたのです。
16節と17節をご覧ください。「16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
主は号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。号令とは、兵士が上官から下される命令のことで、ここでは神の威厳と緊急性を表しています。また、御使いのかしらの声とは、天使長ミカエルの声とも考えられていますが、はっきりしたことはわかりません。それから、神のラッパの響きとは、Ⅰコリント15章52節にある「終わりのラッパ」のことです。このラッパの高らかな響きと共に、ご自身が天から下ってくると、一瞬のうちに、変えられるのです。まずキリストにある死者です。キリストにあって死んだ人たち初めによみがえり、次に、生き残っている人たちです。生き残っている人たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、いつまでも主とともにいることになるのです。
皆さん、これを想像してみてください。今までいっしょにいた人が急にいなくなるのです。「あれ、私の妻がいなくなった」「私の夫もよ」と大きな社会ニュースになりますが、いったいどこへ行ってしまったのかわからないのです。
全米でベストセラーになった小説で、映画にもなった「レフトビハインド」は、この出来事、つまり空中携挙といって、空中に引き上げられることを描いた映画です。ある日突然イエスさまを信じていた人々や幼い子供たちが姿を消してしまうのです。ジャンボジェットの機長をつとめるレイフォード・スティールは乗務員のハティーに夢中になっていました。彼には妻子がいましたが、妻のアイリーンはキリスト教信仰に深く傾倒していたので、彼はそんな妻を遠ざけていたのです。そんな彼がふと操縦室を出てハティーのもとに行くと、彼女が何かでおびえていました。彼女は慌ててレイフォードを調理室に引っ張っていくと、そこで突如として機内に起こった異常を告げたのです。何と乗っていた多くの乗客が、身につけていたものを残して消えてしまったのです。しかもこの現象は、機内に限らず全世界で起こっていました。いったい何が起こったのか・・。宇宙人による誘拐説などいろいろな説が入り混じる中、黙示録の予言が成就したのだということを見抜いた人もいました。その一人、ブルース・バーンズという牧師は携挙されませんでした。彼は牧師でありながら救われていなかったのです。しかし、この事で彼は自らの信仰を見つめ直し、人々にキリストを信じるようにと説得しました。一方、妻と息子を携挙で失ったレイフォードは牧師のブルースと出会い、信仰に生きるようになります。やがて反抗的であった娘も回心し、それ以外でも様々な人々が信仰に目覚めていったのです。
いったいなぜある人が突然いなくなってしまうのか。それは引き上げられるからです。イエスさまを信じた人はみな、死んだ人も、生き残っている人も一瞬のうちに朽ちないものによみがえり、空中に引き上げられるのです。これを「携挙」と言います。それで突然多くの人がいなくなってしまうのです。しかし、それは祝福された望みです。なぜなら、そのように引き上げられ、空中で主と会い、そのようにしていつまでも主とともにいるようになるからです。それはまさにイエスさまとの結婚式なのです。花婿なるキリストが、花嫁なる教会を迎えに来て、そこでふたりは固く結ばれます。もう二度と離れることはありません。ずっと待ち望んだイエスさまとの結婚式が実現するのです。ですから、それは最高の喜びの時でもあります。でも、地上はそうではありません。地上では神の怒りによるさばきの時を迎えます。彼らはイエスさまを信じなかったので、七年間にわたって患難がもたらされるのです。それは私たちが時々経験するような苦しみとか試練といったものではありません。それは神の怒りによる激しいさばきです。しかし、クリスチャンはこのさばきに会うことはありません。なぜなら、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)ですから、クリスチャンはこのさばきに会うことはないのです。クリスチャンは引き上げられて、空中で主と会い、いつまでも主とともにいることになるのです。これは希望ではないでしょうか。パウロはこの希望のことを「祝福された望み」と言っています。テトス2章13節をお開きください。ここには、「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。」とあります。
皆さん、これはただの望みではありません。これは祝福された望みです。大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光の現れ、これはキリストの空中再臨のことですが、これは私たちにとって祝福された望みなのです。その時私たちは朽ちることのないからだによみがえって、一挙に引き上げられ、空中で主と会い、いつまでも主とともにいるようになるからです。その時私たちの救いは完成するのです。これが本当の望み、祝福された望みなのです。
皆さんも、たくさんの希望があると思います。将来はレスキュー隊に入り多くの命を救いたいとか、レントゲン技師になって、看護師になって多くの人を病気から救いたい、愛する人と結婚して幸せな家庭を築きたい、元気に赤ちゃんが生まれてきてほしい・・・。どれもすばらしい望みです。しかし、この望みは特別な望み、祝福された望みです。この希望は失望に終わることがありません。何があっても決して失われることのない希望、それがイエス・キリストの栄光ある現れ、携挙なのです。
クリスチャンにはこの希望が与えられています。この希望があることを知っていたら、あなたは悲しみに沈むことはありません。たとえ現実の生活の中に困難や苦難があっても、この希望のゆえに乗り越えることができるのです。この希望があなたの慰め、生きる力となるからです。
有名な賛美歌「いつくしみふかき」を書いたのは、ジョゼフ・スクラビンという19世紀のアイルランド人です。彼の生涯は、この世的には全く恵まれないものでした。大学卒業後に事業を営みますが、結婚式を目前にしてその婚約者を湖の事故で亡くします。事業においても失敗して破産するのです。その後アイルランドからカナダに渡り、教鞭を取りながら、不幸な人や貧しい方たちへの奉仕活動にその生涯を献げました。そんな活動の中で出会った女性と婚約しますが、その女性も結核を患い、帰らぬ人となるのです。彼は1度ならず2度までも愛する婚約者を失うのです。世をはかなみ、自分の人生をどれほど呪ったことでしょうか。神を恨んでも仕方がないと思えるような状況の中で、彼は郷里のアイルランドで病に苦しむ母を慰めるために、この讃美歌を書いたのです。神を呪いたくなるほどの試練と苦悩を味わいながらも、悩みと苦しみの中にある自分を慰め、力づけてくれたのは何だったのでしょうか。それはイエス・キリストでした。イエス・キリストによってもたらされる望みだったのです。
「1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1-5)
こ の神の愛は、あなたの心にも注がれているのです。なぜなら、あなたも、神の栄光を望んで大いに喜んでいるからです。「このことばをもって互いに慰め合いなさい。」私たちはいつもここに希望を置き、このことばをもって互いに慰め合う者でありたいと思います。私たちには祝福された望みが与えられているのですから。