民数記7章

きょうは民数記の7章から学びます。まず1節から9節までをお読みします。

1.ささげ物(1-9)

「1 モーセは幕屋を建て終わった日に、これに油をそそいで、聖別した。そのすべての器具と、祭壇およびそのすべての用具もそうした。彼がそれらに、油をそそいで聖別したとき、2 イスラエルの族長たち、すなわち彼らの父祖の家のかしらたち―彼らは部族の長たちで、登録を担当した者―がささげ物をした。3 彼らはささげ物をの前に持って来た。それはおおいのある車六両と雄牛十二頭で、族長ふたりにつき車一両、ひとりにつき牛一頭であった。彼らはこれを幕屋の前に連れて来た。4 するとはモーセに告げて仰せられた。5 「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」6 そこでモーセは車と雄牛とを受け取り、それをレビ人に与えた。7 車二両と雄牛四頭をゲルション族にその奉仕に応じて与え、8 車四両と雄牛八頭をメラリ族に、祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある彼らの奉仕に応じて与えた。9 しかしケハテ族には何も与えなかった。彼らの聖なるものにかかわる奉仕は、肩に負わなければならないからである。」

1節を見ると、「モーセは幕屋を建て終った日に」とあります。モーセが幕屋を建て終ったのは、イスラエルがエジプトを出てから二年目の、第一月の一日のことです。出エジプト記40章17節にそう記録されてあります。それから一か月間、主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から、彼に告げて仰せられました。それがレビ記の内容です。そして、その後で神はモーセに人口調査をするように命じられました。それが民数記の最初に記されてあることです。それは彼らがエジプトを出て二年目の第二の月の一日のことです。それなのにここでは「モーセが幕屋を建て終った日に」話がさかのぼっています。いったいなぜでしょうか?おそらく二つの理由があったと考えられます。

第一のことは、モーセは幕屋を完成させました。幕屋については、すべての必要が揃ったのです。しかし、これからイスラエルが約束の地に向かって進んでいく上で、何か足りないものを感じたのです。それは、イスラエルが旅をするときの運搬用具です。旅をするときには、幕屋を分解して運ばなければなりません。それを運ぶトラックが必要だったのです。そこで彼らは、必要な車とそれを引っ張る牛をささげます。それが7章に記されてある内容です。ですから、幕屋は完成して聖別したけれども、これから旅立つにあたって、今度はそれを運ぶトラックが必要になったことを、ここで振り返って記録しているのです。

それからもう一つの理由は、この7章はささげものについて記録されていると申し上げましたが、そのささげものについて記す前に、奉仕について記す前に、それに先行することがあったということです。それは何でしょうか?それは神の恵みであり、神の祝福です。6章の最後のところには、アロンによる神の祝福のことばが述べられていました。これはものすごい祝福です。それはイスラエルが何かをしたからではありません。彼らはただ自分を主にささげたので、主は彼らを祝福してくださいました。彼らが何かをしたから祝福されたのではなく、神が一方的に祝福したのです。これが神の祝福です。神は私たちが奉仕をしたから、献金をしたから祝福してくださるのではなく、その前に一方的に祝福してくださる方なのです。つまり、私たちの奉仕やささげものの前に神の恵みが先行するということです。そうした神の愛や恵み、祝福があるからそれに応答してささげる。それが私たちの奉仕であって、その逆ではないのです。ですから、ここに一か月さかのぼってイスラエルのささげ物について記されているのだと思います。

それでは2節から9節までをご覧ください。イスラエルの族長たち、すなわち彼らの父祖の家のかしらたちがささげ物をしました。それはおおいのある車六両と雄牛十二頭で、族長ふたりにつき車一両、ひとりにつき牛一頭でした。族長二人で車1台ですから、車は全部で6台、族長一人につき牛一頭ですから12頭になります。それを幕屋の前に連れてきました。すると主はモーセに告げて仰せられました。「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」(5)そこでモーセは車と雄牛とを受け取り、それをレビ人に与えました。

レビ族には三つの氏族がいました。ゲルション族、メラリ族、ケハテ族です。まずゲルション族には車2両と雄牛4頭です。車は全部で6両、雄牛は全部で12頭ありましたので、それを三つに分ければ車2両と雄牛4頭というのは妥当な数です。しかし、メラリ族はそうではありませんでした。メラリ族には車4両と雄牛8頭です。つまり残りの車と雄牛がすべてメラリ族に与えられました。ということは、残りはゼロです。ですから、ケハテ族には何も与えられませんでした。これはいったいどういうことでしょうか? 私たちはこういう記事を読むと不公平ではないかと感じます。ある人たちはいいものをたくさん受けているのに自分たちはそうではないということに不公平感を抱きやすいのです。特に格差社会が広がっているような日本の社会においてはその傾向があります。しかし、これは本当に不公平なのでしょうか?

ここで鍵になる言葉は「奉仕に応じて」(5,7,8,)という言葉です。これは奉仕に応じて与えられたのです。民数記4章を見ると、彼らの奉仕が割り当てられていたかがわかります。まずゲルション族は幕屋の幕、会見の天幕とそのおおい、その上にかけるじゅごんの皮のおおい、会見の天幕の入り口の垂れ幕、・・およびこれらに関するすべての奉仕」でした(4:25,26)。それはかなりの重量がありました。ですから、人力で運ぶのは大変です。彼らの奉仕には車2両と牛4頭が必要だったのです。そしてメラリ族はというと、幕でおおうところの板、柱、釘、台座などを運ぶように任命されました(29-33)。彼らは幕屋の板や横木、台座といった重いものから釘1本、ひも1本に至る小さな奉仕に至るまで行いました。ですから、もっと人手が必要でしたし、当然、車や牛といった運搬用具も必要だったのです。それではケハテ族はどうだったのでしょうか。ケハテ族に割り当てられていた奉仕は最も聖なるものにかかわることであって、聖所のすべての器具を運ぶというものでした(4:15)。それに触れてもいけませんでした。それに触れて死ぬといけないからです。ですから、それにかつぎ棒を通し、肩にかついで運ばなければならなかったのです。

Ⅱサムエル6章には、これとは違った方法で運んだ結果、神の怒りに触れて死んだ人の事件が記されてあります。そうです、ウザです。彼はダビデの命令によってユダのバアラから自分の町に神の箱を運び入れようとしました。それで彼らは、神の箱を、新しい車に載せて、アビナダブの家から運び出したのです。しかし、ナコンの打ち場まで来たとき、牛がそれをひっくり返そうとしたので、ウザが手を伸ばして、神の箱を押さえました。それで主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼はそのかたわらで死んだのです。この事件での問題は何だったのでしょうか。それはこの民数記に書いてあるような方法によって運ばなかったことです。それは肩にかついで運ばなければなりませんでした。箱に触れて死なないためです。それなのに彼らはそれを新しい車に載せて運ぼうとしました。それが問題だったのです。

ですから、ケハテ族には車も牛も必要ありませんでした。幕屋の燭台以外はかつぎ棒を通して、肩にかついで運んだからです。それでは不公平ではないですかと思われるかもしれません。ゲルション族やメラリ族には車も牛も与えられたのに、ケハテ族には何も与えられなかったのですから・・・。しかし、そうではありません。彼らはそれを肩にかつぐことが許されていたのです。栄光の主に密着するかのようにして奉仕することができました。主の臨在をもとも近く感じることができたのです。それは何よりも特別な奉仕でした。そんなすばらしい特権は他にはありません。車、牛によってではなく、聖なるものに密着しながら歩めたのです。それは不公平どころかむしろ人もうらやむようなすばらしい恵みだったのです。

このところから教えられことは、私たちクリスチャンにとっての幸いは何かということです。私たちにとっての幸いはそうした物質やお金といったものではなく、主ご自身と共に歩むことです。マタイの福音書8章20節のところでイエス様は、「きつねには穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と言いました。これがイエス様の生き方でした。イエス様は物質に振り回されるような生き方ではなく、神と親密な関係を求めてシンプルに生きられたのです。時としてそうした物が、お金が、神との親密な交わりを阻害することがあります。車や牛が与えられていてもいなくも、それを感謝して受け止める信仰が求められるのです。

2.祭壇奉献(10-11)

次に10節と11節をご覧ください。

「10 祭壇に油が注がれる日に、族長たちは祭壇奉献のためのささげ物をささげた、族長たちが自分たちのささげ物を祭壇の前にささげたとき、11 はモーセに言われた。「族長たちは一日にひとりずつの割りで、祭壇奉献のための彼らのささげ物をささげなければならない。」

幕屋が完成し祭壇に油が注がれる日に、族長たちは祭壇奉献のためのささげ物をささげました。それは12節から終わりのところまでに記されていることですが、それは運搬用具の車や牛だけではありませんでした。彼らは祭壇における奉仕のために必要なものをささげました。11節を見ると、族長たちは一日にひとりずつの割りで、部族ごとにささげるようにと命じられました。なぜ一度に急いで持ってくるようにと言わなかったのでしょうか?それは主が私たちのささげ物をしっかりと受け止めておられるからです。丁寧に、一日一日という間隔を空けて持って凝らせることによって、それを噛み締めるかのようにして受け取られたのです。私たちは効率主義の社会の中で動いていますが、そこでは一つの成果をあげるために、私たちの仕事がまるで機械のねじのように扱われています。しかし、神の方法は違います。「わたしの弟子だということで、この小さい物たちのひとりに、水いっぱいでも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:42)。とあるように、私たちの一つ一つの小さな奉仕が、一滴のしずくのように感じるものでも、主はそれをしっかりと心に留めておられ、それにしたがって報いをお与えになられるのです。その一つ一つの奉仕を覚えるためです。

3.平等にささげる(12-89)

では、それぞれの部族はどのようにささげたのでしょうか。12節から終わりまでを見てください。ここには、各部族の長たちが何をささげたのかが記されてあります。第一にささげ物をささげたのは、ユダ部族のアミナダブの子ナフションです。そのささげ物は、銀の皿一つ、銀の鉢一つ、これらには穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉がいっぱい入れてありました。また香を満たした金のひしゃく、全焼のいけにえとして雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊一頭、罪のためのいけにえとして雄山羊一頭、和解のいけにえとして雄牛二頭、雄羊五頭、雄山羊五頭、一歳の雄の子羊五頭です。そして、それが各部族が一日ずつ、順番に持ってくることが記されてあるのです。

このところを呼んで非常に驚くことは、それぞれの部族が携えてくるささげ物は、すべて同じものであるのにもかかわらず、いちいち繰り返してささげ物の内容が記されていることです。この章は、聖書の中で2番目に長い章であり89節もあります。一番長いのは詩篇119篇ですが、詩篇119篇にはみことばに関するさまざまな事について書かれてあり、私たちの魂を潤わせる内容となっていますが、この章は、ただささげ物の内容が12回繰り返されているだけです。いったいなぜ同じことが12回も繰り返して書かれてあるのでしょうか?いくつかの理由が考えられます。

第一に、主はささげることを大切にしておられるということです。主は、それぞれのささげ物を記録として残しておかれたいと願われたほど、彼らのささげ物に目を留めておられたのです。一日ごとに、それぞれのささげ物が省略されることなく列挙されています。神の目ではどんなに小さなささげものであっても、しっかりと記録されているのです。

第二のことは、各部族はそれぞれ人数が異なるのに、同じささげ物がささげられていることに注目してください。成年男子の人数は、ユダ部族が最も多くマナセ族がもっとも少ないのですが、それでもまったく同じささげものがささげられています。つまり、主の前にあって、どの部族がより多くの注目を集め、他の部族がそれほど注目に値しないということではなく、主の前では、どの部族も覚えられ、主に栄光が帰せられているのです。こうして平等となり、調和が保たれているのです。これは旧約のイスラエルの時代だけでなく、新約の時代も、あるいは今の時代にも適用できる原則でもあります。それが十分の一の原則です。十分の一とは何でしょうか。それは私たちに与えられている財産のすべては神のものであるという信仰の表明として、それを十分の一ささげることによって表したのです。新約の時代に生きる者としてこんな律法に縛られる必要はないと考える人がいますが、これは律法が制定される前にすでにあった神の原則です。創世記14章20節を見ると、アブラハムはサレムの王メルキデゼクに戦利品の十分の一をささげたとあります。それは律法が制定される以前の話です。神は私たちがどれだけささげたかということではなく、どのような割合でささげたのかをご覧になられます。レプタ銅貨2枚をささげたやもめには、彼女は他のだれよりも多くささげたと称賛しました。多く集めた人も少なく集めた人も余ることがなく、また足りないことがないように、神は十分の一という原則を定めてささげることを願っておられるのです。

 

パウロはこう言っています。「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。多く集めた物も余るところがなく、少し集めた物も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。」(Ⅱコリント8:14)

 

私たちも自分に与えられたものは神のものであって、それを神に喜んでお返しするために、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりに、喜んで主にささげるものでありたいと思います。主は喜んでささげ人を愛してくださるのです。