Ⅰテモテ1:12-20「私は罪人間かしらです」

先週からテモテへの手紙に入りました。これはパウロからテモテに宛てて書かれた手紙です。この時テモテはエペソ教会の牧師として様々な問題を抱えておりそのプレッシャーに耐えかねて、エペソを去りたいと考えていましたが、そんなテモテを励まし、彼がエペソにずっととどまり、与えられた使命を全うできるように励ましているのです。

きょうのところでパウロは、自分の個人的な証をしてテモテを励まそうとしています。

Ⅰ.私は罪人のかしらです(12-15)

まず12節から15節までをご覧ください。まず12節には、「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。」とあります。

ここでパウロは、なぜ自分が福音のために働くようになったのかを語っています。それは、キリストがこの務めに任じてくださったからです。自分がやりたいからやっているのではなく、あるいは、だれかにやれと言われたからやっているのでもなく、ただキリストがこの務めに任命してくださったのでやっているのです。

キリストはなぜパウロをこの務めに任命したのでしょうか。それは彼を忠実な者として認めてくださったからです。彼に何か特別な能力があったからではありません。また、彼が人格的に優れていたからでもないのです。神が彼を忠実な者として認めてくださったからなのです。だからパウロはここで、その務めに任じてくださった神に感謝をささげているのです。もしこれが自分の力でできるようなものならば、こんな感謝をささげることはできなかったでしょう。けれども、彼は自分の力ではなく自分を強くしてくださるキリスト・イエスの力に拠り頼んでいたので、その力の源である主イエスに感謝することができたのです。

これが私たちの信仰です。私たちは、私たちを強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。このことは、テモテをどんなに励まし、勇気付けたことでしょう。パウロも弱さを抱えていましたが、彼は自分の力の源がどこから来るのかをよく知っていました。そして、その方によってこの務めを行っていたのです。

私たちも、いろいろいなことで自信を失ったり弱さを感じたりすることがありますが、しかし忘れてはいけないことは、私たちが弱くても主は強いということです。そして、私たちはこの方から力をいただいて、強くしていただくことができるのです。この方が私たちを忠実な者としてこの務めに任じてくださったからです。

13節をご覧ください。

「13 私は、以前は神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。」

ここでパウロは、自分がかつてどのような者であったかを述べています。もっとはっきり言うなら、どれだけひどい人間であったのかということです。

パウロはかつて、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。ナザレ人イエスが救い主であるはずがないと、イエス様を信じる者を捕えては牢に投げ込んでいたのです。ステパノが処刑される時には、それに賛成票を投じました。その熱心さは国内ばかりにとどまらず、国外にまで追いかけて行ったほどです。そのようにして彼がダマスコまで出かけて行ったとき、その途上で、復活の主と出会いました。

「サウロ、サロウ。どうしてわたしを迫害するのか。」

「主よ、あなたはどなたですか。」

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

パウロにとってはまさに目からうろこでした。これまで激しく迫害してきたイエスがキリストだなんて全く考えられないことだったからです。

とても許されるはずがありません。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。あわれみとは、本来受けるべき罰を受けないで済むということです。そんなにひどいことをしたのですから当然さばかれても仕方ないのに、それを受けなくてもいいようにしていただいたのです。神があわれんでくださったからです。

いったいなぜパウロはこんなことを書いているのでしょうか。それは、こんなひどい者が救われたのは、神の恵み以外の何ものでもないことを明らかにするためです。14節を見てください。ここには、「私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。」とあります。どういうことでしょうか。

「恵み」とは、受けるに値しない者がただで受けるということです。あわれみは、本来受けなければならないものを受けなくてもいいようにしていただいたことですが、恵みとは、本来受けるはずのない者が受けることができるようになったということです。パウロは神の教会を迫害していたわけですから本来なら滅ぼされても仕方ないのに、そのようにならないように神があわれんでくださったというだけでなく、何と救ってくださったというのです。全く救われるに値しない者が救われました。これが恵みです。パウロはこのことをⅠコリント15章10節でこう言っています。

「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」

彼が救われこの務めに任じられたのは、神の恵みによってです。神の恵みによって、今の自分になりました。すべては神の恵みです。自分の存在、自分の働きのすべても、恵みによるのです。この恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とともにますます満ちあふれるようになっりました。そしてこの恵みは、あなたにもあふれているのです。

そればかりではありません。15節を見てください。

「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

イエス様は罪人を救うためにこの世に来られましたが、自分はその罪人のかしらだと言っています。これまでいろいろな罪を犯した人はいるかもしれないが、私はその罪人の中でもトップですと言っているのです。私ほど罪深い者はいない。そう言っているのです。これが、パウロが自覚していたことでした。彼の自己認識だったのです。彼は謙遜にそう言っているのではありません。本当にそう思っていたのです。自分の過去を思う時、本当にそのように思えたのです。それは過去だけでなく、今の自分を見てもそうです。ここには「罪人のかしらです」と現在形で書かれています。昔も今も、ずっと罪人のかしらだ、自分ほど罪深い人間はいないと思っていたのです。

皆さん、これが成熟したクリスチャンの姿です。成熟したクリスチャンは、そうであればあるほど、自分の罪の大きさ自覚するようになります。それはちょうど光に近づけば近づくほど自分の陰の長さに驚くように、神に近づけば近づくほど自分の罪の大きさに圧倒されてしまうのと同じです。聖書を学べば学ぶほど、自分がどうしようもない人間であり、救いがたい罪人であることを悟るようになるのです。それは彼が初期の頃書いたコリント人への手紙を見るとわかります。これはA.D.54年頃に書かれて手紙ですが、この中で彼はこう言っています。

「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」

しかし、それから5~6年後に書かれたエペソ人への手紙の中では違います。ちょっと変化しているのです。

「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、」(エペソ3:8)

そして、彼の晩年に書かれてこのテモテへの手紙の中ではこうです。

「私はその罪人のかしらです」A.D.64年頃のことです。

「使徒の中で」から「すべての聖徒たちの中で」になり、最後は「罪人のかしら」です。イエス様を信じて救われ、神の恵みを知れば知るほど、自分の罪深さに気づかされていったのです。

彼はそんな自分の姿を嘆いて、ローマ人への手紙7章24節ではこのように告白しています。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう。」

いったいなぜパウロはこんなことを言っているのでしょうか。それはテモテにこの神の恵みに目を留めてほしかったからです。こんな罪深い者が救われたとしたら、それはどんなに大きな恵みでしょうか。こんな者が救われたのです。こんな者がこの尊い務めに任じられたのです。であれば、それは何と感謝なことでしょうか。もう世界観が180度かわります。自分を見るから落ち込むのです。自分でやろうとするから躓くのです。そうではなく、神を見なければなりません。決して赦されない者が赦されました。罪人のかしらにすぎない者が救われたのです。であるとしたら、すべてが恵みではないでしょうか。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られたということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」

私は罪人かもしれないがあの人よりは少しはマシですとか、私も罪人ですがあの人も罪人ですというのは、本当の意味で罪を自覚していない証拠です。「私は罪人のかしらです」という人は、他の人のことなどもうどうでもよくなるのです。人があなたにどんなにひどいことをしても、こんな者が救われたということを思うとき、そのことも感謝と喜びに変えられていくからです。自分で何とかしなければならないと思うから息詰まるのです。もう自分には何もできませんと、私は罪人のかしらですと、すべてを主に明け渡すとき、すべてが恵みになるのです。

こんな話を読んだことがあります。失望した一人の伝道者が、列車に乗って山形県の「新庄」駅を通過しました。その時、駅員の言う「しんじょう、しんじょう」というアナウンスが「死んじゃおう、死んじゃおう」と聞こえました。しかしその後恩師を訪ね、元気になって帰宅した時は、「同じアナウンスが「信じよう、信じよう」と聞こえてきたというのです。すべてが神の恵みであることがわかるとき、本当に大きな励ましと力を受けるのです。

森永製菓の創業者の森永太一郎は、晩年、この「私は罪人のかしらです」というのぼりを持って全国を行脚してそうです。彼は19歳の時に陶器商に勤めたことがきっかけでアメリカに渡り日本の陶器を売ろうとしましたが全く売れず、失意の中である公園のベンチに暗い気持ち座っていたとき、とても上品な感じの婦人からキャンディを頂いたことがきっかけで教会に導かれ、イエス・キリストを信じました。すると彼は陶器職人になる夢を捨て、キリスト教の伝道者になろうと帰国し、すぐに家族や親族に伝道しましたが、そんな彼の姿を見た家族は、全く彼を受け入れることができませんでした。「太一郎はアメリカに行って、とうとう頭がおかしくなった」と罵倒されました。そして育ててくれた家からも離縁されてしまったのです。

それで彼は伝道者になることもあきらめて、再度アメリカに渡り、洋菓子作りを学ぶわけです。そして帰国後、マシュマロを作って販売すると、これが大当たりしました。それらのお菓子をガラス張りのリヤカーに積んで販売して回ったのです。そのリヤカーの上には看板に聖書の言葉が掲げられていました。それは、このみことばでした。「キリスト・イエス、罪人を救わんために世に来たりたまえり。」(Ⅰテモテ1:15)そのような彼を町の人たちは「ヤソのお菓子屋さん」と呼んだそうです。

やがてあの有名なミルクキャラメルが販売されると、日本中で大ヒットとなりました。昭和の人ならば一度は食べたことがあるでしょう。森永のキャラメルです。しかし商売の成功と同時に、信仰の面は一時停滞した時がありました。その信仰も、奥さんの死を契機に復活し、彼は川のほとりで泣きながら再献身を誓うのです。

やがて社長を退いて会長となってからは、全国の教会を伝道講演して回りました。その時の講演題は、判で押したかのように、いつもこれでした。「我は罪人の頭なり」、「私は罪人のかしらです」です。彼はいつも自分が罪人のかしらであるという自覚を持っていました。いや、晩年になればなるほど、その思いは強くなっていったのです。今、自分があるのはただキリスト・イエスの恵みです。こんな罪深い者をキリスト・イエスが救ってくださった。この私が救われたのだから、あなたが救われないはずがない。何という恵みでしょう。この神の恵みが彼の人生をさらに豊かなものへと導いたのです。それは森永太一郎だけでなく、私たちクリスチャンにとっても同じで、これが私たちの信仰生活の力であり、原点なのです。

Ⅱ.パウロがあわれみを受けた理由(16-17)

次に16節と17節をご覧ください。

「16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。17 どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。」

ここでパウロは、自分があわれみを受けた理由を述べています。いったいなぜ彼はそんなにあわれみを受けたのか。あんなにひどいことをしたパウロがあわれみを受けたのはどうしてなのでしょうか。それは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず自分に対してこの上もない寛容を示してくださったからです。どういうことかというと、パウロが救われたのは、神がどのように罪人を救うのかの見本を示すためであったということです。つまり、どんな人でも救われるということです。こんな罪深い者でも救われたのですから、救われない人などいません。こんなにひどい者でも救われたのですから、救われない人などいないということです。だれでも救われるのです。ここに希望があります。パウロを見れば希望があります。あのパウロが救われたのだから、あなたが救われないはずがないのです。だれでも救われます。あなたも、あなたの家族も、どんなにひどい人でも、イエス・キリストは救うことができるのです。

昨年、台湾に住むひとりの方からメールをいただきました。彼女のいとこが黒羽の刑務所に入っているのですが、どうかイエス様の愛を伝えてほしいという内容でした。彼は自分のしたことに対して反省することもなく、自分勝手なことばかり言うので、実の両親からもさじを投げられ、出所後は彼女のもとに身を寄せたいというが、正直、彼女にとっても重荷だと言うのです。そんな彼を救うことができるのはイエスさましかいないと、彼にイエス様の愛を伝えてほしいというのです。

すると数か月後に本人から手紙が届きました。出所後は全うな道を歩んで行きたいと思うので、私のところにぜひ伺いたいということでした。その内容が台湾のいとこのところにも言ったようで、彼女はとても勇気づけられたというのです。頼みの綱はイエスさまだけだ・・・と。

そうです、イエス様だけです。イエス様はどんな人でも救うことができるし、どんな人も新しく造り替えることができます。「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)パウロでも救われたんです。罪人のかしらであったパウロでも救われたのなら、このキリストの愛から漏れる人など一人もいないのです。だれでも、どんな人でも救われます。それが、パウロがあわれみを受けた理由だったのです。

パウロはこの神のあわれみを思うとき、もう神をほめたたえずにはいられませんでした。17節です。「どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。」

自分の過去を思い、救われるはずのなかった自分が救われた。そればかりではありません。この尊い務めに任じられました。一方的な神の恵みによってこの務めに任命していただいた。その恵みとあわれみを思うとき、彼は神をほめたたえずにはいられなかったのです。

とかく私たちは自分を見てダメだと落ち込むことがありますが、大切なのは自分を見るのではなく、こんなダメな自分を救ってくださった神を見上げることです。そうすれば、私たちはそこに偉大な神のみわざを見て励まされ、神をほめたたえるようになるのです。

Ⅲ.信仰の戦いを戦い抜いて(18-20)

だから結論は何かというと、だから、テモテよ、信仰の戦いを戦い抜きなさいということです。18節から20節までをご覧ください。18節です。

「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」

「この命令」とは何でしょうか。それは1章3,4節にあったエペソにずっととどまっていて、そこで違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われないように命じることです。それはパウロの個人的な思いから出たことではなく、テモテに与えられた神の言葉、すなわち預言に従ってのことです。その預言に従ってテモテが信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜かなければならなかったのです。

信仰とは何でしょうか。信仰とは、神に信頼することです。エペソ人への手紙6章では「信仰の大盾」と言われています。それによって敵が放つ火矢を消すことができます。信仰の戦いにおいては、敵である悪魔が放つ火矢があるのです。それは人からの非難や中傷かもしれませんし、脅かしであるかもしれません。あるいは、あなたが神に信頼しないで、自分の力を信じるようにとそそのかす、甘い誘惑かもしれません。あるいは、神への疑いというものであるかもしれません。神への疑いは信仰をダメにします。クリスチャンが苦しみの中でも耐えられるのは、神を信じるからであって、それなのにそこに疑いが入って来ると、クリスチャンは失望の中に投げ込まれることになってしまうのです。

だから信仰の大盾をもって、悪魔が放つ火矢を消さなければなりません。詩篇18篇2節、「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」(詩篇18:2)

詩篇91篇4節、「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。」

神のみことばを学び、それを守ることは大切なことですが、それが単なる知識にとどまって、神への信頼につながらなかったら、すぐに敵に攻撃され、失望します。主が私たちのとりでであり、救い主です。この方に身を避けなければなりません。そうすれば、敵がどんなに攻撃してきても勇敢に戦い抜くことができるのです。

それからここには、「正しい良心を保ち」とあります。良心が責められることのない正しい生活をするという意味です。罪の意識があると、私たちはしっかりと立ち続けることができません。パウロはいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしましたが、良心が責められることのない正しい生活を心がけることが、信仰の戦いを戦い抜くために必要なことなのです。

ある人たちは、この正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。ここには具体的に名前まで出ています。ヒメナオとアレキサンデルです。信仰の破船とは、信仰からずれてしまった人たちの状態を指していますが、彼らがどのようにずれていたのかははっきり書かれていないのでわかりませんが、Ⅱテモテ2章17節にはヒメナオについて、「彼らの話は癌のように広がるのです。」とありますから、健全な教えから離れ、そればかりか、人々をも信仰からも、福音からも遠ざけていたものと思われます。またアレキサンデルについてもⅡテモテ4章14節に、「私をひどく苦しめた」とあることから、パウロを非難して、真理のことばから離れていったのではないかと考えられます。パウロはそういう人たちをサタンに引き渡したと言っています。これはサタンの支配に引き渡したということではなく、教会の交わりから除外したということです。それによって彼らに、神を汚してはならないことを学ばせるためです。

私たちの信仰の歩みにはこうした戦いが尽きることはありませんが、しかし、信仰と正しい良心をもって勇敢に戦い抜かなければなりません。なぜなら、キリストはこんな者も救い、この尊い務めに任命してくださったからです。キリスト・イエスは、罪人を救うために来られたというのはまことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。すべては神の恵みなのです。この認識があれば、あなたもどんな困難にも立ち向かうことができます。だから私たちはこの恵みにとどまり、日々感謝し、主に信頼して歩んでいきましょう。