創世記14章

1.選択の結果(1-12)

前の章において、アブラハムとロトが、それぞれ自分の信仰のはかりにしたがって、山地と平地とを選択したことを見ました。きょうところには、その結果、彼らがどうなってしまったかが記録されています。北東の四人の王と死海近くにいた五人の王との間に行われた戦争によって、ソドムとゴモラの王が戦いに敗れ洞穴に逃げ込んだとき、その四人の王はソドムとゴモラの全財産と食料全部を奪って逃げて行きました。ということは、ロトも捕らえられてしまったということです。12節に「彼らはまた、アブラハムのおいのロトとその財産をも奪い去った。」とあります。ロトはソドムに住んでいたからです。主の園のようによく潤っていたこの地が、まさか戦いに敗れて敵に奪われてしまうというようなことを、いったいだれが想像することができたでしょうか。しかし、これが現実なのです。自分の欲望にしたがって肥沃な平地を選んだロトは、この戦いに巻き込まれて悲惨な事態を招くことになってしまったのです。信仰によってではなく、自分の欲望にしたがって歩む者には、このような結果が待ち受けていることを覚えておかなければなりません。

2.ロトを助けたアブラハム(13-16)

問題はその後です。13-16節までをご覧ください。そのことがアブラハムのもとに知らされると、アブラハムはどのような行動を取ったでしょうか?「フン、いい気味だ。欲望によって選択したからそうなったんだ」と言ったでしょうか。アブラハムはその知らせを聞くと、彼の家で生まれた318人のしもべを召集して、ダンまで追跡し、彼らと戦って打ち破り、すべての財産を取り戻しました。いったいなぜアブラハムはそのような行動をとったのでしょうか?もしかしたら自分の家族が巻き込まれて大きな損害を受けるかもしれません。にもかかわらず彼は追跡して、彼らと戦ったのです。14節には、「アブラハムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き・・・」とあります。一度は別れたものの、ロトと親類関係にあったアブラハムは、ロトと無関係ではありえませんでした。ただ兄弟に対する愛のゆえに、ロトを助けようとして、追いかけて行ったのです。

本当の信仰とは、人を独立させはしても、決して他人のことに無頓着ではありません。ほかの人が困苦にあえいでいる時に、どうして知らぬふりをしていられるでしょうか。自分だけがよければいいという思いは信仰から出た思いではありません。

ルカ10:30~37のところでイエス様は、良きサマリヤ人のたとえを話されました。ある人がエルサレムから絵里子に下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取って、殴りつけ、半殺しにして逃げていきました。そこへ祭司が、レビ人が通りかかりましたが、彼らは見て、見ぬふりをして通りすぎて行きました。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中で通りかかったのです。彼はどうしたかというと、かわいそうに思って、オリーブ油を注いで、ほうたいをして、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してあげました。この三人の中で、だれがこの人の隣人になったでしょうか?このサマリヤ人です。するとイエス様は言われました。「あなたも行って、同じようにしなさい。」と。あなたの隣人をあなた自身のように愛することを、実行しなさいというのです。 これが信仰者の態度です。もちろん、救われるためにするのではありません。救われた者として、神様のみこころに歩む者は、このような歩みは当然のことなのです。それを実行しなさいと言われたのです。

アブラハムは、この神様のみこころに従っただけです。アブラハムは兄弟への愛をあらわし、ついには勝利をはくしたのです。

3.シャレムの王メルキデゼク(17-24)

さて、18節を見ると、そのようにして勝利したアブラハムを迎えたのは、シャレムの王メルキデゼクでした。彼はいと高き神の祭司でもありました。彼はアブラハムを祝福して言ったのです。

「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」

いったいこれはどういうことなのでしょうか?このシャレムの王メルキデゼクについては、ヘブル5-7章に言及されていますが、7:3にしるしてあるように、彼がどこの出なのか、どのような人なのかについては明らかではありませんが、彼がイエス・キリストの型であることは間違いありません。そのメルキデゼクがアブラハムを祝福したとき、アブラハムは彼に自分のすべての持ち物の中からその十分の一をささげたのです。これが十分の一献金の起源です。アブラハムは創造主なる神からの祝福を受けたとき、彼はその全ての持ち物が神から与えられたものであることを認めて、その十分の一をささげました。すなわち、十分の一献金とは何かというと、私たちに与えられたすべてのものは神様のものであって、神様からの祝福であるということを認め、その一部を神様にお返しする信仰の表明なのです。すなわち、これはアブラハムの神への礼拝だったのです。ですから、ここにこのメルキデゼクがいと高き神の祭司であり、「パンとぶどう酒を持ってきた」とあるのです。神からの祝福をいただき、神への信仰を十分の一献金という形で表したのです。

それにしても、なぜここにメルキデゼクが登場し、このような礼拝をささげる必要があったのでしょうか?それは続く21節にあるソドムの王とのやりとりをみるとわかります。ここにはソドムの王が現れて、アブラハムに、「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください」とあります。どういうことでしょうか?これは、「財産はあんたにやるから」ということでしょう。すなわち、自分が財産をアブラハムにやったので、アブラハムは富む者となったというのです。そのときアブラハムは何と言ったでしょうか。22,23節には、彼が、糸一本でも取らないと言いました。それは、アブラハムを富ませたのは私だとソドムの王に言わせないためです。すなわち、アブラハムはこの世の力によって支配されることを恐れたのです。彼にとって神様だけで十分でした。神様がおられれば、神様が祝福してくだいます。人間的にいろいろな小細工をしなくても、最終的に神様が祝福し、神様が責任を持って下さる。その信仰の表れだったのです。

そのような信仰に立つためには、神様を見上げなければなりません。それがシャレムの王メルキデゼクを通しての礼拝だったのです。このところをよく見ると、このシャレムの王メルキデゼクが表れたのは、17節で、ソドムの王がアブラハムを迎えに出て来たときでした。そのような外敵を打ち破ったときこそより深刻な内的な戦いがあることがわかります。それがこうした物質的な誘惑だったのです。そうした誘惑に勝利するために必要だったのは何でしょうか?そうです。神礼拝だったのです。礼拝を通して自分がどのような者であり、自分がよって立っているのは何なのかを確信して、自分を神様にささげること、それが必要だったのです。アブラハムの信仰は、そうした神礼拝に支えられていたのです。

考えてみると、彼がいたところにはいつも主のための祭壇があり、彼はいつも主の御名によって祈りました。(12:7,13:4,13:18)アブラハムの信仰は、そうした神礼拝によって支えられていたのです。ここに私たちの信仰の原点があります。それは、私たちは礼拝から始めていかなければならないということです。私たちが礼拝をささげるとき、神様が私たちの人生を守り、導いてくださいます。そうでないと本質を見失って失敗してしまうということです。礼拝が私たちの信仰生活の生命線なのです。アブラハムはそのことを知っていました。ですから、そうした物質的な誘惑が襲ってきたとき、彼はまず神様を礼拝し、自分をささげ、自分の持っているものをささげて、自分が何によって生きているのかを確認したのです。それが十分の一献金だったのです。

それは私たちも同じです。私たちもいつも神への礼拝を通して、神様がすべてであり、神様だけで十分であること、神様がともにおられるならば、神様が祝福してくださり、その必要のすべてを満たしてくださるということを確信しながら生きていかなければなりません。そうでないと、私たちもまたこの世の流れにながされて、いつも揺り動かされながら生きることになってしまうのです。人生の節目節目に、日々の歩みの節目節目に、神様を礼拝すること、それが私たちの生きる力となり、誘惑に勝利する力となるのです。アブラハムがささげた礼拝は、まさにそのためだったのです。