きょうは、民数記26章から学びます。
Ⅰ.人口調査をせよ(1-4a,52-56)
まず1節かと2節をご覧ください。1節、2節にはこうあります。「1この神罰の後、主はモーセと祭司アロンの子エルアザルに告げて仰せられた。2 「イスラエル人の全会衆につき、父祖の家ごとに二十歳以上で、イスラエルにあって軍務につくことのできる者すべての人口調査をせよ。」26:3 そこでモーセと祭司エルアザルは、エリコをのぞむヨルダンのほとりのモアブの草原で彼らに告げて言った。26:4a 「主がモーセに命じられたように、二十歳以上の者を数えなさい。」
「この神罰」とは、バラムの企みによって、イスラエルにモアブの女たちを忍び込ませ、彼らが彼女らと不品行を行い、偶像礼拝を行ったことで、二万四千人が死んだという出来事です。その神罰の後に、主はモーセと祭司エルアザルに、イスラエルの全会衆の中から、父祖の家ごとに二十歳以上で、イスラエルにあって軍務につくことのできる者すべての人口調査をするようにと命じられました。いったいなぜここで人口を調査しなければならなかったのでしょうか?
人口調査については1章ですでに行われていました。それはエジプトを出て二年目の第二の月のことでしたが、イスラエルがシナイの荒野に宿営していたとき、やはり氏族ごとに二十歳以上の男子で、軍務につくことができる人数が数えられました。それは何のためであったかというと戦うためです。戦うためには軍隊を整えなければなりません。それで主はイスラエルの軍隊を組織させ、その戦いに備えました。部族ごとにリーダーが立てられ、それぞれの人数が数えられたのです。
しかし、ここで人口調査が行われたのは戦うためではありません。あれから38年が経ち、イスラエルは今ヨルダン川の東側までやって来ました。彼らはもうすぐ約束の地に入るのです。いわば荒野での戦いは終わりました。それなのにいったいなぜ人口を調査する必要があったのでしょうか。
それは約束の地に果てる備えるためです。52~56節までをご覧ください。ここで主は、これから入る約束の地において、その血をそれぞれの部族の数にしたがって相続するようにと命じています。大きい部族には大きい相続地を、小さい部族にはその相続地を少なくしなければなりませんでした。彼らはその人数によって相続地を割り当てたのです。
このように主は、荒野で戦いに備える前に人口を調査し、今度は約束の地で相続地を割り当てるのに人口調査をしました。それは決して自らの数を誇るためではなく、これから先の行動に備えるためでした。彼らが約束の地に入るには、まだ原住民との戦いがありました。その後で相続地の割り当てが行われます。しかし、主はそれに先立ち、すでにこの時点で相続地の分割を考えておられました。それはまさに先取りの信仰ともいえるものです。主の約束に従い、それを信じて、いまそれを行っていくのです。そうなると信じて、たとえ今はそうでなくとも、そのように行動していかなければならないのです。
先日、今月の支払いのことで会計担当の方から連絡をいただきました。献金が足りないので支払に支障をきたしているとのことでした。いったいこれはどういうことかと思って祈っていたら、主はこのみことばを私に与えてくださいました。Ⅱ列王記3章16~18です。特に、16節の「みぞを掘れ。みぞを掘れ。」という言葉です。水がなくて困っているというのに、主は「みぞを掘れ」と仰せになられる。いったいこれはどういうことなのかと祈っていると、たとえ今はそうでなくても、主は必ず満たしてくれるので、それを信じてみぞを掘るようにということであることがわかりました。実際にはそれは祈れということでしょう。神が満たしてくださると信じて、神が与えてくださると信じて祈りなさいということです。18節には、「これは主の目には小さなことだ。主はモアブをあなたがたの手に渡される。」とあります。これは主の目には小さいことなのです。そのことで思い悩む必要はありません。そう思ったら、目の前の霧がパッと晴れたようになりました。
私たちの信仰の歩みには自分の思うようにいかないことがたくさんありますが、そのような中でも主の約束を信じ、必ずそのようになると信じて祈り備えていかなければなりません。
Ⅱ.イスラエルの人口(4b-51,57-62)
さて、そのイスラエルの人口ですが、38年前と比較してどうなったかを見てみたいと思います。5節から51節までにそれぞれの部族の人口が記録してあります。
部 族 | シナイの荒野 | モアブの草原 | 増 減 | 割 合 |
ルベン族 | 46,500 | 43,730 | -2,770 | -6% |
シメオン族 | 59,300 | 22,200 | -37,100 | -63% |
ガド族 | 45,650 | 40,500 | -5,150 | -11% |
ユダ族 | 74,600 | 76,500 | +1,900 | +3% |
イッサカル族 | 54,400 | 64,300 | +9,900 | +18% |
ゼブルン族 | 57,400 | 60,500 | +3,100 | +5% |
マナセ族 | 32,200 | 52,700 | +20,500 | +64% |
エフライム族 | 40,500 | 32,500 | -8,000 | -20% |
ベンジャミン族 | 35,400 | 45,600 | +10,200 | +29% |
ダン族 | 62,700 | 64,400 | +1,700 | +3% |
アシェル族 | 41,500 | 53,400 | +11,900 | +29% |
ナフタリ族 | 53,400 | 45,400 | -8,000 | -15% |
レビ族 | 数に含まれず | 数に含まれず | ||
合 計 | 603,550 | 601,730 | -1,820 | -0.3% |
コラの反乱に加担した者は、このルベン族のダタンとアビラムでした。ダタンとアビラムは会衆に選ばれた者でしたが、コラ(レビ族ケハテの子)の仲間に入り、モーセとアロンに逆らいました。その結果、彼らはコラとともに滅びましたが、コラの子らは死にませんでした。コラの子たちは、後世に礼拝の賛美奉仕者となっていきます。
ところで、38年前にシナイの荒野で数えられた時と比較すると、興味深いです。その時の合計がほとんど同じなのです。以前は603,550人でしたが、今回は601,730人です。ここからも、荒野の生活がかなり過酷であったことがわかります。イスラエルは神の祝福によってたちまち増え続けてきましたが、この荒野の40年は全然増えませんでした。かろうじてほぼ同じ人口は保つことができました。
次にレビ族の人数が記されてあります。レビ族にはゲルション、ケハテ、メラリという三つの氏族がありました。ここで特筆すべきことは、ケハテから生まれたアムラムとその妻ヨケベテとの間にアロンとモーセとその姉妹のミリヤムが生まれたということです。そして、このアロンにはナダブとアビフ、エルアザルとイタマルという四人の息子がいましたが、ナダブとアブフは主の前に異なった火をささげたので死に(レビ16:1:大祭司しか入ることができなかった至聖所に入っていけにえをささげた)、その弟エルアザルが大祭司となりました。
それから、このレビ族の記録でもう一つ重要なことは、彼らの場合は二十歳以上の男子ではなく一か月以上のすべての男子が登録されたということです。そして、彼らは、ほかのイスラエル人の中に登録されませんでした。なぜなら、彼らはイスラエル人の間で相続地を持たなかったからです。
Ⅲ.シナイの荒野で登録された者はひとりもいなかった(63-65)
そして63節から終わりまでがまとめです。「63 これがモーセと祭司エルアザルが、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、イスラエル人を登録したときにモーセと祭司エルアザルによって登録された者である。64 しかし、このうちには、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエル人を登録したときに登録された者は、ひとりもいなかった。65 それは主がかつて彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ。」と言われていたからである。彼らのうち、ただエフネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった。」
これがこの章のまとめであり、民数記全体の要約でもあります。イスラエルの民は約束の地に入るためにエジプトから出てきたのに、その地に入ることができたのはヨシュアとカレブ以外は誰のいなかったという事実です。彼らは、約束のものを受けていたのに、その約束にあずかれなかったのです。なぜでしょうか?「彼らは必ず荒野で死ぬ」(14章)と言われたからです。神は彼らを約束の地に導くと行ったのに、彼らはそれを信じないで十度も主を試みたので、主はそのように言われたのです。
これは本当に厳粛な話です。私たちがどんなに信仰の恵みに預かっても、不信仰になって主を何度も試みるようなことがあれば、約束の地に入ることはできないのです。パウロはこのことを第一コリン10章でこう言っています。
「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:1-13節)
パウロはここで、彼らの父祖たち、すなわち、イスラエルの民が御霊によって神の約束のものを手に入れたのに、最終地まで到達することなく、荒野で滅ぼされてしまったのは、私たちへの戒めのためであると言って、7節からその要因を列挙しています。それは金の子牛を造ってそれを拝んだことや、バラムのたくらみによってモアブの女たちと姦淫を行い、その結果、モアブの神々を拝んでしまい、一日に二万三千人が死んだという出来事、さらには、ある人たちがつぶやいたのにならって、つぶやいたりしたことです。これはコラたちの事件のことでしょう。私たちはこれらの出来事一つ一つを見てきました。それらのことによって、イスラエルの民はせっかく神から約束のものを手に入れていたのに、それを受けることができなかったのです。そしてそれは私たちへの教訓のためでした。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気を付けなければなりません。
私たちは今世の終わりに生きています。世の終わりになると困難な時代がやって来るということをイエス様も、またパウロも語っています。いつ倒れてもおかしくない状況に置かれているのです。自分は大丈夫だと思っていても、そうした傲慢な思いが神様のみこころにかなわない場合があります。それなのにいつまでもかたくなになっていると、この時のイスラエルのように約束の地に入ることかで゛きなくなってしまいます。倒れてしまう可能性が十分にあるのです。けれども神は倒れないようにするための約束も与えておられます。それが13節です。
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」
神が与えておられる試練は必ず耐えることができるものです。耐えられないような試練は与えません。耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。この約束を信じて、いつまでも神様の道に歩まなければなりません。もしその道から外れてしまうことがあったら、すぐに悔い改めて、もう一度立ち返る必要があります。そうすれば、主はあなたを赦し、あなたを受け入れてくださいます。いつまでもかたくなになって悔い改めないなら、かつてイスラエルが荒野で滅びたように、約束のものを手に入れることはできません。それがヘブル人への手紙3章13節から19節までのところに進められていることです。
「「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」
私たちは、この世の歩みの中でいろいろな試練を受けますが、しかし、「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしたいと思います。そして信じた時に与えられた最初の確信を最後まで保ちたいと思います。聞いていてもその御言葉が信仰によって結び付けられることなく滅んでしまうことがないように、いつも柔らかな心をもってみことばに聞き従う者でありたいと思います。