ヘブル3章1~6節 「モーセよりもすぐれたキリスト」

 きょうは、「モーセよりもすぐれたキリスト」というタイトルでお話します。この手紙はユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙です。彼らはイエス・キリストを救い主として信じましたが、度重なる激しい迫害に耐えかねてかつての古い教えに戻ろうとしていたので、イエス・キリストが旧約聖書に出てくるどのような人よりも、どのようなものよりもすぐれた方であるということ証明し、励まそうとしたのです。そのためこの手紙の著者は、イエス・キリストをいろいろなものと比較しています。 

 まず1章では預言者たちと比較しました。神は、昔、預言者たちを通して、多くの部分に分け、いろいろな方法によって語られましたが、終わりの時には、御子によって語られました。神は御子によってご自分のすべてのものを現してくださったのです。神の御子イエスをみれば、神がどのような方であるかがわかります。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであって、そうした預言者たちとは全く比較にならない偉大な方なのです。 

 それから、1章後半から2章にかけては、御使いたちと比較しました。なぜなら、御使いはユダヤ人にとって特別な存在だったからです。けれども神は御使いに対して「わたしの子」と呼んだことは一度もありませんでした。ただ御子に対してだけをそのように呼ばれたのです。御使いは被造物であって、神に仕える者でしたが、御子は万物の創造者であられ、仕えられる方です。御使いは神の前にひれ伏し、伏し拝む者、すなわち、礼拝をささげる者ですが、御子は礼拝を受けられる方です。だからイエス・キリストは御使いよりもはるかにすぐれた方なのです。 

 そしてきょうのところではモーセと比較されています。なぜモーセなのでしょうか。モーセは偉大な預言者であり、ユダヤ人が最も尊敬していた人物だったからです。律法はこのモーセを通して与えられました。この偉大なモーセと比較して、イエスがどれほどすぐれた方であるのかを証明しているのです。 

 Ⅰ.イエスのことを考えなさい(1) 

 まず1節をご覧ください。

「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」

 「そういうわけですから」とは、これまで語られてきたことを受けてということです。特に2章9節以降のところには、キリストはなぜ人となって来られたのかについて語られてきました。それはすべての人のためでした。神はすべての人を救うためにご自分の御子をこの世に遣わし、十字架におかけになって、罪の贖いを成し遂げてくださいました。すべての人はこの罪のために死ななければなりませんでした。一生涯死の恐怖につながれていたのです。そんな死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放するためにキリストは来られ、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼしてくださいました。そればかりでなく三日目によみがえられました。それゆえに、この方を信じる者はこの方が死からよみがえられたように、やがて死からよみがえるのです。もはや死は何の力もありません。それは栄光の御国への入り口になりました。こんなにすばらしい救いがあるでしょうか。私たちはこの神の御子イエス・キリストを救い主と信じたことによって、この救いを受ける者となったのです。ハレルヤ!「そういうわけですから」です。 

「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」 

 人は何を考えるかによってその生活が決まります。ビジネスのことばかり考えている人は、いつもビジネスのことばかり口にします。どうしたら仕事がうまくいくか、どうしたらもっと利益をあげることができるかといったことを語り、そのための情報を集めるためにアンテナを高くあげて、あちらこちらに奔走するのです。だからあまり落ち着きがありません。恋愛に関心のある人はいつも恋愛のことばかり考えています。寝ても覚めても彼氏や彼女のことばかりです。健康に関心のある人は、健康のことばかり考えています。何を食べればダイエットに効果があるか、どうしたら腸の動きを活発にすることができるか、そういったことに敏感に反応するのです。ではクリスチャンは何を考えるのでしょうか?クリスチャンが考えるのはイエス・キリストのことです。なぜなら、クリスチャンは天の召しにあずかっている者だからです。これはどういうことかというと、天国に行くように召された者であるからということです。皆さん、クリスチャンは天国に行くように召された者なのです。だから天国のことを考えるのです。 

 これまではそんなこと考えたことがありませんでした。天国に行くのはずっと先のことだし、天国のことを考えるよりも、今をどう生きるかということを考えることの方がよっぽど大切だと思っていました。だからいつもこの地上のことばかり考えながら生きてきたのです。今をどう生きるかが最大の関心事だったのです。だから教会に誘われても、「そんなこと考えている暇なんてないよ。毎日忙しくて」と、目の前のことばかりに追われていたのです。どうしたら豊かになれるのか、どうしたら成功することができるのかということで一杯だったわけです。 

 しかし、イエスを信じた今は違います。確かにこの地上のことも大切です。でもイエスを信じてからは、それは一時的なものだということがわかりました。この地上では旅人であり、寄留者にすぎないことがわかったのです。それは永遠に続くものではありません。永遠に続くものは何でしょうか。いつまでも続くものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。ですから、いつまでも神の愛とその御国です。私たちはやがてそこに帰るのです。だから私たちはこれを目標に、天の召しにあずかっている聖なる者、神の者として、神の栄光が現されるように生きるのです。 

 ですから、クリスチャンが求めなければならないことは、その信仰の中心であるイエスのことを深く心に留めることなのです。なぜあなたに喜びがないのでしょうか。自分のことにこだわっているからです。自分の思いに執着して、なかなかそれを手放すことができないでいるからです。あなたの目を神に向け、あなたのすべてを神にゆだねてください。そうすれば、自分自身から解放されて、キリストにある平安を持つことができます。それは聖書にこう書いてあるからです。 

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6~7) 

 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって祈りと願いをもって、あなたがたの願い事を神に知っていただけばいいのです。自分を見るのではなくイエスを見なければなりません。イエスのことを考えるなら、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守っていただけるのです。なぜなら、イエスはあなたの告白する信仰の使徒であり、大祭司であられる方だからです。どういうことでしょうか? 

 「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。イエスは父なる神によって遣わされた者でした。何のために遣わされたのかというと、父なる神のみこころを伝え、そのみわざを行い、私たちを罪から救うためです。「大祭司」とは逆に、人々の代表として神にとりなしをする人のことです。仲介者ですね。イエスは私たちの罪の身代わりとして十字架にかかって死なれ、墓に葬られ、最も深い所である「よみ」という所へ下られました。しかし三日目によみがえられて、神の御住まいである天に昇られて、神の右の座に着座されました。私たちの罪の贖いは完全に成し遂げられました。だから私たちはこの方に全く信頼し、すべてをゆだねることができるのです。私たちが見つめなければならないのはこのイエスです。イエスのことを考えなければならないのです。 

あなたは何を考えているでしょうか。仕事のことや学校のこと、家庭のこと、将来のこと、健康のことで頭が一杯になってはいないでしょうか。どうぞ、イエスのことを考えてください。 

Ⅱ.すべてのものを造られた神(2-4) 

 次に2節から4節までをご覧ください。ここには、そのイエスはどのような方なのかが語られています。

「モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。」

 

 ここでこの手紙の著者は、イエスがどれほど偉大な方であるかを証明するためにモーセと比較しています。なぜモーセなのでしょうか。それは先ほども述べたように、ユダヤ人にとってモーセほど偉大な人物はいなかったからです。祈祷会では民数記を学んできましたが、今週でその学びが終わります。それは神がモーセを立て、神の民であるイスラエルを約束の地まで導き入れるようにされた歴史です。彼の働きによって、旧約聖書の最初の五つの書が書き記されました。だから旧約聖書の最初の五つの書を「モーセ五書」と言うのです。彼はイスラエルのすべての土台を据えた人でした。したがって、モーセは旧約の預言者の中でも最も偉大な預言者であり、この地上には、彼ほど偉大な預言者はいませんでした。 

 そしてこのモーセの特徴は何かというと、神の家であるイスラエル全体のために忠実に仕えたということです。彼がすぐれていたのは何か目ざましいことを行なったからではなく、いつでも、どこでも忠実に、神が命じられたとおりのことを行ったということなのです。皆さん、忠実であるとはどういうことでしょうか。忠実であるとは、主が命じられたことを、そのとおりに行うことです。モーセはそのような人でした。 

 それに対してイエスはどうだったでしょうか。イエスも同様に、ご自分を立てた方に対して忠実でした。モーセ同様に、イエスも父なる神に対して忠実だったのです。イエスは、いつでも、どこでも、父なる神がお語りになった通りのことを語り、そのとおりに行われました。父から離れて勝手に行動したことは一度もありませんでした。ヨハネ6章38節にはこうあります。 

「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」

イエスが来たのは自分の思いを行うためではなく、自分を遣わした方、すなわち、天の父なる神のみこころを行うためでした。そして、イエスはそれを完全に行われました。ですからモーセが神の家全体のために忠実であったように、イエスもご自分を立てた父なる神に対して忠実だったのです。 

では、イエスとモーセは同じレベルの人物であったということなのでしょうか。違います。イエスもモーセも神に対して忠実であったという点では同じですが、根本的に違う点があります。それが3節と4節に書かれてあります。

「家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。」 

 どういうことでしょうか。皆さん、家とその家を建てる者ではどちらが偉いのでしょうか。何億円もするような豪華な家を見ると、「すごい家だなぁ」と感動しますが、実はすごいのは、その家そのものよりもその家を建てた人なのです。 

 この夏アメリカに行ったとき、カリフォルニア州サンシメオンという街にあるハースト・キャッスルと呼ばれる豪邸を見に行きまた。これは1900年代前半に新聞産業で財を成したウィリアム・ランドルフ・ハーストという人が作った自分の家で、現在はカリフォルニア州の州立公園として管理されていますが、8,400㎡という広大な敷地に6,000㎡のお城と、3つのゲストハウス、それに屋外プール、屋内プール、遊技場、エアポートまでついているという豪華な家です。きょうはこの後でさくらチャペルの起工式がありますが、その土地は124㎡ですので、67倍もある大きな敷地です。それは敷地だけの面積で、実際に彼が所有していた土地はものすごい広さで、おそらく栃木県全部の面積に匹敵するほどの広さです。もっとすごいのは、その豪華絢爛な建物です。ダイニングルームやプライベートシアター、巨大なライブラリーやハースト夫妻の寝室など、建物の細かい彫刻や壁画、絵画、デコレーションなど120の部屋があり、そのすべてが贅沢でため息が出るほどです。それは山の上に建てられていて、そこから海が一望できるすばらしいロケーションになっています。しかし、それがどれほど豪華なお城であっても、もっとすごいのはその家を建てた人なのです。 

 ある中学生が友達を誘って教会に来ました。「何で来たの」と尋ねると、友達と偶像の話になり、「何で木や石で造ったものを拝むのか」という話になったそうです。「木や石で作ったというのは、作った人の方が偉いということじゃないの?それなのに、どうして作った人が作られた物を拝むのか、おかしいじゃないか」という話になり、「ホントだ。おかしい。」「何かおもしろい」「何だか感動した」「ぼくも教会に行ってみたい」と言って、教会に来たというのです。 

 皆さん、よく考えてみてください。どっちが偉いんですか。造った人ですか、造られた物ですか。もちろん、造った人です。モーセは神の民であるイスラエル全体のために忠実に仕え、彼らを約束の地へと導きましたが、その神の家であるイスラエルを造られたのはだれでしょうか。イエスさまです。イエスは創造主であられるのに対して、モーセは被造物の一つにすぎません。すべてを造られたのは神です。この神の方がはるかに偉大なのであって、その神こそ万物の創造者であられるイエス・キリストなのです。ですから、イエスはモーセとは比較にならないほど偉大な方なのです。 

 Ⅲ.神の御子イエス・キリスト(5-6) 

 なぜイエスはモーセよりも偉大な方であると言えるのでしょうか。もう一つの理由は、モーセは神のしもべであったのに対して、イエスは神の御子であられるからです。5,6節をご覧ください。

「モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」 

 ここではモーセとイエスのどちらが偉いのかということを、立場の違いをもって説明しています。すなわちモーセはしもべと呼ばれているのに対して、イエスは御子と呼ばれているということです。モーセは神のしもべとして神の家のために忠実に仕えましたが、イエスは神の御子として神の家を忠実に治めておられる方なのです。立場が全然違います。しもべは主人に仕える者ですが、御子はその家の所有者、オーナーなのです。イエスは神の御子として、神の家を治められる方なのです。モーセは後に語られる事をあかしするために立てられました。それは天にある神の幕屋のことですが、その天の幕屋を治めておられるのがイエスなのです。イエスこそモーセが指し示していた神の幕屋の実態であり、目的であられる方だったのです。それゆえ、イエスがどれほど偉大な方であるかがわかると思います。 

 ですから、結論は何かというと、6節後半のみことばです。ご一緒に読みましょう。「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」 どういうことですか?イエスはこのような方なので、最後までこの方に確信と希望を持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。すなわち、そこに神のいのち、救いがあるということです。 

 パピニというイタリアの詩人が、こんな言葉を書いています。「人間の生活に絶対必要なものが三つある。食物と健康と、それに希望である。」確かに、その通りだと思います。でも、今の世の中で、いったいどこに希望を見つけることができるのでしょうか。どこにも見つけることができません。しかし、イエス・キリストを信じる人には、すばらしい希望が与えられるのです。イエスはこう言われました。「わたしは、よみかえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)死んでも生きるいのちがある。これこそ真の希望ではないでしょうか。この希望はキリストを信じる者に与えられるのです。 

 先週はウイリアム・ウッド先生が来会してメッセージを語ってくださいましたが、そのウッド先生が書かれた著書「あなたを元気にする100のミニ・メッセージ」がカウンターにあります。その本の中にベレッタ・クラムリーというアメリカ人女性の体験談が紹介されています。彼女は旧約聖書のヨブを思わせる壮絶な試練を経験しました。長男のダニエルは、二歳の時に、白血病で亡くなりました。初めは、「どうしてですか」と神に抗議の祈りをしましたが、その大きな苦しみの中で、人間にとって最も大切なことは、「わたしはよみがえりであり、命です。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われたお方を知ることだと、確信させられました。                                                                            そしてその二年後に、今度は夫のヘンリーが癌だと分かりました。その時には二男のリヨンに続いて、長女のローリーが生まれていました。夫のヘンリーは海外宣教に使命を感じていたので、彼は、残りの日々を、海外宣教のために使おうと、決意しました。病気を押して夫婦は南米、ギリシャ、インド、日本、韓国、台湾へと宣教の旅に出ました。帰国して一週間後、夫のヘンリーは天に召されました。葬儀の午後のことを、ベレッタさんは、こう語っています。「突然、私の心に夫の幻が現れ、彼のよみがえった体は勝利を得て、もう二度と苦しまず、早く主のもとに急いで昇って行きたいように見えました。両腕を伸ばしたイエス様がヘンリーに呼び掛けて「良い忠実なしもべだ。よくやった」と言ってくださると確信しました。                                        三度目の試練は、突然でした。17歳になった二男リヨンと妹のローリーが乗っていた車が事故に遭ったのです。二人の死を告げる警察官の言葉にベレッタさんは、「突然高い崖から荒れている海に突き落とされたかのような気がしました」と言いました。しかし次の瞬間、聖霊に強く包まれ、優しく、平安な、天の父なる神の温かい臨在を感じたと言います。そして警察官に向かって、落ち着いた声でこう言いました。「うちの子供は天国の神様のところに行きましたのね。」ベレッタさんはその後、宣教師として台湾で奉仕し、多くの人々をキリストに導いておられるそうです。夫と長男を病気で失い、二男と長女を交通事故で失うという失意の中でも、彼女は死んでも生きるいのち、永遠のいのちの約束をしっかりと握りしめ、その希望を持って歩み続けておられるのです。

 皆さん、私たちの人生には実に多くのことが起こります。しかし、それがどのようなものであっても、キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。なぜなら、キリストは神の御子であられ、すべてのものを創造された方であり、またそれを支配しておられる方だからです。また、キリストは死んで、よみがえられました。あなたのために救いのみわざを完全に成し遂げてくださいました。ですから、あなたが最後まで確信と希望を持ち続けるなら、あなたは神の家になるのです。 

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さ、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8章35~38節) 

 このイエスに終わりまでしっかりととどまりましょう。いつもイエスのことを考えましょう。イエスがあなたの希望です。イエスはモーセよりもはるかにすぐれたお方なのです。