ヘブル3章7~19節 「神の安息に入るために」

 きょうは、ヘブル3章7節から19節までのみことばから、「神の安息に入るために」というタイトルでお話したいと思います。 

 よく私たちの人生は旅のようなものであると言われます。旅にもいろいろあって、名所旧跡を訪ねる旅もあれば、道なき道をかき分けて行く冒険のような旅もあります。すでにだれかが作ってくれた道を行くのであれば、比較的安心して行くことができますが、原生林や荒野を旅する場合は、そんなに楽な旅ではありません。 

 それは、私たちの信仰の旅も同じです。聖書にはよく旧約時代のイスラエルの民がエジプトを出てから約束の地に入るまでのことを、私たちの信仰生活になぞらえて教えられていますが、それはまさに荒野の旅でもあり、そこには多くの戦いがありました。そして、その荒野の旅において彼らは、神が約束してくださった地に入ることができませんでした。いったいなぜ入ることができなかったのでしょうか。きょうはイスラエルの失敗から、どうしたら神の安息に入ることができるのかを学びたいと思います。 

Ⅰ.心をかたくなにしてはならない(7~11) 

 まず、第一のことは、心をかたくなにしてはならないということです。7節から11節までをご覧ください。「ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」

 「ですから」というのは、これまで語られてきた内容を受けてのことです。3章1節から6節までのところにはイエスのことを考えなさいと、勧められてありました。なぜなら、イエスこそ信仰の使徒であり、大祭司であられる方だからです。人は何を考えるかによってその行動が決まります。仕事のことばかり考えている人は仕事を中心とした生活になり、健康のことばかり考えている人は、自分の健康にいいと思うことをいろいろ試してみようとあちらこちらに奔走します。でもイエスのことを考える人は天国のことを考えます。目の前に様々な問題があっても主が必ず解決してくださると信じ、すべてをゆだねて祈るのです。だから、イエスのことを考えなければなりません。 

 そして、このイエスがどんなに偉大な方であるかを、モーセと比較して語られました。すなわち、モーセは神の家に仕える者でしたが、イエスはその神の家を建てた方であり、それを治めておられる方です。だから、私たちがこのイエスに最後までしっかりと確信と希望を持ち続けるならば、私たちが神の家となるのです。「ですから」です。「ですから」何でしょうか。 

 「ですから、聖霊がこう言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」 

 どういうことでしょうか?これは詩篇95篇8節からの引用です。この手紙の著者はイスラエルの先祖たちの不信仰を取り上げて、あの荒野での試みの日に、心をかたくなにして、神の御怒りを引き起こすようなことがあってはならないと警告しているのです。いったい「荒野での試みの日に」何があったのでしょうか。実は、詩篇95篇を見ると、この荒野の試みの日がどのようなものであったのかがもっと具体的に記されてあります。

「メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」(詩篇95:8)

ここにはメリバでのときのように、また荒野のマサの日のようにとあります。いったいメリバで何があったのでしょうか。マサで何が起こったのでしょうか。これは出エジプト記17章に書かれている内容です。少し長いですが読んでみたいと思います。1~7節までです。

「イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。」 

 これはイスラエルがエジプトを出て荒野に導かれたときに起こった出来事です。イスラエルは430年間エジプトの奴隷として仕えていましたが、その苦しみの中で彼らが主に助けを求めると、主はモーセというひとりの人物を立て、そこから救い出してくださいました。それは人間的には全く考えられないことでしたが、主は力強い御手をもって彼らをエジプトから連れ出されたのです。エジプトから出た彼らはどうなったでしょうか。彼らが導かれたのは荒野でした。荒野というと皆さんはどのような所を想像するでしょうか。それは荒れた野と書きますから、それが厳しい環境であることは間違いありません。その中でも水がないというのは重大な問題でした。それはイコール死を意味していたからです。そこで彼らはモーセと争いました。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」これにはモーセもどう答えたらよいかわかりませんでした。それでモーセは主に叫ぶのです。すると主は、民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れて、ナイルを打ったあの杖で、ホレブの岩を打つようにと命じられました。それでモーセがそのとおりにすると、岩から水がほとばしり出たので、彼らはそれを飲んだのです。いったい何が問題だったのでしょうか。彼らの心がかたくなだったことです。彼らはこれまで何度も主のみわざを体験したにもかかわらず、信じることができませんでした。少しでも状況が不利になるとすぐにつぶやいて、神と争ったのです。それで主は怒りをもって誓ったように、彼らを神の安息に入れない、言われたのです。 

 これは私たちも同じです。私たちも神の救いのみわざを経験し、何度も神の恵みを体験しても、イスラエルのように心をかたくなし、常に心が迷い、神の道を悟ることがないと、神の安息に入ることができないこともあるのです。 

聖書は、神のご性質についてこう言っています。

「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」(詩篇103:8) 

 これが私たちの神です。主は、あわれみ深く、情け深い方です。私たちが何度も何度もつぶやき、主に対して不平不満を言っても、主は私たちを赦してくださいます。怒るのにおそく、あわれみ深い方なのです。しかし、いつまでも心をかたくなにして、常に心が迷い、神の道を悟らなければ、最終的には神の怒りが下るのです。ですから、そういうことがないように、イスラエルのように心をかたくなにしないで、心を柔らかくして、神のことばを素直に受け入れなければなりません。 

 私たちの人生には辛いこと、苦しいこと、また、なかなか受け入れられないことが起こりますが、それは私たちの信仰が試される時でもあります。そしてそのような時こそ、信仰が強められる時でもあるのです。それなのに、私たちはどちらかというとそのように受け止めることができず、すぐにつぶやいたり、疑ってみたり、不平不満を漏らしたりして、不信仰になってしまいますが、そうではなく、神の約束を信じなければならないのです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働いて益としてくださると信じなければならないのです。 

 Ⅱ.日々互いに励まし合って(12-15) 

 次に12節から15節までをご覧ください。

「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。」

 ここでこの手紙の著者はイスラエルの不信仰を事例に、この手紙の受取人であるユダヤ人クリスチャンに警告を与えています。というのは、彼らの中にはイエス・キリストを信じて神の救い、永遠のいのちを受けたにもかかわらず、その信仰のゆえに迫害や困難に遭うと、古い契約、モーセの律法に戻ろうとする人たちがいたからです。だから、彼らのように不信仰の心になって生ける神から離れることがないようにと警告しているのです。12節の「悪い不信仰の心」というのは神を信じない心のことです。神を信じていると言っても、悪い不信仰の心になると、生ける神から離れてしまい、その身に滅びを招くことになります。モーセの言うことを信じなかった人たちは、みな荒野で滅びてしまいました。であれば、ましてやモーセよりもはるかに偉大な神の御子イエス・キリストを信じなかったどうなるでしょうか。イエスを信じなければ罪が残っているということなので、永遠のいのちを受けることができなくなってしまいます。だから、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れることがないように気をつけなければなりません。そして、「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなければなりません。 

 ところで、この手紙では「きょう」という言葉が繰り返し使われています。このように同じことばが繰り返して使われている時はそのことが強調されていることを表していると以前申し上げましたが、ここでもそうです。「きょう」が強調されているのです。なぜなら、私たちに明日があるかどうかはわからないからです。明日があるかどうかは誰にもわかりません。私たちが生きることができるのは、「きょう」だけであって、明日がどのようになるかはわかりません。しかも、今、この瞬間しかありません。次の瞬間にはどうなるかわからないのです。私たちが生きることかできるのは、今、この瞬間しかないのです。私たちは過去に生きることはできないし、未来に生きることもできません。明日があるかどうかはわからないのです。 私たちは自分で生きていると思っていますが、実は生かされているのです。そして神がよしとするときに、神の許に、天の御国に召されるのです。それがいつなのかはだれにもわかりません。もしかするとそれは明日かもしれません。だから「きょう」御声を聞くならば、心をかたくなにしないで、イエスを信じなければならないのです。 

 まだイエス様を信じていない方がおられるでしょうか。きょう初めて教会に来られたという方もおられるかもしれません。そういう方はどうか「きょう」イエスさまを信じてください。イエスさまはどんな悩みがあっても解決を与えてくださいます。イエスさまを信じれば、あなたの罪が赦され、あなたの心に神のいのちが与えられます。それは一時的なものではなく永遠のいのちです。これが神の恵みの福音なのです。 そして、もうすでにイエスを信じておられる方は、どうか、ここにあるように、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしてください。だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れることがないように気を付けてください。 

 そのためにはどうしたらいいのでしょうか。ここにはそのために必要なことが勧められています。それは「日々互いに励まし合って」という言葉です。日々、互いに励まし合って、だれも罪に惑わされないようにしなければなりません。聖書には至るところで「互いに」という言葉が使われています。互いに愛し合いなさい。互いに慰め合いなさい。互いに励まし合いなさい。互いに労り合いなさい。互いに赦し合いなさい。互いに受け入れ合いなさい。というようにです。なぜでしょうか。なぜなら、私たちの信仰はひとりで守ることはできないからです。イエス様を信じたからあとは自分で信仰を守っていくから大丈夫だということはありません。互いに励まし合う必要があるのです。それは生まれたばかりの赤ん坊を見てもわかります。赤ん坊は一人で生きることはできません。ミルクをあげたり、おむつを交換したり、何かあったら世話をしたりして守ってあげる人が必要です。そういうケアがあってこそ健全に育っていくことができるのです。それと同じように、私たちの信仰も互いに励まし合ってこそ健全に成長していくことができるのです。 

 ですから、神様が教会を与えてくださったということは本当に感謝なことなのです。教会がなかったらどうなるでしょうか。教会がなかったら自分で聖書を読み、自分で祈り、自分で信仰を守らなければなりません。確かに一人でも聖書を読み、堅く信仰に立って歩める人もいるかもしれませんが、ほとんどの人はこの世の影響を受けて、生ける神から離れてしまうことでしょう。教会はキリストのからだであり、私たちはその器官であると言われていますが、肝臓が肝臓だけで存在することができるでしょうか。腎臓が腎臓だけで生きることはできません。私たちはキリストのからだの各機関としてそれぞれしっかりと組み合わされ、結び合わされて、成長して、愛のうちに建てられるのです。

「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、供えられたあらゆる結び目によって、しっかり組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16) 

 確かに目に見える教会は完全ではありません。問題もあるでしょう。でも教会はキリストのからだであって、私たち一人一人がこのキリストにしっかりと結び合わされ、組み合わされて、成長して、愛のうちに建てられているのです。だから、平安があるのです。教会に来ると慰められ、励まされます。心が元気になります。なぜでしょうか?頭(かしら)がしっかりしているからです。教会のかしらは牧師ではありません。教会のかしらはイエスさまです。イエスさまがしっかりしているので守られ、養われるのです。だから、教会ってものすごいところなのです。どんなに小さな教会でも、教会にはキリストのいのちが溢れているのです。その教会で互いに励まし合ってこそ、私たちはしっかりと信仰に立ち続けることができるのであって、そうでなかったら、この世の流れに流されて、生ける神から離れ、罪に惑わされてしまうことになります。だからそういうことがないように、日々互いに励まし合い、最初の確信を終わりまでしっかりと保ち、キリストにあずかる者、つまり、共に神の安息に入る者とさせていただきたいと思います。 

Ⅲ.不従順にならないで(16-19) 

 第三のことは、だから不従順にならないでということです。16節から19節までをご覧ください。

「聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」 

 ここで著者は再び、モーセの時代のイスラエルの話に戻っています。つまり、イスラエルはなぜ約束の地に入ることができなかったのかということです。ここにはそれを決定的にした原因が書かれてあります。それはカデシュ・バルネアでの出来事です。民数記13章と14章に記されてあります。彼らはエジプトを出て約1年数か月後に、もう約束の地までは目と鼻の先という所まで来ました。そのとき、12人の偵察隊を送り、その地がどんな地であるかを探らせるのです。そこに住んでいる人は強いか弱いか、あるいは多いか少ないか、その土地はどうか、それが良いか悪いか、彼らが住んでいる町はどうか、宿営か、それとも城壁の町かといったことを調べさせました。 

 ところが、偵察から帰って来た人のうち10人は、モーセとイスラエルの全会衆に否定的な報告をもたらしました。確かにそこは乳と蜜の流れる良い地だったが、とても上って行くことはできない。そこにはアナク人の子孫や、アマレク人など、とても大きくて、強そうな人ばかりいるので、行こうものなら滅ぼされてしまうだろう、と告げたのです。それを聞いたイスラエルの全会衆は大声をあげて泣きました。いったいなぜモーセは自分たちをこんなところに連れてきたのか。こんなことならエジプトで死んでいた方がましだった。できれば、荒野で死んでいればよかった・・・。

 それで主は怒られイスラエルを滅ぼそうとしましたが、モーセの必死のとりなしによって赦しを請うことができたものの、このように十度も主を試みたということで、彼らは約束の地に入ることはできない、と宣言されたのです。彼らがその地を巡った一日を一年として、四十年間荒野をさまようになると言われたのです。これが、彼らが神の安息に入れなかった決定的な原因でした。つまり、彼らは不信仰だったので、安息の地に入れなかったのです。 

 しかし、こうした不信仰の中でも主に信頼し、それとは違った応答をした人たちがいました。ヨシュアとカレブです。彼らは他の10人と全く同じものを見たにもかかわらず、その応答は正反対でした。彼らはこう言いました。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(民数記13:30) そこはすばらしいところで、神が自分たちに与えてくださると約束してくださったところですから、神は絶対に与えてくださいます。ぜひとも上っていきましょう、と言ったのです。 

 皆さん、この違いは何でしょうか。信仰です。現状がどうであれ、ヨシュアとカレブは神の約束を信じていたのでそのように受け止めることができました。神の安息に入るには、信仰がなければならないのです。 

 私はかつて福島の教会で会堂建設に取り組んだことがあります。教会は土地代を献金して建物の建築費は銀行から融資を受けようと計画したのですが、銀行から受けられる融資の額は私たちが予定していた額よりも一千万円低い金額でした。教会には若者が多く、お金を持っている人などほとんどいなかったので、これが銀行で融資できる精一杯の金額ですと言われたのです。それで私たちは礼拝後にみんなで集まってどうしようかと話し合いました。銀行で貸してくれないというのだから当初予定していた建物の規模を小さくしようと話がまとまったとき、一人の女性が「はい」と手を上げたのです。その方はご主人の仕事の関係で北海道から引っ越してきたばかりの韓国人の姉妹で、私たちの教会には2~3回しか参加していませんでした。その方が手をあげてこう言われたのです。「日本人はいつでも小さく考えますが、それが神様のみこころだったら神様は与えてくださるのではないでしょうか。」一瞬、みんなの顔が凍り付いたのがわかりました。それは私も同じでした。ここ数年土地代をささげるためにどれほど大変だったかを知っていたので、さらに一千万円をささげることは人間的には困難であることをだれもが感じていたのです。でも、神のみこころなら与えられるというのは正しいことなので、一年後までに与えられるように祈りましょう、ということになりました。               それから2,3か月経った頃のことです。東北電力から電話があり、教会の前の車のタイヤを作る工場で電気を引きたいので鉄塔を立てるのですが電線がちょうど教会の土地の一部に引っかかるので許可をいただきたいと言って来たのです。その工場には地域の多くの方が働いていたので「だめです」なんて言えなかったので「いいですよ」というと、それじゃ線下保証金といって、そのために土地の評価が低くなってしまうので、その保証のためのお金を支払いますと、約六百万円が与えられたのです。そしてあの話し合いからちょうど一年後の1998年9月末にささげられた金額は999万円だったのです。私は信じられないというかうれしさと驚きとともに主に感謝しました。そして、ポケットに手を入れたらちょうど1万円があったのでそれをささげることができ、必要が完全に満たされたのです。       あの姉妹が言ったとおり、神は私たちの必要を満たしてくださったのです。あのときもし信じなかったら、今の会堂はなかったでしょう。それが私たちにとってどんなに難しいことでも、神にとって大きすぎることはありません。神様は全能者であって、どんなことでもおできになる方なのです。ただそれが神のみこころなのかどうかということが重要なことであり、それが神のみこころなら、信じなければならないのです。 

 皆さん、信仰とは何でしょうか。ヘブル11章1節にはこうあります。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものなのです。目に見えるものを信じることは信仰ではありません。目に見えないことでもそれが神の約束してくださったことなら、それは必ず与えられると信じること、それが信仰なのです。ヨシュアとカレブは神の約束のことばを信じました。だから、彼らは約束のものを受けることができたのです。しかし、信じなかった人たちは受けることができませんでした。神の安息に入ることができなかったのです。 

 ですから、どうか信じない者にならないで、信じる者になってください。キリストのことばを聞いて、それを信じて受け入れ、そのことばに従って生きる者でありますように。きょう、あなたも神のことばを聞きました。あとは信じるだけです。信じて従うだけなのです。私たちの人生は荒野かもしれません。しかし、それがどんな荒野であっても、最初の確信を終わりまでしっかりと保ちさえすれば、あなたもキリストにあずかる者となるのです。神の安息に入ることができるのです。だから、心をかたくなにして、御怒りを引き起こしたときのようになってはいけません。きょう、もし御声を聞くならば、そのことばを信じて、そのことばに従って歩み続けていきましょう。