きょうは、申命記6章から学びます。モーセは前の章から、イスラエルが約束の地に渡って行って、そこで彼らが行うためのおきてと定めを語っています。6章はその続きです。
1.聞きなさい。イスラエル(1-9)
まず、1節から9節までをご覧ください。
「これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令・・おきてと定め・・である。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、行なうためである。それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。
イスラエルが約束の地を所有してから、そこで、主が命令したおきてと定めと行うのは、彼らが一生の間、主を恐れて生き、長く生きることができるためです。それは彼らだけではありません。モーセも、また彼らの子も孫も、であります。主のおきてと定めは、後の世代の者たちに新しい啓示として語られることはなく、すでにモーセに与えられた神の律法によって生きることです。彼らはこれを子々孫々に伝えていかなければなりませんでした。
それは私たちも同じです。初代教会の信者たちは、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、祈りをしていました(使徒2:42)。彼らは使徒たちによって教えられた教え、それは元々主によって教えられたことでありますが、それを堅く守らなければなりませんでした。
パウロ自身も手紙の中でこう言っています。「兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、また手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」(Ⅱテサロニケ2:15)彼らはパウロのことば、使徒たちの教えを堅く守ることが求められたのです。ですから、私たちはこの使徒たちの教えに従っている者であり、イエス・キリストの福音の真理を継承している者たちなのです。何か新しい啓示が与えられたとか、今まで聞いたことがない魅力的な教えを聞いたというような、当時のアテネの人たちのように、新しいものを追い求めているクリスチャンがいますが、そのような新しいものはありません。聖書は既に完結しているのです。私たちはそこから神の真理を再発見し、その喜びの中で生きていかなければならないのです。私たちの役割は、ただ、神が語られた真理を継承させていくことだけです。
では、神が語られた真理とは何でしょうか。神のおきてと定めとは何でしょうか。4節と5節をご覧ください。
「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
この「聞きなさい」という言葉は申命記においてのキーワードであるということはお話しました。これは、「シェマ–」と呼ばれているもので、ユダヤ人の信仰の柱になっている御言葉です。それは、主はただひとりであるということ、そしてこの主を心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛するということです。
まず、「主は私たちの神。主はただひとりである。」ということですが、これは、ユダヤ人が迫害されても、殺されても、決してゆずらなかった信仰です。唯一神の信仰ですね。主はただひとりであるということです。しかし、私たちが信じている神は一つは一つですが、その一つの神は三つの人格を持っておられる神であって、それが一つである神、三位一体の神です。それが聖書全体を貫いている教えです。それは、たとえば創世記1章1節や、1章26節をみればわかります。ではこの箇所はどうなのでしょうか。実は、ここも同じなのです。「主は私たちの神」の「神」は「エロヒーム」という複数形が使われているのです。そして、「ただひとり」という言葉も「エカド」という言葉ですが、これは複合単数形が使われているのです。複合単数形というのは、例えば「一本の手」と言うときに、手には5本の指がありますが、複合的に一つにされているわけです。そのような時に使われるのが複合単数形です。それは創世記1章1節と同じです。「初めに、神が天と地を創造された。」の「神」は複数形ですが、「創造された」は複合単数形です。ここと同じです。複数なのですが単数であめことを表しているわけです。つまり、これも三位一体を表していることばなのです。
次に、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という言葉ですが、これは、前回学んだ十戒の要約です。イエス様は、ある律法の専門家から、律法の中で、大切ないましめはどれですか、と質問されたとき、この戒めを語られました(マタイ22:38)。もし主を愛するなら、主のおきてと定めに喜んで応答したいと思うでしょう。それはもう戒めではありません。愛と恵みの言葉以外の何ものでもありません。だから、神を愛すること、これが第一の戒めであり、
律法全体の要約なのです。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛するという第二の戒めも大切です。律法全体と預言者とが、この二つにかかっているのです。
それゆえ、私たちはこの主が命じる命令を心に刻まなければなりません。また、子どもたちによく教え、家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、これを唱えなければなりません。このことばを忘れないように、手に結び付け、記章として額の上に置かなければなりません。また、家の門柱と門に書きしるさなければならないのです。ユダヤ人は、これを文字通り実践しました。ですから、皆さんもご覧になられたことがあるでしょう。ユダヤ人の額にマッチ箱ほどの大きさの箱をくくりつけている写真を・・。それはこの箇所を忘れないようにと、額の上に置いたのです。
これは、パウロのことばでいえば、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」ことです。(コロサイ3:16)。イスラエル人はそれを忘れないようにあらゆることをしました。特に、彼らは、外側で主のみことばを刻みましたが、私たちはこれを、心に住まわせなければならないのです。エレミヤ31:3には、「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」とあります。また、使徒ヨハネは、「あなたがたの場合、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それでだれからも教えを受ける必要がありません。」(Ⅰヨハネ2:27)」と言いました。ですから、聖霊ご自身が、神のみことばによって私たちに語りかけてくださるので、形式的にみことばを刻む必要はありません。聖霊ご自身がそのことばを解き明かしてくださるようにしていただくことが大切です。しかし、こうしたことのためにもみことばを心に刻むという努力は求められているのです。それが聖霊の油を注がれているクリスチャンのあり方なのです。
2.あなたは気を付けて(10-19)
次に10節から19節までをご覧ください。
「あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる。」
次にモーセは、イスラエルが約束の地に入って行ったときに、陥りやすい過ちについて語っています。それは何でしょうか。12節をご覧ください。それは、「あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい」ということです。彼らが約束の地に入っていくとき、そこで多くの祝福を受けます。すべての良い物で満たされるのです。そのような祝福にあずかることはすばらしいことですが、そこに一つの危険もあるのです。それは、主を忘れてしまうということです。自分がどのようなところから救われてここまで来たのかを忘れ、あたかもそれを自分の力で成し得たかのような錯覚を抱き、自分で豊かになった、自分の行ないでこれだけのことができている、また自分はこのような祝福を受けるのに値するものだ、と思い違いをしやすいのです。そのような危険性があります。
かつて日本にも多くの救われた人たちがいました。フランシスコ・ザビエルが最初に日本にキリスト教を宣教したとき、明治維新によって新しい国が作られたとき、そして、戦後、敗戦の貧しさと苦しみの中で人々が真の幸福とは何か、人生の目的は何なのかを求めて教会にやって来た時です。ある教会の記録によると人々は波が押し寄せるかのように教会にやって来たとあります。どの教会も人、人、人で満ちあふれていました。入り切れないほどの人がやって来たのです。
ところが、高度経済成長を経て日本が豊かになると、今度は波が引くように、教会から人々が去って行ったとあります。いったい何が問題だったのでしょうか。いろいろな問題が複雑に絡み合っているためこれが問題だとは言い切れないところはありますが、その一つの要因がこれなのです。豊かになった。もう神に頼る必要がなくなったのです。人はどちらかというと物質的に豊かになると、それに反比例して霊的に貧しくなってしまいます。神への飢え渇きが起こりづらくなるのです。別に神に頼らなくてもやっていける、わざわざ教会に行く必要を感じないのです。それはまさに主がラオデキヤの教会に書き送ったことではないでしょうか。
黙示録3:14-22のところで、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らないラオデキヤの教会の人たちに、主は、目が見えるようになるために、目に塗る目薬を買いなさい、と言われました。熱くもなく、冷たくもない信仰ではなく、厚いか、冷たいかであってほしいというのです。なまぬるいものは吐き出すとまで言うのです。
これはいつの時代でも同じです。人は豊かになると主を忘れてしまうという過ちに陥りやすくなるのです。だから、気を付けなければなりません。あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなければならないのです。ただ主を恐れなければなりません。主に仕え、御名によって誓わなければならないのです。ほかの神々、神以外のものに仕えてはなりません。
なぜですか?なぜなら、主は、ねたむ神であられるからです。主を忘れ、主以外のものに走っていくなら、主はあなたをねたみ、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の表から根絶やしにされるのです。何ですか、ねたむというのは?皆さん、私たちの神はねたむ神なのです。それはちょうど夫婦のようです。夫婦であれば、一方が他の対象に向かっていけばねたみます。それは愛しているからです。相手がどうでもよければそのような感情は起こらないでしょうが、愛によって結ばれた夫婦ならば、それは当然にして起こってくる感情なんのです。神とイスラエルの関係も同じです。神は彼らをエジプトの奴隷の中から救い出されたお方で、神の民とされたのです。にもかかわらず、彼らが別の神に走って行くことがあるとしたら、そこには当然妬みが起こるのではないでしょうか。それはイスラエルだけでなく、私たちにも言えることです。私たちも主の愛によって罪という奴隷から救われました。主イエスの十字架の贖いによって買い戻されました。私たちは主のものなのです。そんな私たちが主から離れることがあるとしたら、どれほど主が悲しまれることでしょうか。
だから、主が命じられた教えとさとしを忠実に守らなければならないのです。彼らがマサで主を試みたように、主を試みてはならないのです。マサで試みとは、水がなく、主につぶやいたときの試みです。モーセが岩を杖でたたいたことによって水が出てきました。祝福が主を忘れさせてしまうように、試練も主を忘れさせてしまいます。試練の中にいるとき、私たちは苦々しくなって、不平を鳴らしてしまうからです。しかし、そうであってはならないとモーセは戒めています。
3.あなたの息子が尋ねるとき(20-25)
次に20節から25節までをご覧ください。
「後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、主が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか。」と言うなら、あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。主は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ない、私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちをはいらせて、その地を私たちに与えるためであった。それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。」
ここでモーセは再び、子どもに教えることを命じています。子どもは、いろいろな場面で親に質問します。「なんで?」。昨日も孫が泊まりました、その話が止まりませんでした。「グランパ、これ何?」「あれは?」次から次に質問が出てきます。そして、もう大きくなると、おそらくこういう質問が出てくるでしょう。「主が命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか・・?」そのとき、どう答えたらいいのでしょうか。
そして、そのときにはまず、イスラエルの先祖がどういう状態であったかを話さなければなりません。すなわち、彼らはエジプトで奴隷の状態であったということです。しかし、そのような状態から、主が力強い御手をもって、彼らをエジプトから連れ出されました。どのような御手があったのでしょうか。主は彼らの目の前で、エジプトに対して、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ってくださいました。そのようにして、彼らを先祖たちに誓われた地へと導いてくださったのです。それは、私たちがこのおきてを守り、いつまでも主を恐れるためです。そして、今日のように、いつまでも自分たちが幸せに、生きるためなのです。だから、主が命じられた命令を守り行うことは、私たちの義となるのです。イスラエルにとって出エジプトが、彼らの新しい生活の出発点であったのです。そして、それをいつまでも忘れないために、彼らは過ぎ越しの祭りを行います。ただ口伝で伝えるだけではありません。それがどのようなものであったのかを、いつも体験として覚えようと努めたのです。
それは私たちも同じです。キリストの十字架と復活のみわざからすべてが始まります。そのことを忘れないように聖餐式を行うのです。そして、それをただ忘れないというだけでなく、私たちにはさらにこれを宣べ伝えていくという使命がゆだねられています。その起点となるのがイエス・キリストの十字架の贖いであり、十字架と復活によって成し遂げられた救いの御業なのです。自分たちがいかに罪の中にあえいでいた者であったのか、しかし、そのような中から神が救い出してくださいました。圧倒的なしるしと不思議をもって導き出してくださいました。そのことを伝えていかなければならないのです。
きょうは今年最後の祈祷会なりましたが、この一年の終わりもキリストの十字架の贖いの恵みにとどまり、新しい年もこの恵みで始まっていく者でありたいと思います。