ヘブル5章1~4節 「聖なる祭司として生きる」

 新年おめでとうございます。この新しい一年も、皆さまの上に主の恵みと祝福を祈ります。この新年の礼拝に私たちに与えられているみことばは、ヘブル人への手紙5章1節からの4節までのみことばであります。このみことばから、聖なる祭司として生きるというタイトルでお話したいと思います。

 

 このヘブル書の手紙は4章14節から「大祭司」をテーマに話が展開されています。大祭司とは神と人との仲介者のことで、人々に代わって神にとりなしをする人のことです。私たちの主イエスはこの偉大な大祭司であるということが、10章の終わりまで続きます。いわばこのヘブル書の中心的な主題の一つでもあるわけです。なぜ大祭司なのか?それは、大祭司こそ旧約聖書において人々の罪を贖う働きをした人物だったからです。その大祭司と比較して、キリストはもっとすぐれた偉大な大祭司であるということを、ここで証明しようとしているのです。なぜかというと、この手紙はユダヤ教から回心したクリスチャンに宛てて書かれましたが、彼らはイエスをキリスト、救い主として信じることができたのは良かったけれども、そのことでかつてのユダヤ教の人たちから激しい迫害を受けたとき、「こんなはずじゃなかった」「こんなことなら信じなければよかった」と、以前の生活に戻ろうとする人たちがいたからです。そういう人たちに対して、イエス・キリストがいかに優れた方であるかを証明することで、この福音にしっかりととどまるようにと励まそうとしたのです。そして、前回の箇所では、このキリストがいかに偉大な大祭司であるかが述べられましたが、きょうの箇所には、その大祭司になるためにはどのような資格が必要なのか、その資格について駆られています。

 

 Ⅰ.人々の中から選ばれた者(1)

 

 まず1節をご覧ください。

「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえをささげるためです。」

 

 ここには、大祭司はみな、人々の中から選ばれ、とあります。大祭司であるための第一の条件は、人々の中から選ばれた者でなければならないということです。あたり前じゃないですか、他にどこから選ばれるというのでしょうか?しかし、このあたり前のことが重要なのです。すなわち、大祭司は人々の中から選ばれなければならないのであって、それ以外の者ではだめなのです。なぜでしょうか。それは、大祭司は人々に代わって神に仕える者、神にとりなす者ですから、人々の気持ちを十分理解することができなければならなかったからです。人でなければ人の気持ちを理解することはできません。人以外のもの、例えば今年は猿年だそうですが、どんなに去るが人間のような顔をしていても、猿では人人の気持ちを理解することはできません。人以外のものは人の気持ちを理解することはできないのです。ですから、大祭司は人々の中から選ばれなければならなかったのです。

 

それは最初の大祭司としてアロンが選ばれたことからもわかります。出エジプト記28章1節を見ると、イスラエルの最初の大祭司はモーセではなく、モーセの兄アロンでした。

「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせなさい。」

 いったいなぜモーセではなかったのでしょうか。それはアロンがお兄さんだったからではありません。モーセよりもアロンの方が大祭司としてふさわしい人物だったからなのです。どのようにふさわしい人物だったかというと、アロンはイスラエルの人々の中で生まれ育ったので、イスラエルの人々の気持ちをよく理解することができました。しかし、モーセは違います。モーセはアロンと同じ両親の下で生まれましたが、モーセが生まれたときエジプトの王パロはイスラエルが多産なのを見て、いざ戦いになった時に、敵側について自分たちと戦うのではないかと恐れ、生まれたばかりの男の赤ちゃん殺すように命じていたので、本当は殺される運命にありました。しかし、モーセのお母さんはそんな惨いことなどできなとずっとかくしていたのですが隠し切れなくなったので、ある日パピルス製のかごに入れナイル川の岸の葦の茂みの中に置いたのです。するとどうでしょう。何とパロの娘が水浴びに来ていて見つけたので、彼はパロの娘に引き取られ、王女の息子として王宮で育てられたのです。

 

 ですから、モーセは確かにアロンと同じ両親の下に生まれましたが、イスラエルの民の生活からは離れて育ったので、彼らの気持ちをよく理解することができませんでした。彼らの気持ちを理解することができたのは彼らの中で生まれ育ち、彼らの気持ちを十分理解することができたアロンだったのです。だからアロンが大祭司として任命されたのです。モーセはイスラエルの偉大な指導者でしたが、大祭司になることはできませんでした。

 

それは、私たちの大祭司であられるイエス様も同じです。ヨハネの福音書1章14節には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。ことばであるイエスさまが人として生まれてくださいました。なぜでしょうか。私たちと同じようになるためです。私たちの間に住み、私たちの悩みを知り、私たちの弱さを十分理解するためです。

 

ヘブル4章15節にはこうあります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

私たちの大祭司であられるイエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。なぜなら、私たちと同じようになられたからです。私たちと同じように試みに会われました。私たちと同じように胎児としてお母さんのお腹の中に宿り、赤ちゃんとして生まれ、幼児としても、少年としても、青年としても、大人としても歩まれました。イエス様は私たちが通るすべてのライフステージを通られたのです。だから、私たちの弱さに同情することができるのです。それが人々の中から選ばれなければならないという意味です。イエスは、罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように試みにあわれたので、あなたのことを十分思いやることができるだけでなく、あなたに代わって神にとりなしをすることがおできになるのです。

 

 Ⅱ.人々を思いやることができる者(2-3)

 

 大祭司になるための第二の条件は、人々を思いやることができるということです。2節と3節をご覧ください。

「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません」

 

 大祭司は、自分自身も弱さをまとっています。決して完全なわけではありません。もう絶対に罪を犯さない者になったというわけではないのです。しかし、そのような弱さを身にまとっているからこそ、そうした弱さのゆえに、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。

 

 この無知で迷っている人々とは誰のことでしょうか。それはイエスを知らない人々のこと、つまり、ノンクリスチャンたちのことを指しています。なぜなら、ローマ1章21節に、「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」とあるからです。神を神としてあがめることをしないと、不平や不満で満たされるので、だんだん暗くなっていきます。感謝することができません。これが神を知らない人たちの特徴です。

 

それは、救われる前の私たちの姿でもあります。私たちもみな、かつては罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。15,16,17と、私の人生暗かった・・・のです。どうすりゃいいのかわからない、夢は夜開く・・でした。だからこそ、そうした人の気持ちをよく理解することができるのです。

 

ところで、この「思いやる」という言葉ですが、これは単に「相手の身になって思いやる」ということだけでなく、相手の怒りなどの激しい感情をやわらげるという意味で使われています。詳訳聖書といってもう少し詳しく訳された聖書があるのですが、それによると、「やさしく(忍耐深く)取り扱う」と訳されています。つまり大祭司は、まだイエスを知らない人たちの激しい怒りの感情をやわらげて、彼らを柔和に取り扱うことが求められているのです。ノンクリスチャンに対して激怒したり、ブチ切れてはいけません。むしろ、柔和で、穏やかな心で、やさしく、忍耐深くなければならないのです。それは自分自身も弱さをまとっているからです。自分自身も弱さをまとっているので、その弱さのゆえに、そのように無知で迷っている人々に対してもやさしく、忍耐強く接していかなければならないのです。

 

しかし、それは無知で迷っている人々に対してだけでなく、クリスチャンに対しても言えることです。ガラテヤ6章1~4節にはこうあります。

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」

 

 これはクリスチャンに宛てて言われていることです。兄弟たちよ、もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなければなりません。私たちは教会の中に肉的な人がいるとついついさばきたくなる傾向があります。しかしそうではなく、柔和な心でその人を正してあげなければなりません。なぜなら、自分自身にも弱さがあるからです。そのようにさばきたくなるのは、その人がある一つの事実を見失っているからなのです。すなわち、自分自身も弱さをまとっているということです。自分自身もその人と何ら変わらない弱い人間であるという自覚です。自分も同じような境遇に置かれていたら、きっと同じようなことをしたに違いないと思うと、そのように人をさばくことなんてできなくなるはずです。むしろ、柔和な心でその人を正してあげるようになるでしょう。

 

 実は、私は昨日から入院しておりまして、きょうは病院から外泊許可をいただいてここに立っています。以前から懸念されていた胆石の治療で、この正月の時期は一番時間的に余裕があると思い、明日、手術を受けることになっています。結婚して32年間一度も入院したことがなく、周囲からはいかにも元気そうに見られている私が入院することは、少し恥ずかしいこともあってあまり人には言いたくないと思っていたのですが、実際に入院してみてわかったことは、自分の本当に弱い人間なんだなぁということです。そういう弱さを抱えているということです。このように病気になって入院してみて、病気で苦しんでいる人たちの気持ちがよく理解できるようになったような気がします。それは霊的にも同じで、私たちは決して完全な者ではなく、自分自身も弱さを身にまとっているので、同じような弱さを持っている人々を思いやることができるのです。神の祭司としてその務めを果たしていくために、私たちいつもこのような謙虚な気持ちを忘れない者でありたいと思います。

 

  Ⅲ.神に召された者(4)

 

 大祭司であるための第三の条件は、神に召された者であるということです。4節をご覧ください。

「まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。」

 

イスラエルの最初の大祭司アロンは、自己推薦をして大祭司になったのではありません。また、自分でなりたくてなったのでもないのです。神がアロンを選び、彼を任命したのです。そうです、大祭司は神によって任命された人しかなることはできないのです。同様に、私たちが祭司として立てられたのも私たちがそうしたいからではなく、神によってそのように召されたからなのです。私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。教会に来ていれば自動的に救われるのかというとそうではなく、神が聖霊を通してその人に働いてくださり、その人が受け入れることができるようにと心を開かせてくださったので信じることができたのです。自分で信じようとがんばったから信じることができたわけではないのです。救いは神の一方的な恵みによるのです。それが私たちの救いないのです。イエスさまはこう言われました。

 

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

 

あなたがたがイエス様を選んだのではありません。イエス様があなたがたを選び、任命したのです。それはあなたがたが行って、実を結び、そのあなたがたの実が残るためです。私たちは、永遠の神のご計画によって救われるようにと、神によって召された者なのです。そのようにして神の祭司となったのです。

 

私はよく、「牧師として一番大切だと思うことは何ですか」と聞かれることがありますが、そのとき迷わず答えることは、それは「召し」であるということです。召しといっても食べる飯ではありません。そのように選ばれた者であるということ、そのように召された者であるということです。

それが牧師としての自分の働きを根底から支えているものです。そうでなかったら、どうやって続けることができるでしょうか。できません。自分もそうですが、多くの牧師が悩むことは、自分は牧師には向いていないのではないかということです。でも自分が牧師に向いているかどうなんて関係ないのです。大切なのは、そのように召されているかどうかであって、そのように召されているのであれば、召してくださった方に対して忠実に仕えて行くこと、それが求められているのではないでしょうか。

 

それは牧師に限らず、すべてのクリスチャンに言えることです。あなたがそうなりたいかなりたくないかと関係なく、主がそのようにて召してくださいました。であれば、その召してくださった方に対して忠実に仕えていくことが求められているのではないでしょうか。

 

さて、これまで大祭司の条件について見てきましたが、最後に、この大祭司とはいったいだれのことを指しているのかを考えていみたいと思います。Ⅰペテロ2章9節をご覧ください。ここには、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあります。ここには、私たちクリスチャンはみな神の祭司であると言われています。それは、私たちを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、私たちが宣べ伝えるためです。私たちにはそのような務めがゆだねられているのです。私たちは神の祭司として人々のために祈り、とりなしていかなければなりません。まだ救われていない人たちを、神へのいけにえとしてささげていかなければならないのです。そのような者として、私たちは人々の中から選ばれ、無知な迷っている人々を十分に思いやり、神によってこの務めに任じられているという自覚をもって、この務めを全うさせていただきたいと願うものであります。この務めを全うする神の祭司である私たちの上に、神の助けと励ましが豊かにありますように。