ヘブル5章11~14節 「成熟を目ざして進もうⅠ」

ハレルヤ!きょうも、神のみことばから共に恵みを分かち合いたいと思います。きょうのみことばは、ヘブル人への手紙5章11節から14節までのみことばです。

このへブル書の著者は、前回のまでのところで、キリストがいかに偉大な大祭司であられるかを語ってきました。それはメルキデゼクの位に等しい大祭司であるということでした。メルキデゼクについては7章で詳しく学ぶのでここではあまり触れませんが、大祭司アロンとは比較にならないほど偉大な大祭司であることが語られました。そのキリストが、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そして、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは神の御子であられる方なのに、そのお受けになられた多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされました。それゆえに結論は何かというと、彼に従うすべての人に対して、とこしえの救いを与える者となられたということでした。ハレルヤ!何とすばらしいことでしょう。何とすばらしい救い主を私たちは持っているのでしょう。辛いとき、困った時、あなたはどこに救いを求めますか。キリストはあなたの救い主です。あなたをとこしえに救うことがおできになるのです。本当に感謝ですね。

 

ところで、きょうの箇所を見ると、話の内容がガラッと変わります。11節、「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。」

 

どういうことでしょうか。これを聞いていた読者の中に何のことを言っているのかさっぱりわからなかった人たちがいたのです。私たちもよくあるでしょう。牧師さんが一生懸命お説教していても、何を言っていることがさっぱりわからないということが・・。ただ言葉だけが頭の中を駆け巡っているだけということがあるのです。ピンとこない。安心してください。それは皆さんだけではありせん。当時の人たちも同じでした。言っていることがわかりませんでした。当時の人たちは旧約聖書のことについてはある程度知っていましたが、そういう人たちでさえわからなかったというのですから、私たちがわかなくないのも自然なことです。だから、聖書の話を聞いてもわからないとがっかりしないでください。忍耐して聞き続けていくうちに必ずわかるようになりますから。そもそも聖書が難しいというのはその内容が難しいということもありますが、それよりもそれがどういうことなのかを体験するのが難しいのです。

 

きょうはそのために必要なことを三つお話したいと思います。きょうはそのパートⅠです。このテーマは6章12節まで続きますから、これを二回に分けて学びたいと思います。そしてきょうは午後から「信仰生活ステッ・アップ」という学びもありますから、このテーマについては全部で3回に分けて学びたいと思います。

 

Ⅰ.耳が鈍くなっている(11)

 

まず11節をご覧ください。ここには、「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。」とあります。

 

「この方について」とは、まことの大祭司であられるイエス・キリストについてということです。「この方について」この手紙の著者は話すべきことがたくさんありますが、それを説き明かすこと、説明することは困難だと言っていす。なぜなら、彼らの耳が鈍くなっていたからです。耳が鈍くなっているとはどういうことでしょうか。年をとればおのずと耳が聞こえづらくなるものですが、ここで言っていることはそうした耳が聞こえづらくなったということではなく、霊的な面での鈍くなっているとうことです。若い時にはみことばを聞いて素直に信じることができたのに、だんだん年をとるうちに聞けなくなっているというのです。若い時は耳が柔らかく、音楽でも、英語の発音でも、微妙な音の違いを聞き分けることができたのに、年をとるにつれていつしか耳が硬くなって、聞き分けることが困難になる、つまり、鈍くなるということがあるのです。

 

私はよく娘に、「お父さん、ピアノの音だけど、調律してもらった方がいいと思うよ。ずいぶん狂ってる。」と言われることがあります。「へぇ、どこが狂ってるの?ちゃんと出てるじゃない。」と言うのですが、どうも違うらしいのです。私にはその微妙な音を聞き分けることができません。

 

私の家では小さい時からこどもには英語で話しました。とは言っても家内だけですが・・。私もこどもにはできるだけ英語で話せるようになってほしいと思って始めは英語で話していたのですが、ある時アメリカから家内の両親が来日して、二番目の娘の英語の発音を聞いてびっくりしました。娘の発音が私の発音にそっくりだったからです。それはまずいと、それ以来私は家の中では英語を話すことは止めました。私にとっては正しく発音しているつもりなのですが、家内が聞くと全然違うらしいのです。しかし、小さな子供の耳ってすごいんですね。それをちゃんと聞き分けることができます。耳が柔らかいからです。微妙な音の違いを聞き分けることができるのです。

 

ところで、この「耳が鈍くなっている」という言葉ですが、これは「怠慢な」とか、「鈍い」という意味の「ノースロイ」という言葉が使われていて、意味は「心がふさがっている」という意味です。ですから、現代訳では、「あなたがたの心がふさがってしまっている」と訳されているのです。つまり、この「あなたがたの耳が鈍くなっているというのは、歳をとって耳が硬くなっているということではなく、折角イエス様を信じて救われたのに、そのすばらしいイエス様を求めるよりも他のことで心が一杯になっていることです。

イエス様は種まきのたとえを話されました。ある人が種を巻きました。蒔いていると、ある種は道ばたに、また別の種は土の薄い岩地に、また別の種はいばらの中に、もう一つの種は良い地に落ちました。それぞれの場所に落ちた種はどうなったでしょうか。道ばたに落ちた種は、鳥が来て食べてしまいました。土の薄い岩地に落ちた種はどうでしょう。土が深くなかったので、すぐに芽を出しましたが、日が上ると、焼けて枯れてしまいました。根が張っていなかったからです。ではいばらの中に落ちた種はどうなったでしょうか。いばらの中に落ちた種は芽を出し、順調に生長していきましたが、あるところまで生長していくといばらが伸びてふさいでしまったので、それ以上は伸びることができませんでした。しかし、良い地に落ちた種は生長し、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだのです。

 

耳が鈍いというのは、ここで言われている良い地以外の地に蒔かれた種のことです。種は同じでも、それがどこに蒔かれるかによってその結果が全く違ってくるのです。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、そういう人はほんとうに多くの実び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。しかし、御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って生きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また、岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまうのです。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいや富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結びません。つまり、確かにみことばを聞きますが、どのような心で聞くかが重要なのです。折角、みことばを聞いても自分には関係ない話だと思うなら、折角聞いたみことばも鳥が来て食べてしまうことになるでしょう。また、最初はいい話だなぁと思って聞いていても、それがどういうことなのかを悟ろうとしないと、生活の中に迫害や困難がやってくると、枯れてしまうことになります。また、これはすばらしい話だと信じても、この世の心づかいや富の惑わしがみことばをふさぐと、実を結ぶことができません。実を結ぶ種は良い地に蒔かれた種です。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞くとそれを受け入れ、悟り、このみことばに生きるのです。

 

ここが肝心です。どの畑も確かにみことばを聞くのです。しかし、その聞き方によって結果が違うということです。みことばを聞いても悟らないと、実を結ぶことはできません。神の御国のすばらしさを味わうことができないのです。

 

イエス様はおもしろい話をされました。それは、天の御国は、畑に隠された宝のようなものだという話です。その宝を見つけた人はどうするでしょうか。皆さんだったらどうしますか。その人は大喜びで家に帰り、持ち物全部を売り払ってその畑を買います。なぜなら、その宝にはそれほどの価値があることを知っているからです。まあ、俗的な言い方になるかもしれませんが、皆さんの隣の土地が売りに出されていて、そこに数億円もする金塊が埋まっていることがわかったら、そこがたとえかなり高額な土地であっても、何とかしてその土地を買い求めるでしょう。それは何倍もの価値があるからです。神の国にはそれほどの価値があるのです。あなたは聖書にそれほどの価値を見出しているでしょうか。イエス・キリストにあるすばらしいいのちにその価値を見出しておられるでしょうか。もしかすると他のサークル活動の一部であるかのようにとらえてはいないでしょうか。あなたがどのように受け入れるかによってその結果が決まります。どうか鈍くならないでください。この霊的世界のすばらしさにしっかりと目を留めていただきたいのです。そして、良い地に蒔かれた種のように、何倍もの実を結んでいただきたいのです。

 

新聖歌428番には、「キリストには代えられ」という賛美歌があります。

「キリストには変えられません。世の宝もまた富も この御方でわたしに代わって死んだゆえです。世の楽しみを去れ 世の誉れを行け

キリストには変えられません。世の何物も」

作詞家のRHEA F.MILLER は、どんな気持ちでこれを書いたのでしょう。きっと、キリストに優る恵みはないという思いで書いたかもしれません。その恵みの数々を活の中で味わっていたのだと思います。

 

それは私たちも同じです。確かなことは、あなたも神のみことばを聞いたということです。確かに聞いたのです。しかし、そのみことばにどのように応答するかはあなたの信仰の決断にかかっているのです。どうか鈍くならないでください。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。とパウロは言いました。私たちもそう告白しましょう。私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。主よ、私の心はあなたに向かっています。あなたの仰せになられることをみな行いたいと願います。主よ、あなたのうちに私をかくまってくださいと、柔らかな心で日々主に心を向ける者でありたいと願わされます。

 

Ⅱ.乳ばかり飲んでいる(12-13)

 

次に12節と13節をご覧ください。霊的幼子の第二の特長は、乳ばかり飲んでいるということです。

「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。」

 

ここでのキーワードは乳です。聖書には、神のみことばを乳飲み子のようにして飲むように勧められています。たとえば、Ⅰペテロ2:2には、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。救われたばかりのクリスチャンには、この純粋な、みことばの乳を慕い求めることは大切なことです。それによって成長し、救いを得ることができるからです。救われたばかりのクリスチャンがみことばの乳を飲まなかったらどうなってしまうでしょうか。栄養失調になって病気になってしまいます。ひどい場合は死に至ることもあります。それだけ、生まれたばかりの乳飲み子にとってみことばの乳を慕い求めることは重要なことなのです。また、お乳ばかりでなく手厚い世話も必要です。毎日おむつを交換したり、お風呂にいれて体を洗ってあげます。風邪などひかないようにお部屋もできるだけ適切な温度を保ちます。赤ちゃんが成長していくためにはこうしたお世話がどうしても必要なのです。

 

しかし、どうでしょう。もし20年経っても同じ状態だったとしたら、それは悲劇ではないでしょうか。もちろん身体に障害があってそのような生活を余儀なくされているというケースもありますが、一般的な成人は牛乳も飲みますが、バランスのとれた食事をとり、栄養の管理に努めます。もしそうしなかったとしたら、それは成人とは言えません。幼子なのです。

それは霊的にも同じで、クリスチャンも生まれたばかりの時にはミルクを飲んでたくさん栄養を受けますが、大人になるにつれてミルクばかりではなく堅い食べ物も食べて、健康な身体を維持するように努めます。

 

パウロは、コリントにいるクリスチャンに対して、彼らは霊的赤ん坊だと言いました。

「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。」(Ⅰコリント3:1-2)

 

なぜパウロはそのように言ったのでしょうか。なぜなら、彼らの間にねたみや争いがあったからです。なぜねたみや争いがあったのかというと、彼らが肉に属していたからです。ねたみや争いがあるとしたら、それは肉に属している証拠でした。それは、ノンクリスチャンと少しも変わりません。そういう人はもう何年も信仰に歩んでいても、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があったのです。キリストを信じて何年経つてもねたみや争いがあるというのはどうしてでしょうか。それは御霊に属しているからではなく、肉に属しているからです。それは知識の問題ではなく信仰の問題です。ここではそれを、「義の教えに通じていないと」と言っています。義の教えに通じていないのです。確かにイエス・キリストが救い主であることを知り、この方を自分の人生の主として受け入れたにもかかわらず、その神に自分を明け渡すことができないのです。まだ自分が中心で、神のことばに生きることができません。それが肉に属すると言われている人のことです。だから、ねたみや争いが生じるのです。いつまでも肉に属しているかのような歩みをするのです。

 

それはねたみや争いに限らず、たとえば、なかなか神に信頼することができないというのも同じです。いつも不安で、思い煩いから解放されないとか、すぐに人を傷つけるようなことを言ってしまったり、やったりしてしまう。私たちは不完全な者ですから、キリストを信じてもすぐにそのようなことをしてしまう弱さがありますが、ここで言う弱さとは本質的に違います。肉に属しているのか、それとも御霊に属しているのかということです。自分の思い通りにいかないとすぐに不平不満をぶちまけてしまうこともあります。みことばに生きることができないのです。そういう人は義の教えに通じてはいないのです。

 

この義の教えに通じていないというのは、現代訳を見ると、「神の御心についてのすばらしい教えを味わうことができない」と訳しています。神の御心についてのすばらしい教えを味わうことができないのです。聖書の中には神のすばらしい約束がたくさんあります。それなのに、そのすばらしい教えを体験することができないというのです。義の教えに通じていないからです。自分はもう何でもわかっていると誤解しているため、学ぶ必要はないし、どんなに聞いても、「あっ、それは前に聞いたことがある」とか、「あ、私はちゃんとやっている」というレベルに留まるため、それ以上、神の恵みを味わうことができないのです。

 

その体験というのは、いつも信仰によります。この書の11章には、信仰によって生きた人たちの証が紹介されていますが、その特徴は何かというと、信仰によって生きたということです。信仰について聞いたのではありません。信仰を体験したのです。

「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」(ヘブル11:7)

まだ全く雨が降らなかった時代、ノアは神から箱舟を作るようにと言われたとき、彼はそのことばに従って箱舟を作りました。神からそのように警告を受けたからです。だから、彼は神を畏れかしこんで、自分と家族のために箱舟を作り、その中に入って救われたのです。周りの人たちから見たらバカじゃないかと思われたでしょう。当時は天気予報があったかどうかわかりませんが、雨が降る気配は全くありませんでした。降ったとしてもそんなに大きな船を作っていったい何になるというのでしょう。でもノアは箱舟を作りました。なぜでしょうか。暇だったから・・。違います。ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、それを信じたからです。

 

皆さん、信仰とはこれです。信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(11:1)見えるものを信じることはだれにでもできます。大切なことは、まだ見ていないものを信じることです。信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものだからです。ノアはまだ見ていませんでしたが、神の言われたことばを信じたのです。それが信仰です。

 

ですから、信仰とは知識ではなくて体験なのです。もちろん、知識も大切ですが、そこに留まっているだけではだめなのです。神の御心を知ったら、それを行わなければなりません。それが信仰です。そこで私たちは神の御心についての教えを味わうことができるのです。そこにはワクワクするような神の不思議と恵みが溢れているのです。それを体験することができるのです。

 

もうすぐさくら市でも開拓がはじまりますが、ワクワクしますね。なぜなら、そこで神がどのようなことをしてくださるのかがとても楽しみだからです。いったいそこでどんなことが起こるのかわかりません。でも神様は必ずすばらしいことをしてくださいます。なぜなら、わたしたちはそう信じているからです。そう信じているから一歩踏み出したわけです。その信仰に主が答えてくださらないわけがありません。私たちはそこで必ず神の御業を味わうことができるのです。

 

かつて福島で教会堂建設に携わったときのことですが、教会堂を建てたくても土地が高くて広い土地を確保するのは困難でした。どうしようかと祈りながら、当時、まだ娘が小学校と幼稚園に通っていた時でしたが、毎朝市内の学校に送って行った後で、すぐ近くにあった信夫山の小高い丘に登り祈りました。「主よ。助けてください。ご存知のように、私たちには何もありません。でも小さな会堂は一杯になりもっと広い場所が必要です。主よ。どうか道を開いてください。」と祈っていたら、創世記26章のみことばが与えられたのです。

「イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い地を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」(創世記26:22)

「レホボテ」とは「広々とした所」という意味です。イサクは何度も井戸を掘りましたが、掘るたびにその地の住人と争いが起こったため、別の所に移動しなければなりませんでした。しかし、彼が三度目に掘った井戸は争いがなかったので、その名を「レホボテ」と呼んだのです。彼らがその地で増え広がるようにと、神は彼らに広い土地を与えてくださったのです。

私はこの箇所を呼んたとき、これは私たちに対する主の約束だと信じました。そして「レホボテ」「レホボテ」と叫びながらその場を何度も飛び跳ねたのを覚えています。それは人間的には全く考えられない事でした。けれども、神にとって不可能なことは一つもありません。そして神はその約束のとおりに、私たちに広い土地を与えてくださったのです。私にとって最もすばらしい経験は、この神の御心についての教えを味わうことができたことです。もし私たちが信仰をもって受け止めるなら、私たちはいつでもこのすばらしい神の御心を体験することができるのです。そして、神がどのような方なのかを体験を通してはっきりと知ることができるのです。

 

もうすぐさくら市での働きも始まりますが、これは何かというと、私たちがこのすばらしい神の恵みを体験し、神の御名の栄光をほめたたえる機会であるということです。水を汲む者は知っていた。イエス様が最初の奇跡としてカナの婚礼で水をぶどう酒に変えた時の奇跡です。だれがその恵みを体験したのでしょうか。水を汲む者は知っていたのです。ただ神のみことばに従って、神の御心を行う人は、このすばらしい神の御業を体験することができるのです。

 

Ⅲ.良い物と悪い物とを見分けることができない(14)

 

霊的幼子の第三の特長は、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練されていないということです。14節をご覧ください。

「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」

 

霊的に成熟している人のもう一つの特長は、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練されているということです。神のみことばは、ある意味で「堅い書物」だと言えるでしょう。一度読んでみて、「ああ、そういうことか」とすぐに理解できるほど易しい書物ではありません。特に、このヘブル人への手紙のように旧約聖書の背景をよく理解していない人にとってはチンプンカンプンかもしれません。そして、このような箇所を学ぶには忍耐も求められます。しかし、よく祈り、深く瞑想し、何度も何度も口のなかで噛みながら、咀嚼するなら、必ず理解できるようになり、霊的に成熟した者となることができるのです。そして、そのようにして霊的に養われますと、いつの間にか、「経験によって良い物と悪い物を見分ける感覚」が訓練されるのです。何が神のみこころで、何がそうでないのかを、識別できるようになるのです。ここにはイエス・キリストが偉大な大祭司であり、とこしえの救いを与える方であるということが、感動をもって伝わってくるのです。そのような成熟した者になることができたら、どんなに感謝なことでしょう。そのためにも私たちは、いつも成熟を目指して進まなければなりません。自分はもうわかっているから大丈夫だと思うことが問題です。そういう人こそ、耳が鈍くなっているからです。義の教えに通じていません。

 

たとえば、このようなみことばがあります。皆さんもよく知っているみことばです。それは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)です。

 

どうですか?これは易しい言葉です。だれでも理解できるでしょう。でも、いざこのみことばを実行しようと思ったらどうでしょうか。「いつも喜んでいなさい」とか、「絶えず祈りなさい。」「すべてのことについて感謝しなさい」と言われても、うれしい時には喜び、感謝できる事があれば感謝することができても、いつも、どんなことも喜び、感謝できるかというと、なかなかできるものではありません。そう思うと、自分がいかに霊的成熟を遂げていない者であるかがわかります。それなのに自分は成熟していると思っていることが問題なのです。だから私たちは主にこう申し上げましょう。

 

「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)

 

これは悪霊にとりつかれていた息子をいやしてもらおうとイエス様のところにやって来た父親が、イエス様に向かって発した言葉です。彼はイエス様を信じているつもりだったのに、信じていたからこそイエス様のもとにやって来たのに、「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と言ったのです。彼の信仰とその言葉にはある種のギャップがありました。イエス様は彼を助けることができると信じていたはずなのに、「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで助けてください。」と言ってしまいました。これは私たちの信仰に似ているのではないでしょうか。ついつい本音が出てしまったのです。口では信じていると言っていても、心の中では「無理だろうな」「できるはずがない」と思っているのです。経験によって良い物と悪い物とを見分ける訓練がされていないのです。すなわち、神の御心についてのすばらしい教えを本当の意味で味わっていないのです。なのに、私はもうわかっていると思いこんでいるのです。

 

わかっているようでわかっていない。私たちはそんな弱い者なのです。だから、今からでも遅くはありません。私は神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるほど幼い者なのだと認めて、謙虚に学び初めてください。

きょうはこの後で信仰生活ステップ・アップという学び会もあります。いきいきした信仰生活のために必要な3つのことを学ぼうと思っています。これにもぜひ出席してください。通り一遍等にこれらのことをするというのではなく、霊的成長に必要なこととして、もう一度誠心誠意これらのことから始めてみてはいかがでしょうか。霊的成長に近道はありません。コツコツと毎日やっていれば必ず成長し、成熟したクリスチャンになっていくでしょう。そのとき、すばらしい神の御心に関するすばらしい教えを本当の意味で味わい知ることができるのです。