ヘブル6章1~12節 「成熟を目ざして進もうⅡ」

今日のテーマは「成熟を目ざして進もうⅡ」です。実際には先週の午後にもこのテーマに関する学びがありましたので、3回目の学びとなります。このヘブル書の著者は、キリストこそ偉大な大祭司であり、メルキデゼクの位に等しい大祭司であるということをお話してきましたが、途中で話すのを止めてしまいました。なぜなら、彼らにはそのことについて聞く力がなかったからです。耳が鈍くなっていたので、話しても理解することが困難になっていたのです。耳が鈍くなっていると言っても、耳が聞こえづらくなったということではありません。心の耳がふさがっていたということです。だから、どんなに霊的な事柄を話しても理解することは困難だったのです。彼らに必要だったのは、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらうことでした。

 

そこで少しテーマを変えて、霊的にもっと敏感になりましょう、心を開いて神のことばを素直に聞きましょう、と言ったのです。生まれたばかりの乳飲み子のように純粋なみことばの乳を慕い求めることは大切なことですが、いつまでも乳ばかりではなく、少しずつ堅い食べ物も食べられるようにしなければなりません。そうすれば、義の教えに通じることができます。経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人になることができるのです。

 

聖書を見ると、私たちの心には三つの段階があることがわかります。第一に「幼心」です。パウロはコリントの教会への手紙の中でこのように言っています。

「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。」(Ⅰコリント3:1-2)

ここには、「キリストにある幼子」とありますね。ですから、私たちの中には幼子があるのです。これは救われたばかりの人のことです。聖書のことがあまりよくわからないけど、これからイエス様のような人になろうという人ですね。

 

それから第二に「大人」です。Ⅰコリント14:20には、「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」とあります。

 

そして第三に「親心」です。Ⅱコリント12:14にあります。「今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。しかし、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなた方の持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。」

 

私たちの中にはいつもこのような親心、大人心、子供心があって、このような心がいつも交錯しながら親心へと成長していくのです。こうした親心となった成長したクリスチャンが増えていくとき、教会は成長したキリストのからだとなっていくのです。

 

すでに結婚している若い婦人の方が、このことに目覚め、実家に帰った時のことです。それまでは羽を伸ばし、好きなことをして、実家を休み場のようにしか考えていなかったことに気付かされたのです。そして悔い改めの親心で自分の両親に接してみようと決心しました。

「お母さん、仕事なかなか大変でしょう」と、母親の心に耳を傾けたとき、お母さんの心は大きく開かれ、それまでしゃべってくれたことのないようなことまで、どんどん打ち明けてくれるようになりました。そして近くの教会の集会に誘うと、快く応じてくれたというのです。

 

だれでも人と対話をするとき、まず自分の話を聞いてほしい、わかってほしいと思うでしょう。これは幼心の衝動です。自分のことを聞いてほしいと思うことが悪いというわけではありません。しかし、そのとき「まず相手の話を聞いてあげよう」という親心があれば、相手に励ましや慰めが流れて行くことは確かです。

 

あるとき、他の教会で行われた修養会に招かれてお話したことがあります。そのとき、その教会のピアニストに「どんな心で奉仕されているんですか」と尋ねると、その方がこう答えられました。「そうですね。司会者がやりやすいように、会衆が歌いやすいように、全体に心を砕いて奏楽しています。」よく訓練された教会だなぁと、とても感心させられました。特に音楽の奉仕は目立ちやすいものです。芸術家は自分を音楽によって表現すると聞いたことがありますが、しかし、それが時々教会に問題を引き起こすことがあります。なぜなら、教会でいちばん大切なことは自分を表現することではなく、自分を罪から救ってくださった神をほめたたえ、神の栄光を現すことだからです。ですから、そうした幼心から親心に成長していくことによって教会の徳を高めることができるようになり、神の栄光を現すことができるようになるのです。

 

また、こうした親心が主に向かうとき、それは「主の御心を尋ね求める」という姿勢になります。これまではいつも、「主よ、こうしてください。」「ああしてください」と、自分たちの必要が満たされるようにというだけの祈りだったのが、「主よ、あなたの御心は何ですか。」「あなたが私に願っておられるみとはどんなことですか」と、神の御心を求める教会へと変えられていくのです。

 

ではそうした親心が成長し、クリスチャンとして成熟した者になるためにはどうしたらいいのでしょうか。きょうはこのことについて学びたいと思います。

 

Ⅰ.成熟を目ざして進もう(1-3)

 

まず1節から3節までをご覧ください。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。」

 

ここは「ですから、私たちは、キリストにつていての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」とあります。「ですから」というのは、この前で語られてきたことを受けてのことです。この前ではどんなことが語られてきたかというと、大祭司であられる私たちの主イエスについては、話すべきことがたくさんありますが、今のあなたがたは耳が鈍くなっているので、説き明かすことは困難です、ということでした。どんなにすばらしい神の教えも、それを聞く人の心がふさがっていると、聞いても理解することができないからです。「ですから」です。ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか、というのです。たとえば、死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう、というのです。

 

これはどういうことかというと、ここでヘブル書の著者は、キリストについての初歩の教えとして六つのことを挙げているのです。

まず死んだ行いからの回心と神に対する信仰です。これは悔い改めと神に対する信仰についての教えです。現代訳では「死から命への方向転換、神信仰」と訳されています。死から命への方向転換ですから、これはまさに悔い改めて神を信じることについての教えです。

次はきよめの洗いについての教えと手を置く儀式です。ユダヤ教にはきよめの洗いの儀式がたくさんありました。その中にはイエスの御名による水のバプテスマも含まれています。また手を置く儀式ですが、これは按手のことを指しています。手を置いて祈り、祝福し、また任命したりしました。

そしてもう一つのことは死者の復活ととこしえのさばきなどの基礎的なことです。これはクリスチャンが死んでも生きるということ、この死者の復活の教えととこしえのさばきなど、終わりの日に関する教えのことです。

 

これらのことを見てもわかるように、これらのことは私たちクリスチャンにとってどれもとても重要な教えです。ヨハネ20章31節には聖書が書かれた目的が記されてありますが、それは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである、とあります。ですからねこれらのことはまさに、聖書が書かれて目的そのものであるわけです。これらのことは私たちの信仰の中心的な事柄であり、どんなに強調してもしすぎることがない重要な教えなのです。

 

それなのに、そうしたキリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか、というのです。なぜてじょうか。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。すなわち、それが神の御心であるからです。神の御心は、私たちが救われた状態にずっと留まっているだけでなく、これらことを土台にしてさらに信仰の成熟を目ざして進むことなのです。

 

レビ記11章45節には次のようにあります。

「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから、あなたがたは聖なるものとなりなさい。わたしが聖であるから。」

主がイスラエルをエジプトから救い出されたのは何のためだったのでしょうか。それは彼らの神となるためでした。神は聖なる方なので、彼らも聖でなければならない。「聖」というのは、選び別けられるという意味ですが、神のものになるということです。つまり、神のようになることです。彼らはそのためにエジプトから連れ出されたのはそのためでした。同じように私たちが救われたのも、それが救われて良かったという私たちのためだけではなく、私たちを救ってくださった神のようになるためだったのです。

 

Ⅱペテロ3章18節にはこうあります。「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」これは、「恵みと知識において成長し続けなさい」という意味です。(現在命令形は継続を表しているから)イエス様を信じて救われた人は、ああ良かった!これでもう天国に行けるから安心だわと、そこに留まっているだけでなく、その主であり救い主の恵みと知識において成長していかなければなりません。それを求めていかなければならないのです。

 

「成長しなさいと言われても無理ですよ。どこまで行ったってきりがないじゃないですか」確かに、クリスチャンの成長にはきりがありませんが、しかし、一つの目標が定められているのです。それは何かというと、イエス様のようになることです。イエス様のようになるということがクリスチャンの目標であり、成熟したクリスチャンの姿なのです。

 

エペソ4章12節から13節にはこうあります。

「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致に達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

ここには、「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」とあります。すなわち、イエス様のようになることが私たちクリスチャンの目標なのです。それは私たちの努力によってではなくキリストの恵み、聖霊の恵みによって成し遂げられていくものですが、同時に、私たちにもそのための訓練が求められているのです。それはⅠテモテ4:7に、「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」とあることからもわかります。「敬虔」とは、信仰とか、霊的なことのためという意味です。そのためには訓練が必要なのです。何もしないで体の健康を保つことができないように、霊的な健康のためにも訓練が必要なのです。そのための時間と労力をかける必要があるのです。それがイエス・キリストの恵みと知識において成長するということです。

 

Ⅱ.成長がなければ後退(4-8)

 

で第二のことは4節から8節までに書いてあることですが、もし成熟を目ざして進むことをしなかったらどうなってしまうのかということです。クリスチャンが成熟を目ざして進まなかったら霊的に成長することができないだけではありません。それだけでなく、信仰そのものからも離れてしまう危険があるのです。すなわち、成長なければ後退してしまうというのです。まず4節から6節までをご覧ください。

「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」

 

ここは難解な聖書箇所です。ここには、一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、堕落してしまうならとありますから、これはクリスチャンになり、すばらしい霊的体験をした人が堕落して信仰を捨ててしまうなら、ということでしょう。そういう人はどうなってしまうのでしょうか。ここには、「そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。」とあります。つまり、そういう人は救われることはないということです。

 

いったいこれはどういうことでしょう?というのは、聖書には、私たちがイエス様を信じれば、御霊によって新しく生まれ変わり、永遠のいのちを得ることが約束されています。たとえば、ヨハネの福音書6章47には、こう約束されてあります。

「まことに、まことに、あなたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」

また、イエス様は言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)イエス様を信じる人は死んでも生きるのです。

何とすばらしい約束でしょうか。そして、そのように約束された主は、次のようにも約束されました。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:28)

ここには、イエス様は永遠のいのちを与えるというだけでなく、だれもイエス様の手から彼らを奪い去るようなことはないと、言われたのです。もう嫌になったからと、神が途中で見捨てるようなことはなさいません。もう何度言ってもわからないんだからと、あきらめてしまうことはないのです。その救いは最後までちゃんと保証されているのです。1年保証とか、3年保証とか、最長10年保証とかありますが、そうじゃない。神の救いの保証は永遠です。永遠の保証です。ですから、皆さん安心してください。「ああ、よかった」永遠に保障されているんですから。どんなことがあっても見放されたり、見捨てられたりすることはありません。神は最後まで私たちを守ってくださいます。それが私たちの救いです。それなのに、ここには、一度堕落してしまうと、そういう人をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできないとあるのです。あたかも、一度堕落してしまったら、もう二度と赦されることがないような、一度ひどい罪を犯してしまったら、神の救いは無効にされもう立ち戻ることはできないというふうにも読めます。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

 

まず、最初に申し上げておきたいことは、これは一度救いに導かれたクリスチャンが罪を犯してしまったらもう二度と赦されないということではないということです。また、堕落して信仰から離れてしまったらもう悔い改める余地がないということではないのです。なぜなら、Ⅰヨハネ1:9にはこうあるからです。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。それが私たちの神です。ここには、「すべての悪から」とありますから、どんな悪からも、です。神が私たちを赦してくださるのは私たちが正しいからではなく、また、私たちがいい人だからでもなく、ただ私たちを愛してくださったからです。それを何というかというと、「一方的な愛」と言います。神が一方的に愛してくださいました。だから、私たちが悔い改めるなら、神は無条件で赦してくださるのです。

 

あの放蕩息子の話を覚えているでしょう。父親の財産の半分をもらって遠い国に旅立った弟息子は、そこで贅沢三昧の暮らしをして、とうとうお金を使い果たしたあげく、食べるにも困り果ててしまいました。それで彼はある人のところに身を寄せたところ、彼はそこで豚の世話をするようになりました。お腹がすいてお腹がすいて、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思った彼は、はっと我に返るのです。父のところにいた時には、パンの有り余っている雇人が大ぜいいたではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。そうだ。父のところに、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯ししまた。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにしてください。」

するとどうでしょう。彼が自分の乳のもとに行ったとき、家まではまだ遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。そして、言いました。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」

すねと父親は、しもべたちに言って、一番良い着物を持って来て、着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせ、肥えた子牛を引いてほふりなさい。食べて祝おうではないか、と言ったのです。

この父親は息子に何一つ言いませんでした。むしろ、息子が返ってきたことを喜び、温かく迎え入れました。なぜですか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったからです。この父親は息子が返ってきただけで喜びました。これが私たちの神です。私たちの神は、私たちが悔い改めて神のもとに帰ってくることを望んでおられます。そうするだけで、心から喜こんでくださいます。私たちに要求なさることは他に何一つないのです。

 

それはイエス様の弟子であったペテロのことを考えてもわかります。彼はイエスの弟子たちの代表と言っても過言ではありません。しかし、そのペテロが何とイエス様を裏切ってしまいました。彼は、ここに書いてあるように、天からの賜物を味わい、すばらしい神のみことばを味わったにもかかわらず、イエス様が十字架に架けられる直前、三度も主を否み、主を見捨てて逃げてしまいました。けれども彼はイエスが復活された後に悔い改めることができ、そして初代教会においては、第一の指導者となることができました。彼は、ある意味で堕落しましたが、もう一度悔い改めることができました。だからここで言っていることは、イエス様を信じた人が大きな罪を犯してしまったらもう二度と赦されることはないとか、堕落して信仰から離れてしまったら、もう悔い改める余地がないということではないのです。ではここで言われていることはどういうことなのでしょうか?

 

このことを正しく理解するためには、これが誰に対して書かれた手紙なのかをもう一度思い出していただきたいのです。これはヘブル人への手紙とあるように、ユダヤ人クリスチャンに書かれた手紙でした。彼らはユダヤ人でありながらもイエスがメシヤ、神の子、救い主と信じた人たちです。ユダヤ人は旧約聖書を信じていましたから、そのユダヤ人がイエスをメシヤと信じることは簡単なことではありませんでした。あのパウロでさえ信じることができなくて、逆にそういう人たちを迫害していたくらいですから、それは並大抵のことではありませんでした。しかも当時はユダヤ人社会でしたから、そうした中でキリスト教に回心するということはユダヤ人社会から締め出され、食糧の調達さえもままならない状態でした。

そうした情況の中で、中にはその苦しみに耐えきれずユダヤ教に逆戻りする人たちもいのです。ユダヤ教に逆戻りするということはどういうことかというと、イエスはキリスト、救い主であるという信仰を捨てるということです。ですからここに、「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば」とあるのです。

また2章3節から4節には、「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」と書かれてあるのです。

 

つまり、これは、イエス様を愛しているはずなのに罪を犯してしまったとか、信じているはずなのに信仰から離れてしまったという程度のことではなく、救い主そのものを信じないという背教を意味していたのです。イエス様は、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。」(マタイ12:31)と言われましたが、御霊に逆らう冒涜こそ、この救い主を信じないこと、救い主を受け入れないこと、キリストの十字架をないがしろにすることなのです。人はどんな罪でも赦されますが、イエス様を信じない罪だけは赦されないのです。そして、もし一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、堕落するなら、すなわち、キリストを救い主として信じながらも、その後で信仰を捨てるなら、そこには神の救いはもはや残されていないのです。神は決して私たちを途中で見捨てたり、見離したりはしませんが、私たちの方で捨ててしまうことがある。それが赦されないことなのです。

 

イスカリオテ・ユダの問題はここにありました。彼はイエスさまとともに生活をし、主の恵みのみことばを聞き、その不思議なわざを見て、後に来る世の力も知らされていたのに、銀貨30枚でイエス様を引き渡しました。それでも悔い改めてイエスを救い主として信じたなら彼は赦されたのに、彼はそうしませんでした。彼は、悔い改めず、外に出て首をくくって滅びました。それがペテロとユダの大きな違いです。確かにペテロも大きな罪を犯しましたが、それでも彼の心は開かれていたので悔い改めイエスさまのもとに戻ることができましたが、ユダの心は開かれていなかったので、かたくなだったので、ふさがれていたので、悔い改めることができませんでした。その違いです。

 

そしてここではそのことを私たちにも警告しています。確かに私たちも罪を犯すことがあります。時には弱くなって信仰から離れてしまうこともありますが、問題は、あなたの心はどうかということです。悔い改めようという心もない、神のみことばよりも自分の思いを優先したい、イエスがキリスト救い主であるかどうかなんて関係ないといった心なら、そこには救いは残されていないのです。霊的に成熟するどころか逆に後退してしまい、ついには信仰を失ってしまうことになるのです。

 

イエスはこう言われます。「わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)とどうぞイエスの声を聞いて戸を開けてください。もしあなたが戸を開けるなら、イエス様は、あなたのところに入ってあなたとともに食事をしてくださいます。食事をするというのは親しい交わりを表しています。イエス様があなたの心の中に来てくださるのです。すべてはあなたが心の戸を開けるかどうかにかかっているのです。イエス様は今もあなたの心の戸をたたいていらっしゃいます。あなたはその声を聞いてどのように応答されますか。どうかあなたもキリストにある神の救いを受け入れてください。

 

7節と8節をご覧ください。ここには、その神の祝福とのろいがたとえで語られています。

「土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。」

 

あなたは有用な作物を生じていますか、それとも、いばらやあざみを生えさせているでしょうか。もしあなたが、あなたの上にしばしば降る雨をいっぱい吸い込むなら、すなわち、神の恵みと希望に支えられて生きるなら、有用な作物を生じますが、その希望を拒み、神の恵みをないがしろにするなら、無用な作物を生じさせ、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまうことになります。イエスさまは、「わたしがぶどうの木で、あなたがたは枝です」と言われましたが、私たちはぶどうの木であるイエス様につながっていることによってのみ多くの実を結ぶことができます。枝だけで実を結ぶことはできません。

 

Ⅲ.あきらめないで、最後まで(9-12)

 

第三のことは、あきらめないで、最後までということです。ところで、この手紙の著者は、次のように言って、読者たちを励ましています。9節と10節です。

「だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も使えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」

 

ここで、この手紙の著者はこの手紙の読者のすべてが霊的赤ん坊であるのではないことを、「あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。」という言葉で表しています。現代訳では、「あなたがたが救いにふさわしい良い実を結んでいる。」と訳しています。

 

その良い実とは何でしょうか。それは具体的に言うなら「愛の業」です。彼らがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛」のことです。神は正しい方であって、彼らの行いを、特に、聖徒たちに示したあの愛をお忘れになられません。それこそ、主イエスが弟子たちに教えられた新しい戒めの実践だからです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)

 

これは非常に重要なことです。これが出来なくなると、どこかに未成熟な特徴が表われてくるからです。確かに、クリスチャン同士であっても、愛によって仕え合うということは、それほどやさしいことではありません。自分と気の合う人とならやさしいことですが、すべての人がそうであるわけではありません。そうでない人に仕えるということは、生まれながらの私たちでは到底できることではないのです。「なぜあんな人に仕えなければならないのか」「あんな人に仕えなければならないくらいなら、クリスチャンを辞めた方がましだ」という思いすら湧いてこないとも限りません。それが悪魔の働き掛けなのです。生まれながらの私たちの性質は、なるべく苦労しない道、安易な道を求めます。しかし、神は私たちが霊的に大きく成長し、クリスチャンとして成熟するように、必ずそこに困難な問題を置かれるのです。だからそれを避けてはいけません。悪魔は私たちにいろいろな知恵を与えて、それを避けようとさせますが、でもその手に乗ってはいけないのです。神は愛する子をむち打たれるということを思い出してください。神が私たちにそのような問題を置かれるのはむしろ私たちを愛しておられるからであって、私たちがクリスチャンとして霊的に成熟することを求めておられるからなのです。どんな訓練でも、それを受けている時は、嬉しいよりはむしろ辛く、苦しいのですが、後でわかることは、そうした訓練を受けた人は、必ず神の御心にかなった生活ができるようになるということです。そのことがわかると、信仰生活に必要な訓練として、喜んで困難にぶつかっていくことができるようになります。

 

この手紙の読者は、そういう愛の実を結んでいました。植物でも若木のうちは実を結ぶことはできません。「桃、栗三年、柿八年」言われますが、桃や栗のように比較的早く実を結ぶ木でも三年はかかるものです。柿になると、なんと八年もたたないと実を成らせることはできません。これは別に年月のことを言っているのではありません。木でも実が成るようになるには若木ではだめだということです。人間でも大人にならないと子供を産むことはできません。それは霊的赤ん坊も同様で、霊的に成熟していなと実を結ぶことはできないのです。しかし、この手紙の読者は、この愛の実を結んでいました。神はそれを決して見過ごしにはならず、ずっと心に留めておられました。神がご覧になっていてくださるだけで、もう十分ではないでしょうか。だれが見ていても、だれが評価してくれなくても、神がご覧になり、神が評価してくださっているというだけで、私たちは満足です。

 

大切なのは、それを一回だけすればよいということではなく、ずっと続けることです。それが最後に書かれてあることです。11節と12節をご覧ください。

「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」

 

「切望する」というのは、強く願うということです。ここで著者は何を切望しているのでしょうか。それは、彼らが同じ熱心さを示して、最後まで、この希望について十分な確信を持ち続けてくれることです。信仰生活において大切なことは、救われたことだけで満足し、そこに安住するのではなく、それを最後まで持ち続けることです。すなわち、熱心に信仰生活に励むことです。そうでないと後退してしまうからです。

 

私たちは、前進しなくても、そこに留まっていたら、少なくても後退はしないだろうと思っているかもしれませんが、そうではありません。前進しなければ後退があるだけで、バッグスライドしてしまいます。ですから、私たちは常に前進していかなければならないのです。しかし、それは歯を食いしばってするものと違って、前進していけばいくほど信仰の醍醐味を味わうことができますし、そのすばらしさは天国のすばらしさに一歩も二歩も近づくことができるすばらしさです。天国のすばらしさがもっとよく分かってきます。ですから、私たちも約束を相続したあの熱心なクリスチャンに見習って、熱心に信仰生活に励みましょう。今からでも決して遅くはありません。成熟を目ざして共に進もうではありませんか。