申命記12章

今日は申命記12章から学びたいと思います。ここには、5章から11章までに語られた原則的なことを、具体的な場面に適用させています。つまり、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛するにはどうしたらいいかということについて教えられているわけです。これは26章まで続きますが、きょうは、その最初の部分を見ていきたいと思います。

 

1.主がしてくださったあなたがたの手のわざを喜びなさい(1-7

 

「これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。あなたがたの神、主に対して、このようにしてはならない。ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。」

 

まず第一のことは、偶像を打ち砕くことです。2節には、「それをことごとく必ず破壊しなければならない」とか、3節には、神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい、とあります。ただ、主が選んだ場所を尋ね、そこにささげものを携え、主が祝福してくださった彼らの手のわざを喜び楽しまなければなりません。

 

主ご自分の住まいとして御名を置くために、彼らの全部族のうちから選ぶ場所とはどこですか。これは聖なる所、主の幕屋です。そこには主が住んでおられます。そこに行かなければなりません。

 

どのように?6節をご覧ください。ここには、「あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。」とあります。これは主へのささげものを表しています。全焼のいけにえは主への献身を、また収穫物の十分の一をささげるとありますが、これはすべてが主のものであり、主の恵みによって与えられたことへの感謝のしるしです。そして奉納物とは幕屋の奉仕に必要なものを指しています。誓願のささげ物は、何か自分が志を立てて、一つのことを、責任を持って行なうことを示すささげものです。すなわち、これらはすべて主への感謝のささげものです。しかもここには、進んでささげるささげ物とあります。ささげ物で大切なことは、人に言われたからささげるのではなく、自ら進んでささげること、神への自発的な応答としてささげることなのです。牛や羊は初子をささげるようにと言われています。これは「初物」のことですね。それは最上のささげものを意味しています。余った物とか、無残ったものをささげるのではなく、初物を取っておき、それを喜んで主にさささげることに意味があるのです。主イエスはレプタ銅貨2枚をささげたやもめは、他のだれよりも多く献金をしたとありますが、それは彼女のささげものに、このような要素が含まれていたからです。

 

2.主が選ぶ場所で(8-14

 

次に8節から14節までをご覧ください。「あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。あなたがたがまだ、あなたの神、主のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである。あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。」

 

ここでも、同じことが教えられています。彼らが約束の地に入ったら、主が御名を住まわせる場所へ、主が命じられるものを持って行かなければならない、とあります。しかし、その前、モーセはここでとても大切なことを語っています。それは、イスラエルは、「おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。」ということです。自分が良かれと思っていることをしている。神が言われることではなく、自分の思いと、自分の考えで、正しいだろうと判断して生きているのです。それは彼らがまだ主が彼らに与えようとしている地に行っていないからである。もし彼らがヨルダン川を渡り、主が与えてくだる地に入ったなら、そうであってはいけません。かって気ままな場所で全焼のいけにえをささげてはいけないのです。自分勝手な考えで、自分の思いで礼拝をささげてはいけないのです。神を信じ、神に従って生きる人は自分が正しいと思うかどうかではなく、神が正しいと思っておられるかどうか、神が願っておられることは何かを知り、それに従って行動しなければなりません。たとえそれが自分の頭で理解できないことであっても神がそう言われるから従う、これが信仰者の生きる基準なのです。

 

10節には、彼らが約束の地に入ることができたらどうすべきかが教えられています。11節を見ると、御名を住まわせる場所へ、主が命じられる物をもって行かなければならないと言われています。御名を住まわせるために選ばれた場所とはどこでしょうか。それは神が臨在しておられるところ、つまり、神の幕屋です。なぜ神の幕屋に行かなければならないのでしょうか。それは私たちの信仰は個人的なものではないからです。ある意味で一人一人の神との関係が最も重要ですが、かといって一人で神を礼拝するだけが望ましいことではありません。むしろ、神のみこころを知れば知るほど、そこには「互いに」ということがどれほど重要であるかがわかります。主イエスも、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)と言われました。私たちは、いつでも、どこでも、主を礼拝することができますが、そのように主を礼拝する人は、主の御名において集まるところで礼拝をささげることがいかに重要であるかに気付くはずなのです。また、もし共に集まって礼拝することがなければ、すなわち、ここに書かれてあるように、「おのおのが自分で正しいと見えることを行っているならば、自分では主を礼拝しているようなつもりでも、実は自分が正しいと思うようなことをしているにしかすぎないのです。それは悪い意味での個人主義です。私たち互いに集まって、主イエス・キリストを礼拝することによって、互いに責任関係が生まれてくるのです。互いに集まり、互いに祈り、互いに仕え合い、互いに交わることによって、自分が正しいと思うことではなく、主が正しいと思われていることは何かを求めることができるのです。「鉄が鉄を研ぐ」という御言葉がありますが、主にあって集まるところにこそ、自分の思いが、自分勝手なものから主へのものへときよめられていくのです。

 

そのことは13節でも言われています。ここには、「かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい」とあります。かって気ままな場所で礼拝するというのは、自分勝手な礼拝、という意味です。自分に都合が良い時に、都合が場所で、都合がいい方法で礼拝をささげるというのはかって気ままな礼拝と言えるでしょう。神をあがめているようで、実はあくまでも自分が中心の礼拝です。自分の好きな方法で礼拝をささげようとするところに偶像が生まれます。自分だけの世界、自分だけの宮ができ、そこに祭司を雇うという、士師記に出て来るミカのようになるのです。(士師記17章)主はこれを忌み嫌われます。そうではなく、私たちは主のみこころを聞いていかなければなりません。それぞれおのおのが正しいと思うことではなく、主が語っておられることを共に聞き、共に受けとめ、共に果たしていく者でなければなりません。それを聞いていくのが一人一人に課せられている使命なのです。そして、それは普通教会の指導者に与えられ、牧師が主によって導かれることによって教会が導かれていきます。ですから、牧師の役割はとても重要です。主のみこころは何かをいつも聞いていかなければならないからです。

 

3.血は食べてはならない(15-19

 

「しかしあなたの神、主があなたに賜わった祝福にしたがって、いつでも自分の欲するとき、あなたのどの町囲みのうちでも、獣をほふってその肉を食べることができる。汚れた人も、きよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。ただし、血は食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一、あるいは牛や羊の初子、または、あなたが誓うすべての誓願のささげ物や進んでささげるささげ物、あるいは、あなたの奉納物を、あなたの町囲みのうちで食べることはできない。ただ、あなたの神、主が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいるレビ人とともに、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。あなたは一生、あなたの地で、レビ人をないがしろにしないように気をつけなさい。」


ここでは肉を食べることについて語られています。彼らがささげた家畜、牛や羊以外のきよい動

物は、すべて食べることができました。しかし、ただし、血は食べてはなりませんでした。それは地面に水のように注ぎ出さなければならなかったのです。なぜでしょうか。レビ記17:11にその理由が記されてあります。それは、「肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」

 

 これはどういうことでしょうか。ここには、なぜ血を食べてはならないのかというと、人のいのちは血の中にあるからです。だから、その血をもって贖いが行なわれるのです。旧約聖書ではそのために動物の血が流されました。その血が犠牲にされることによって、人々の罪の身代わりとなって死ぬことによって、人々の罪が赦されたのです。まして、動物ではない、神のひとり子の血によって罪が贖われたとしたら、その罪はどんなに清められることでしょう。私たちはイエス様の血によって完全な罪の赦しを受けることができたのです。いのちはみな尊いものですが、御子のいのちほどに高価で尊いものはありません。けれども、この方を犠牲にすることにより、私たちがキリストにあって完全に贖われるため、永遠に救われるようにされたのです。ペテロは言いました。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(Ⅰペテロ1:18-19)」私たちは、キリストの尊い血によって贖い出されました。それゆえに主は、「あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間の在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。と言われたのです。

 

17節から19節までのところにはおもしろいことが命じられています。ここでは、神へのささげものでない獣は、どこでも食べることができましたが、神へのささげものに関する食事、聖なる食事は、主が選ばれる一つの場所でしか食べることができませんでした。そして、それは息子、娘、男奴隷、女奴隷、レビ人と共に食べなければならなかったのです。特にここではレビ人とともにとか、レビ人をないがしろにしてはならないとあるので、これはレビ人に相続財産として与えられるべき分のことが語られているものと思われます。レビ人をないがしろにしてはならない。十分の一をもって、主の聖なるもの、牛や羊の初子などを、主のささげものとしてささげ、それをレビ人たちが受け、食べたのでしょう。それをみんなで喜ぶ。それがイスラエルが約束の地に行って行うべきことだったのです。

 

4..主が良いとみられること(20-28

 

「あなたの神、主が、あなたに告げたように、あなたの領土を広くされるなら、あなたが肉を食べたくなったとき、「肉を食べたい。」と言ってよい。あなたは食べたいだけ、肉を食べることができる。 もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、あなたは主が与えられた牛と羊をほふり、あなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。かもしかや、鹿を食べるように、それを食べてよい。汚れた人もきよい人もいっしょにそれを食べることができる。ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。血を食べてはならない。あなたも、後の子孫もしあわせになるためである。あなたは主が正しいと見られることを行なわなければならない。ただし、あなたがささげようとする聖なるものと誓願のささげ物とは、主の選ぶ場所へ携えて行かなければならない。あなたの全焼のいけにえはその肉と血とを、あなたの神、主の祭壇の上にささげなさい。あなたの、ほかのいけにえの血は、あなたの神、主の祭壇の上に注ぎ出さなければならない。その肉は食べてよい。気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、主がよいと見、正しいと見られることをあなたが行ない、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。」

 

主が良いとみられることが続きます。これまでの荒野の旅とは異なり、広大な土地にイスラエルの民は住みます。幕屋や神殿があるところに行くには何日もかけなければいけない人々も出て来ます。ゆえに、食べたいものはそこで食べることができます。

 けれども、血を食べてはいけないことが強く戒められています。23節に、「血はいのちだからである」とあります。血を食べることは命を奪うことになります。命は神にのみに属しているものであり、他の何ものも奪うことはできません。したがってこのいのちの象徴である血を食べないことによって、それは自分が主のものであり、主の定めに従っていることを表していたのです。

 

もしこれを現代のクリスチャンに当てはめるならどうなるでしょうか。互いにキリストにあって一人ひとりの命を大切にする、ということでしょう。相手をキリストにあって配慮し、祈り、仕え、キリストがその人のために死なれたことを認めることです。言い換えれば、キリストの贖いをないがしろにしない、キリストの贖いに生きる、キリストのみこころに従って生きるということでしょう。

 

5.わなにかけられないように(29-32

 

「あなたが、はいって行って、所有しようとしている国々を、あなたの神、主が、あなたの前から断ち滅ぼし、あなたがそれらを所有して、その地に住むようになったら、よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう。」と言わないようにしなさい。あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行ない、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。12:32 あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行なわなければならない。これにつけ加えてはならない。減らしてはならない。」

 

ここには、彼らが約束の地に入って行ったときに、気を付けなければならないことが記されてあります。それは、わなにかけられないように、ということです。そこにはどんなわながあったのでしょうか。彼らの神々を求めて、この地の異邦の民はどんな神々に仕えていたのだろうか、自分もそうしてみようと、思うことです。

 

こんなことがあるのでしょうか。あるのです。サタンは私たちの心の隙間を狙って、いつも戦いを挑んできます。心に余裕ができたそのとき、これまで考えもしなかったことをしてみたいと思うことが起こるのです。その一つがこれでしょう。この地の住民はどんな神を拝んでいたのかを知ろうとしているうちに、いつしか自分がそれを拝んでいるということがあります。私たちが主かせら目をそらした瞬間、全く別の神があなたの心を支配してしまうことがあるのです。どんなに長く信仰生活を送っていても・・・。しかも、とても恐ろしいと思うことは、そのことになかなか気づかないということです。ヘブル書にはあなたの耳が鈍くなってとありますが、あなたの心に覆いかかるため、そのことにすら全く気付けないのです。ですから、みことばの学びはとても重要です。そうした私たちの心を主に向けさせ、主のみこころは何であるかを示してくださるからです。主が命じるすべてのことを守り行いなさい、とあったも、その命令がわからなければ、どうして主に従うことができるでしょうか。それこそおのおのの信仰、自分勝手な信仰になってしまいます。そういうことがないように、主が明治らておられることは何かを学び、従順な心、聖霊の助けによってこの道を進んでいかなければなりません。それが、私たちがほんとうの意味で祝福を受ける道なのです。