申命記13章

今日は申命記13章から学びたいと思います。イスラエルの民はエジプトを出て約40年間荒野をさまよいましたが、ようやく約束の地の入り口まで導かれました。ここからヨルダン川を渡って約束の地に入ります。そこでモーセは、イスラエルが約束に地に入るにあたり、そこでどうあるべきかをくどいと思われるくらい何回も語るわけですが、5章から11章までにはその原則的なことを、つまり、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよということでしたが、前の章からはそのことについてのもっと具体的なことが教えられています。

 

1.預言者、夢見る者(1-5

「あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。」

 

まず1節から5節までをご覧ください。12章の終わりのところには、彼らが約束の地に入って行ったら、その地の偶像を粉々にするようにというだけでなく、その偶像がどんなものかと興味をもって「私もそうしてみよう」などということがないように、わなにかけられないように注意しなさいとありました。けれともここでは、その地の偶像ではなく、自分たちの中から偶像へと誘い込もうとする悪しき働きに注意するようにと警告されています。それは何かというと、「預言者」と「夢見る者」の存在です。預言者とは、神のことばを語る者ですが、神のことばではなく自分のことば、自分の思い、自分の考えを語る者が出て来て人々を惑わすというのです。それを何というかというと「偽預言者」と言います。あるいは、「夢見る者」とも言われます。彼らは神が語ってもいないことを勝手に語り、人々を神の道から惑わすようなことをするわけです。そんな話に惑われるなんてバカじゃないかと思うかもしれませんが、彼らは羊の身なりをしてやってくる狼なので、なかなかその正体に気付きにくいのです。特に、何かのしるしや不思議を示すので、人々は「この人はほんとうの預言者だ」とだまされてしまうのです。それだけ人は見えるものに弱いんですね。何だか特別な力があるかのように感じてしまいます。何を言っているかわからない聖書を学ぶより、目に見える不思議なことや、心にぐっとくるものを求めがちなのです。そして、ヤハウェなるまことの神ではなく、他の神々へと、他の道へと、偶像礼拝へと人々を導こうとするのです。

 

それは神の教会の中でも同じです。偽預言者や偽教師が現れては超自然的なことや顕著な働きをして、人々を神のみこころから遠ざけてしまうのです。とはどちらかというと魅力的なことに心が奪われやすいですから、どうしてもそっちの方に傾きやすいのです。しかし、ここが勝負です。なんらしるしもないただ神様を信じ続けることは忍耐が試されますが、そのときこそ、自分が本当に主を愛しているかどうかがわかるのです。たとえ自分の思いとは違っても、たとえ他の人が自分と違うことをしていても、それでも神のみこころは何かを判別し、そこに立ち続けていかなければなりません。心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならないのです。

 

5節には、そのような者たちに対する厳しい処罰が記されてあります。なぜそんなに厳しく言われているのでしょうか。なぜなら、これがイスラエルのいのちにかかわることだからです。彼らが神からそれて別の神に向かうなら、彼らは滅んでしまうからです。

 

そういう意味では、このことは私たちも注意しなければなりません。私たちは偶像を拝むということはしないかもしれませんが、本当の神以外のものを神にしてしまうこと、すなわち、そういう意味での偶像があるのではないでしょうか。聖書が何と言っているかというよりも、あの人はこう言ったとか、この本にはこう書いてあったとか、自分はこう思うと言って、神の道からそれていることがあるのです。自分でも気づかないうちに・・・。これがキリスト教だと思いこんでいることがあります。気を付けたいものです。

 

2.家族が誘っても(6-11

 

次に節から11節までをご覧ください。

「あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう。」と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならない。必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、まず、あなたが彼に手を下し、その後、民がみな、その手を下すようにしなさい。彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、主から、あなたを迷い出させようとしたからである。イスラエルはみな、聞いて恐れ、重ねてこのような悪を、あなたがたのうちで行なわないであろう。」

 

今度は、家族の者たち、あるいは非常に身近な者が、あなたを他の神々へと誘い込むときの場合にはどうしたらいいかということです。たとえあなたの家族や無二の親友があなたを誘っても、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはいけないとあります。あわれみをかけてもなりません。同情してもだめです。その人をかばったりすることもゆるされません。なんとここには、必ず殺されなければならないとあります。まずあなたが手を下し、その後で、民がみな、その手を下すようにしなければなりません。えっ、そこまでしなければならないんですか。本当に驚きを隠せません。いったいどうしてそこまでしなければならないのでしょうか。その理由が10節にあります。「彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、主から、あなたを迷い出させようとしたからである。」

すなわち、主はその家族をエジプトの地、奴隷の家から解放してくださった神だからです。いわば家族の家族と言ってもいいでしょう。今日家族がこうして幸せに暮らせるのは、それは主が彼らをエジプトの奴隷の家から解放してくださったからです。その救い主を捨てるようなことがあるとしたら、それこそ家族をないがしろにすることであって、ゆるされることではありません。

 

イエスさまは、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:37と言われました。これは家族がどうでもいいということでなく、優先順序の問題です。キリストよりも家族を愛する者はキリストの弟子にふさわしいものではありません。家族以外にも、私たちは教会や仕事、趣味といった生活していく上で欠かすことができない大切なことがたくさんありますが、その中にあっても神を第一としなければならないのです。ではその他のことはどうでもいいということではなく、どれも大切なことでありますが、時によっては家族よりも仕事を、仕事よりも教会を、教会よりも家族を優先にしなければならないことがありますが、どんなことがあっても神を第一とし、家族や仕事よりももっと強く、もっと堅く、もって熱く、結びついたものでなければならないのです。その中にはたとえ家族といえども入り込むことはてきないのです。

 

3.町の住民を惑わせたら(12-18

 

最後に12節から18節までをご覧ください。

「もし、あなたの神、主があなたに与えて住まわせる町の一つで、よこしまな者たちが、あなたがたのうちから出て、「さあ、あなたがたの知らなかったほかの神々に仕えよう。」と言って、町の住民を迷わせたと聞いたなら、あなたは、調べ、探り、よく問いたださなければならない。もし、そのような忌みきらうべきことがあなたがたのうちで行なわれたことが、事実で確かなら、あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。そのすべての略奪物を広場の中央に集め、その町と略奪物のすべてを、あなたの神、主への焼き尽くすこの聖絶のものは何一つ自分のものにしてはならない。主が燃える怒りをおさめ、あなたにあわれみを施し、あなたをいつくしみ、あなたの先祖たちに誓ったとおり、あなたをふやすためである。いけにえとして、火で焼かなければならない。その町は永久に廃墟となり、再建されることはない。あなたは、必ずあなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、主が正しいと見られることを行なわなければならない。」

 

ここには、イスラエルの民がその町のすべての住人をそそのかした場合どうしたらよいかを語っています。をあげています。その町全体が偶像崇拝に陥ってしまたケースです。その場合は、まずよく調べ、探り、問いたださなければなりませんが、そのようなことが実際に行われていたとしたら、その町の住民のすべてを剣の刃で打たなければなりません。その町とそこにいるすべての物、その家畜もです。徹底的にそれを取り除かなければならないというのです。

 

 いったいなぜそこまでしなければならないのでしょうか。一つの理由は、それは、主がイスラエルをエジプトの奴隷の状態から救い出された方だからです。今のイスラエルがあるのは、彼らを救ってくださった主のおかげです。それなのに主を捨てて他の神々に走るようなことがあるとしたら、どれほど主は悲しまれることでしょう。

 

 もう一つの理由は。そのようにしなければイスラエルに祝福はないからです。1126-28には、主は彼らの前に、祝福とのろいを置くと言われました。主に従うなら祝福を、従わなければのろいを置くと言われたのです。ですから、彼らが他の神々に走るなら、そこにはのろいしかありません。そののろいを受けることがないように、聖絶しなければならないのです。この主がともにおられるということが、イスラエルにとっての祝福の源であり、最高の喜びです。その主を捨てて、他の神々に走って行くようなことがあるとしたら、そこには滅び以外の何ものもありません。そうしたものは一切、取り除かなければならないのです。主との密接な関係を壊すような要因をすべて破壊するように、というのです。

 

 それは、イエス・キリストによって罪が贖わられた私たちにとっても同じではないでしょうか。私たちにとっての幸せと成功、祝福のかぎはイエス・キリストであって、この方を離れては何の実を結ぶこともできません。私たちが豊かな実を結ぶのはただ主につながっている時だけであって、それがなかったらそこには滅び以外の何ものもないのです。そうした要因は取り除かなければなりません。そして、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛さなければならないのです。

 

今度のさくらチャペルの開所式で、「尽きせぬ愛をあなたに」(Just Let Me Say)を賛美します。私はこの賛美が好きです。天地が滅びようとも 変わらず、赦しと恵みの中で 主は私たちを神の子としてくださいました。そしてとこしえに変わらない愛で私たちを包んでいてくださいました。この主だけに心を向け、この主だけを見上げて歩みたいと思うのです。


「尽きせぬ愛をあなたに」(Just Let Me Say)

 

尽きせぬ愛をあなたに 恵み憐れみうけ、
麗しいあなたのみもとで 御顔拝させよ

天地が滅びようとも わが言葉は変わらず
ただ主よ 愛します わが友 救い主

さやかなみ声聞かせよ やさしく我を呼ぶ
拝させよ 栄光と力 御霊の炎を

荒野が園になるまで わが心は求める
ただ主よ 従います わが友 救い主

せつなき心われに あつく燃ゆる思い
とこしえに変わらぬ主の愛 ついにわれは知る

赦しと恵みの中で 神の子とされた身を
ただ主よ 感謝します わが友 救い主

 

この主の愛と恵みから迷い出ることがなにいように、心を尽くして主だけを愛しましょう。