ヘブル7章1~10節「こんなに偉大な祭司」

きょうはヘブル書7章から、「こんなに偉大な祭司」というテーマでお話します。もちろん、この祭司とはイエス・キリストのことです。ですから、イエス・キリストはどんなに偉大な祭司なのかということについてお話したいと思うのです。

「祭司」という言葉は私たち日本人にはあまり馴染みのない言葉ですが、

ユダヤ人にとってはだれでもよく知っている言葉でした。そして、とても重要な立場にある存在だったのです。なぜなら、祭司こそ自分たちが神に近づき、神の前に出るためにどうしても必要な存在だったからです。それは神と人との仲介者です。それが祭司でした。そしてここでは、イエス・キリストこそその祭司であることが語られているのです。

 

実は、このテーマについて5章で取り上げられていました。5章6節には詩篇の言葉を引用して、イエス・キリストについて、「あなたは、とこしえに、メルキデゼクの位に等しい祭司である。」と語られましたが、しかし、彼らの耳が鈍くなっていたので、説き明かすことができませんでした。彼らというのはユダヤ人クリスチャンのことです。ユダヤ教からキリスト教に回心したクリスチャンたちのことです。彼らはいろいろな事情でキリストを捨てて、かつての律法中心の生活に戻ろうとしていたので、著者は最後までこの信仰にとどまっているようにと励ますためにこの手紙を書いていたのですが、どうもその耳が鈍くなっていたのです。心が閉ざされていたわけです。

そこでこのヘブル書の著者は、ちょっとその前に・・・と、「キリストの成熟」ということについて語りました。それが5章11節から6章の終わりまでの箇所です。私たちがイエス・キリストを信じるだけで救われたということはすごい恵みです。今までは死んだらどうなるのか、毎日生きていてもその意味がわからない、だから生きる喜びや力なども沸いてこなかったのに、イエス様を信じたことで罪が赦され、神の子とされ、死んでも生きる永遠のいのちが与えられました。そればかりか、神の聖霊が心に宿ったことで、神との交じりが与えられました。それで確かに人生にはいろいろな問題はありますが、しかし、その中にあっても平安と希望を持って生きることができるようになったのです。前回の箇所には、それは「錨の役を果たし」とありましたね。これは希望の錨です。どんな嵐があってもびくともしない希望の錨です。こんなにすばらしい救いは世界中どこをさがしてもありません。これはほんとうにすばらしい恵みです。しかし、この恵みをもっと深く味わうためには、いつまでもキリストについての初歩の教えに留まっているのではなく、それをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか、と励ましてきたのです。

 

そして、ここからまた祭司の話に戻ります。これが10章まで続くのです。イエス・キリストがどんなに偉大な方であるのかということが、祭司の話を通して説明しようとしているのです。きょうはここからキリストがどんなに偉大な祭司であるのかということを、三つのポイントでお話したいと思います。

 

Ⅰ.義と平和の王(1-2)

 

第一に、キリストは義と平和の王です。1節と2節をご覧ください。

「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」

 

ここに「メルキゼデク」という人物が出てきます。この人物については5章にも出ていましたが、キリストのひな型として描かれています。メルキデゼクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、イエス・キリストもそのような方であるということです。どのような点でキリストはメルキゼデクのようだったのでしょうか。

 

ここには、「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが」とあります。サレムとはエルサレムのことです。意味は2節に出てきますが「平和」という意味です。「エル」は神という意味ですから、エルサレムというのは平和の神という意味になります。しかし、彼はただエルサレムの王というだけでなく、すぐれた高い祭司でした。

 

旧約聖書には、王であり、かつ祭司であったというのはこのメルキゼデク以外にはいません。ダビデ王は王であり、預言者でもありましたが祭司ではありませんでした。アロンは逆に祭司でしたが、王ではありませんでした。王であり、また祭司であったのはこのメルキゼデクだけなのです。

 

そればかりではありません。ここには、「アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えました」とも紹介されています。彼はアブラハムの時代に生きていた祭司で、アブラハムが王たちを打ち破って帰って来たとき出迎え、彼を祝福しました。これは創世記14章に書かれてある出来事ですが、アブラハムがカルデヤのウルから神が示してくださったカナンの地に来てから、神が彼を祝福してくださったので、彼は多くの家畜、財産を持つようになりました。するとそこに一つの問題が生じるのです。家畜があまりにも多くなってしまったので場所が狭くなり、甥のロトのしもべたちとの間にいさかいが生じるようになったのです。仕方なく彼らは別々の所に住むようになりました。甥のロトが選んだのはヨルダンの低地でとても潤った土地でした。ソドムという町です。ところが、ある時四人の王たちの連合軍が襲って来て、その町を略奪したのです。そこにはロトとその家族、財産も含まれていました。

それを聞いたアブラハムはどうしたかというと、318人のしもべを引き連れて敵を追跡して打ち破り、ロトとその財産、またロトの家族を取り戻しました。アブラハムが王たちを打ち破ったというのはその出来事のことです。その時アブラハムを出迎え、彼を祝福したのがこのメルキゼデクなでした。

彼らついては、それ以後全く出てきません。ダビデが詩篇の中で、「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」と、やはりキリストがメルキゼデクの位に等しい大祭司であると言及されている以外は、他には出てこないのです。颯(はやて)のように現れて、颯(はやて)のように去って行く月光仮面のような存在です。ところで、皆さんは「颯」という言葉の意味をご存知でしたか。颯というのは風が立つと書きますが、風が吹いてくる音を表しているそうです。そのきびきびとした様子から「颯爽」という言葉が出たようですけれども、いづれにしても、このメルキゼテクはサッと現れてサッと去って行く風のような存在であったわけです。なぜそのような人のことがこんなに大きく取り上げられているのでしょうか。それは神のメシヤが彼のような方であったからです。どういう点で彼のような存在なのでしょうか。

 

2節をご覧ください。ここには、「まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」まず彼の名前を見てくださいというのです。彼の名前は「メルキゼデク」ですが、その意味は「義の王」です。メルキゼデクという名前は、「メルク」と言葉と「ツァデク」という言葉が合わさった名前ですが、「メルク」は王という意味で、「ツァデク」は義という意味です。ですからメルキゼデクという名前は、正義の王という意味になります。それから、先ほども申し上げたように、彼はサレムの王でした。サレムとはエルサレムのこと、意味は「平和」でしたね。その王でもありましたから、平和の王でもあったわけです。つまり、メルキゼデクは私たちに義(救い)を与える王であり、平和を与える王であるということです。これが私たちの主イエス・キリストです。

 

ゼカリヤ9章9節にこうあります。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」

 

これはやがて来られるメシヤについての預言ですが、やがてあなたのところに来られる王はどのような方でしょうか。この方は正しい方で、救いを与える方です。また、この方は柔和な方、へりくだった方、平和の方で、ろばに乗って来られる方です。しかも、雌ろばの子のろばにです。力強く、颯爽と走り、敵と戦うために用いられる馬ではなく、雌ろばの子のろばといったらもっともか弱い動物の代表でしょう。私たちの救い主はそのようなろばに乗ってこられる方なのです。そして、この預言のとおりに、イエス様が十字架にかかるために最後にエルサレムに入場した時には、ろばに乗って入られました。群集は、「ホザナ、祝福あれ、主の名によって来られる方に‼」と大歓声で迎えましたが、その数日後には、「十字架につけろ、十字架につけろ」という罵声に変わるんですね。人の心はいつもころころ変わるから心というそうですが、しかし、あなたのところにやって来られる救い主は違います。あなたのところに来られる王はあなたに救いを与える方であり、あなたにほんとうの平安を与えてくださる方です。

 

キリストを知るまではほんとうの平安がありませんでした。いつも不安で、何かに怯えているような者でした。楽しいことがあれば喜べても、次の瞬間にはすぐに吹っ飛んでしまうような、吹けば飛ぶような、表面的な喜びでした。どんなに美味しいものを食べても、どんなにいい仕事をしていても、何をしても、心の深い部分で得られるような平安ではありませんでした。しかし、キリストが来られ、私たちの罪、私たちの咎の身代わりとして十字架で死なれ、三日目によみがえってくださったことによって、彼を信じるすべての人に神の救いが、神の平安が与えられたのです。

 

ローマ人への手紙5章1節にはこうあります。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

イエス・キリストを信じて罪赦された人は、神との平和を持っています。持つかもしれないとか、たぶん持つでしょうと言っているのではないのです。神との平和を持っているのです。イエス・キリストによってこの救いと平和が与えられるのです。それは、環境の変化によって崩れるようなこの世の平安ではなく、何事が起ころうとも微動だにしない超自然的な心の平安です。

 

クリスチャン作家の三浦綾子さんは、直腸ガンの手術を受ける前日のもようを綴っておられます。心臓病もあるので、ひょっとすると術中に召されるかもしれないと思い、遺書を書くことになりました。ところがその時、人知を超えた不思議な平安に包まれ、死の恐れから全く解放されたそうです。イエス・キリストによって与えられる平安はこういう平安です。

 

イエスさまを信じたけど、まだ平安があって・・・・という方はおられますか?心配しないでください。私たちがこの地上にいる限り決して問題が絶えることはないので、そうした問題の渦の中に巻き込まれることがありますが、それでも私たちはこの神との平安が与えられているのです。そして今は祈りによってこれを体験することができます。どんなに心騒ぐことがあっても、心静めて祈るとき、あなたの心に住んでおられる聖霊によって、この神の愛と平安があなたの心を満たしてくださるのです。

ピリピ4章6節と7節にこうあります。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

 

何とすばらしい約束でしょう。クリスチャンでも悩むことがありますが、問題で心騒ぐこともありますが、それでも祈りによって神の平安を持ち続けることができるのです。キリストは私たちと神との架け橋となってくださいました。ですから、いつでも、どんな時でも、この主を信頼して祈り神の救いと、神の平和を受けようではありませんか。

 

Ⅱ.永遠の祭司(3)

 

第二に、キリストは永遠の祭司です。3節をご覧ください。

「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」

 

これはどういうことでしょうか。ここにはメルキゼデクのもう一つの不思議が記されてあります。それは父もなく、母もなく、系図もないという点です。人間であれば父がいたでしょう。母もいたはずです。まあ、いたけど捨てられたということはあったかもしれませんが、ここには父もなく、母もなく、系図もないとあるのは、彼が一般の祭司とは決定的に違う祭司であったということなのです。

一般の祭司なら父がないとか、母がない、系図がないということはあり得ないことでした。なぜなら、律法によれば、祭司はレビ族から出ることが決まっていたからです。他の部族の者が祭司になることはできませんでした。それがはっきりと記されていたのが系図です。その系図がないということは、彼は一般の祭司とは別の次元の祭司だったということなのです。ではどういう次元の祭司だったのでしょうか。すぐれて高い神の祭司です。律法を超えていたのです。彼はアブラハムの時代の人物であり、律法はそれから600年も後に与えられたものですから、そもそも彼の時代には神の律法がありませんでした。そうした律法とは別の、律法よりもはるかにすぐれた祭司がこのメルキゼデクだったのです。

 

そればかりではありません。ここには、「その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司として留まっているのです。」とあります。どういうことでしょうか。メルキゼデクも実在した人であった以上、誕生もし、死にもしたでしょう。それなのに、ここにはそうした記録が全く記されていないのです。それは彼が誕生しなかったとか、死ななかったということではなく、そういうことについて書く必要がなかったということです。なぜなら、彼は神の御子イエス・キリストのひな型として描かれていたからです。つまり、キリストは永遠に、いつまでも、祭司としてとどまっておられる方であるということです。

祭司は普通、死ぬとその働きは終わり次の祭司に引き継がれますが、キリストは死んで終わりませんでした。キリストは死んで三日目によみがえり、天に昇られ、神の右の座に着座されました。そして、今も生きて、私たちのためにとりなしていてくださるのです。キリストは永遠に生きておられる神の祭司なのです。

 

ローマ8章34節には、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」とあります。

私たちはイエスさまを信じてからもいろいろなことがありますね。家庭の中で、職場の人間関係、この社会の人たちとの関係、教会での人間関係もそうです。突然、小石が飛んできて車のフロントガラスが割れるとか、考えられないことまで起こります。いろいろな問題の中で自分の無力さを感じたり、弱さを感じることもあるでしょう。心が萎えてしまうこともあります。しかし、どんな患難や苦難があっても、何もキリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。なぜなら、私たちのために死んでくださった方、いや、よみがえられた主イエスが、天で私たちのために今もとりなしていてくださるからです。私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。だから私たちはこの方によっていつも希望を持って歩むことができるのです。

 

皆さんが辛く、苦しいと感じるとき、どうか思い出してください。皆さんは決して一人ではないということを。イエス様が皆さんとともにいてくださいます。皆さんが倒れないようにととりなしていてくださいます。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、恵みの御座に、イエス・キリストのもとに近づこうではありませんか。

 

Ⅲ.偉大な祭司(4-10)

 

第三に、キリストは偉大な祭司です。4節から10節までをご覧ください。4節には、「その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。」とあります。メルキゼデクが偉大な人物であったということは、アブラハムが彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたことからわかります。アブラハムといったらユダヤ人の始祖です。彼によってユダヤ民族が始まりました。ですから、ユダヤ人にとってアブラハムは民族の父であり、信仰の父でもあるわけです。そのアブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげたということは、しかも自分の持っていた戦利品の中から一番良いものをささげたということは、それだけメルキゼデクと言う人物が偉大な者であったということです。

 

ところで、ここには十分の一とか、レビ族といった言葉が出てきますが、これは何のことかというと、イスラエルの民が約束の地に入ったとき、それぞれ12の部族に領地が与えられましたが、レビ族には与えられませんでした。なせなら、彼らの仕事は神に仕え、イスラエルの人々のために祈ることだったからです。そのために12部族のうち1つの部族がその働きに専念したのです。どれだけの人がいたでしょう。かなり大勢の人たちがこの仕事に当たっていたことでしょう。それで、レビ族は領地を持たず、農作物などの収入もなかったので、そのレビ族を支えるために他のイスラエル11の部族がそれぞれ収入の十分の一をささげ物として持って来てささげ、彼らの生活を支えたのです。それほどイスラエルは神に仕えるということを極めて重大な働きと考え、この神を中心に生きていたのです。

しかし、きょうの箇所を見ると、そのイスラエルの始祖であったアブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげたとあります。そしてレビ族はそのアブラハムの孫の子どもたちですから、アブラハムがささげたということは彼ら自身もささげたということになるのです。なぜなら、その時点ではまだ彼らは生まれてはいませんでしたが、すでにアブラハムの腰の中にいたからです。ですから、イスラエルの民から十分の一を受ける立場のレビ族でさえもささげたということは、いったいこのメルキゼデクはどんな人物なのか・・・となるわけです。少なくともレビ系の祭司よりも優れていたことがわかります。

 

そればかりではありません。6節と7節を見てください。ここには、レビ系の系図にないはずのメルキゼデクが、神の約束を受けたアブラハムを祝福したのです。いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。ということは、ここでアブラハムがメルキゼデクから祝福されたということは、アブラハムよりもメルキゼデクの方が上位の者であったということを意味しているのです。

 

皆さん、祝福するというのは、その祝福がそこにあることを宣言するわけです。よく手紙などに、「あなたのご健康を祈っています」と書いてありながらも、実際には一度も祈ったことがないというのとは全く違います。祝福するというのは、その祝福がそこにあるということの宣言なのです。この礼拝の最後にも祝祷がありますが、それもただの形式ではありません。そこに神の祝福があるという宣言なのであって、とても重いことなのです。私たちは神の祝福がなければ生きることができません。神の祝福があるからこそ、まともに生きることができるのです。私たちは自分の力で頑張って生きているようですが、実際には自分の力というのは微々たるもので、すべては神の祝福によって支えられているのです。私たちがこうやって毎週、週の初めに礼拝のために教会に集まって来るのはその神に近づき、神からの祝福を頂くためです。私たちを罪から救ってくださった主の尊い恵みを覚え、その神に感謝して、その神を礼拝して、その神が私たちを祝福して下さるようにと祈るために集まっているのです。だから神の祝福がなかったら何も始まらないのです。

 

もうすぐさくら市での開拓がはじまりますが、そこでも神の祝福がなかったら何も始まりません。3/12には教会の案内が約4万枚さくら市を中心に新聞折り込みされます。オープニングのコンサートやさまざまなイベントも用意されています。でも、神の祝福がなかったら何の意味もありません。ですから、今度の開所式と献堂式で一番重要なことは何かというと、この神の祝福を求めて祈ることです。どれだけ立派な式をやるかとか、どれだけいいものを提供するかとか、どんなに親切にもてなすかとかといったことではなく、そこに神の祝福があるように、神がさくら市での働きを祝福して多くの人たちを救いに導き、その人たちを通してさらに福音が広がっていき、やがてその地域全体に神の福音が満たされ、神の祝福が満ち溢れるようにと祈るためにするのです。このことをぜひ忘れないで、その奉仕に臨みたいと思うのです。足りないところも多々あるでしょう。うまくいかないことも多いかと思いますが、この神の祝福の祈りの中に、ぜひあなたにも加わっていただきたいのです。

当日は米沢から千田次郎先生が来て記念メッセージをしてくださいます。そこで先生がどんなメッセージをしてくださるかはわかりませんが、私にとって感謝なことは先生がわざわざ来てくださって、神の祝福を祈ってくださるということです。それが一番重要なことだからです。

ちなみに、千田先生は私がまだ20代の時からずっと私たちのために祈って支えてくださっている先生です。この教会の開所式の時にも来てくださいました。その時、私はどれほど慰められ、励まされたかと思うのです。私からみたら先生はメルキゼデクのような人です。そんな先生が来て祈ってくださるということは、どんなに幸いなことでしょうか。ぜひこの中に皆さんも加わって、この神の祝福を共に祈ろうではありませんか。

 

アブラハムはメルキゼデクに十分の一をささげ、このメルキゼデクによって祝福されました。レビ系の祭司のトップといってもいいでしょうアブラハムよりもはるかにすぐれた祭司、それがメルキゼデクでした。そして、これはイエス・キリストのひな型だということを申し上げましたが、ですから、イエス・キリストは旧約聖書の中に出てくるレビ系の祭司よりもはるかにすぐれた方なのです。

 

キリストはあなたのためにこの世に来られ、ご自分の命を犠牲にして、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。そして、今も生きてあなたのためにとりなしをしておられます。あなたの祝福を祈っておられます。あなたにどんなことがあろうとも、あなたが倒れることがないようにいつも支えていてくだいます。こんなにすばらしい救い主が他にあるでしょうか。いません。あなたの救い主は、あなたのためにご自分の命さえも捨ててあなたを愛してくださったイエス・キリストだけなのです。この方がいつもあなたとともにいて、あなたを助け、あなたを励まし、あなたを守ってくださいます。このイエスから目を離さないで、しっかりととどまっていましょう。キリストはこんなに偉大な祭司なのです。