ヘブル11章17~22節 「死を乗り越える信仰」

ヘブル人への手紙11章から学んでいます。ここには昔、信仰によって生きた人たちのことが紹介されています。前回は、アブラハムの信仰から学びましたが、今回は、アブラハムとその子イサク、そして孫のヤコブの信仰から学びたいと思います。きょうのタイトルは、「死を乗り越える信仰」です。

 

この世に生きている人は、だれでも皆死にます。そういう意味で、人間は皆、死によって限定されていると言えます。ですから、死の問題が解決されていなければ、いつも死におびやかされていて、死んだらすべてはおしまいだという思いに捕らわれていて、本当の意味での自由がないのです。そういうわけで、死の問題を解決しておくことは、極めて重要なことであると言えるでしょう。いったいどうしたら、人はこの死の問題を解決することができるのでしょうか。今日は、信仰によってこれを乗り越えた人たちのことを学びたいと思います。

 

Ⅰ.死を乗り越えたアブラハム(17-19)

 

まず、17~19節をご覧ください。ここにはアブラハムの信仰について書かれてあります。

「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」

 

これは、創世記22章に記されてあるアブラハムの生涯における最大の試練であった出来事です。それは、彼の最愛の子イサクを、神にささげるということでした。アブラハムにとってそれが特別に大きな試練であったのは、この命令が、以前神が語られた約束と矛盾するように思われたことでした。以前神は、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われましたが、ここでは、そのイサクをささげよ、というのです。それでは、いったいどのようにして神が約束されたことが実現するというのでしょうか。無理です。この子をささげてしまったらあの約束さえも反故にされてしまいます。それに、たとえ神によって与えられた命令であったとしても、その人を殺してまで神にささげよというのは普通ではありません。というのは、創世記9章6節には、「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」とあるからです。そういうことを神があえてするようにと言われたとしたら、それはいったいどういうことなのかと悩んでしまいます。それなのに、神はイサクを完全に焼き尽くすいけにえとして、殺して、ささげるようにと言われたのです。その箇所を開いて確かめてみましょう。

 

創世記22章を開いてください。2節には、「神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に連れて行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」とあります。「全焼のいけにえ」とは、新共同訳聖書では「焼き尽くす献げ物」と訳されていますが、その名の通り煙になるまで焼き尽くすささげ物のことです。ヘブル語は「オーラー」と言いますが、もともとの意味は「上る」でした。それは、自分を神にささげ尽くす、献身を表明するささげ物だったのです。ですから、ここで神はアブラハムに、確かに彼の愛するひとり子を殺して、灰になるまで焼き尽くすようにと命じられたのです。

 

いったいなぜ神はこのようなことをアブラハムに命じられたのでしょうか。1節を見ると、「神はアブラハムを試練に会わせられた」とあります。これはテストだったんですね。ここには試練とありますが、試練とはテストのことです。私たちにもいろいろなテストがありますが、どうしても外せないテスト、それが信仰のテストです。どのような時でも神に従うかどうかのテストであり、そのことを通して信仰を磨き、称賛と光栄と名誉に至らしめるものなのです。ですから、ヤコブは、信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊いと言っているのです。そのために神はアブラハムを試されたのです。

 

そのテストに対してアブラハムはどのように応答したでしょうか。信仰によって、アブラハムは試練を受けた時、喜んでイサクをささげました。それがこの創世記22章3節以降に記されてあることです。3節には、「翌朝早く」とありますが、まず、彼はすぐに従いました。もちろん、彼とて血も涙もある人間です。どうして悩み苦しむことなしに、そのようなことができたでしょうか。相当悩んだはずです。しかし、聖書は彼がどんなに悩んだかということについては一切触れずに、彼がすぐに従ったことを強調しています。それは彼が全く悩まなかったということではなく、そうした悩みの中あっても神に従ったことを強調したかったからです。

 

いったい彼はなぜそのような中でも神に従うことができたのでしょうか。それは、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考え」たからです。それは、創世記22章4、5節を見るとわかります。

「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、ここに残っていなさい。私と子どもはあそに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。」

日本語では少しわかりづらいのですが、ここには、「私と子どもはあそに行き、礼拝をして、戻って来る」とありますが、原文では、「私たちは、戻ってくる」となっています。英語ではわかりやすく、はっきりと「We」という言葉が使われています。「We will worship and then we will come back to you」です。

私たちとはもちろんアブラハムとイサクのことです。イサクをささげてしまったらイサクはもういないのですから「私たち」というのは変です。「私は」となるはずですが、「私たちは戻ってくる」と言ったのは、アブラハムの中にたとえイサクを全焼のいけにえとしてささげても、イサクを連れて戻って来るという確信があったからです。死んでしまった人間がどうやって戻って来るというのでしょうか。よみがえるしかありません。まさか幽霊になって戻ってくるわけにはいかないでしょう。つまり、アブラハムは、たとえイサクを全焼のいけにえとしてささげたとしても、神はそのイサクを灰の中からでもよみがえらせることができると信じていたのです。つまり、神には矛盾はないのです。矛盾しているかのように思われる二つの神の御言葉が、このような神の奇跡的な御業によって解決されていくのです。アブラハムはそういう信仰を持っていました。これが信仰であり、彼の信仰がいかに大きなものであったかがわかります。

 

ところで、へブル人への手紙を見ると、「これは型です」とあります。いったい何の型だったのでしょう。それはイエス・キリストです。アブラハムが愛するひとり子を全焼のいけにえとしてささげようとしたモリヤの山は、その二千年後に神の愛するひとり子イエス・キリストが、十字架で全人類の罪を取り除くために全焼のいけにえとしてささげらたゴルゴタの丘があった場所でした。すなわち、これはやがて神のひとり子が私たちの罪の身代わりとして十字架につけられ、全焼のいけにえとして神にささげられることの型だったのです。創世記22章の出来事が映画の予告編みたいなものならば、本編はイエス・キリストであったわけです。

 

この「モリヤ」という地名は、「神は先を見られる」という意味があります。神は先を見ておられる方です。神はそこでどんなことが起こるのかを十分承知の上で、それを十分踏まえたうえで、この出来事を用意しておられたのです。これはその型だったのです。すなわち、神はイエスを私たちの罪の身代わりとして十字架で死なせましたが、それで終わりではなく、このイエスを死からよみがえらせました。そして、このイエスを信じる者に永遠のいのち、死んでも生きるいのちを与えてくださるということを示していたのです。アブラハムは、その信仰によって、死者の中からイサクを取り戻しましたが、私たちもイエスを信じることによって、死者の中から取り戻されるのです。神を信じる者はもはや、死に支配されることはありません。イエスを信じる者は死んでも生きるのです。信仰によって、私たちは、私たちのいのちも死もつかさどっておられる神によって、死の恐れから全く解放していただくことができるのです。

 

ヘブル2章14、15節にはこのようにあります。

「そこで、子どもたちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになられました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれていて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

イエス様が死なれたのは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれていた私たちを解放するためだったのです。そのために、イエス様は死んでよみがえられました。この先のことを見ることができる人にとって、死は全く問題ではないのです。なぜなら、そのような人にとって死は終わりではないからです。死んでもよみがえるからです。神はその先を見ておられます。いのちも死も支配しておられる主は、あなたを死から取り戻すことができる方なのです。この信仰によって、あなたも死の恐怖から解放されるのです。

 

Ⅱ.信仰によって祝福したイサク(20)

 

次に、20節をご覧ください。ここには、「信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。」とあります。どういうことでしょうか。子どもを祝福することは、信仰によらなければできないということです。この出来事は創世記27章にありますので、ここも開いて確認したいと思います。

 

1節には、「イサクは年をとり、視力が衰えてみえなくなったとき、長男のエサウを呼び寄せて彼に、「息子よ」と言った。すると彼は、「はい。ここにいます」と答えた。」とあります。いったい何のためにイサクはエサウを呼び寄せたのでしょうか。彼を祝福するためです。そこでイサクは、彼のために獲物をしとめて、彼の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て食べさせてくれるようにと言いました。するとそれを聞いていた妻のリベカが双子の弟ヤコブに、「いま私は、あなたのお父さんが、あなたの兄エサウにこう言っているのを聞きました。」と言って、兄のエサウになりすまして、その祝福を奪うのです。結局、イサクは兄のエサウではなく、弟のヤコブを祝福しました。エサウに対しては別の形で祝福したのです。

 

このことからわかることは、人間はどんなに年をとってもやれることがあるということです。その中でも最も重要なことは、子供や孫を祝福するということです。これは親や祖父母にとって最も重要な信仰の働きの一つではないでしょうか。というのは、ここには、信仰によって、イサクはヤコブとエサウを祝福したとあるからです。これは、信仰によらないとできないことなのです。ではいイサクはどのようにヤコブとエサウを祝福したでしょうか。創世記27章を開いて確認していきましょう。

 

まず26、27節を見ると、「父イサクはヤコブに、「わが子よ。近寄って私に口づけしてくれ」と言ったので、ヤコブは近づいて、彼に口づけした。」(26、27)とあります。

イサクはまずヤコブに口づけしました。日本人の習慣には、親が子どもをギュと抱きしめたり、触れ合うというかじゃれ合うという習慣はあまりありません。まして口づけするということはほとんどないでしょう。でもイサクはヤコブに、近づいて、口づけしてくれと言って、口づけしました。その国、その国によって文化や習慣は違いますが、それがどのような形であれ子供を祝福する時の大切な原則の一つは、親密な愛情を伝達するということです。忙しいから子どもと遊べないとか、忙しいから代わりに何かを買い与えることによってその穴埋めをしようとすると、結局のところ、祝福を失ってしまうことになるのです。時にはじゃれ合ってみたり、ギュと抱きしめたり、スキンシップでも何でもいいですが、十分に時間を取って過ごすことによって子どもの心は落ち着き、愛情を身に着けていくことができるのです。

 

第二に、創世記27章27節には、「ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福した。」とあります。どういうことでしょうか。着物のかおりをかいで祝福するとは・・・。これは、健全な評価を伝達してあげることです。あなたのかおりはこれだと言ってあげることです。そこがお前のいいところだと言ってあげることですね。子どもは親がどう考えているのかを聞きたいのです。これは「臭いな、最後に風呂に入ったのはいつだ?」と聞くことではありません。正しい評価をしてあげることです。大抵の場合、親は子供がいないところで子どものことを話しますが、しかし、親同士で話し合うだけでなく、子供に向き合うことも必要です。子どもと向き合って、子どもの目をしっかりと見て、直接伝えてあげることも必要なのです。しかも子どもの悪いところではなく、良いところを見てです。とかく親は子供の悪いところばかり見がちです。あらさがしが得意なのです。弱いところばかり、足りないところばかり見て「まったくうちの子は・・・」と言ってしまう。しかし、子供には可能性があることを伝えてあげなければなりません。正しい評価を伝えてあげる必要があるのです。特に、子供に何ができたかということよりも、子どもの品性をほめてやるべきです。たとえば、あなたはこんなひどい状況の中でもよく忍耐をもって接することができたねとか、あの子が水溜りで転んだとき、「大丈夫? 」と声をかけて助けてあげたね、偉いよ・・といったことです。

 

第三に、創世記27章28節と29節には、「神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。国民の民はお前に仕え、・・・」とあります。ここでイサクはヤコブの将来について預言しています。子どもは将来のことを知りたがっています。自分は何のために生きているのか、そのために何をしたらいいのかといった人生の指針を求めているのです。ですから、おまえの生きる目的はこれだ、と示してあげなければなりません。

ここでイサクはヤコブが将来農業の分野で成功をおさめ、多くの人たちの指導者になることを預言して祝福していますが、そのように具体的に祝福することはできなくても、その方向性は示してあげることができます。「あなたが生まれたのは神を喜び、神の栄光のためよ。あなたは、神に愛されているの。だから、そのために用いられるように備えていこうね。」というように、その将来が、神の栄光のためであること、そしてそれがどのような道であっても、そのためには努力を惜しまないで祈り、一生懸命に努力しようと励ましてあげなければなりません。

 

子供に将来を伝えていくことは、決して自分のエゴを押し付けることでも、自分ができなかったことを子供によって実現してもらおうとすることでもありません。子どもの個性と資質をじっくりとみて、主のみこころは何かを祈り求めながら、その子の将来のためにできることをしてあげることです。

 

救世軍の創始者であるウイリアム・ブースは、そのお母さんがいつもこういうのを聞いて大きくなったと言われています。「ビル、世界はあなたを待っているよ。早く大きくなり、立派な人になって、世界のために働く人になってちょうだい。」それを聞いてかどうかわかりませんが、ウイリアム・ブースは、世界中の貧しい人たちのために活躍するようになりました。

 

第四に、創世記27章37節を見ると、イサクがエサウにこのように言っています。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で、彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」

イサクは、実の息子であるヤコブにだまされるというショッキングな経験をしました。もう何の祝福も残っていません。でもイサクはエサウに、私は、おまえのために、いったい何ができようか、と言っています。ヤコブにあざむかれても、何をされても、エサウに対する態度を変えませんでした。何があっても、最後まで、見捨てない、見離さないことは親にとってとても大切なことです。何があってもこどもの側に立ってあげること、何があっても子供の味方であり続けること、継続的にこどもをサポートしてあげること、最後まで子供のサイドに立ち続けること、これほど大きな励ましはありません。

 

でも、こどもは大きくなってしまったのでもう遅いと思っておられるあなた、大丈夫です。そんなあなたにもやることは残されているのです。そうです、こどもでは失敗したかもしれませんが、まだ孫がいますから、子供だけでなく孫に対してそのように接してあげたいものです。

 

イサクは、信仰によって、未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。年をとって、視力が衰え、目がかすむようになっても、まだやることがあります。信仰によって、イサクがヤコブとエサウを祝福したように、私たちも子供たちを、孫たちを、家族を、教会を祝福しなければなりません。もう年を取って、肉体的にも、精神的にも限界ですから、少し自由に生きさせてもいます、ではなくて、信仰によって子どもたちを祝福し続けていく働きが残されているのです。

 

Ⅲ.たとえ死の間際でも(21-22)

 

それは、ヨセフを見てもわかります。21節、22節にはこうあります。

「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。」

 

イサウはエサウを祝福しようとしましたが、ヤコブを祝福しました。神に選ばれたのはエサウではなくヤコブでした。そのヤコブが晩年、死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福したとあります。これは創世記48章に記されてある出来事ですが、エジプトに下って行ったヤコブは、そこで十七年生きて、百四十七年の生涯を閉じます。その死の間際に、ヤコブはヨセフのふたりの息子マナセとエフライム、つまりヤコブの孫たちですが、信仰によって祝福しました。そのことを、ここでは、自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝した、と言われています。杖とは神の権威の象徴です。つまり、彼は自分の知恵や力によってではなく、神の権威、神の力により頼んで祝福したのです。すっかり年をとって、もう肉体的にも、精神的にもボロボロどころか、死の間際でもそうしたのです。皆さん、私たちは年をとっても、いや死の間際であってもすることがあるのです。それは子供たちのために、孫たちのために祝福するということです。死の間際に、自分の生涯を振り返り、その恵みを数えて感謝することもすばらしいことですが、もっとすばらしいことは、死の間際でも、わが子を、孫を祝福することです。

 

どうしたら、そんな死に方ができるのでしょうか。ここでは、信仰によって、と言われています。皆が皆、そのように死んで行けるわけではありません。それは信仰によらなければできません。もう死が近づいたから、もうこんなに年をとったからとあきらめないでください。年をとっても大丈夫です。もうすぐ死ぬからと言っても悲観する必要はありません。あなたは信仰によって、祝福することができるのです。死の間際にあっても、まだ成すべきことがあるのです。

 

また、ヨセフも臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。そんなのどうでもいいじゃないですか。自分が死んだら、自分の骨をどうしようが、家族がどこに行こうが、残された家族決めればいいことです。それなのにヨセフは、イスラエルの子孫の脱出と、自分の骨について指図したのです。なぜでしようか。主がそのようにするようにと仰せられたからです。ヨセフは臨終のとき、何もできないと思えるような時でも、信仰によって、そのように言ったのです。

 

皆さん、私たちも年をとって、もう死が近づいて、人間的には何もできないと思うような時があるかもしれませんが、悲観することは全くありません。信仰によって生きる人にとっては、死ぬことさえも益なのですから。生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。死はもはやクリスチャンを支配することはできません。私たちも信仰を強められ、昔、生きた信仰者たちのように、信仰の殿堂入りを果たせるような生き方を目指したいと思います。