ヘブル11章23~28節 「信仰によって選択する」

きょうは、信仰によって選択する、というテーマでお話します。私たちは、日々の生活の中でいろいろなことを選択しながら生きています。それは、毎日起こる小さなことから、人生における重大な決断に至るまで様々です。そして、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)とあるように、どのように選択するかによって、その結果がきまりますから、どのような選択をするのかということは極めて重要なことなのです。

 

きょうの箇所に出てくるモーセは、まさに信仰によって選択した人と言えるでしょう。いったい彼は、どのように選択したのでしようか。きょうは、このモーセの選択からご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.信仰によって見る(23)

 

まず23節をご覧ください。「信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。」

 

ここにはモーセの信仰ではなく、モーセの両親の信仰について記されてあります。モーセの両親については出エジプト記6章20節に言及されていますが、父親の名前はアムラムで、母はヨケベテです。彼女はアロンとモーセを産みましたが、モーセが生まれた時、大変な時を迎えていました。イスラエル人は多産で、おびただしくふえ、すこぶる強くなって、エジプト全土に満ちたとき、エジプトの王パロはこのことを恐れ、これ以上イスラエル人が増えないようにと、イスラエル人に赤ちゃんが生まれたら、それが男の子であれば皆殺しにするようにと命じられていたからです。そのような時にモーセが生まれました。さあ、どうしたらいいでしょう。モーセの両親は、モーセが殺されないようにと、三か月間隠しておきました。どうしてでしょうか。それは、「彼らはその子の美しいのを見たからです。」生まれたての赤ちゃんはだれの目にもかわいいものです。特に、お腹を痛めて産んだ母親にとってはかけがえのない宝物で、いのちそのものと言えるでしょう。よく自分の子どもは目の中に入れても痛くないと言われますが、それほどかわいいものです。しかし、生まれたての赤ちゃんをよく見ると、そんなにかわいくもないのです。顔はしわだらけで、毛もじゃらで、お世辞にも美しいとは言えません。それなのに、モーセの両親はその子の美しいのを見たのです。これはどういう意味でしょうか。それは客観的に見てどうかということではなく、彼らが信仰によって見ていたからということなのです。ここで注意しなければならないのは、モーセの両親は、信仰によって、モーセの美しさを見た、ということです。

 

このことは使徒7章20節にも言及されていて、それはステパノの説教ですが、そこでステパノはこう言っています。「このようなときに、モーセが生まれたのです。彼は神の目にかなった、かわいらしい子で、三か月間、父の家で育てられましたが、」ここでステパノはただかわいいと言っているのではありません。神の目にかなったかわいい子と言っているのです。つまり、それは神の目にかなった美しさであったということです。人間の客観的な目から見たらどうかなぁ、と思えるような子でも、神の目から見たら、かわいい子であったということなのです。これが信仰によって見るということです。このような目が私たちにも求められているのではないでしょうか。

 

あなたの目に、あなたの子どもはどのように写っているでしょうか。小さいうちはかわいかったのに、大きくなったら全然かわいくないという親の声を聞くことがありますが、どんなに大きくなっても神の目にかなった美しい子として見ていく目が必要なのです。うちの子はきかんぼうで、落ち着きがなくて、駄々ばかりこねて、かんしゃく持ちなんですと、見ているとしたら、それは不信仰だと言わざるを得ません。もし、あたなに信仰があるならば、神の目で子どもを見ていかなければなりません。表面的に見たらほんとうにかたくなで、問題児のように見える子でも、神の目から見たらそうではないからです。神の目から見たらほんとうに美しい子どもなのです。そのように信仰によって我が子を見ていかなければならないのです。

 

それは自分の子どもに限らず、だれであっても同じです。あなたがあなたの隣人を見るとき、あるいは、あなたの接するすべての人間関係の中で、このような目を持ってみることが必要なのであります。相手に多少欠点があっても、このような目で見ていくなら、そこにさながら天国のような麗しい関係がもたらされることでしょう。

 

それは、その後モーセがどのようになったかを見ればわかります。モーセは守られました。そして、やがてイスラエルをエジプトから救い出すためのリーダーとして用いられていくのです。同じように、あなたが信仰によって子どもを見るなら、やがて神に用いられる、偉大な神の人になるでしょう。そのままでは滅びてしまうかもしれません。けれども、信仰によって見ていくなら、決して滅びることなく必ず神に守られる人になるのです。

 

Ⅱ.はかない罪の楽しみよりも、永遠の楽しみを(24-26)

 

次に24~26節までをご覧ください。

「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」

 

本来であれば、ヘブル人の赤ちゃんは皆殺されなければなりませんでしたが、神の奇跡的な御業とご計画によって彼は助け出されただけでなく、何とパロの娘に拾われ、エジプトの王宮で王子として育てられました。ですから、モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。しかし、彼が成人した時、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。これはどういうことでしょうか?これは、「養母を拒んだ」ということではありません。「パロの娘の子」というのは一つの肩書であり、タイトルなのであって、つまり、モーセはエジプトのパロの後継者、エジプトの王子としての地位や名誉を捨ててということです。今日で言えば、皇太子が天皇陛下になることを拒むようなものです。まして当時エジプトは世界最強の国でした。世界最強のトップとしての地位や名誉を捨てたということは、この世の栄光を拒んだと言っても過言ではないでしょう。この世の富、この世の地位、この世の名誉といったものを拒み、神の民とともに苦しむことを選び取ったのです。その道とは信仰の道のことであり、苦難の道のことです。というのは、主に従うところには必ず苦しみが伴うからです。イエス様はこう言われました。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。」(ヨハネ16:33)

また、Ⅱテモテ3章12節のところで、パウロもこのように言っています。

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」

ですから、神の民として生きる道には苦しみが伴いますが、モーセはこの道を選び取ました。なぜでしょうか。

 

26節には、その理由が記されてあります。「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったからです。」とあります

モーセは、たとえそれが世界のすべてを手に入れるような栄光であったとしてもそんなものは、はかないと思ったからです。むしろ、キリストによって受ける報いはそれとは比較にならないほどの大きな富だと思いました。ここではこの世のはかない富とキリストによって受ける報いが天秤にかけられています。そして、キリストによってもたらされる天国での報いは、パロの娘の子として受けるこの世の罪の楽しみよりもはるかに重いと判断したのです。この「はかんない」という言葉は、Ⅱコリント4章18節では「一時的」と訳されています。この世の富は一時的なもので、はかないものなのです。エジプトの栄光は人間の目で見たらものすごく魅力的に見えますが、それは一時的で、はかないものにすぎません。永遠に続くものではないのです。今が楽しくて、永遠に苦しむのか、今は苦しくても、永遠を楽しむのか、その選択を間違えてはなりません。

 

イエスさまはこのように言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」(マタイ7:13-14)

 

オランダにコーリー・テンブームという世界的に有名な婦人がいました。彼女は第二次世界大戦のとき、彼女の家族がユダヤ人をかくまったという 理由でドイツの収容所に入れられ、家族は拷問に耐え切れず収容所で死にましたが、彼女は九死に一生を得て国に帰ると、そこで神学を学び、献身して世界中を周って神の愛を語るようになりましたが、彼女はこのように言っています。

「私は33年間、イエス様のことを64か国で語り告げてきましたが、その間たった一度も、イエス様に助けを求めて後悔したという人と会ったことがありません。」

これはものすごいことではないでしょうか。それこそ確かなものなのです。

 

エクアドルのアウカ族に伝道した宣教師のジム・エリオットは、1956年にアウカ族の槍によっていのちを奪われました。28歳の時です。それゆえ、彼はジャングルの殉教者とも言われていますが、彼が22歳の時に書いた日記にこういうことばが残されていました。

「失ってはならないものを得るために、持ち続けることができないものを捨てる人は賢いな人である。」

私たちも賢い人にさせていただきたいですね。モーセのように失ってはならないもののために、自分の手の中にあるものを喜んで手放す者でありたいと思います。

 

Ⅲ.信仰によって前進する(27)

 

次に27節をご覧ください。ここには、「信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」とあります。これは、モーセがエジプト人を打ち殺した後にそのことがエジプトの王にばれたのではないかと恐れ、ミデヤンの地に逃れたことを語っています。出エジプト記を見る限りは、彼がエジプトを出たのはエジプトの王パロが彼のいのちをねらっていたので、そのことを恐れて出て行ったとあるのに対して、ここでは、モーセは、王の怒りを恐れないで出て行ったとあるので、矛盾しているように感じます。しかし、これは決して矛盾しているわけではありません。確かにモーセはエジプトの王が自分のいのちをねらっているのを知って恐れました。しかし、モーセがエジプトの地からミデヤンの地へ行ったのは、ただ恐れから逃げて行ったのではありません。そのことをここでは何と言っているかというと、「信仰によって」と言われています。それは信仰によってのことだったのです。彼は信仰によって、エジプトを立ち去ったのです。なぜそのように言えるのかというと、その後のところにこうあるからです。「目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」現代訳聖書では、こう説明しています。「まるで目に見えない神がすぐそばにいてくださるかのように前進した。」モーセは、ただ恐れてエジプトから出て行ったのではなく、まるで目に見えない神がすぐそばにいてくださるかのようにして前進して行ったのです。

 

皆さん、私たちが信仰によって進路を選択する場合、恐れが全くないわけではありません。ほんとうにこの選択は正しかったのだろうか、この先いったいどうなってしまうのだろうか・・そう考えると不安になってしまいます。しかし、信仰によって神を仰ぎ決断するなら、もう恐れや不安はありません。なぜなら、神が最善に導いてくださるからです。問題は何を選択するかということではなく、どのようにして選択したかということです。もし信仰によって選択したのであれば、たとえ火の中、水の中、そこに主がともにいてくださるのですから、何も恐れる必要がないのです。

 

最初は自分の弱さを知って尻込みしたモーセでしたが、神から強められ偉大な指導者としてイスラエルを導くために、再びこのエジプトに戻って来ることになりました。いったいだれがそのような神のご計画を考えることができたでしょうか。これが神の御業なのです。だから、これから先どうなるだろうかと心配したり、このように進んで大丈夫だろうかと恐れたりする必要はありません。最も重要なことは、どのようにして決断したかということです。信仰によって決断したのなら、主が最後まで導いてくださいます。それが結婚や就職といった人生を大きく左右するような選択であればあるほど私たちは本当に悩むものですが、そのベースにあることは信仰によって選択するということです。

 

ここには、モーセが「王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。」とあります。私たちが何かを選択するときに問題となるのは、他の人にどう思われるか、何と言われるかということを恐れてしまうことです。しかし、人を恐れるとわなにかかると聖書にあります。しかし、主を恐れるものは守られるのです。モーセは、エジプトの王がどんなに怒っても、王宮の人たちからどのように思われようとも、そのようなことを恐れないで主に従いました。それが信仰によってということです。

 

もしかしたらそのことで他の人の怒りをかってしまうかもしれません。あるいは、変な人だと思われるかもしれない。そして、その人との関係も失うことになってしまうかもしれません。でも恐れないでください。信仰によって選択し、主に従って行くなら、主はあなたの人生にも、あなたが想像することができないような偉大な御業をなしてくださるのです。

 

Ⅳ.信仰によって、キリストを受け入れる(28)

 

第四のことは、信仰によって、キリストを救い主として信じ受け入れるということです。28節をご覧ください。

「信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行いました。」

これは、過越しの出来事を指しています。イスラエルがエジプトを出る時、神はイスラエルの民をエジプトから救い出するため、指導者であったモーセをエジプトの王の所に遣わし、イスラエルの民を行かせるように言うのですが、エジプトの王はどこまでもかたくなで、なかなか行かせようとしませんでした。それで神は十の災いのうち最後の災いとして、エジプト中の初子を殺すと仰せられたのです。ただし、イスラエルの民は傷のない小羊をほふり、その血を自分の家の入口の二本の柱とかもいとに塗っておくように、そうすれば主のさばきはその家を過ぎ越し、その中にいる人たちは助かったのでした。こうして彼らはエジプトを出ることができたのです。

 

これはどんなことを表していたかというと、神の小羊であるイエス・キリストの十字架の血を心に塗ること、すなわち、キリストを救い主として信じて心に受け入れることです。あなたがキリストを信じて受け入れるなら、神のさばきはあなたを過ぎ越して、滅ぼす者の手から救われるのです。キリストはこう言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

 

ユダヤ人哲学者のマルチン・ブーマーは、「人生には出会いで決まる」と言いました。人生には大切な出会いがたくさんありますが、その中で最も大切な出会いは、イエス・キリストとの出会いです。なぜなら、それによってあなたの永遠が決まるからです。あなたがイエスを主と告白するなら、

あなたが信仰によってイエスをあなたの人生の主として受け入れるなら、あなたも永遠のいのちを受けるのです。

 

Ⅴ.信仰によってバプテスマを受ける(29)

 

最後に、29節をご覧ください。ここには、「信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。」とあります。これは何のことかというと、イスラエルがエジプトを出た後、追って来たエジプト軍から逃れようと、紅海を渡った出来事です。紅海が真っ二つに分かれ、その乾いた陸地を通って救われました。しかし、エジプト人も同じようにしましたが、彼らはその上に水がおおい、おぼれて死んでしまいました。

 

この出来事はいったいどんなことを表していたのでしょうか。Ⅰコリント10章2節には、「そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、」(Ⅰコリント10:2)をご覧ください。パウロはここで、それはモーセにつくバプテスマを受けたと言っています。ですから、あの紅海での出来事は、モーセにつくバプテスマのことだったのです。

 

バプテスマということばは「浸る」という意味のことばですが、浸るということで一つになること、一体化することを表しています。ですから、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるというのは、イエス・キリストと一つとなること、一体化することを表しています。きょうこの後でM姉のバプテスマ式が行われますが、それは何を表しているのかというと、イエス様と一つになることです。イエス様が十字架で死んだように自我に死に、イエス様が三日目に死からよみがえられたように、キリストの復活のいのちに生きることです。このようにしてキリストと一つにされ、まことの神の民として、約束の地を目指して進んでいかなければならないのです。

 

ですから、ここでイスラエルの民が紅海を渡って行ったというのは、そこで古いものを、自分の古い罪の性質を水の中に捨てて、そこから出て、神が導いてくださるところの新しい地に向かって進んで行ったということなのです。イエス・キリストとともに十字架につけられ、自分の罪はすべて葬られ古い自分はそこで死に、水から出てくる時には新しいいのちに、キリストとともに復活するのです。その信仰を表明するのがバプテスマ式です。イスラエルがエジプトを出て、古い性質を紅海に捨て、新しい地に向かって行ったように、私たちも古い性質をバプテスマのうちに捨て去り、イエス様とともに新しい性質を来て、そこから新しい地を目指し、新しい地に入る者として歩み出していきたいと思います。

 

きょうはMさんのバプテスマ式が行われますが、これはMさんだけのことではありません。私たちにも問われていることです。あなたは紅海で古い性質を捨て、神の民としての新しい性質を着ているでしょうか。あなたがバプテスマを受けたとき、あなたの古い自分を捨てて、キリストにある新しい性質を着たでしょうか。私たちはきょうそのことをもう一度自分自身に問いたいと思うのです。そして、捨てたはずの自分が、まだ自分の中心にあるなら、このバプテスマ式において、それを捨て去り、イエス・キリストと一つにされ、イエスのいのちによって新しい地に向かっての新たな一歩を歩み出していただきたいものです。これは信仰によらなければできないことです。

 

モーセは信仰によってそれを選び取ました。人間的に見たら、そこには大きな賭けがあるように見えます。ほかの人が進んでいく道を行く方が、ずっとやさしいことです。「赤信号、みんなで渡ればこわくない」とあるように、みんなが行く道を行った方がずっとやさしいのです。でも、そこにはいのちがありません。車が突っ込んできたら死んでしまうでしょう。ですから、より確かな道は、信仰によって、神が示してくださる道を行くことです。そこには大きな勇気と決断が必要ですが、信仰があれば、あなたにもできます。信仰によって生きたモーセとともに、いつも主がともにいて導いてくださったように、そうした人の人生にはいつも主がともにいて導いてくださるのです。