きょうは、ヘブル人への手紙12章4~11節のみことばから、「神の訓練」というタイトルでお話します。このヘブル人への手紙の著者は、私たちの信仰生活は長距離競争のようなもので、そこにはいろいろなことが起こってきますが、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、忍耐をもってゴールを目指し、最後まで走り続けようではないかと勧めました。イエス様をちゃんと見てれば大丈夫です。なぜなら、イエス様は罪人たちの反抗を忍ばれ、十字架の死という究極的な苦しみを味わわれた方だからです。私たちもいろいろな苦しみを経験することがありますが、そこまでの苦しみを経験したことはありません。まあ、ちょっとしたはずかしめを受けることはあっても、殴られたり、殺されたりといったことはありません。しかし、イエス様は痛められ、苦しめられ、そして最後には十字架に付けられて死なれました。これほどの苦難を受けた方はいないでしょう。しかし、それほどの苦しみを受けた方だからこそ、どんな苦しみの中にある人をも理解し、慰めることができるのです。このイエスを見るなら、あなたは心に元気をいただき、立ち上がることができるのです。
しかし、この手紙を受け取った読者たちには、ここで一つの疑問が生じました。それは、イエス様を信じることで、なぜこんなに苦しい思いをしなければならないのかということです。苦しみに会ったとき彼らの信仰は弱り始めていました。神が私を愛しておられるなら、こんな苦しみに会わせるはずがない、神は私を見捨てられたに違いないと、生き消沈していたのです。そこでこの手紙の著者は、彼らがそのような苦しみを経験しているのはなぜなのか、すなわち、それは彼らが神の子どもであり、神が彼らを愛しておられるからであることを説明し励ますのです。いったい神の懲らしめ、神の訓練とはどのようなものなのでしょうか。
Ⅰ.子として扱っておられる(4-9)
まず、第一のことは、神は私たちを子どもとして扱っておられるということです。4節から9節までをご覧ください。まず4節から6節までのところです。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』」
いったいなぜ私たちは苦しみに会うのでしょうか。それは、神が私たちを愛しておられるからです。そして、この上もない関心を持っておられるからです。ですから、もし私たちが苦しみに会うとしたら、それは、私たちは神の子として愛され、受け入れられているという証拠なのです。というのは、主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからです。これは箴言3章11,12節の引用ですが、彼らがずっと学んできた聖書の中にちゃんと記されてあったのに、彼らはその神のことばを忘れていたのです。それで、自分がこんな苦しいのはあんなことをしたからだ、こんなことをしたからだ、だからこういうことが起こっているんだと思っていたのです。違います。あなたがそんな苦しみに会うのはあなたのこれまでの行いに対して神が怒っておられるからではなく、神があなたをご自分の子として扱っておられるからであり、あなたをこよなく愛しておられるからなのです。なぜなら、主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからです。
それは親が子どもをしつけることと同じです。7,8節をご覧ください。子どもを懲らしめることをしない父親がいるでしょうか。もしいるとしたら、それは私生児であって、ほんとうの子ではないということです。私生児というのはあまり聞かないことばですが、法律上の婚姻関係にない男女の間に生まれた子どもで、父に認知されていない子どものことを言うそうです。ですから、ほんとうの子どもではないので本来受けるはずの懲らしめを受けることができません。そして小さい時にそのようなしつけを受けられないと、その子どもの心は歪み、勝手気ままになり、やがて破壊的な行動に発展することさえあるのです。
聖書には、「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23)とありますが、人はみな生まれながら罪を持っているので、何が良いことで正しいことなのかがわかりません。ですからだれからも教えられていないのに悪いことをするのです。それは人が生まれながらに悪であり、何が正しいことなのかを知らないので、自己中心的になっているからなのです。ですから、何が良いことで正しいことなのか、何が悪いことなのかを教えてあげなければなりません。子どもが悪いことをすればそれが悪いことであるということを理解させなければならないのです。そして、悪いことを繰り返さないように、根気よく、しつけなければならないのです。・・・しなさいとか、・・・しなきゃだめだよ、というのは、口うるさいかもしれませんが、いくら口うるさいと言われても、わかるまで何度も何度も言って教えてあげなければなりません。もしことばで教えてもわからないときは、あるいは命の危険を感じるような時には、たたいてでも教えてあげなければなりません。ただし、その場合でも感情的にならないように、また、子どもに恐怖心を与えないように十分注意しなければなりません。
私たちは、言葉で言っても聞かない時、あるいは、命の危険がある時にはたたいてでもしつけることにしましたが、どちらかというと家内は言うことを聞かない時には、言うことを聞くまで何度も繰り返して言い聞かせていたように思います。でも車が来ているのに平気で横切ろうとしたり、命の危険を感じるようなときには、スパンクをしてでも教えてわからせました。普通はやらないので、やる時はすごいですよ。見ている側で涙がでるほどでした。娘のおしりをたたくってどんなに苦しいことかと思いますが、どうしてもしつけたい時にはたたいて教えることもあるのです。でもそれは子どもを虐待することとは違います。虐待は暴力であり、子どもに恐怖心を与えることですが、子どもを懲らしめことは、子どもを愛し、子どもに正しいことを教えるために行うものです。ですから、子どもはそれが自分のためにやっているということがわかるので、その時は、「いちいちうるさいなあ。」とか、「本当に面倒くさい。」、「何かあるとすぐにガミガミ言うんだから。」と思うかもしれませんが、後になると、「ああ私のためにやってくれたんだ」ということがわかり、心から親を尊敬するようになるのです。しかし、たとえむちを加えるようなことがあっても、小学校に入るまででした。あとは言葉だけで十分なんですね。
いずれにせよ、あなたに苦しみに会うのはあなたが神に見捨てられているからでも、過去のことで罰を受けているからでもありません。あなたが苦しみを受けているとしたら、それは神があなたを愛し、あなたを子として扱っておられるからなのです。あなたが立派なクリスチャンとして成長するために、あえて懲らしめを与えておられるのです。であるならば、私たちはたとえ困難や苦しみにぶつかることがあったとしても、この神の愛を確信して、ゴールに向かって走り続けていきたいと思うのです。
Ⅱ.ご自分の聖さにあずからせるために(10)
次に10節をご覧ください。ここには、神が私たちを懲らしめる理由が書かれてあります。それは、私たちをご自分の聖さにあずからせるためであるということです。
「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分の良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分のきよさにあずからせようとして、懲らしめるのです。」
人間の父親は不完全なので、自分が良いと思うまま懲らしめるのですが、そこには間違いもあります。けれども、私たちの霊の父である神様は、完全な方であり、間違いのない方なので、本当の意味で、私たちにとって、益となるために懲らしめるのです。それは私たちをご自分の聖さにあずからせるためであるということです。私たちのクリスチャンライフの目標は、キリストのようになるということです。キリストに似た者になること、キリストのご性質に変えていただくということです。いったいどうしたらそのようになるのでしょうか。それは苦しみを通してです。苦しみを通して私たちの品性を整えてくださるのです。だからパウロはこう言っているのです。ローマ5章3~5節です。
「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」
パウロは、キリストによって神の子とされたということ、神との平和を持っているということを喜びましたが、それだけではく、患難さえも喜んでいると言いました。なぜなら、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っていたからです。どうやってキリストのような品性、愛、聖さ、心の広さを持つことができるのでしょうか。患難によってそのような品性、そのような人へと整えられていくのです。
アブラハムの孫で、イサクの子であったヤコブは神と格闘して、もものつがいがはずされてしまいました。それは彼の力が砕かれたことを意味します。彼のプライド、自信、能力、自己主張、自慢、肉の性質のすべてが砕かれたのです。それで彼は自分の力ではやっていけないことを悟り、神の力に全面的により頼む者に変えられたのです。人間的にずるがしこい者から神によって勝利する者、イスラエルへと変えられたのです。
またモーセは、人々から羨望のまなざしを向けられていた栄光の人生を歩んでいましたが、だれにも知られない孤独の荒野の人生に導かれることによって、へりくだること、従順を学びました。このように患難や苦しみを通して、私たちの品性は磨かれ、整えられ、神の聖さにあずかるようになるのです。
福島第一の半谷さんという姉妹は、入信の当初から厳しい主の訓練を受けました。田舎の檀家総代の長男の嫁として嫁いだため、キリスト教徒になることが許されず、即離縁して出て行くようにとお姑さんから言い渡され、それ以来、半年間大家族の中で口をきいてもらえなかったと言います。けれども、そのことが彼女の信仰を筋金入りにする素晴らしい恵みの機会となったのです。
世界的に有名なリバイバリストであったD.L.ムーディーの母親は、夫が五人の子どもを残して亡くなりましたが、少しも落胆したり、失望したりすることなく、苦しい生活の中にあっても、子どもたちに信仰による教育を与えました。彼女は、子どもたちを孤児院に入れるようにという勧めを断り、次のように言いました。「私の両腕が生きて私についている限り、私の子どもを孤児院や親戚に送ることはできません。母親ほど、子どもを思い、子どものために祈ってやれる人はこの世のどこにもいないのですから。」やがて彼女の子どもたちの中から、アメリカとイギリスをゆさぶった偉大な主のしもべ、ムーディーが誕生したのです。
ですから、苦しいからとあきらめないでください。いったいその苦しみは何のためなのかを覚えていただきたいのです。そしてそれは神があなたをご自身の聖さにあずからせようとしてあなたに与えておられる賜物なのです。それがわかったら、あなたはむしろ喜んでそれを受け止めることができるのではないでしょうか。
トルストイの「靴屋のマルチン」は、おじいさんが奥さんを亡くし、さらに一人息子も病気で失い、生きる力を亡くしているところから始まります。ところが、聖書を読むように示されて読み始めると、不思議な生きる力が内から沸き上がるのを体験するようになるのです。
聖書の語る希望は、災いや困難から守られた無菌状態での希望ではありません。かえって、試練の中でどうして立っていられるのだろうかと思うような、天来の力に満ちた希望なのです。泥水の中に身を置いてなおキリスト者は、いぶし銀のような信仰からくる希望の花を咲かせることができるのです。
Ⅲ.平安な義の実を結ばせる(11)
最後に、このように神の懲らしめを受けた人々はどうなるのかを見て終わりたいと思います。11節にはこうあります。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
これはスポーツでも、勉学でも、ビジネスでも、どの世界でも同じですが、その過程、プロセスにも痛みが伴います。スポーツのトレーニングで、筋肉に負荷をかけない限りは、筋力はついてきません。筋肉を傷めることで、筋肉が強くなっていくのです。同じように、信仰も負荷をかけることによって強くなっていきます。その負荷こそ懲らしめ、苦難なのです。それはそのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に、平安な義の実を結ばせるのです。
ある人々は、苦しみを避けたいと考えます。苦しみは自分の穏やかな信仰生活を破壊するかのように思えるからです。だから、できるならあまり問題や煩わしいことに関わりたくないと思うのです。しかしながら、苦しみは信仰を破壊するどころか、かえって強くします。苦しみは神との交わりから私たちを遠ざけるのではなく、むしろ神との交わりを強固なものとし、神なしには生きられないということを体験させてくれるのです。こうして、私たちが神の御心にかなった信仰生活を送れるようにしてくれるのです。
余り賢くない親は、子供を育てる時、子供の前に置かれている障害物を取り去り、なるべく楽なコースを歩めるようにしてやることが良いことだと考え、いろいろ手を貸し、子供を助けようとしますが、それは決して良いことではありません。それによってひ弱で、自分のことしか考えられないようなエゴイストになってしまうからです。よく「かわいい子には旅をさせろ」ということわざがありますが、子供が可愛いと思うなら、甘やかして育てるのではなく、世間の厳しさを教えて育てた方がしっかり育つのです。ディズニーの「ライオンキング」を思い出します。「百獣の王ライオンは、我が子を谷底に落とし、這い上がってきた子供だけを育てる」のです。自分の子どもがかわいいと思うなら、むしろそこに適当な障害物を置いてやり、それを自分で乗り越えて行けるように仕向けなければならないのです。苦しみを経験した人でなければ、苦しんでいる人の気持ちを本当の意味で理解することはできません。苦しんだことがある人は、苦しんでいる人に対する思いやりを持つことができ、あわれみ深い人になることができるのです。
神が与えてくださる苦しみもそれと同じでそれをまともに受け止める人は、神の御心にかなった人になることができるわけです。わざわざ誰かに障害物を置いてもらわなくても、最初からそこに障害物があるということは、そのことを自然に学ぶことができるわけですから、それほど感謝なことはないのです。それゆえ、詩篇の記者はこう言ったのです。
「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びまた。」(詩篇119:71)
苦しみに会ったことは、私にとって不幸なことでした、ではありません。幸いなことでした。なぜなら、あなたのことばを学んだからです。神がどのような方であるかを学んだ。神がいかにあわれみ深く、恵み深いかを学びました。神がどれほど私を愛しておられるのを学びました。私たちは神のことをもっと知りたいと思ってもなかなか知ることができませんが、苦しみを通してそれがわかった。それは幸せではないでしょうか。
そして、これによって訓練された人々に、平安の義の実を結ばせるのです。平安の義の実とは何でしょうか。これは直訳では、「義という平安の実」となります。それは神の御心を意味します。それは平安をはじめとする御霊の実を意味すると言ってもいいでしょう。つまり、神が与えてくださる苦難や試練を嫌がらずに受け止める時、御霊の実を豊かに結ぶ神の御心にかなった人、イエス様のような人になることができるということです。
であれば、どんな苦難の中にあっても、どんな試練が襲いかかろうとも、何度倒れても立ち上がり、信仰のレースを、忍耐をもって最後までゴールを目指して走り続けようではありませんか。それができるようにと、主イエスはいつもあなたのすぐそばにいて、あなたを助けておられるのです。