申命記25章から学びます。まず1節から4節までをご覧ください。
1.正しい判決に従う(1-4)
「人と人との間で争いがあり、彼らが裁判に出頭し、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判決が下されるとき、もし、その悪い者が、むち打ちにすべき者なら、さばきつかさは彼を伏させ、自分の前で、その罪に応じて数を数え、むち打ちにしなければならない。四十までは彼をむち打ってよいが、それ以上はいけない。それ以上多くむち打たれて、あなたの兄弟が、あなたの目の前で卑しめられないためである。脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。」
人と人との間に争いがあった場合、彼らは裁判に出廷し、判決を受けなければなりませんでした。そして、悪い方を悪いとする判決が下さるとき、その罪に相当する刑罰(むち打ち)を受けさせなければなりませんでした。そうでないと、人々が罪を犯すことをためらわなくなるからです。この単純で明瞭なことが人のかたくなさによって無視されることで、社会の秩序がどれほど崩されていることでしょう。
しかし、このように公義が行われる時でも、憐みを忘れてはなりませんでした。どんなにむちを打つ場合でも、四十を越えて打ってはなりませんでした。それは非人道的な処置となるからです。公義が行われる時でも、憐みを忘れない神の姿は、私たちにとっても必要なことなことです。
4節には、「脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。」とあります。くつことは、牛や馬の口にはめる「かご」のことです。これをつけることによって、牛や馬が食べられないようにしたのです。脱穀の作業というのは、なかなかの重労働で、重い石臼を引いてえんえんと回るわけですから疲れます。それは牛とか馬といったたとえ引く力の強い動物であっても同様で、喉が渇いたり、おなかがすいたりするわけです。それで脱穀でこぼれた麦を食べようとするのですが、そのこぼれた麦でさえ食べないようにと、その口にくつこをかけたのです。
しかし、ここでは、そのように脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならないと命じられています。たとえ家畜であっても、そうした冷酷な扱い方をしてはならないのです。たとえ動物であっても一生懸命、汗だくで働いてくれるからこそ自分たちは食べることができるのであって、せめて落ちた小麦ぐらいは牛に食べさせてあげなさい、くつこをといてあげなさい、というのです。
パウロは、この箇所を引用して、主の働き人がその働きによって報酬を得るのは当然である、と語っています。(Ⅰコリント9:9、Ⅰテモテ5:18)霊の働きに携わる牧師や長老が、金銭的な報酬を得るのは当然のことだというのです。牧師は金銭的な報酬のために働いているわけではないので、それが当然だと考えることが正しいかどうかわかりませんが、少なくとも神の民であるクリスチャンがそのような認識を持つことは大切なことだと思います。なぜなら、そのような考えをしっかりと持つことによって自覚と責任が生まれ、神に喜ばれるような信仰へと成長していくことができるからです。
2.家系の継承(5-12)
次に5節から10節までをご覧ください。「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし、彼が、「私は彼女をめとりたくない。」と言い張るなら、その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」彼の名は、イスラエルの中で、「くつを脱がされた者の家」と呼ばれる。」
これはレビラート婚というユダヤ人の特殊な婚姻法です。これは、当時の社会的な状況を考えなければ理解することができません。当時、家系を継承させるということはとても重要なことでした。なぜなら、各家系単位に、相続地が割り当てられていたからです。ですから子孫がなければ土地を相続することができなくなり、したがって、生計の手段を失うことになったのです。このような措置が命じられている理由は、後継ぎを生むことなく夫を失った妻を保護するための神のあわれみのためでした。ですから、兄の妻を妻として受け入れないなら弟は訴えられ、公衆の面前で「兄弟の名をイスラエルの中に残すのを拒む者」と呼ばれ、兄嫁から顔に唾をかけられ、靴を脱がされて、弟の子孫も「靴を脱がされた者の家」と呼ばれたのです。
「ふたりの者が互いに相争っているとき、一方の者の妻が近づき、自分の夫を、打つ者の手から救おうとして、その手を伸ばし、相手の隠しどころをつかんだ場合は、その女の手を切り落としなさい。容赦してはならない。」とは、ありふれた行動ではないにしても、時々このような事件が起こったのでしょう。そして、このような行為に対して容赦のない処罰が下されたのは、先の、イスラエルの名を残さなければならないことと関係があったからだと思われます。つまり、隠しどころをつかむことは、その男が子孫を残すことを阻むことを意味しているということです。したがって、その罰は厳しく、手を切り落とさなければならないほどでした。
3.正しい秤(13-16)
次に13節から16節までをご覧ください。
「あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。あなたは家に大小異なる枡を持っていてはならない。あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。すべてこのようなことをなし、不正をする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。」
ここには、物を売買する時、正しい重り石と枡を使用するようにと命じられています。なぜなら、神は正しい売買を喜ばれ、そのようにする者たちを祝福し、反対に不正を忌み嫌われるからです。それは、レビ記19章2節に、「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」とあるとおりです。主は全く聖なる方であるので、そのような不正を嫌われるのです。私たちは、大小異なる天秤をよく手にしているのではないでしょうか。たとえば、人には厳しいはかりを持っていて、自分には優しいはかりを持っていることです。人をさばくことを、私たちはしばしばします。けれども、神は公正な方です。へこひいきをされずに、人をさばかれるのです。イエス様も、「あなたがたは、人を量る計りで、自分の量り返してもらうからです。」と言っているように、私たちがどのような量りで量るかが重要なのです。
4.アマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない(17-19)
最後に17節から終わりまでをご覧ください。
「あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。」
アマレク人は、イスラエル人がエジプトを出てから、レフィデムに留まっていた時、攻撃してイスラエルと戦いました。その時モーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルの中から幾人かを選び、アマレクと戦うようにと命じました。その時モーセは丘の頂に立ち、神の杖を持って祈るからです。ヨシュアはモーセが言ったとおりに出て行き、モーセとアロンとフルは丘の頂に登りました。そして、モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になりました。それで、モーセの手が下がらないようにと、片方の手をアロンが、もう片方の手をフルが支えたので、イスラエルはアマレクに勝利することができました。そのとき主がモーセに言いました。「このことを記録として、書き物に記し、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」(出エジプト17:14)
しかし、その後イスラエルがカデシュ・バルネアで、神の命令に逆らって約束の地に上っていかなかったとき、彼らは向きを変えて出発しなければなりませんでした。長い40年の荒野の旅の始まりです。しかしその中に、自分たちは罪を犯したのだからとにかく主が言われた所へ上って行ってみようという人たちがいて、それに対してモーセは「上って行ってはならない」と言っても、彼らは従いませんでした。そして、上って行った結果、このアマレク人とカナン人に打ち倒されてしまいました。(民数記14:43)ですから、このアマレクを絶滅し、その記憶を天の下から消し去らなければならないのです。
つまり、アマレクはイスラエルにとって食うか食われるかの相手であって、根絶やしにしなければ絶えず彼らを脅かし、襲いかかってくるのです。それで、主はサムエルをとおして、サウルに、アマレクを徹底的に打ち滅ぼすように命じましたが、サウルは、アマレク人を打ち倒したものの、家畜が欲しくなって生かしたままにしておき、またアマレク人の王を殺しませんでした。結局、このことがサウルをイスラエルの王位から退かせる原因にもなったのですが、そのようにアマレクは絶えず神の民に戦いを挑んでくるのです。そういう相手を完全に根絶やしにしなければなりません。
それが悪魔の策略なのです。アマレクがイスラエルの弱いところに攻撃してきたように、悪魔は絶えず私たちの弱いところに襲いかかってきます。そのような敵である悪魔に勝利するための一番良い方法は、根絶やしにするということです。そのためにキリストは十字架で死なれ、三日目によみがえってくださいました。イエス様は完全に悪魔に勝利されました。この神の力をもって悪魔に立ち向かっていかなければなりません。私たちにとって必要なのは、罪に対しては死んだものとみなすことです。生かしておいてはいけません。根絶やしにしなければならないのです。そうでないと、悪魔がたえずやって来てあなたのいのちを脅かしてしまうからです。そのためには、神に従わなければなりません。自分の思いや考えに頼るのではなく、神に従い、悪魔に立ち向かわなければなりません。それこそが、神の民であるクリスチャンが約束の地で勝利ある人生を送るための最大の秘訣なのです。