ヘブル12章12~17節「神の恵みから落ちないように」

きょうは、「神の恵みから落ちないように」というタイトルでお話したいと思います。信仰生活はよく長いマラソンのレースにたとえられますが、その長いレースの途中にはほんとうに苦しいことが多く、最後まで走り続けることはそんなに楽なことではありません。この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちも度重なる迫害や困難の中で、霊的にかなり疲れが出ていました。マラソンの場合そうですが、出発する時はだれもが元気一杯に勢いよく飛び出すものですが、やがて二十キロ地点、三十キロ地点になりますと先頭集団との間にかなりの距離が出きて来て、もうついてはいけない思い脱落していくように、彼らも霊的にかなり疲れ、衰弱していました。手は弱り、ひざは衰えて、ついには集会に出席することさえ止めるようになっていたのです。それはマラソンでいうなら途中棄権の一歩手前という状態です。そこでこの手紙の著者はそんな彼らを励まし、だれも神の恵みから落ちることがないようにと勧めるのです。いったいどうしたら最後まで走り抜くことができるのでしょうか。きょうはそのために必要な三つのことをお話したいと思います。

 

Ⅰ.まっすぐにしなさい(12-13)

 

まず、第一のことは、まっすぐにしなさいということです。何をまっすぐにするのでしょうか。弱った手と衰えたひざです。また、自分の前に置かれた走路、道ですね、それをまっすぐにしなければなりません。12節と13節をご覧ください。「ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道をつくりなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。」

 

この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは相当疲れ果てていました。手は弱り、ひざは衰え、足はなえて関節をはずす一歩手前になっていました。どうして彼らはそれほどまでに弱り果てていたのでしょうか。それは、彼らを弱める者がいたからです。それは悪魔であり、その手下である悪霊どもです。悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。彼らにいろいろな困難が起こるようにして、彼らの霊的力を弱めようとしていたのです。しかし、彼らの手足が弱り果てていたのはそうした悪魔の巧妙な働きもさることながら、この文脈から考えると、特に二つの原因があったことがわかります。一つは、1節に「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」とあるように、そうした重荷や罪とを捨てることができなかったことです。そのため彼らの手足は完全に麻痺し、だらけてしまったのです。もう一つの理由は、5節に「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。」とありますが、それを神の懲らしめとして受け止めることができなかったことです。それで彼らはいつまでもいじいじして、立ち上がることができないでいました。

 

そのような彼らに必要だったのはどういうことでしたか。ここには、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにすることでした。また、彼らの足のためには、まっすぐな道を作るということでした。なぜかとうと、そのようにすることによって、彼らのなえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるからです。

 

これはとても大切なポイントではないかと思います。普通、私たちはだれかが霊的に疲れているとか、いろいろなことで落ち込んでいるとき、どうやってその人を励まそうとするかというと、その人に同情することによって励まそうとすることが多いのではないかと思います。「それは大変ですね、しばらくゆっくり休んでください」とか、「気分転換に自分の好きな事でもしてみたらどうですか」というふうにしてです。勿論、時にはそのようにして相手の気持ちに寄り添ってあげることは大切ですが、必ずしもそのようにすることによっていやされるかというとそうでもなく、そのようにすることによってかえって深い溝にはまってしまうことも少なくありません。では聖書はそのような時にどのようにするようにと勧めているかというと、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにするようにと勧めています。つまり、あなたが疲れ果てているなら、もうだめだと思うなら、その弱った手と衰えたひざとをまっすぐにするようにと言うのです。あなたのなえた足が関節をはずさないため、いやむしろいやされるためです。実際のところ、何もしないでいることが問題をもっと悪化させたり、回復をもっと遅らせてしまうことがあります。それはもっと弱らせてしまうことになるからです。手足が衰えた時、心が落ち込んだ時に必要なことは、そうした手足をまっすぐにすることです。そうでないと歩くことがおっくうになってきて、そのうちに本当に歩けなくなってしまうことにもなりかねません。

 

私は、今年始まってすぐに胆のうを摘出しました。胆石が悪さをしてしばしば発作を起こすので、一番の解決は胆のうを摘出することだと医者から言われ、そうすることにしたのです。数年前に一度手術をする予定でしたが病院の都合で手術が延期となったので、これはしばらく様子をみなさいということだと勝手に思い込み、というか手術がこわかったので、病院から抜け出しましたがその後も何度か発作に見舞われたので、これはしょうがないなぁと観念して手術を受けることにしたのです。医師の説明によると、これは腹腔鏡によって行われるので楽ですよと言われたのですが、実際は思っていたよりもひどく、麻酔がきれる頃は熱で意識がもうろうとしたほどです。それに身体中に点滴の管とか、血栓予防のマッサージなども取り付けられて身動きできない状態で、一日がとても長く感じられまた。その時、医者が信じられないことを私に言いました。「大橋さん、明日には歩けるようになりますからね。」明日には歩けるようになりますからと言われても、こんな状態でどうやって歩けというのか、無理でしょう、と思いましたが、医師の説明によると、最近の医学では、手術後、できるだけ早くリハビリした方が回復も早いということで、翌日には歩くようにしているということでした。何もしないでじっとしている方が、むしろ身体には悪いというのです。なるほど、じっとしていた方が身体にはやさしいのではないかと思われがちですが、実際には逆で、身体を動かした方がいいのです。

 

それは霊的にも言えることで、私たちの心が疲れ果ててもう立ち上がれないというときや、霊的に落ち込んだときに、もうだめなんですとじっとしていると逆に筋肉が硬くなって、なかなか立ち上がれなくなってしまいます。そのような時にしなければならないことは何かというと、その弱った手と衰えたひざをまっすぐにすることなのです。

 

それでは、その弱った手と衰えたひざとをまっすぐにするとはどういうことでしょうか。このまっすぐにするということばはルカの福音書13章13節にも使われていますが、そこでは「腰が伸びて」と訳されています。18年もの間、腰が曲がったままであった女性がイエス様のところに行くと、イエス様は彼女に、「あなたの病気はいやされました」と言って、手を置かれると、彼女の腰はたちどころに伸びたのです。彼女はどのようにして腰が伸びたのでしょうか。それはイエス様のところへ行ったからです。彼女はイエス様に呼び寄せられたとき、そのことばに従ってみもとに行ったので、いやされたのです。イエス様はこう言われました。

 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのころに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

 

いやされるために必要なことは何もしないでいることではなく、イエス様のもとに行くことです。そうすればイエス様がいやしてくださいます。イエスのもとに行くなら、イエスがあなたの弱った手と足をいやし、強めてくださるのです。

詩篇103篇3~5節にはこうあります。主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされるからです。あなたの若さは鷲のように、新しくなるからです。(詩篇103:3-5

また、イザヤ書53章4~5節にはこうあります。イエス様はあなたの病を負い、あなたの痛みをになったからです。彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれました。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼のうち傷によって、私たちはいやされたからです。(イザヤ53:4-5)

ですから、イエス様のもとに行くなら、だれでもいやされるのです。

 

あなたはイエスのもとに行って、あなたの重荷をおろしていますか。あなたの弱った手と衰えたひざとをまっすぐにしているでしょうか。だったらどうしてこんなに苦しまなければならないのでしょうか。どうしていつまでも困難や苦しみが続くのでしょうか。それはあなたがイエス様のところに行っていないからです。イエス様を信じますと言いながらも、実際にはイエス様のことばよりも他の人のことばを頼りにしているからです。それは短い毛布のようで、あなたを温めることはできません。あなたが真にいやされたいと願うなら、イエス様のところに行かなければなりません。イエスのもとに行ってイエス様をほめたたえ、イエス様に祈り、イエス様のみことばをいただくなら、あなたはいやされるのです。

 

また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作らなければなりません。これは、あなたの道を整えなさいということです。信仰のマラソン競争をする上で障害となるもの、つまずきとなるもの、誘惑となるもの、足を引っ張るものがあるならそれらを取り除いて、まっすぐな道を整えなさいということです。これがないと困るんです、私にはそれが必要なんですと、長年執着してきたものに未練を残してはいけません。不要なものは一切捨てなければならないのです。そうでないと、あなたはいつも後ろ髪を引かれるようになかなか前に進んでいくことができないからです。

 

Ⅱ.平和と聖さを追い求めなさい(14)

 

第二のことは、平和と聖さを追い求めなさい、ということです。14節をご覧ください。ここには、「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とあります。これは、どういうことでしょうか。

 

信仰のレースにおいて邪魔になるもの、重荷になるものは捨てなければなりませんが、逆に良いものは取り入れなければなりません。ここにはその取り入れるべき二つの良いものが取り上げられています。それはすべての人と平和を保つこと、そして聖められるということです。

 

まず、すべての人との平和を追い求めなさいとあります。一部の人とか気の合う人とだけでなく、すべての人との平和を求めなければなりません。信仰生活において疲れ果ててしまう大きな原因の一つに、人間関係がうまくいっていないことがあります。ですから、すべての人と平和であることは大切なことで、それを追い求めるようにと勧められているのです。信仰生活がマラソンの競争にたとえられているからといっても、そこに競争があるわけではありません。競争があるとお互いに勝ち負けを争うようになり、敵対関係を作ることになってしまいます。そういう生き方には安心感とか喜びといったものはなく、いつも孤独と不安にさいなまれることになってしまいます。しかし、信仰生活における原理は競争ではなく共生であり、ほかの人を蹴落とすことではなく、ほかの人と一緒に生き、天国を目指してお互いに助け合うものです。ですから、すべての人との平和を追い求めていく必要があるのです。

 

どうしても赦すことができない人とどこかでばったり顔を合わせた時に、そこから逃げ出したくなるような生き方に、本当の自由や喜びがあるでしょうか。パウロは、「自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ12:18)と言っていますが、少なくても自分に出来ることにおいては、すべての人と平和を保つことを求めていかなければなりません。

自分はそのつもりでいても必ずしも相手がそれに応じようとしない場合もありますからうまくいかない場合もありますが、自分にできないことは神様にゆだねて、自分にできることとして、自分にできる限りは平和を保つようにベストを尽くすことが求められるのです。勿論、信仰に関することは妥協してはいけませんが、意外とそうでないところで自分を主張して争っていることがあるのではないでしょうか。そのような態度は百害あって一利なしで、何の益ももたらしません。イエス様も、「平和をつくる者は幸いです。」(マタイ5:9)と言われました。私たちは無用な争いを避け、平和をつくることを求めていかなければならないのです。そのためには、聖霊の力をいただかなければなりません。それは自分の力ではどうすることもできないことだからです。ですから、イエス様が平和を備えてくださいました。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、敵意を廃棄してくださいました。このイエスを見上げるなら、聖霊の神がそれを可能にしてくださいます。

 

それからもう一つのことは、「聖められることを追い求めなさい」とあります。聖められることとはどういうことでしょうか。この「聖い」という言葉は、「清い」と少し違います。「清い」とは、よごれ、にごりなどがなく美しいこと、心に不純なところがないこと、清廉潔白を意味しますが、「聖い」とは、「区別する」という意味があります。英語ではHolyです。CleanとかPureではなくHolyなのです。この書物が何ゆえに「聖書」と呼ばれるのかというと、それはこの世の書とは異なっている書だからです。区別された書だからなのです。聖書は人が考え出した本ではなく、神ご自身が自らを啓示された書という意味で、区別されているのです。ですから、普通に私たちが本を読むように読んでも理解できません。なぜなら、聖書は神の息吹によって書き記されたので、同じ神の息吹(聖霊)を受けなければ理解できないからです。たとえ、大学の教授であっても、神の息吹を受けていなければ、トンチンカンな理解しかできません。それは光がなくて読むようなものです。ですから、あてずっぽうで、的を射てはいません。神がそのようにしたのです。

 

被造物と区別された聖なる神が、人やモノとかかわりを持たれる時、はじめてそれらが「聖なるものとなる」ということが可能になります。つまりこのヘブル12章14節の「聖なるものとなることを追い求めなさい」というのは、聖なる神とかかわった私たちが、そのかかわりにふさわしく生きることを意味しているのです。それを別な言葉で表現するなら、「聖別」ということばで表わされます。それは神の聖にならった倫理的生活のことで、きよい生活、この世にありながら、この世のものではない生き方、神のみことばに従った生活を意味しています。

 

たとえば、私たちは今こうして礼拝をささげていますが、なぜ礼拝をささげるのでしょうか。それは神を最優先にして生きているからです。この世にあってはいろいろな用事で日々忙しく走り回っていますが、その中にあって神を神として認め、この神を中心にして生きているという信仰の表明として礼拝をささげているのです。だれも暇なひとなどいないでしょう。みんな忙しくしています。しかし、その忙しさの中にあっても神を神として敬っているからこそ礼拝をささげるのです。だからこれを「聖別」というのです。この世と区別するのです。私たちは神に贖われた者として、神のものとして生きているので、この時間を神にささげるのです。もし余った時間、疲れて消耗しきった時間だけを神にささげて、「神さま。どうぞ言いたいことがあったら言ってください。」というのであれば、どんなに神様が語りたくても語りたくなくなります。自分のためには多くの時間を使いながら、神との時間のためには、わずかな時間しか割り当てられないとしたら、神からの良いものを得ることは期待できるはずはありません。

 

この世とのかかわり方においてはどうでしょうか。神から贖われたもの、神の所有の民として、神が願っておられるように生きているでしょうか。この世の価値観ではなく、神の価値観を持って生きているでしょうか。神の価値観が社会の風潮と相反するものだと分かっても、その価値観をしっかりと握って生きているでしょうか。

 

たとえば、ザーカイは取税人で金持ちでしたが、当時取税人というのはイスラエル人でありながらローマに協力して税金を取り立てていました。多くの場合、不正をして必要以上に税を取り立て、ローマに渡す以外のお金を自分たちで着服し、金持ちになっていました。ですからその不正直さとローマに協力したという理由でイスラエル人から嫌われていました。そのようなところにイエス様がやって来られると、いちじく桑の木に登って見ていたザーカイに向かって、「ザーカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われました。私はこれってものすごいことだなぁと思いました。もちろん、ザーカイと名前を呼ばれたということもすごいことですが、それよりも、このザーカイが取税人でみんなから嫌われていたことを百も承知のうえで彼の名前を呼ばれ、彼のところに行って客となられたことです。案の定、それを見ていた人々はつぶやいて言いました。「あの方は罪人のところに行って客となられた」

皆さんだったら行きますか。みんなから白い眼で見られ、みんなから嫌われている人の友となることをされるでしょうか。しないと思います。そんなことをしたら自分も白い眼で見られ、自分の立場が悪くなるだけです。けれども、イエス様はそうされました。イエス様は罪人の友となられたのです。本当に救いが必要な人というのはこのような人であることを示されたのです。私たちはむしろこういう人たちを受け入れ、こういう人たちのところに行って友とならなければならないのです。それはこの世の見方、考え方とは全く逆かもしれません。しかし、この世がどのように見ようとも、私たちはこの世の見方ではなく、神の見方、イエス様の見方で物事を見なければならないのです。それが聖であるということです。

 

神の民とされた私たちは、海の上に浮かぶ小さな船のようなものです。水の上に浮いて限りは大丈夫ですが、ひとたび船の中に水が入ってくるならば、沈むのは時間の問題です。もし私たちの舟の中にこの世の水を入れるなら、その船は沈むしかありません。私たちはこの世にあって、この世のものではないという生き方が求められているのです。その生き方がどのようなものか、私たちは聖書の歴史を通して学ばなければなりません。聖書はこの世とは区別された書、聖なる書であるからです。

 

なぜ私たちは聖められることを追い求めなければならないのでしょうか。それは、聖くなければ、だれも主を見ることができないからです。イエス様もこう言われました。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るから。」(マタイ5:8)神を見るためには、心がきよくなければならないのです。

 

イスラエルが40年の荒野の放浪生活が終え、いよいよ約束の地カナンに入っていく時を迎えていた時、イスラエルは南のシナイ半島の荒野からカナンの地に入るために、ヨルダン川の東の方に移動していきました。そしてエモリ人の王シホンとバシャンの王オグを打ち破ると、それを聞いたモアブの王バラクは恐ろしくなり、あることを思いつきました。それは預言者バラムを雇いイスラエルを呪わせるということでした。そこでバラムが出かけて行こうとすると、その途中で、ロバの前に御使いが立ちはだかりました。それが見えたロバは驚いて、駆け出したり、乗っているバラムを石垣に押し付けたり、道にうずくまってしまいました。そこでバラムがロバに鞭をあてて打つと、ロバが口を開いて言いました。「どうして三度もぶつんですか。これまでに、私が一度でもこんなことをしたでしょうか。」そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いがそこに立っているのを見ることができたのです。

 

いったいバラムがなぜバラクのところに行こうとしたのか。それは彼の心の奥深くに利得を求める心があったからです。そのためにバラムは神が見えなくなっていました。それが破滅をもたらすことだったので、神は御使いを遣わして止めようとしたのです。ロバはその御使いを見ることができたのに、預言者バラムは見えなませんでした。そのためにロバを三度も打ったのです。これが神が見えていない人の姿です。

 

私たちも同じではないでしょうか。神が見えていない状態の時には、自分の思うどおりにならないことが起こると、同じようになってしまいます。預言者バラムはどうして神が見えなかったのでしょう。それは利得に目がくらんでしまったからです。私たちも気をつけなければなりません。神が語られることの中に生きるようにと私たちは召されたのです。それが「聖別」されること、つまり、「聖められること」なのです。

 

Ⅲ.神の恵みから落ちないように(15-17)

 

では、そのためにどうしたらいいのでしょうか。15節から17節までをご覧ください。「そのためには、あなたがたは良く監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されることかのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き換えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」

 

ここには、だれも神の恵みから落ちないようにとあります。私たちは、神の恵みによって救われました。私たちが何かをしたから、できたから救われたのではなく、救われるためには私たちができることは何もなかったのに、イエス・キリストを信じるだけで救われたのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

であれば、私たちはこの恵みにとどまっていなければなりません。だれもこの神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して、これによって多くの人が汚されたりすることがないように注意しなければなりません。

 

この一つの事例としてとりあげられているのがエサウです。エサウはイサクとリベカの息子で、双子の兄弟のお兄さんの方でしたが、ここに書いてあるように俗悪な者でした。彼は霊的なことよりも物質的なことにいつも心が奪われていました。ある日、彼が猟から帰って来ると、そこにとてもいい匂いがしたので何だろうと思って見てみると、弟のヤコブが煮物を煮ていたのです。彼は猟で疲れていたし、お腹もペコペコだったので、ヤコブに言いました。「どうか、その赤いのを、その赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」

するとヤコブは言いました。「じゃ、今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」長子の権利をゆずるなら、これをあげましょう。するとエサウは、「長子の権利なんて、どうでもいい。そんなの今の私に何にもならない。そんなのお前にあげてやる。それよりもその赤いのを食べさせてくれ。俺は腹がへって死にそうなのだから。」と言って、それをヤコブに売ってしまったのです。それは神の特別な祝福でした。それなのに彼はその神の祝福を一杯の食物と引き換えに売ってしまったのです。彼は神の祝福よりも、自分の欲を満たすことにしか関心がなかったのです。彼は腹を満たすために神の祝福を捨てたのです。彼は四十歳になったとき、ヘテ人エリ娘エフディナとヘテ人エロンの娘バセマテという神を信じていない二人の女性と結婚しましたが、彼女たちはイサクとリベカにとって悩みの種であっと書かれてあります。(創世記26:35)

神の恵みから離れて不信仰になると、貪欲な者、俗悪な者となり、多くの人に悪い影響を及ぼすようになります。そして、後になって祝福を相続したいと思っても後の祭りで、祝福されるどころか、彼の心を変えてもらうことさえできず、むしろ弟のヤコブを憎むようになり、殺そうとまで思うようになったのです。

 

だから、神の恵みから落ちないように、また、不信仰という苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることがないように注意しなければなりません。

 

あなたの信仰生活というマラソンは今どのような状態でしょうか。二十キロ地点、三十キロ地点に差し掛かり、疲れ果てていないでしょうか。腕はだらんとなって振る力がなくなり、ひざは衰えてがくがくしてはいないでしょうか。足はなえて関節をはずしそうにはなっていませんか。弱った手と衰えたひざとをまっすぐにしなさい。また、あなたの足のためには、まっすぐに道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。そして、神の恵みの中を最後まで走り続けようではありませんか。