申命記29章

きょうは、申命記29章から学びます。モーセは28章で神の契約を守る者に与えられる祝福と、神の契約を破る者にもたらされる呪いがどのようなものなのかを語りました。しかも呪いに関する記述の方がずっと長いのです。祝福の6倍ものスペースを割いて語られました。聞いているだけで気が重くなりそうです。しかし、幸いなことは、神の呪いを受けても致し方ないような私たちのために、神の御子であるキリストが身代わりとなって呪いを受けてくださったということです。それゆえに、私たちはこの方にあって神の祝福の中に入れられました。ですから、私たちののろいを一身に受けてくださったイエス・キリストの贖いを受け入れ、へりくだって、神のみおしえに聞き従わなければなりません。 

 1.新たな契約(1-15 

「これは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。モーセは、イスラエルのすべてを呼び寄せて言った。あなたがたは、エジプトの地で、パロと、そのすべての家臣たちと、その全土とに対して、主があなたがたの目の前でなさった事を、ことごとく見た。あなたが、自分の目で見たあの大きな試み、それは大きなしるしと不思議であった。しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。あなたがたはパンも食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。それは、「わたしが、あなたがたの神、主である。」と、あなたがたが知るためであった。あなたがたが、この所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグが出て来て、私たちを迎えて戦ったが、私たちは彼らを打ち破った。私たちは、彼らの国を取り、これを相続地としてルベン人と、ガド人と、マナセ人の半部族とに、分け与えた。あなたがたは、この契約のことばを守り、行ないなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。」 

まず1節から8節までをご覧ください。モーセは今、ヨルダン川の東側にいます。そこでこれまでの過去を振り返りながら、イスラエルが約束の地に入って行った後にどうあるべきなのかをこくこくと語るのです。1節には、「これは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。」とあります。ここでモーセは、かつてホレブで彼らと結ばれた契約とは別に、新たな契約を結ばせようとしています。それはあのホレブでの契約とは別の新しい契約というよりも、あのホレブで結ばれた契約に追加しての契約といった方がよいでしょう。彼らが約束の地に入ってからどうあるべきなのかを語り、その神の命令に従うようにと結ばれる契約なのです。 

まずモーセは2節と3節で、以前イスラエルがエジプトにいた時のことを思い起こさせています。そこで神がどのような力ある御業を成してくださったのかを確認したうえで、それにもかかわらず神に従わなかったイスラエルの不信仰を取り上げているのです。いったい何が問題だったのでしょうか。4節にその原因が記されてあります。それは、「主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。」ということです。彼らは見てはいても見えず、聞いてはいても聞こえなかったので、神の真理を悟ることができなかったのです。それは今日に至るまで、ずっと同じです。 

イエスはそのたとえの中で、「聞く耳のある者は、聞きなさい。」と言われました。それは聞いてはいても実際のところは聞いていないからです。聞き方が重要です。御霊によって聞き、御霊によってわきまえるのでなければ、神の真理のことばを本当に理解することはできません。

パウロはこう言いました。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(1コリント2:14-15ですから、私たちは、自分たちのかたくなな心を、神さまによって砕いていただいて、へりくだり、神が教えられていることを知ることができるように祈らなければいけません。 

しかし、それにもかかわらず、神はそのような彼らを滅ぼすようなことはなさいませんでした。5節には、「私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが着ていた着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。」とあります。すなわち、ここで結ぶ契約は彼らの真実さのゆえに結ばれるものではなく、神の真実に基づいた恵みとあわれみによっ結ばれるものなのです。 

6節には、「あなたがたはパンを食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。」とあります。どういうことでしょうか。パンやぶどう酒は祝福の象徴ですが、そのようなものは彼らには必要なかったということです。なぜなら、神ご自身が彼らの祝福だからです。そのようなものは確かに神からの祝福であるのには違いありませんが、その祝福によって心が高ぶって、神などいらないということにもなりかねません。ですから、神は彼らにパンも強いぶどう酒も与えませんでしたが、そのことが返って、彼らが主を知ることにつながりました。その代わりにマナを与えられることによって、彼らは、人はパンによって生きているのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きていることを確信することができました。私たちはとかく自分の目に悪いことが起こったり、何か欠けたものがあるときに主により頼みます。このことが、主を知っていくことの訓練になるのです。 

また、イスラエルの民がこのヨルダン川の東側にやって来たとき、そこにはヘシュボンの王シホンやバシャンの王オグが出てきましたが、イスラエルの民は彼らを打ち破ることができました。そして彼らの国を取り、それを相続地としてルベン人と、ガド人と、マナセの半部族に、与えることができました。 

何という神の御業でしょう。彼らが神の契約を守り、行うなら、彼らは栄え、彼らが想像していた以上の祝福を受けることになるのです。そのことを前提に今、主はイスラエルと新しい契約を結ばれるのです。それは人の従順によってではなく、神の真実に基づいた契約です。 

それでは、その契約を見ていきましょう。9節から15節までをご覧ください。

「あなたがたは、この契約のことばを守り、行いなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。きょう、あなたがたはみな、あなたがたの神、主の前に立っている。すなわち、あなたがたの部族のかしらたち、長老たち、つかさたち、イスラエルのすべての人々、あなたがたの子どもたち、妻たち、宿営のうちにいる在留異国人、たきぎを割る者から水を汲む者に至るまで。あなたが、あなたの神、主の契約と、あなたの神、主が、きょう、あなたと結ばれるのろいの誓いとに、はいるためである。さきに主が、あなたに約束されたように、またあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立ててご自分の民とし、またご自身があなたの神となられるためである。しかし、私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いとを結ぶのではない。 きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。」 

ここには何度も「きょう」ということばが繰り返されています。きょう、いったい何が起こるのでしょうか。モーセはここで「きょう」と言って、契約が今、結ばれることを宣言しています。それはイスラエルの長老たち、つかさたちといった指導者たちだけでなく、イスラエルのすべての人々、彼らの子どもたち、妻たち、宿営のうちにいる在留異国人、たきぎを割る者から水を汲む者に至るまで、すべての人を含んでいます。何の差別なく、全ての人がこの契約の中に含まれているのです。すべての人がこの契約を結ばなければなりません。神は決して呪うために契約を結ばれるのではありません。そうではなく、祝福するために契約を結ばれるのです。そのためには神の契約を守らなければなりません。 

この契約の中に入れられているという自覚を持っているかどうかというこがとても重要です。そうでなければここにある契約はただの絵に描いた餅でしかないからです。この契約の中に自分たちも入れられていると自覚しているから、そのような行動が生まれてまるわけです。 

それは私たちも同じで、私たちもこの契約の中に加えられた神の民であるという自覚がなければ、喜んで神のことばに従って生きていくことはできません。昔神はスラエルをエジプトの奴隷の中から救い出されたように、私たちをイエス・キリストの十字架の贖いによって罪の中から解放してくださったことを思うとき、感謝と喜びをもって心から神に仕えていきたいと思うようになります。 

2.のろいの誓いのことば(16-21 

次に16節から21節までをご覧ください。

「事実、あなたがたは、私たちがエジプトの地に住んでいたこと、また、私たちが異邦の民の中を通って来たことを知っている。また、あなたがたは、彼らのところにある忌むべきもの、木や石や銀や金の偶像を見た。万が一にも、あなたがたのうちに、きょう、その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々に行って、仕えるような、男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたのうちに、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない。こののろいの誓いのことばを聞いたとき、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある。」と心の中で自分を祝福する者があるなら、主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、主の怒りとねたみが、その者に対して燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主は、その者の名を天の下から消し去ってしまう。主は、このみおしえの書にしるされている契約のすべてののろいの誓いにしたがい、その者をイスラエルの全部族からより分けて、わざわいを下される。」 

ここでモーセは、イスラエル人がエジプトに住んでいた過去と、今いるモアブの地までどのように導かれてきたのか、また、彼らの中にある憎むべき偶像を見たことを思い起こさせています。モーセは、個人であっても、家族であっても、部族であっても、その心が神から離れないように、また、そのような偶像に走ることによって毒草や、苦よもぎを生じる根を、イスラエルの中に生じないように、念を押して注意しています。というのは、このモーセの警告を聞いても、19節にあるように、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある。」と心の中で自分を祝福する者があるなら、そこに激しい神のさばきが降るからです。 

この19節の釈義は困難です。「潤ったものも渇いたものも」とは何を指しているのか、だれのことばなのかで意味が全く変わるからです。ほとんどの注解書は、これを前節で取り上げられている偶像崇拝者のことばとしてとらえていますが、そうすると前後の文脈の意味が全く通じなくなってしまいます。英語の聖書では、これを神が語られたことばとして解釈しているため、前後の文脈とも合致しとてもわかりやすい訳となっています。すなわち、「こののろいの誓いのことばを聞きながら『私は自分のかたくなな心に従っても大丈夫であろう。』」と自分自身を祝福する者があるなら、神は潤ったものも渇いたものと共に滅ぼし尽くす。」ということです。主はそのような者を決して赦そうとはなさいません。そのような者には激しい主の怒りとねたみが燃え上がり、この書に記されたすべてののろいがのしかかり、主はその者の名を天の下から消し去ってしまいます。 

3.わざわいを下される(22-29 

次に、22節から29節をご覧ください。

「後の世代、あなたがたの後に起こるあなたがたの子孫や、遠くの地から来る外国人は、この地の災害と主がこの地に起こされた病気を見て、言うであろう。・・その全土は、硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔けず、芽も出さず、草一本も生えなくなっており、主が怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである。すべての国々は言おう。「なぜ、主はこの地に、このようなことをしたのか。この激しい燃える怒りは、なぜなのだ。」人々は言おう。「それは、彼らの父祖の神、主が彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らと結ばれた契約を、彼らが捨て、彼らの知らぬ、また彼らに当てたのでもない、ほかの神々に行って仕え、それを拝んだからである。それで、主の怒りは、この地に向かって燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいが、この地にもたらされた。主は、怒りと、憤激と、激怒とをもって、彼らをこの地から根こぎにし、ほかの地に投げ捨てた。今日あるとおりに。」隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」

 

神との契約を守らない時、神は、その地にわざわいを下されます。後の時代、イスラエルの子孫や、遠くから来る外国人は、その地の災害と主がその地に起こされた病気を見て、こういうでしょう。「その全土は、・・・硫黄と塩によって焼土となり、種も蒔けず、目も出さず、草一本も生えなくなっており、主の怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである」と。また、すべての外国人はこういうでしょう。「なぜ、主はこの地に、このようなことをしたのか。この激しい燃える怒りは、なぜなのだ。」それは25節から28節にあるように、それは彼らの父祖の神が、彼らをエジプトの地から連れ出され、彼らと結ばれた契約を、彼らが捨て、ほかの神々に行って仕え、それらを拝んだからである・・と。それで、主の怒りが、この地に向かって燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいが、この地にもたらされたからである・・と。 

このようにして見ると、神を捨て、偶像に走る者に対して、神がどれほどの大きな怒りで彼らをこの地から根こそぎにされるかがわかります。そして、それは当時のイスラエルに限らず、この書の契約の中に入れられている私たちも同じです。そして、私たちも自分ではどうすることもできない弱さを抱えた者であることを知ります。 

パウロは、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24と嘆いていますが、それは私たちも同じです。しかし、私たちは、私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。というのは、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、私たちを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。神はご自身の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたからです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求がまっとうされるためです。 

何とすばらしい約束でしょうか。肉においては無力になったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。私たちはイエス・キリストを信じ、キリストの御霊によって生きるとき、その律法の要求を完全に行うことができるからです。ですから、私たちはこのキリストにとどまり、キリストの恵みに信頼して、神のみこころに歩めるように祈り求めていきたいと思います。神は砕かれた、悔いた心をさげすまれません。神の前にへりくだって、キリストの十字架の恵みに歩ませていただきたいと思います。 

「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」
 
まだ書き記されていないみことばは、隠されたみことばであり、それは、主のものですが、書き記されたみことば、すなわち、啓示されたみことばは、私たちと子孫のものであります。そのみことばに対して、私たちに責任があるのです。ですから、まだ明らかにされていないことは主にゆだね、既に現わされたことば、すなわち真理の書である聖書のみことばを学び、そのみことばに堅く立って生きる者でなければなりません。そのように歩む者を、神が豊かに祝福してくださるのです。