ヨシュア記5章

きょうはヨシュア記5章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.割礼をせよ(1-9)

 

まず1節から9節までをご覧ください。

「ヨルダン川のこちら側、西のほうにいたエモリ人のすべての王たちと、海辺にいるカナン人のすべての王たちとは、主がイスラエル人の前でヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞いて、イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまった。そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」そこで、ヨシュアは自分で火打石の小刀を作り、ギブアテ・ハアラロテで、イスラエル人に割礼を施した。ヨシュアがすべての民に割礼を施した理由はこうである。エジプトから出て来た者のうち、男子、すなわち戦士たちはすべて、エジプトを出て後、途中、荒野で死んだ。その出て来た民は、すべて割礼を受けていたが、エジプトを出て後、途中、荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかったからである。イスラエル人は、四十年間、荒野を旅していて、エジプトから出て来た民、すなわち戦士たちは、ことごとく死に絶えてしまったからである。彼らは主の御声に聞き従わなかったので、主が私たちに与えると彼らの先祖たちに誓われた地、乳と蜜の流れる地を、主は彼らには見せないと誓われたのであった。主は彼らに代わって、その息子たちを起こされた。ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受けていなかったので、彼らに割礼を施した。民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまった。すると、主はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。」

 

イスラエルの神、主が、ヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞くと、ヨルダン川のこちら側、すなわち西のほうにいたエモリ人のすべての王たちや、カナン人のすべての王たちの心はしなえ、もはや戦う勇気をなくしてしまいました。したがって、もしこの時イスラエルが一挙にカナンの地に攻め込んでいれば、たちまちの内にその地を占領することができたと思われます。しかし、主はすぐに攻め込むようにとは命じないで、ある一つのことを命じられました。それは、「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」(2)ということです。いったいなぜ主はこのように命じたのでしょうか。

 

割礼というのは古代からユダヤ人の間で行われていた儀式です。その由来はアブラハムの時代にまで遡ります。創世記17章10節には、アブラハムとその子孫が世々守るべきものとして神から与えられた契約で、男子の性器を包んでいる皮を切り捨てるというものでした。それは、彼らが主の民であるということのしるしでした。彼らは生まれて八日目に、この割礼を受けなければなりませんでした。それにしても、いったいなぜ神はこのような時にこの割礼を施すようにと命じられたのでしょうか。

 

4節以降にその理由が記されてあります。つまり、エジプトから出て来たイスラエルの民のうち、戦士たちはみな、エジプトを出て後、途中、荒野で死んでしまい、その出て来た民は、すべて割礼を受けていましたが、途中、荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかったからです。これからカナンの地を占領するにあたり彼らまずしなければならなかったことは、この割礼を受けることでした。なぜなら、それは神が命じておられたことであり、神の民として神への献身を表していたからです。そして、そのように神に献身し、全面的に神に信頼することによってこそカナンの地での戦いに勝利することができるからです。それはある意味でバプテスマの象徴であったとも言えます。バプテスマは自分に死んで、キリストのいのち、神のいのちに生きることです。信仰の戦いにおいて最も重要なことは、このことです。それは言い換えるなら、自らを神に明け渡し、神に献身するということです。そうすれば、神が戦って勝利してくださるのです。

 

また、あのギデオンが10万人にものぼるミデアン人との戦いに勝利を収めたのは、わずか三百人の勇士たちによるものでした。当初は3万2千人の戦士がいましたが、主は、あなたといっしょにいる民は多すぎるから、恐れ、おののく者はみな帰らせるようにと言うと、2万2千人が帰って行き、1万人が残りました。10万人に対して1万人ですから、絶対的に不利な状況です。それなのに主は、これでも多すぎるから、彼らを水の所へ連れて行き、そこで犬がなめるように、舌で水をなめる者、ひざをついて飲む者は去らせ、ただ口に手を当てて水をなめた者だけを残しておくようにと言うと、たったの三百人しかいなかったのです。10万人のミデアン人に対してたったの三百人です。人間的に見るならば、全く話にならない戦いです。勝利する確率など全く無いに等しい戦いでした。しかし、この最後に残った三百人は神に全く献身した人々、神に全く身をゆだねた人々でした。ゆえに、主はこの三百人を用いてイスラエルに働かれ、ミデアンの大軍に勝利することができたのです(士師記7章)。

 

このことからわかることは、私たちの信仰の戦いにおいて重要なことは数の多さではなく、そこに神に全く献身した人たちがどれだけいるかということです。主はヨシュアにカナンとの戦いを始めるにあたり、イスラエルの人々にまず割礼を行うように命じ、神に献身することを要求されました。同じように主は、私たちが神に全く献身することを要求しておられます。私たちは主のもの、主の牧場の羊であることを覚えながら、主に自らを明け渡し、その生涯を主にささげるなら、主が私たちの生涯にも偉大な御業を成してくださいます。

 

ところで、主の命令に従いヨシュアがイスラエルの民に割礼を施すと、主は何と言われたでしょうか。9節をご覧ください。

「すると、主はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。」

 

「エジプトのそしり」とは何でしょうか。「そしり」とは、悪口とか陰口、非難、恥といった意味です。口語訳では「はずかしめ」と訳しています。ですから、ここでは「エジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた」とあるので、かつてイスラエルがエジプトにいた時の奴隷の状態、そのはずかしめを取り除いたということになります。コロサイ2章10-12には、神はキリストにあって、人手によらない割礼、心の割礼を受けたクリスチャンのすべての罪を赦し、私たちを責め立てている債務証書を取り除けられた、とあります。ですから、ここでもイスラエルの民が割礼を受けることによって、かつての罪の奴隷としてのそしりが取り除かれ、神のものとされたということが確認されたのです。彼らの立場がそのようにころがされたという意味です。ですから、その所の名は、「ギルガル」、意味は「ころがす」となったのです。

 

Ⅱ.過越のいけにえ(10-12)

 

次に、10節から12節までをご覧ください。

「イスラエル人が、ギルガルに宿営しているとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で彼らは過越のいけにえをささげた。過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた。その日のうちであった。過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた。その日のうちであった。」

 

イスラエル人は、ギルガルに宿営していたとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で過越のいけにえをささげました。荒野にいたときには一度も行なわれませんでしたが、今ここでその過越を祝っています。なぜ過越のいけにえをささげたのでしょうか。

 

過越のいけにえとは、かつてイスラエルの民がエジプトから脱出したことを記念して行うものです。エジプトからイスラエルをなかなか出て行かせなかったパロに対して、神は最後の災いとしてエジプト中の初子という初子をみな滅ぼされると言われました。ただ傷のない小羊をほふってその血を取り、それを家のかもいと二本の門柱に塗れば、神はそのさばきを過ぎ越すと言われたのです。そのようにしてイスラエルの民は、神の裁きから逃れることができたのです。

 

あれから四十年、彼らが荒野にいる間は、この過越のいけにえがささげられませんでした。しかし今、カナンの地を占領しに出て行くにあたり、この過越の祭りを行うようにと命じられたのです。それは、イスラエルにとって四十年の試練の旅が終わり、再び神との契約が確立されたことを表わしていました。つまり、エジプトを出た後の荒野での放浪の旅の期間が正式に終わり、エジプトのそしりが完全に取り除かれたことを意味していたのです。一つの時代が終わり、新しい時代が始まりました。荒野は終わり、約束の地が訪れたのです。

 

この小羊の血は、キリストの十字架の血を指し示していました。かつてイスラエルを神のさばきから救い出した小羊の血は、これから進む約束の地においても彼らの救いと力になります。今礼拝ではⅠペテロから学んでいますが、今週の聖書箇所にこの小羊の血による贖いについてこう記されてありました。

「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:18-19)

この小羊の血による贖いこそ、キリストの再臨のときにもたらされる恵みをひたすら待ち望む力となり、あらゆる行いにおいて聖なるものとされる原動力となり、この地上にしばらくとどまっている間の時を、神を恐れかしこんで過ごす動機になるのです。この小羊の血こそ私たちをすべての罪から救い出す力であり、この先の歩みにおいても勝利をもたらす秘訣なのです。私たちを罪からきよめるのは、これまでだけでなくこれからも、ずっと、この小羊の血なのです。

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)

この救いのすばらしさを知り、その恵みに生きる人こそ、献身へと促されていくのではないでしょうか。

 

さて11節を見ると、その過越しのいけにえをささげた翌日、その地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた、とあります。すると、それを食べた翌日から、マナの降ることがやみ、イスラエル人には、もうマナはありませんでした。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べました。どういうことでしょうか。

 

マナは彼らがヨルダン川を渡る直前までずっと降っていました。これは神の奇蹟です。彼らは荒野で食べるものがありませんでしたが、神は彼らを養うために天からマナを降らし、彼らの必要を満たしてくださいました。けれども今、約束の地において収穫した物を食べることができるようになったので、マナは必要なくなったのです。これからは、彼らが主体的に自分の手で糧を得ていかなければなりませんでした。

 

これは神の恵みによって救われたクリスチャンの歩みにも言えることです。クリスチャンは、神の一方的な恵みによって救われました。その恵みは尽きることがありません。その恵みはとこしえまで続きます。しかし、そのような恵みを受けた者はおのずと行動に変化が現われるのです。これまでは愛されることしか考えられ中吸った者が愛する者へ、受けることしか考えられなかった者から与える者へと変えられていくのです。自分の必要が満たされることはうれしいことですが、それよりも、自分を用いて主が御業を成してくださることに喜びを見出していくようになるのです。

 

しかし、これはあくまでも約束の地に入れられた者がこれまでの神の恵みに溢れて成すことであって、そうせねばならないと、外側から強制されてすることではありません。見た目では同じでも、その動機がどこから来ているかによって、全く違う結果となってしまうことがあります。私たちの信仰生活も強いられてではなく、内側から感謝に溢れて、心から、神に向かってしたいものです。すべては神の恵みによるのです。

 

Ⅲ.足のはきものを脱げ(13-15)

 

最後に、13節から終わりまでをみたいと思います。

「さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの見方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。」

 

ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていました。抜き身の剣とは、神の強い力や勢いを象徴する剣のことです。この抜き身の剣を持つ人が、ヨシュアの前方に立っていたのです。おそらくヨシュアはエリコの城壁を目の前にして、どのようにしてその堅固な城壁を落とすことができるだろうかと悩んでいたものと思います。その時、主が抜き身の剣を手に持ち、彼の前に現われたのです。

 

ヨシュアはその時、「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵ですか。」と言いました。するとその人はそれには一切答えないで、「わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」と答えました。つまり、主ご自身が戦ってくださるということであり、彼はその将軍であるというのです。

 

ヨシュアにとってはどれほど大きな励ましであったことかと思います。私たちも、このような高くそびえ立つ城壁を前にすると、そこにどんなに偉大な神の約束があってもすぐに怯えてしまうものですが、そのような時でも主が共にいて戦ってくださるのです。私たちの戦いは私たちの力によるのではなく、主が共にいて戦ってくださる主の戦いなのです。いや、主が先だって進んで行かれ、その戦いを進めてくださいます。それゆえに、私たちは弱り果ててはならないし、意気消沈してはなりません。主が戦ってくださるのであれば、必ず勝利してくださるのですから、その勝利を確信して進んでいかなければなりません。そのために必要なことは何でしょうか。

 

ヨシュアが、「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」と言うと、その主の軍の将はヨシュアにこう言いました。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにしました。これはどういう意味でしょうか。

 

これはかつて、あのホレブの山で、主がモーセに対して語られた言葉と同じ言葉です。足のくつを脱ぐということは、その当時、奴隷になることを意味していました。奴隷は主人の前ではくつを脱がなければなりませんでした。したがって、くつを脱げということは「奴隷になりなさい」ということであり、神のしもべでありなさいということを示していたのです。言い換えるならば、それは主のしもべとして完全に自分を明け渡して主に従いなさい、ということです。そうすれば、たとえ目の前にどんな困難が立ちはだかろうとも、主が勝利を与えてくださるのです。

 

私たちはイエス・キリストの十字架によって救われ、その血による贖いをいただいているにもかかわらず、いつも敗北感を味わっています。いったい何が問題なのでしょうか。足のくつをぬいでいないことです。主に従っていないのです。いつも自分が優先になり、自分の思いで突っ走っています。これではどんなに主が働きたくても働くことができません。主の前で足のくつを脱がなければなりません。自分の思いに従ってはなりません。私たちは足のくつを脱ぎましょう。主のしもべとなり、主にすべてを明け渡しましょう。そうすれば、主が必ず勝利してくださるのです。