ヨハネの福音書4章19~26節「御霊と真理によって礼拝する」

新年おめでとうございます。この新しい年も、共に主を礼拝できることを心より感謝します。

 

今日は、新年最初の主の日の礼拝となりますが、ヨハネの福音書から続いて学んでいきたと思います。前回は4章前半のイエス様とサマリヤの女の会話から、どうしたら「生ける水」を得ることができるのかという救いと悔い改めをテーマに学びましたが、今日はその続きです。今日は、「御霊と真理によって礼拝する」というテーマでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.御霊と真理による礼拝(19-24)

 

まず、19節から24節までをご覧ください。19節と20節をお読みします。

「彼女は言った。『主よ。あなたは預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。』」

 

「彼女」とはサマリヤの女のことです。サマリヤの女とイエス様との会話は、一般的な水の話題から、彼女自身の霊的問題へと進み、そんな彼女に対してイエスは、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言われました。つまり、彼女に自分の罪を自覚させ、悔い改めへと導こうとされたのです。

 

すると彼女は、何と言ったでしょうか。19節には、「彼女は言った。『主よ。あなたは預言者だとお見受けします。』」とあります。どういうことでしょうか。彼女は自分の内面が暴露されてしまったとき、自分の前に立っている人が、ただの人ではないことに気づいたということです。預言者だと思いました。

 

この「預言者だとお見受けします」ということばですが、これは彼女がイエス様をメシヤだと認めていたということを示しています。というのは、サマリヤ人はモーセを預言者と認めていましたが、それ以降の預言者は認めていなかったからです。モーセの次に登場する預言者は、メシヤご自身でした。ですから、彼女がここでイエス様に対して「あなたは預言者だと思います」と言ったのは、彼女がイエス様をメシヤ、救い主と認めていたからなのです。

 

ここで、今まで眠っていた彼女の信仰心が呼び覚まされました。彼女は生まれて初めて信仰を自分の問題として考えるようになりました。それまでは自分がどこから来てどこへ行くのか、何のために生きているのかもわからず、ただ彷徨っていましたが、ここに来て初めて自分の心の目を天に向けるようになったのです。

 

すると彼女は何と言ったでしょうか。20節をご覧ください。「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

ここで彼女は礼拝のことを話題にしています。どうしてかというと、彼女が信仰について考えた時、ある一つの疑問が生じてきたからです。それは、礼拝すべき場所はどこかということです。サマリヤ人はこの山で礼拝しましたが、ユダヤ人は、礼拝すべき場所はエルサレムだと言っていたからです。「この山」とはゲリジム山のことです。サマリヤ人は、ゲリジム山こそ聖なる山だと主張していました。そしてそれを裏付けるために、彼らが正典と認めていたモーセ五書を書き換えていました。例えば、アブラハムがイサクをささげたのは、モリヤの山(エルサレム)ではなく、ゲリジム山になっています。それは、ユダヤ人に対抗するためにそのように書き換えたものでした。サマリヤに住んでいる人であれば、サマリヤ人の言うことに従うのでしょうが、彼女の心は開かれたので、このことを尋ねてみたいと思ったのです。

 

それに対してイエスは何と言われたでしょうか。21節とから24節までをご覧ください。

「イエスは彼女に言われた。『女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。』」

 

どこで礼拝すべきなのかという彼女の疑問に対して、イエス様はどこで礼拝するのかということではなく、どのように礼拝するのかが重要だと言われました。このどのように礼拝するのかというのは、どのような仕方で礼拝したら良いのかということだけでなく、どうしたらそのような礼拝をすることができるのかということも含まれていました。いったいどのように礼拝したら良いのでしょうか。

 

23節、24節をもう一度ご覧ください。そのことについて、主イエスは続けてこのように言われました。「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

 

ここには、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません、とあります。御霊と真理によって礼拝するとは、どういうことでしょうか。私たちは昨年まで新改訳聖書第三版を使用していましたが、第三版ではここを「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」とあります。実は、このように訳している聖書の方が圧倒的に多いのです。2017版のように「御霊と真理によって」と訳しているのは他にToday’s English Versionという英語の訳くらいで、他のほとんどの訳は「霊とまことによって」と訳しています。「霊とまことによって」と訳すると、心から礼拝するという意味になりますが、「御霊と真理によって」となると、神の御霊、聖霊によって礼拝するということになるので、ニュアンスが若干変わってきます。原語のギリシャ語では「プニューマテイ カイ アレーセイア」となっていますので、「霊とまことによって」となっています。2017版でこのように訳したのは、おそらく「神は霊ですから」に合わせて訳したためと思われます。しかし、このように訳しても特に問題はありません。事実、ピリピ3章3節には、「神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。」とあります。ここには肉によって礼拝することに対して「神の御霊によって礼拝する」とあります。ですから、「霊とまことによって礼拝する」とは、「神の御霊と真理によって礼拝する」ということと同じことなのです。

 

では、御霊と真理によって礼拝するとはどういうことなのでしょうか。これは、「肉」とか、「物質」、「偽り」に対するものとしての「御霊」、「真理」のことを指しています。具体的にはエルサレムの神殿における礼拝に対する霊とまことの礼拝のことです。どういうことかというと、ユダヤ人たちは、エルサレムにある荘厳な神殿で、律法に従って、動物などのいけにえをささげていれば礼拝していると思っていましたが、それは単なる形だけの礼拝、見せかけだけの礼拝であって、真の礼拝とはそのようなものではないということです。なぜなら、ここに「神は霊ですから」とあるように、神は単なる形だけの、見せかけだけの礼拝を求めておられるのではないからです。神は霊ですから、神の御霊による、霊と真心からの礼拝を求めておられるのです。ですから、この神を礼拝するためには、神の御霊を受けなければなりません。そうでなければ本当の礼拝をささげることはできないのです。

 

しかし、人間はこの神の御霊を失ってしまいました。もともと人間は神のかたちに造られたのに、これを失ってしまったのです。神のかたちとは何でしょうか。神のかたちとは神は霊のことです。人間はもともと神の霊を持つ者として造られたにもかかわらず、最初の人間が罪を犯してしまったことで神様との交わりが断たれてしまいました。それを霊的死と言います。霊的に死んでしまった人間は、神様も、神様の恵みも分からなくなってしまいました。このような人間がどうやって神を礼拝することができるでしょうか。できません。神は霊ですから、その霊によって礼拝しなければならないのに、その霊が死んでしまったわけですから。

 

ですから、神様を心から礼拝するためには、この神の霊を持たなければなりません。どうしたら持つことができるのでしょうか。イエス様はニコデモにこのように言われました。

「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)そうです、人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。そのためには、自分の罪を悔い改め、イエス様を救い主として信じ受け入れなければならないのです。それが神の示してくださった唯一の方法でした。聖書ではこれを救いと言っています。神は私たちが救われるために、そのひとり子を天から送ってくださいました。それがイエス・キリストです。

 

「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」(同3:13-14)

 

ですから、私たちが救われるためには、十字架に付けられたイエス・キリストを信じなければなりません。信じる者は救われます。イエス様を信じる者は罪が赦され、神の御霊を受けることができます。そして、この神の御霊によって新しく生まれた人は、霊とまことによる礼拝することが出来るようになるのです。

 

自分の努力や熱心さだけでは、このような礼拝をささげることはできません。私たちが神を礼拝するためには、どうしても神の霊である御霊の助けが必要なのです。御霊の力によってこそ心からの礼拝をささげることができるのです。

 

Ⅱ.あなたと話しているこのわたしがそれです(25-26)

 

ではどうしたら、その神の御霊を受けることができるのでしょうか。25節をご覧ください。イエス様のことばに対して彼女はこう言いました。

「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。』」

 

イエス様がサマリヤの女に対して霊とまことによって礼拝することについてお話しすると、彼女はまだ納得がいかないのか、「私は、キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」と言いました。これは、彼女がその御霊によって礼拝するためには、神のメシヤが必要性であることを認めていたということです。

 

それに対してイエス様は何と言われたでしょうか。26節です。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と言われました。これはものすごいことばです。なぜなら、イエス様がご自分のことをメシヤと宣言されたからです。これは驚きです。メシヤというのは、神ご自身を意味することばでした。ですから、これはイエス様がここで、ご自身を神と宣言されたということなのです。これまで歴史上に多くの偉人と呼ばれる人が出てきましたが、このように自分のことを神と宣言された人は誰もいません。釈迦も、孔子も、だれもこのように宣言した人はいないのです。こんなふうに言える人なんて一人もいないからです。もしこのように言う人がいるとしたら、それはその人が本当にメシヤであるか、それとも、全くのペテン師であるかのどちらかでしょう。しかし聖書が人類に与え続けてきた影響を考えるなら、イエス様がペテン師であることは考えにくいことであり、むしろ、イエス様が言われたこのことばはまことに真実であると言えます。そして、イエス様がこの真実なことばを罪の中にあったこのサマリヤの女に啓示されたというのは、まことに恵み以外の何ものでもありません。

 

この女のイエス様に対する理解がどのように変化してか見るのはおもしろいです。9節では、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」と言いました。それが11節では「主よ」に変わっています。第三版訳では「先生」です。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。」そして

19節では「預言者」になっています。それが25節になると、「キリスト」と呼んでいます。「私は、キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。」と言っています。

イエス様は、彼女が霊的なことを理解できるように少しずつ導いておられたのです。同じように主は、私たちの心の目も開いてくださり、イエス様のことがわかるように少しずつ導いておられます。

 

そんな彼女にイエスは、「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と言われました。彼女は、主が目の前におられたのに、それが主であることを彼女はわかりませんでした。

私たちも毎週日曜日に教会に来て礼拝をささげていながらも、ここに主がおられることがわからないということがあります。私たちが御霊と真理によって礼拝をささげるために、まず私たちの霊の目を開いていただく必要があるのではないでしょうか。

 

Ⅲ.今がその時(23)

 

最後に、この御霊と真理によって礼拝をささげる時について考えたいと思います。23節をもう一度ご覧ください。イエス様はこのサマリヤの女に、「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」と言われると、「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時がきます。」と言われました。その「時」はいつでしょうか。今です。「今」がその時です。「今でしょ。」この「今」とはいつのことを指して言われたのでしょうか。

 

それは、イエス・キリストが来られた今のことです。それまでは、こうした礼拝をささげることはできませんでした。それまでは旧約聖書の中で、定められているとおりに礼拝しなければならなかった。それ以外の礼拝は決して神に受け入れられなかったのです。礼拝する場所は、エルサレムであると定められていました。礼拝の仕方も事細かく律法に定められていました。しかし、イエス・キリストが来られた今、そのような礼拝の仕方とは違う「霊とまことによって」礼拝をささげることができるようになりました。いや、あの旧約聖書が定めていた礼拝の規定は、すべてイエス・キリストを指示していたのです。たとえば、出エジプト記に出てくる幕屋の構造の一つ一つは、イエス様のことを指し示していたことがわかります。すなわち、あの旧約聖書の律法にある礼拝の規定は、本体であるキリストを指し示している影のようなものだったのです。動物の犠牲は、キリストの十字架の贖いを示していました。しかし、キリストが来られ、キリストの教会が生まれると、もはやそのように影の礼拝ではなく、本体の礼拝をささげることができるようになりました。その本体がキリストです。ですから、キリストが来られた今は、そうしたさまざまな規定によって礼拝をささげるのではなく、キリストによって、真の礼拝がささげられるようになったのです。今がその時です。このサマリヤの女に現われてくださった主イエス様は、今も生きておられ、私たちが御霊と真理によって礼拝をささげることを求めておられるのです。

 

先々週はクリスマス礼拝でしたが、クリスマスとはキリストのミサ、キリスト礼拝のことです。あの東方の博士たちは、どのようにキリストを礼拝したでしょうか。マタイの福音書2章11節には、「それから家に入り、母マリヤとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。」とあります。彼らはイエス様の前にひれ伏して礼拝しました。皆さんはどうでしょうか。ひれ伏して礼拝しているでしょうか。礼拝とは原語のギリシャ語では「プロスクネオ」と言いますが、意味は「頭を低く下げ、または跪いてほめたたえる」ということです。ひれ伏して礼拝をささげることです。ですから、東方の博士たちはまことの礼拝をささげました。彼らは霊とまことによって礼拝したのです。

 

また、黙示録4章10~11節には、「二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。 「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」とあります。ここにも、24人の長老が「御前にひれ伏して」拝んだとありますね。「御座に着いておられる方」とは、イエス・キリストのことです。彼らはイエス・キリストの御前にひれ伏して礼拝し、「主よ。私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」と言いました。これが賛美です。

 

神を礼拝する時、御前にひれ伏して、ただ神だけを高めなければなりません。しかし今日、どれだけの人がこのような礼拝をささげているでしょうか。この真の礼拝とはかけ離れた状態になってはいないでしょうか。礼拝において、一番大切なのが神様ではなく自分自身で、自分が恵まれ満たされることや、自分の願いが叶えられることだけを求めるようになってはいないでしょうか。神様が高められることよりも、自分が高められることを求めています。

 

しかし、真の礼拝とは「プロスクネオ」、ただ神の御前にひれ伏すことです。私たちはそれができます。なぜなら、イエス・キリストが来てくださったからです。イエス・キリストが来られ、十字架で救いの御業を成してくださることによって、信じる者に永遠のいのち、神の御霊を与えられました。その御霊によって、私たちは真の礼拝をささげることができるのです。今がその時です。

 

私たちは今年、この御霊と真理によって神を礼拝しましょう。神はこのような礼拝者を求めておられます。そして、神はこのような礼拝者の祈りを必ず聞いてくださるのです。