ヨハネの福音書8章1~11節「わたしもあなたを罪に定めない」

きょうからヨハネの福音書8章に入ります。きょうのテーマは、罪に定めないイエスです。「わたしもあなたを罪に定めない」というテーマでお話しします。11節に、「わたしもあなたにさばきを下さない。」とあります。新改訳改訂第3版ではこのところを、「わたしもあなたを罪に定めない。」と訳しています。きょうのタイトルは、この第3版の訳から取りました。このところから、罪に定めないイエスについてご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.姦淫の場で捕らえられた女(1-6)

 

まず、1節から6節までをご覧ください。

「イエスはオリーブ山に行かれた。そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。」

 

きょうの箇所は7章の続きになっていますが、7章53節から8章11節までは括弧で閉じられています。それは下の欄外にあるように、古い写本のほとんどがこの部分を欠いているからです。それで古くからこの箇所の信憑性について議論されてきましたが、これが主イエス・キリストの出来事として本当にあったということについては議論の余地がありません。

 

さて、この箇所は7章の続きであると言いましたが、7章には主イエスが仮庵の祭りにエルサレムに行かれ、そこで人々と議論され、力強い御言葉を語られたことが記されてあります。その日一日が終わると、人々はそれぞれ自分の家へと帰って行きました。その翌日のことです。イエス様は朝早く再びエルサレムに来られ、エルサレムの神殿に入られました。そこは神殿の庭であったようです。すると、人々がみもとに近寄って来たので、腰を下ろして、彼らに教え始められました。

するとそこに、律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕らえたというひとりの女性を連れて来て、彼らの真中に立たせ、イエスにこう言いました。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」

彼らはなぜこのように言ったのでしょうか。そんなことくらいは聞かなくてもわかることだったでしょう。なぜなら、彼らは律法の専門家なのですから。律法には何とありますか。律法の中心である十戒の中にはこうあります。

「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)

そのような罪を犯した場合にどうなるのかについては、次のように定められていま

した。 「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、

二人とも死ななければならない。こうして、あなたはイスラエルの中からその悪い者を除き去りなさい。夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。」(申命記22:22)

つまり、姦淫の罪に対する刑罰は、死刑だったのです。これが律法で定められていたことでした。であれば、そのようにすればよかったのではないですか。それなのに、なぜわざわざイエスに質問したのでしょうか。それは、彼らの魂胆が別のところにあったからです。6節にあります。

「彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。」

彼らの魂胆は、イエスを告発することでした。もしもイエスがモーセの律法のとおりにこの女性を死刑にするようにと言ったなら、二つの点で問題がありました。一つはローマ帝国で定めていた法律を無視するということでした。ですから、ローマへの反逆罪で訴えられることになります。当時、ユダヤ人には死刑に対する決定権が与えられていませんでした。それはローマ帝国にありました。ですからその権利を無視して勝手に行使したということになれば、ローマに反逆したとみなされても仕方ありません。もう一つのことは、イエス日ごろから罪人たちの友であると言っておられました。なのに、もしこの女性を死刑にするようにと言えば、自分が行っておられたことに矛盾することになります。イエスは、取税人や売春婦に救いの手を差し伸べるために来たと自分で言っておられたのですから。

逆に、もしもイエスが「赦すべきだ」と言うものなら、モーセによって定められた律法を破る者として訴えられることになります。ですから、どちらに転んでも分が悪かったのです。これは彼らにとってイエスを訴えるための格好の材料であったわけです。彼らは初めからこの女性のことなどどうでも良かったのです。もし本当にこのことで知りたかったのであれば、この女性だけでなく男性も連れてきたことでしょう。なぜなら、律法には男も女も、ふたりとも死ななければならないとあるのですから。女だけを連れて来て、「さあ、どうする?」と言うこと自体が間違っていました。

 

それに対してイエス様はどうされたでしょうか。6節後半にはこうあります。

「だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。」

イエス様は、そんな彼らの問いかけには一言も答えられず、ただ身をかがめて、指で地面に何かを書いておられました。何を書いておられたのでしょうか。わかりません。そのことについて聖書は何も言っていませんから。大切なことは、何を書いていたかということではなく、彼らの質問には何も答えなかったということです。なぜでしょうか。答える必要がなかったからです。ただ本文を見ると、「指で」という言葉が強調されています。神がその指で書かれたものとは何でしょうか。十戒です。出エジプト記31章18節にこうあります。

「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。」

十戒は、神がその指で書き記したものです。その十戒には何と書かれてありますか。その中にはこの「姦淫してはならない」という言葉が含まれていました。つまり、イエス様はその内容をよくご存知であられたということです。律法学者やパリサイ人たちは、その十戒をさらに細分化して613もの規定を作りましたが、それは人間が作り出したものにすぎず、人を闇の中へと突き落とすものでした。しかし、イエス様は律法を定められた方であって、その律法を意味することがどんなことであるのかを完全にご存知であられました。ですから、私たちに必要なのは律法に何と書かれてあるかということではなく、この律法を定められた方であるイエス様に従うことなのです。それなしに律法に従おうとすると、ここで律法学者やパリサイ人たちが陥った過ちに陥ることになってしまいます。

 

Ⅱ.あなたがたの中で罪のない者が(7-9)

 

するとどうなったでしょうか。7節から9節までをご覧ください。

「しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」

 

しかし、彼らが問い続けて止めなかったので、イエスは身を起こして言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」

このイエス様の言葉は、ちょうど静かな湖面に石を投げたときの波紋のように広がっていきました。大声を張り上げていた人々が次第に黙り始めたのです。それは思いがけないことばでした。彼らは、姦淫の女にひたすら注目していました。こいつは悪い女だ。とんでもないことをした。姦淫の罪は十戒でも禁じられている罪で、極刑に値する。それなのに、イエスは人々の心の流れをまったく思いがけないところへと導かました。この女に石を投げつけるがよい。しかし、一つだけ条件がある。それは、あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさいということです。人をさばくことができる人は、自らも罪のない者でなければなりません。自分の心にやましさがあるのにほかの人をさばくことなどできるでしょうか。できません。多くの場合自分が罪を持っているにもかかわらずそれを隠し、良心の呵責をごまかして平気で人をさばこうとしますが、実際にはそんなことができる人などだれもいないのです。だれにでも罪があるからです。つまり、イエス様は、その非難や怒りの流れを、自分自身に向き会うようにとされたのです。姦淫の女を見つめることから、自分自身を見つめることへと方向転換を迫られたのです。

 

これはとても大切なことです。人はほかの人の罪はよく見えても、自分の罪は見えないものです。それでこの時の律法学者はパリサイ人たちのように、この女はとんでもないことをした!と責め立てますが、自分の胸に手を置いてよく考えると、自分もこの人と同じ罪人にすぎず、五十歩百歩だということに気付かされるでしょう。

主イエスは言われました。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。」(マタイ7:15)

梁とは裁縫で使う針のことではありません。家の柱と柱を結ぶ梁のことです。私たちは自分の中にそんな大きな梁があるのにもかかわらず、兄弟の目の中にある小さなちりを取り除こうとします。しかし、まず自分の中にある大きな梁を取り除かなければなりません。そうすればよく見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

 

すると、どのようになったでしょうか。9節をご覧ください。「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」

年長者から始まりというのは、年を重ねて自分の姿がよくわかるようになっていたということでしょうか。彼らは、イエス様のひとことで、自分を振り返り、良心の呵責を感じたのでしょう。みな、その場から立ち去ってしまいました。まさに、聖書に「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」(へブル4:12)とあるとおりです。

 

しかし、それは何も年長者だけの問題ではありません。ここには、「年長者から始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」とあります。結局のところ、老人も若者も、男性も女性も、強い者も弱い者も、地位の高い者も低い者も、一人残らず、自分にはこの女性を罰する資格がないと思い知らされ、その場から去って行ったのです。

 

私たちが人生でキリストに出会うということは、こういうことなのではないでしょうか。思ってもみなかったような視点で物事を見ることを教えられるということです。神殿に集まった人々は、キリストに教えられなければ、あのような視点を持つことはできませんでした。今、ここにいる私たちも同じです。この視点がなければ、私たちもついつい高慢になって、自らを滅ぼし、人をも滅ぼしかねません。ですから、こうして日曜日に教会に集い、主の御言葉を通してキリストに出会うということは大切なことなのです。いつも、キリストに教えられていなければ、私たちは、物事を正しく見ることができないばかりか、そのことにさえ気付かないことが多いからです。自分では見えていると思っていてもそれはただ自分でそう思っているだけにすぎず、実際はそうでないというのがほとんどなのです。それは、9章41 節で、主が「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」とおっしゃっていることからもわかります。

私たちが見えるようになるためにはまず、キリストのもとに来ることです。そうすれば、見えるようになります。キリストに出会うことによって初めて、私にも罪があるということがわかるようになるからです。

 

Ⅲ.わたしもあなたを罪に定めない(10-11)

 

その結果どのようになったでしょうか。10節と11節をご覧ください。

「イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」

 

この女をさばくことができる人はだれもいませんでした。すると主は、「わたしもあなたにさばきを下さない。」と言われました。ここにいた人々の中で、人々を罪に定める権威を持っていたのはイエス様だけでしたが、そのイエス様が、彼女に罪の赦しを宣言されたのです。人の罪をさばく権威のない者が人をさばこうとし、人をさばく権威を持っておられた方はさばこうとされませんでした。ここに一つのコントラストが見られます。律法学者やパリサイ人たちは、誰からも一番よく見えるところにこの女性をひきずり出してその罪をさらしましたが、イエス様は、女性に背を向けて、彼女の罪を見ないようにされたのです。

 

どうしてでしょうか。それは、イエス様が彼女の罪を軽く扱っておられたからではありません。それは主がここで「これからは、決して罪を犯してはなりません」と言われたことからもわかります。主が彼女を罪に定めなかったのは彼女の罪を背負われ、彼女が受けなければならない刑罰を代わりに受けることによって彼女を赦してくださるからです。これが、イエス様が私たちに対して取ってくださることです。

 

彼女を訴える者がひとりもいなくなった時、彼女がその場から立ち去って行かなかったのはそのためです。もう誰もいなくなったのですから、彼女もその場から立ち去って良かったのにそうしませんでした。そこから一歩も動こうとしなかった。それは動けなかったからです。すべてをご存知であられる主が、こんなに罪深い者を赦してくださる。その主の愛に釘づけにされてしまったのです。主は、自分の罪を正直に認める者に対してこのように愛をもって接しくださいます。いや、主の御前に立つ時、私たちは自分の罪を正直に認めないわけにはいきません。でもその時主は、「わたしもあなたにさばきを下さない。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と言ってくださるのです。

 

これが私たちの人生においてどうしても必要なものです。私たちが本当に生かされるために必要なのは、このイエス様の赦しの宣告なのです。聖書には、「罪から来る報酬は死である」と書かれています。人は皆、罪のために裁かれ罰せられなければならない存在ですが、イエス様は、私たちひとりひとりの罪を背負って、私たちの代わりに十字架に架かって、いっさいの罰を受けてくださいました。だからこそ、イエス様は、私たちに赦しを宣言することができるのです。私たちを罪に定めることのできる唯一の方が、私たちの罪を背負って自らを罪に定め、十字架についてくださったのです。イエス様の赦しは、ご自分のいのちと引き替えにもたらされるものなのです。

 

その赦しを、イエス様は、この女性にも宣言なさいました。そして、続けてこう言われました。「今からは決して罪を犯してはなりません。」それは、「元の虚しい生活に戻ることのないように注意して歩んで生きなさい」ということです。罪赦された者の生き方は、もはや、過去に縛られて生きる生き方ではありません。罪を赦してくださったイエス様とともに前に向かって歩んでいくものです。もちろんそこには困難があり、葛藤があり、罪の誘惑があり、いろいろなことが襲ってきます。でも、こんな私たちを愛し、赦してくださり、いつもともにいてくださるというイエス様の赦しの宣言が、私たちを生かしてくれるのです。

 

全米でベストセラーとなった本に、「アーミッシュの赦し」(亜紀書房)という本があります。2006年10月、ペンシルベニア州のアーミッシュの学校で、男が押し入り、女生徒5人を射殺し、さらに5人が重傷を負わせますが、犯人のチャールズ・カール・ロバーツは犯行後自殺しました。アーミッシュのコミュニティでこのような事件が起こったということに全米が大きな衝撃を受けましたが、その後に起こったことは、世間にもっと大きな衝撃をもたらしました。

何と被害者のアーミッシュの家族が、犯人の家族を赦したのです。事件が発生したその日に、アーミッシュの人々がすぐさま犯人の家族を訪ねて「あなたたちには何も悪い感情を持っていませんから」「私たちはあなたを赦します」と伝えたのです。

彼らはこう考えました。犯人の遺族(妻エイミーと子供たち)は自分たち以上に事件の犠牲者である。つまり、夫(父)を失った上に、プライバシーも暴かれて自分の家族が凶行を行なったという世間の非難の中を生きて行かなければならないということは、どんなに辛いことかと思ったのです。

事件の二日後に、被害者の遺族がいきなりレポーターからマイクを突きつけられて「犯人の家族に怒りの気持ちはありますか」と訊ねられた際に、「いいえ」とこたえました。

「もう赦しているのですか?」 「ええ、心のなかでは」 「どうしたら赦せるんですか?」 「神のお導きです」 「あの人たち(ロバーツの未亡人と子供たち)がこの土地にとどまってくれるといいんですが。友達は大勢いるし、支援もいっぱい得られる。」

殺された何人かの子の親たちは、ロバーツ家の人たちを娘の葬儀に招待しました。さらに人々を驚かせたのは、土曜日にジョージタウンメソジスト教会で行なわれたロバーツの埋葬に75人の参列者がありましたが、その半分以上がアーミッシュの人たちだったことです。

犯人のロバーツの葬儀の前日か前々日、我が子を埋葬したばかりのアーミッシュの親たちも何人かが墓地へ出向いて、エイミー(犯人の妻)にお悔やみを言い、抱擁しました。葬儀屋は、その感動的な瞬間をこう回想しています。

「殺されたアーミッシュの家族が墓地に来て、エイミー・ロバーツにお悔やみを言い、赦しを与えているところを見たんですが、あの瞬間は決して忘れられないですね。奇跡を見ているんじゃないかと思いましたよ。」

この「奇跡」をまぢかで見た犯人のロバーツの家族の一人は、こう言っています。 「35人から40人ぐらいのアーミッシュが来て、私たちの手を握りしめ、涙を流しました。それからエイミーと子供たちを抱きしめ、恨みも憎しみもないと言って、赦してくれました。どうしたらあんなふうになれるんでしょう。」(80~81pp)

 

どうしたらあんなふうになれるんでしょうか。なれません。これは奇跡なんです。アーミッシュの奇跡です。その奇跡を、主は私たちにももたらしてくださいました。私たちは神に背を向けながら自分勝手に生きているような者ですが、そんな罪深い私たちに、「私もあなたを罪に定めない」と宣言しておられるのです。人は赦されなければ生きていくことができません。この赦しの宣言を受け取りましょう。そして、この赦しの恵みに生かしていただきましょう。その恵みに溢れながら、前に向かって、イエス様とともに歩んでいく者でありたいと思います。