ヨハネの福音書9章1~12節「神のわざが現れるために」

きょうは、ヨハネの福音書9:1~12から、「神のみわざが現れるために」というタイトルでお話したいと思います。

 

Ⅰ.この人に神のわざが現れるためです(1-5)

 

まず1節から5節までをご覧ください

「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」

 

イエス様は、仮庵の祭りでエルサレムに上っておられましたが、道を歩いていると、そこに生まれた時から目の見えない人がいるのをご覧になられました。

私たちは、毎日、いろいろなものを選び取って生活していますが、自分ではどうしても選ぶことができないことがあります。それは、どのように生まれてくるかということです。裕福な家に生まれる人がれば、貧しい家に生まれる人もいます。健康で生まれる人がいれば、病弱で生まれる人もいます。どのように生まれるかは、自分では選び取ることができないのです。それは生まれた時から決まっています。この人は生まれた時から目が見えませんでした。自分で選んで盲目になったのではありません。生まれた時からそうだったのです。そのために、いろいろな苦労がありました。8節には彼が物乞いをしていたとありますが、そのために彼は、物乞いをするほか生きる道がありませんでした。

 

すると、弟子たちがイエス様に尋ねました。2節、「先生。この人が盲目に生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」

これが一般の人たちの考え方です。一般に人は今負っている悩みや苦しみには必ず原因があると考え、すぐにその原因を探ろうとします。そして、このような不幸の原因はその人が何か悪いことをしたからであって、そのバチが当たっているのだと考えるのです。いわゆる「因果応報」です。つまり、その人の過去にその問題の原因なり、理由なりを求めてその説明をしたがるわけです。

 

しかし、イエス様はこのように答えられました。3節です。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」弟子たちが不幸の原因を尋ねたのに対して、イエス様はそのことには直接触れずに「神のわざが現れるためです」と、その意味なり、目的についてお答えになられたのです。

 

私たちも、何か辛いことや苦しいことがあると「何でだろう、何でだろう、何で、何でだろう」としばしば後ろを振り返っては、そこで立ち止まってしまうことがありますが、イエス様は、こうした苦難に遭うときに「何でだろう」と問うよりも、「何のために神様はこのような試練をお与えになったのか」を考えて、信仰をもって神の目的のために生きていくことが大切であることを教えてくださったのです。そして、それがどんなに大きな悩みや苦しみがあっても、神様がそのことを通して驚くべきみわざを成してくださるということが分かれば、私たちはもはやそうした悩みや苦しみの中に沈んでしまうのではなく、やがてそれを益に変えてくださる神に期待して生きることができるのではないでしょうか。

4節と5節をご覧ください。ここに不思議なことが書かれてあります。「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」どういうことでしょうか。もちろん、私たちは人間ですから、神様のようなわざを行うことなどできません。では、「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければならない」とはどういうことなのでしょうか。

 

ヨハネの福音書6章29節をご覧ください。ここには、「神を遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」とあります。つまり、神のわざとは、神が遣わした方を信じることです。私たちが過去に捉われて出口のないあきらめとむなしさの中で生きるのではなく、現実の苦しみの中にあっても、イエス様を信じて、イエス様が約束してくださった聖書の御言葉を信じて、神様が最善のことを成してくださると信じて生きていくことなのです。それが神のわざを行うということなのです。

 

ローマ人への手紙8章28節には、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」とあります。

この「すべてのことがともに働いて」の「すべて」の中には、私たちにとってマイナスと思われるようなことも含めてすべてが含まれているのです。良いと思えることも、悪いと思えることも、すべてのことを含めて、神が働いてくださり益としてくださるのです。これを信じることが神のわざです。言い換えれば、すべてが恵みであると信じて受け止めることです。

 

また、コリント人への手紙第一10章13節には、「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」とあります。皆さんの中で、今、試練の中にある人がおられますか。もしそのような方がおられるなら、この御言葉を信じなければなりません。神は、あなたが耐えられないような試練を与えるようなさいません。むしろ、絶えることができるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださるということを。

 

また、エレミヤ書29章11節は、「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあります。とかく私たちは自分にとって良くないと思うことが起こると、自分は神に呪われているのではないかと思うことさえありますが、しかし、神の御言葉である聖書は何と言っているのかというと、神が私たちに立てている計画は将来と希望であることです。今はそのようには受け止められないかもしれません。しかし、私を愛し、私のためにご自身の御子をさえも惜しみなく与えてくださった主は、私たちのために最高の計画を持っておられるのです。それは将来と希望です。このことを信じなければなりません。これが神のわざです。

 

私たちは、少し前まで祈祷会でルツ記を学んでいましたが、そのことはルツとナオミの生涯を見てもわかります。ナオミは夫のエリメレクと、二人の息子マフロンとキルヨンと一緒にモアブの地へ行き、そこに一時滞在しました。それまで住んでいたベツレヘムが飢饉のため食べ物が少なかったからです。

しかし、そこで夫エリメレクは死に、何と二人の息子までも死んでしまいました。何と不幸な人生でしょう。ナオミはモアブの地からベツレヘムに帰ることにしましたが、そこで町の人たちは「あら、ナオミじゃないですか」というと、彼女は、「私をナオミとは呼ばないでください。マラと呼んでください」と言いました。「ナオミ」という名前は「快い」という意味ですが、どう見ても彼女の人生は快いものではありませんでした。それで「苦しむ」という意味の「マラ」と呼んでくださいと言ったのです。

しかし、そんなナオミを、神様は決して忘れてはいませんでした。彼女には息子の嫁の一人でモアブ人のルツがいました。ある日、畑に出て落ち穂を拾い集めると、そこははからずもエリメレク一族に属するボアズの畑でした。ボアズは正当な手続きを経てエリメレクの畑を買い戻すと、その嫁であったルツも買い戻したので、ルツはボアズの妻となりました。そして生まれたのがオベデです。オベデはダビデの父であるエッサイの父、すなわち、ダビデの祖父にあたります。そして、このダビデからこの人類を罪から救ってくださる救い主が誕生するのです。このようなことをいったいだれが想像することができたでしょうか。これが神のなさることです。神は、このような驚くべきことをなさいます。神を愛する人々のために、神がすべてのことを働かせて益としてくださるのです。このことを信じなければなりません。

 

先月、山形市のこひつじキリスト教会で献堂式が行われました。牧師の千葉先生は、同盟の伝道委員として3年間私たちの教会にも来てくださり、私が伝道委員だったとき会堂についていろいろお聞きしていましたので、ぜひ献堂式に出席したいと思っていました。

そこはちょうど蔵王めぐみ幼稚園という幼稚園の前にあるのですが、そこはかつてこのこひつじキリスト教会を開拓した蔵王キリスト教会が産声をあげた場所でもありました。この幼稚園はキリスト教系の幼稚園で、蔵王教会ではその一室を借りて日曜の礼拝が始まったのです。それから何年かして1996年に親教会ネットワークによってこひつじキリスト教会が誕生しました。あれから20年、教会は一軒家の借家で宣教の働きが進められてきました。2階に先生ご家族が住み、1階で集会が続けられてきましたが、こどもの伝道を中心に行っていたこともあって集会所のスペースは限界でした。それで先生は集会できるスペースを求めて祈っていたところ、とても良い物件が紹介されたのです。、それは国道13号線に面しているドライブインの跡地でした。土地と建物の広さも申し分なく、価格も格安でした。千葉先生は、それが神様の導きではないかと購入に向けて進もうとしたのですが、そこが山形市と上山市との境にあったこと、また、これまで行って来た子供たちの伝道には向いていないということで断念せざるを得なかったのです。千葉先生は本当にがっかりしました。やっといい物件が見つかったと思ったのに、話がまた振り出しに戻ったからです。

しかし、それからほどなくして示されたのがこの物件でした。それは車の整備工場の跡地でしたが、奇しくも、それが蔵王教会が産声をあげた幼稚園の前だったのです。場所的には最高の場所です。それをリフォームして献堂することができました。本当に神のなさることは不思議です。神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。

 

それは、私たちも例外ではありません。神はこのような小さな者をもご自身の救いの計画の中にしっかりと組み込んでいてくださり、偉大な御業を成さろうとしておられるのです。そのことを信じなければなりません。すべてのことをつぶやかず、疑わずに行わなければならないのです。だれも働くことができない夜が来るからです。

 

Ⅱ.シロアムの池で洗いなさい(6-7)

 

では、神のわざが現れるためにどうしたらいいのでしょうか。それは、神のみことばに従うことです。6,7節をご覧ください。

「イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。」

 

イエス様は、神のわざを、昼の間に行わなければならないと言うと、地面に唾をして、その唾で泥を作り、それを彼の目に塗って、「行って、シロアムの池で洗いなさい」と言われました。いったいなぜこのように言われたのでしょうか。イエス様は他の時にも何度か盲人の目を癒しておられますが、その時にはこのようには言いませんでした。ただ一言「エパタ」(開け)と言って癒されたり、盲人の目に直接触れることによって癒されました。このように唾で作った泥を目に塗って、池に行って洗うといった方法は採られませんでした。いったいなぜこのように言われたのでしょうか。別に唾で作ったこの泥に何らかの効用があったからとは思えません。ただはっきりわかることは、イエス様はどんな方法でも盲人の目を癒すことができるということです。お言葉一つでこの天地万物を創られたお方は、「エパタ」と言われるだけで癒すこともできましたし、直接触れることによっても、また、このように神秘的な方法によっても癒すことができたのです。ただそれがどのような方法であっても、イエス様の言われることに応答し、その御言葉に従うことが求められました。

 

いったいなぜこの盲人はイエス様の言葉に従ったのでしょうか。イエス様の言葉を聞いて「なるほど」と納得したからでしょうか。そうではありません。美容パックじゃあるまいし、こんなの目に塗っていったい何になるというのでしょう。私だったらそう思います。でも彼はイエス様が言われた言葉に従いました。このように、たとえそれが自分の思いや理解を超えていることであっても、主が仰せられたことに従うとき、神のみわざが現れるのです。

 

たとえば、あのシリヤの将軍ナアマンはそうでした。彼は重い皮膚病で苦しんでいましたが、その家にいたイスラエル人の召使いであった少女からイスラエルには驚くべき奇跡を行うエリシャという預言者がいるということを聞くと、早速出かけて行きました。その手にはたくさんの贈り物を持ち、しかも国王からの親書も持っていました。

ところがエリシャのところに行ってみると、エリシャは彼を出迎えることもせず、ただ召使いを送ってこう言わせただけでした。「ヨルダン川に行って、その水の中に七度身を浸しなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻りきれいになります」

これを聞いたナアマンは激怒しました。「なんということだ。私は預言者エリシャが出て来て、私の前に立ち、主である神様の名前を呼んで、この悪い所の上で手を動かして治してくれるものと思っていたのに。ダマスコの川の方が、イスラエルの川よりもよっぽど綺麗ではないか。こんなうす汚い川で洗ったところで、どうやって治るというのか。」

こうして彼はさっさと自分の国に引き上げようとしたのですが、部下の一人がやって来て、必至に説得しました。「将軍様、どうしてそんなにお怒りになられるのですか。あの預言者がもっと難しいことをせよと言われたら、それをしなければならなかったでしょう。それなのに彼は将軍様に「ヨルダン川で体を洗いなさい」と言われただけではありませんか。」

するとナアマン将軍はようやく思い直し、エリシャの言ったとおりにヨルダン川に行き、七度水に体を浸しました。すると彼の体は赤ん坊のように綺麗になったのです。

 

キリストの弟子たちがガリラヤ湖で漁をしていた時も同じです。その日はどういうわけか、夜通し網を降ろしても一匹の魚もとれませんでした。ペトロたちは疲れ切って岸で網を繕っていました。そこにイエス様が来られ、「深みに漕ぎ出して、網を下して魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)と言われたのです。おそらくペテロは、「いくらイエス様だって、漁のことについては俺たちの方がプロだ」と思ったことでしょう。しかし、それにも関わらず、彼はこう言ったのです。

「先生、私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下してみましょう。」(ルカ5:5)

これが信仰です。「でも、おことばですので、網を下してみましょう。」それが自分の思いや考えと違っても、でも、おことばですので、網を下ろすのです。そして、せっかく繕った網をもう一度舟に積み込んで、沖に出ていったのです。そして、イエス様が言われたとおりに網を降ろしてみますと、網がはち切れんばかりの魚がとれたのです。

 

皆さん、私たちも聖書に書いてある教えが非現実的であったり、非論理的に思えたり、あるいはまったく無意味なことのように思えたりすることがあるかもしれません。自分の経験や、知識や、良識などから判断すれば、どうしてそんなことをしなければならないのか、そんなことで本当に大丈夫なのかと、疑いや不安が募ることもあるでしょう。しかし、生まれつきの盲人が「シロアムの池に行って洗え」と言われた時も、ナアマン将軍が「ヨルダン川で身を浸せ」と言われたときも、ペテロが「もう一度沖に出て網をおろせ」と言われたときも、きっとそういう人間的な不安や疑問にかられたと思うのです。けれどもその時、彼らは自分の思いではなく、神の思いに従ったので、神のみわざを見ることができたのです。

 

これが信仰です。私たちはいつも人間的な見方をしては、「自分たちにできるだろうか」と思って否定的になってしまいますが、大切なのは私たちにできるかどうかではなく、それが神のみこころなのかどうかということです。神様が御言葉で何と言っておられるのか、そして、それがみこころならば、信じなければなりません。それが神のわざを行うということです。イエス様がいるうちは、イエス様が働いてくださいます。しかし、だれも働くことができない夜が来ます。その時では遅いのです。ですから、イエス様がいる間に、イエス様の御言葉を信じて、神のわざを行わなければなりません。それが自分の常識を超えていることであっても、主がこれをせよと仰せられるならそれに信仰によって従っていく。そこに偉大な神の御業が現れるのです。

 

Ⅲ.イエスという方が(8-11)

 

第三に、その結果です。そのようにして生まれつきの盲人の目が見えるようになり、帰って行くと、どのようになったでしょうか。8節から12節までをご覧ください。

「近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。『これは座って物乞いをしていた人ではないか。』ある者たちは、『そうだ』と言い、ほかの者たちは『違う。似ているだけだ』と言った。当人は、『私がその人です』と言った。そこで、彼らは言った。『では、おまえの目はどのようにして開いたのか。』」

彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」 彼らが『その人はどこにいるのか』と言うと、彼は『知りません』と答えた。」

 

この見えるようになった人に対して、近所の人たちや彼のことを知っていた人たちが、「お前の目はどのようにして開いたのか。」と問うと、彼は自分が経験したことを、ありのままに語りました。それは、「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい。」と言われたので、その通りにすると、見えるようになったということです。すなわち、イエスという方が自分に何をしてくれたのかということです。つまり、イエスはだれであるかということです。そして、イエスはメシヤ、キリスト、救い主であられるということです。

 

これがこの話の中でヨハネが本当に伝えたかったことなのです。ヨハネの福音書の中にはイエス様がメシヤであるということを証明する七つの「しるし」が記録されてありますが、これは6番目のしるしです。「しるし」とは証拠としての奇跡のことです。これは、イエス様がメシヤであるということの証拠としての奇跡だったのです。私たちはどうしても、生まれつき盲人だった人の目が見えるようになったことに焦点がいきがちですが、ヨハネが一番伝えたかったことはそこではなく、イエス様がメシヤであられるということだったのです。つまり、イエス様は私たちの心の目を開くことができるお方であるということです。

 

それは、7節の「シロアム」ということばの後の注釈を見るとわかります。ここにはわざわざ「訳すと、遣わされた者」とあります。神から遣わされた者とはだれでしょうか。そうです、イエス・キリストです。つまり、シロアムの池に行って洗うと目が開かれるというのは、イエス様の言葉を信じ、イエス様のもとに行って洗うなら、目が開かれる、という救いのメッセージだったのです。

 

イエス様はそれを十字架と復活を通して成し遂げてくださいました。イエス様が十字架で流された血は、私たちをすべての罪からきよめることができます。そして、三日目によみがえられたイエス様は、私たちに永遠のいのちを与えることができるのです。これが神の救いのご計画でした。それは常識では考えられないこと、アンビリバボーです。しかし、その神のみこころを信じて従うとき、私たちの心の目も開かれるようになるのです。常識や理性で理解できないことは絶対に信じないと思っている人は、決して心の目、霊的な目を開けていただくことはできません。主が「これをせよ」と言われることに対して、信仰をもって従う人だけが開かれるのです。

そして、このように私たちを罪から救うことができる方は、私たちをすべての問題から解放することができます。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

いろいろなことで疲れ果て、落ち込んでいる私たちを真に救うことができるのは、私たちを様々な不幸の原因である罪から救うことができるイエス様だけです。あなたもこの方を救い主として信じ、この方が命じられることに従う時、そこに大いなる救いのみわざが現れるのです。

 

あなたはどうでしょうか。シロアムの池に行って洗いましたか。イエス様はあなたを救うことができます。あなたの悩みや問題のすべてを解決することができる方です。「何でだろう」と過ぎ去った過去を見てくよくよして生きるのではなく、イエス様を信じて、イエス様が与えてくださる将来と希望を見つめて、前に向かって進んで行こうではありませんか。そこに神のわざが現されるのです。