ヨハネの福音書10章1~10節 「わたしは門です」

きょうから10章に入ります。きょうは「わたしは門です」というタイトルでお話ししたいと思います。イエス様は、ご自身のことを「わたしは門です」と言われました。これはどういうことでしょうか。きょうはこのことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.わたしは門です(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。イエス様がその門です。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。」

 

きょうの箇所は9章からの続きです。9章には、生まれながら目の見えなかった人が、イエス様によって見えるようになったことが記されてあります。しかし、それが安息日であったことからパリサイ人と論争になりました。41節には、「イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、「私たちは目が見える。」と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」』とあります。パリサイ人たちは、イエス様のことばを正しく受けとめることが出来ませんでした。きょうの箇所は、そのパリサイ人たちの教えや考え方に注意するために、イエス様が語られたことです。

 

イエス様はここで、「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。」と言われました。

イエス様が「まことに、まことに」と言われる時は、重要な真理を語られる時です。「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者」とは、先ほども申し上げたように、これは9章の続きですから、パリサイ人たちのことを指していることは明らかです。

 

パレスチナでは、羊たちの囲いがありました。それは石などを積み上げた高い塀で囲まれており、夜になると羊飼いは羊たちをその囲いの中に入れました。野獣などから守るためです。その囲いには門があって、そこでは門番が門の戸の開け閉めをしました。しかし、彼らはこの門から入らないでほかのところを乗り越えて入り込み、羊たちを奪っていく者たちがいました。具体的にそれがどういうことかというと、7節に「わたしは羊たちの門です」とあるように、また、9節にも「わたしは門です」とあるように、イエス様を通らないでこの囲いの中に入ろうとする者たちのことです。これは、9章でイエス様に食ってかかったパリサイ人たちのことを指しています。彼らはイエス様を受け入れることができませんでした。安息日に盲人の目を癒すような者が、どうして神から遣わされた者だと言えるのか、そんなはずがないと言って、目が開かれた人を会堂から追い出してしまいました。彼らは門から入って来たのではなく、ほかのところを乗り越えて入って来たのです。彼らはイエス様を信じることができませんでした。イエス様こそ、旧約聖書の預言の通りに来られた方であり、恵みとまことによって羊たちを導かれる方なのに、そのイエス様を受け入れることができなかったのです。彼らはモーセの律法ではなく、先祖たちの言い伝えがまとめられた別の律法(ミシュナー)を振りかざしては、神の民である羊たちの囲いの中に入り込んでいました。それは門ではないほかのところから乗り越える行為でした。イエス様はそんな彼らのことを、「盗人であり強盗です」と言われたのです。

 

ちょうどこのメッセージを書いている時、同盟からメールが届き、クオンパという韓国系の異端が日本で活動しているので、警戒してくださいという連絡がありました。「クオンパ」という団体がどういう団体なのか詳しくはわかりませんが、「クオンパ」というのは日本語で「救援」という意味だそうですが、この救援(クオンパ)派のパク・オクス(朴玉洙)という人が主導している団体で、クリスチャン・リーダーズ・フォーラムという集会の案内(国立オリンピックセンターでの開催)を各教会に送っているとのことでした。韓国の主要教団ではすでに異端であると決議された団体です。日本ではグッドニュース宣教会・東京恩恵教会という団体になりましているそうですが、ちょっと聞いただけではキリスト教会と同じ団体のように思ってしまいます。しかし、これらは羊のなりをした狼であって、巧妙な手口で羊たちの囲いの中に入り、羊たちを奪っていくのです。その最大の特徴は何かというと、羊たちの囲いに、門から入らないで、ほかのところを乗り越えて来ることです。キリストという門から入らないのです。

 

イエス様は、世の終わりには、「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わします。」(マタイ24:5)と言われましたが、まさに世の終わりが近づいているということの兆候なのでしょう。その特徴は何かというと、「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすことです。彼らはそのように言うものの羊の囲いの門から入るのではなく、ほかのところから乗り越えて入ってきます。しかし、門から入るのが羊たちの牧者です。私たちはそうした者に惑わされることがないように、その人がどこから入って来たのかをよく見極めなければなりません。

 

Ⅱ.羊たちはその声を聞き分ける(3-5)

 

では、どのようにしてそれを見分けることができるのでしょうか。それは「声」です。3節から5節までをご覧ください。

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」

 

ここには、羊たちがどのようにして自分たちの牧者を見極めることができるのかが教えられています。それはその声です。門番が牧舎のために門を開くと、羊たちはその声を聞き分けます。羊たちはその声を知っているので、牧者のあとについて行きますが、ほかの人にはついて行きません。かえって逃げ出してしまいます。なぜなら、ほかの人たちの声は知らないからです。つまり、その声によって聞き分けるのです。

 

私は羊を飼ったことがありませんが、犬を飼ったことがあります。犬を飼っていたとき本当に不思議だなぁと思ったのは、犬は飼い主に忠実であることと、飼い主の声をよく知っていることです。真っ暗な闇の中でだれかが家の玄関に近づこうものなら「ワン、ワン」と激しく鳴きますが、私が近づくとすぐに泣き止みます。そして、私の姿を見ただけで尻尾を振って喜ぶのです。

ある時、声だけで私のことがわかるかどうか実験したことがあります。近くで物音を立てますが、姿を見せないで声だけ出すのです。やっぱりわかるのです。私の声がいい声だからではありません。かすれたような声でも私の声をすぐに聞き分けることができました。羊も同じです。たとえ姿が見えなくても、声を聞けばわかります。彼らは聞き分けることができるのです。

 

これは神の民であるクリスチャンにも言えることです。世の人々には不思議に思われるかもしれませんが、クリスチャンは霊的な直観力を持っているのです。それによって真の教えか偽りの教えかを識別することができます。彼らは健全でない教えを聞くと「これは間違っている」という内なる声を聞き、真理が語られる時には「これは正しい」という声を聞くのです。この世の人たちは、それぞれの牧師の説教にどのような違いがあるのかなんてさっぱりわかりませんが、クリスチャンにはその違いがわかるのです。何が違うのか、どのように違うのかを説明することができなくても、「あっ、ちょっと違う」と感じるのです。なぜそのように感じるのでしょうか。それは、クリスチャンには聖霊なる神が住んでおられるからです。

 

Ⅰヨハネ2章20節を開いてください。ここには、「あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。」とあります。「聖なる方からの注ぎの油」とは、聖霊のことです。クリスチャンにはこの聖霊の内住があるので、だれでも判別することができます。どんなに愚かな羊のようであっても、クリスチャンであるならこの聖なる油が注がれているのでわかるのです。ですから、偽りの牧者の影響から守られるように祈らなければなりません。苦みと甘みの区別ができなくなっているとしたら、それは健康を損なっていることの一つの兆候だと言えます。それと同様に、それが律法なのか、それとも福音なのか、それが真理なのか、それとも偽りなのか、それがキリストの教えなのか、それとも人の教えなのかを識別できないとしたら、それは霊的な健康を損なっているしるしであって、救いについて真剣に吟味する必要があります。もし救われているなら、その人には聖なる方からのそそぎの油があるので、それを聞き分けることができるはずだからです。

 

ところで、3節には、牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出すとあります。羊にはそれぞれ名前があるんです。太郎とか、花子とか、一郎とか、洋子とか・・。そして、羊飼いはその一匹、一匹の羊の名前を覚えているのです。忘れてしまったとか、思い出せないということはありません。一匹、一匹の名前を覚えていて、その名前を呼んで外に連れ出すのです。名前を呼ぶというのは、単に名前を呼ぶということだけでなく、その羊のことをよく知っているということでもあります。そうでしょ、「ええと、あなたの名前は何でしたっけ。思い出せない」というのは、その人のことをあまりよく知らないということです。だれも自分の夫の名前、妻の名前を忘れません。奥さんに向かって、「あなたの名前は何でしたっけ」というなら、特別な事情がない限り、そこには何の関係もないことがわかります。ということは、名前を呼ぶというのは、その人の性格や、長所や短所、喜びや悲しみといったことも含めて、よく知っているということなのです。

 

イザヤ書43:1には、「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」とあります。主はあなたの名前を呼ばれるのです。

私が数えたわけではありませんが、名、名前という単語は新約聖書に151回、旧約聖書には428回も出てくるそうです。聖書の世界において名前がとても重要なものであることがわかります。それは、名前というのは、その人の存在、個性、人格などと結び付いているからです。適当にほかの名に変えることはできません。

 

ですから、牧者がそれぞれの羊たちの名前を呼ばれるというのは、かけがえのない存在として呼びかけられるということなのです。名を呼んで、誰でもよいから返事をしろというのではなく、ほかの誰でもない、あなたを呼んでいるということなのです。イエス様はその羊の性質、長所、弱点といったすべてをご存知であられます。人には言えないようなことでも、イエス様はすべてをご存知なのです。その上で、決して私たちを見捨てることなく、祝福の野に連れ出されます。イエス様はあなたの名も呼んでおられます。ですから、その方の声を聞きイエス様ついて行ってほしいと思います。

 

ザアカイは、自分の名を呼ばれてイエス様について行きました。彼は当時の社会で嫌われていました。というのは、神の民であるユダヤ人から税金を取り立てて異邦人であるローマに納める取税人であったからです。そんなザアカイのいるエリコの町にある日イエス様がやって来られるというので彼は見に行きますが、群衆が彼をさえぎったためイエスの姿を見ることができませんでした。そこで彼はいちじく桑の木によじ登ります。すると、そこを通りかかったイエス様は、上を見上げて言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」(ルカ19:5)

いったいどうしてイエス様はザアカイの名前を知っていたのかわかりません。もしかしたら、ザアカイのことを誰かから聞いていたのかもしれません。でもこのことはザアカイにとって予想外の大きな出来事でした。彼はイエス様を自分の家に招くと、悔い改め、自分の財産の半分を貧しい人に施し、だれかからおどし取った物があれば、四倍にして返すと言いました。するとイエス様はこう言われました。

「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を探して救うために来たのです。」(ルカ19:9-10)

イエス様はザアカイだけではありません。あなたも探しておられます。あなたを探して救おうとしておられます。イエス様はあなたの名も呼んでおられるのです。

あなたはこの方の声を知っていますか。あなたの名前を呼んでくださる主イエス様の声を聞いて、この方について行ってください。

 

Ⅲ.わたしを通って入るなら救われます(6-10)

 

第三のことは、その結果です。この門から入るならいのちを得、それを豊かに持ちます。6節から10節までをご覧ください。

「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」

 

イエス様はご自分が羊たちの牧者であり、自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出すと言われましたが、パリサイ人たちは、イエス様が何のことを言っているのかさっぱり分からなかったので、イエス様は再び彼らに言われました。それは、イエス様が羊の門であり、だれでも、イエス様を通って入るなら、救われるということです。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。けれども、盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。イエス様が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。つまり、イエス・キリストが救いに至る門であるということです。それ以外に道はありません。

 

イエス様はそのことを山上の説教でこう言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

またこの福音書の少し後でも、このように教えておられます。「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

つまり、イエス・キリスト以外に救われる道はないということです。特にここでは「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます」と、それ以外の所からは救いに入ることのできないことを明言されました。

 

このようなことを聞くと、排他性を嫌う日本人は、そんなことはないと、宗教についても、一休さんが作ったとされる次の歌を引き合いに、協調性、受容することの大切さを主張します。

「分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」

これは、真理は一つであっても、そこに至る道はいろいろあってよい。どの道から入ったとしても、それはその人の自由であって、要は究極の真理に到達することである、という意味です。

 

以前、福島にいた時、立正佼成会という仏教系の新興宗教の団体から招かれてお話ししたことがありました。その団体では、毎月1の付く日は他宗教から学ぼうということで、キリスト教からも学びたいのでぜひ来てお話ししていただけないかとお招きを受けたのです。畳敷きの広いスペースに300人くらいの方々が座っていました。みんな優しそうなお顔で、にニコニコして聞いてくださいました。当時私も33歳と若かったので、「自分の息子みたいな年の牧師さんが来てくれた」と喜んでいるようでした。私は何をお話ししようか悩みましたが、折角キリスト教の話を聞きたいというのだから、キリスト以外に救いはないという話をしたのです。そして、お話しの終わりに聖霊によって「祈りなさい」と促されたので、祈ることにしました。「皆さん、どうでしたか。キリスト教のことが少しでもわかってもらえたらうれしいですが、皆さんの祝福をお祈りさせていただいてもよろしいでしょうか」と言うと、皆さん「うん、うん」と首を縦に振るのです。「じゃ祈ります」と祈りました。そして、お祈りの中で、「どうでしょうか、皆さんの中できょうのお話しを聞いて、イエス様もいいな、イエス様を信じたいという方がおられますか、おられるなら、手をあげて教えてもらえますか」と言うと、3人くらいの方が手を上げたのです。それじゃ、その方のためにお祈りします」と祈ったとたん、そこの堂会長と言われる方がすかさず私のところに来て、皆さんにこう言われたのです。

「皆さん、とってもいい話でしたね。それぞれがそれぞれの宗教に従って歩むとは大事なことですよ。でもね、結局、みんな同じところに行くんですよ。ほら、こういう歌があるでしょ」と、この歌を歌われたのです。

その後で別室に招かれまして、この堂会長さんと昼食をいただきましたが、まさに日本の社会、精神風土は、排他性というものを極端に避ける文化なんだなぁということを痛感させられました。

 

しかし、ここでイエス様が言っておられることはそういうことではありません。イエス様は「わたしは羊の門です」とはっきり宣言されました。これはヨハネの福音書の中に7回出てくる「わたしは・・です」(エゴー・エイミー)というイエスの神性宣言の一つです。何が羊の門ですか?わたし様が羊の門です。それ以外に門はありません。イエス様が羊の門であって、イエス様を通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけることができます。これはどういうことかというと、この門から入るならたましいの救いが与えられるというだけでなく、そのたましいが満たされることを経験するということです。これが、イエス様がこの世に来られた目的です。つまり、イエス様が来られたのは、羊たちがいのちを得て、それを豊かに持つためです。ですから、私たちがこの門から入るなら、私たちはキリストの救いの中に入れていただくことができるだけでなく、真の意味で生き生きとした人生を送ることができるのです。すでにいのちを持っている人には、さらに豊かにいのちを与えていただけるのです。これは、キリスト抜きでは絶対に考えられないことです。

 

イエス様は私たちの人生に最高の生き方を与えてくださいます。それが、聖書が教えている救いであり、豊かないのちを持つことです。そのためには、キリストという門から入らなければなりません。門はいくつかあるかもしれません。また道もたくさんあるように見えるでしょう。しかし天国への門は一つしかありません。それは私たちのために天から下って来られ、いのちを捨ててくださったイエス・キリストだけです。この門を間違えてはなりません。

 

キリストという門を通ることなしに、本当のいのちはありません。キリストこそ、私たちが通らなければならない門です。あなたはこの門を通りましたか。まだ外側からただ眺めているだけということはないでしょうか。あるいは、キリスト以外のものに心が向いているということはないでしょうか。「豊かないのち」とは、単に物質的な豊かさを指しているのではなく、霊的な喜びも含めた全人的な祝福のことです。その祝福を実感しているでしょうか。もしそうでないとしたら、もしかしたら、この世のほかのものに魅力を感じているということがあるのかもしれません。キリストが門です。キリスト以外の門を通って出入りしてはいないかを点検し、キリストのことばがいつも私たちの心を支配するようにしましょう。そして、イエス様がくださる豊かないのちを体験させていただきたいと思います。