Ⅰサムエル記3章

サムエル記第一3章から学びます。

 

Ⅰ.イスラエルの霊的状態(1-3)

 

まず、1~3節までをご覧ください。

「さて、少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。その日、エリは自分のところで寝ていた。彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。神のともしびが消される前であり、サムエルは、神の箱が置かれている主の神殿で寝ていた。」

 

少年サムエルはエリのもとで主に仕えていました。これはエリの二人の息子との対比として描かれています。2章で見たように、エリの二人の息子ホフニとピネハスはよこしまな者たちで、主を知りませんでした。そのために彼らは、人々が主に和解のいけにえをささげるためにやって来ると、まだ煮ていない肉を奪ったり、会見の天幕の入口で仕えていた女たちと寝るというようなことをしていたのです。そんな彼らに神のさばきが語られました。神の人がエリのところに来て、彼の家の者たちが祭司職から除かれ、長生きすることができなくなると預言しました。そのしるしは何か、それは、彼の息子ホフニとピネハスが死ぬということです。この後、それが実際に成就します。

 

一方、サムエルはというと、まだ幼い少年でしたが、主の前に仕えていました。その特徴は何でしょうか。3節にあるように、神の箱が置かれている主の神殿で寝ていたということです。3:18には、彼は亜麻布のエポデを身にまとっていたとあります。彼は自分が祭司であるという自覚をしっかりと持っていたのです。そのような主のしもべサムエルに、主はご自身の言葉を語り、イスラエルの民の間に眠っていた霊的眼を開かせようとします。

 

「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」これが当時のイスラエルの霊的状態でした。主が語られるということがほとんどありませんでした。なぜでしょうか。この時代は、モーセとヨシュアの時代が終わり、イスラエルがカナンの地に入ってからしばらく経っていました。人々はそれぞれ自分の目に良いと思われることを行い、主を求めることがありませんでした。それが士師記の時代です。その結果、敵に侵略されては主を求め、そのたびに主はさばきつかさ(士師)たちを遣わすのですが、それで少しでも状態が良くなるとまた自分の目に正しいことを行うということを繰り返していたのです。ですから、主のことばはまれにしかなく、幻も示されていませんでした。

 

エリを見てください。大祭司エリの目もかすんできて、見えなくなっていました。これは彼の肉眼が見えなくなっていたというだけでなく、霊的な眼がかすんでいたことも表しています。彼は霊的洞察力をなくし、自分の息子たちの暴走も止めることができなくなっていました。イスラエルの霊的状態は、「神のともしびが消される前」、つまり、風前のともしびのような状態でした。「神のともしびが消される前」とは、神の宮にあった燭台の火がかろうじて燃え続けていたことを表しています。イスラエルには、それでもまだ真の信仰者が残されていました。その一人がサムエルです。サムエルは、神の箱が置かれている主の神殿で寝ていました。これはサムエルが主のしもべとして主に仕えていたこと、そして、彼が預言者の時代を招き入れ、イスラエルに霊的なともしびを燃え立たせる器であるということを表しています。

 

これは現代の日本の霊的状態にも言えることです。それがどんなに暗くあろうとも、絶望する必要はありません。神はサムエルのような信仰者を起こし、神のみことばを通して、霊的ともしびが燃え立たせる日が必ずやってくるからです。私たちの使命は、それがどんなに小さなともしびであろうとも、その日が来るまで、それを灯し続けることなのです。

 

Ⅱ.主に召されたサムエル(4-14)

 

次に4節から7節までをご覧ください。

「主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい、ここにおります」と言って、エリのところに走って行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。帰って、寝なさい」と言った。それでサムエルは戻って寝た。主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。わが子よ。帰って、寝なさい」と言った。サムエルは、まだ主を知らなかった。まだ主のことばは彼に示されていなかった。」

 

サムエルは、まだ主を知らなかったので、主のことばを聞き分けることができませんでした。彼は、主の宮で祭司エリの内弟子として仕えていました。その彼に、主からの呼びかけがありましたが主の声なのか、人間の声なのか聞き分けることができなかったのです。サムエルはエリのために忠実に働き、主の幕屋に仕えていましたが、それが同時に、彼が主のことを知っていたということではなかったのです。主と個人的な関係は、主の呼びかけを自分が聞き取ることから始まります。ただ神について聞くというだけでなく、神からの語りかけを自分に対する語りかけとして受け止め、それに応答することによって、そこに神との生きた、人格的で、個人的な関係を持つことができます。それが主を知るということです。それがなければ、子どもであっても、大人であっても、どんなに教会生活を送っていたとしても、主を知ることはできません。ですから、サムエルはまだ主を知らなかったのですが、その素地が整っていました。それは祭司エリの言うことにきちんと従っていたことです。神によって立てられた権威に従うことによって、幼子は神を知ることができるようになります。特に子にとっては、両親の言うことに聞き従うことが、とても重要です。

 

8節から14節までをご覧ください。

「主は三度目にサムエルを呼ばれた。彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、主が少年を呼んでおられるということを悟った。それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。主はサムエルに言われた。「見よ、わたしはイスラエルに一つのことをしようとしている。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。 わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。だから、わたしはエリの家について誓う。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」」

 

主が三度サムエルを呼ばれると、彼は前と同じようにエリのところへ行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言うと、エリは、これはどうもおかしいぞ、これは、主が彼を呼んでおられるに違いないと思いました。それでエリはサムエルに言いました。「行って寝なさい。そして、今度主がおまえを呼ばれたら、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と言うように、と言いました。

 

すると、主が再び彼のもとに来られ、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれたので、サムエルは、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と言いました。これは、「あなたが言われることは、何でも聞きます」という姿勢に他なりません。つまり、自分が聞きたいことと、聞きたくないことを選り分けるというのではなく、主が言われることならば何でも聞いて従います、ということです。これが、サムエルが召された時の応答でした。これは小さな応答でしたが、サムエルという信仰の偉人も、この小さな応答から主のしもべとしての生涯を歩み始めたのです。あなたはどうですか。主があなたの名を呼ばれるとき、どのように応答されるでしょうか。サムエルのように、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」という応答して、小さな一歩を歩み始めようではありませんか。

 

すると主はご自身のみこころをサムエルに伝えました。それは11節から14節にあるように、息子たちの罪と、親としてそれを放置した罪のために、エリの家は必ず裁かれ、その咎を償うことはできない、ということでした。11節の、「だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る」というのは、これがあまりにも衝撃的で、耳にこだまして残る、という意味です。それが非常に厳しい内容であったことを示しています。主はあわれみ深く、忍耐深い方ですが、その忍耐を軽んじてはなりません。時が来れば確実に裁かれることになります。ですから、その前に悔い改めて、神に立ち帰らなければなりません。

 

Ⅲ.預言者サムエル(15-21)

 

最後に15節から21節まで見て終わりたいと思います。

「サムエルは朝まで寝て、それから主の家の扉を開けた。サムエルは、この黙示のことをエリに知らせるのを恐れた。エリはサムエルを呼んで言った。「わが子サムエルよ。」サムエルは「はい、ここにおります」と言った。エリは言った。「主がおまえに語られたことばは、何だったのか。私に隠さないでくれ。もし、主がおまえに語られたことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」サムエルは、すべてのことをエリに知らせて、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように。」サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった。全イスラエルは、ダンからベエル・シェバに至るまで、サムエルが主の預言者として堅く立てられたことを知った。主は再びシロで現れた。主はシロで主のことばによって、サムエルにご自分を現されたのである。」

 

翌朝、少年サムエルは何もなかったような顔をして、いつものように主の宮の扉を開けていました。彼は、主から受けた預言のことばをエリに知らせるのを恐れていたのです。しかし、エリは何としてもそのことばを聞きたいと思ってこう言いました。「主がおまえに語られたことばは、何だったのか。私に隠さないでくれ。もし、主がおまえに語られたことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」(17)すごいですね、彼は神罰にかけてすべてを話すようにと迫ったのです。それでサムエルは、主から聞いたことを何も隠さずにすべて、エリに伝えました。

 

するとエリはどのように反応したでしょうか。エリはこう言いました。「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように。」彼は、それを信仰によって受け止めました。彼はまず、「その方は主だ」と、主の権威を認めています。そして「主が御目にかなうことをなさるように。」と、その知らせをそのまま受け入れ、すべてを主の御手にゆだねたのです。

 

一方、サムエルは成長しました。主が彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはありませんでした。これは、サムエルが主にあって、肉体的にも霊的にも成長したということです。主がともにおられること、これが信仰者にとって最も重要なポイントです。そして、彼が語ることばは一つも地に落ちることがなかったというのは、彼の預言がすべて成就したということです。これは彼が真の預言者であったということのしるしです。申命記18:22には、真の預言者のしるしは、その語った預言が成就したということでした。主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは偽預言者です。

 

やがて全イスラエルが、彼が主の預言者として立てられたということを知るようになります。ダンからベエル・シェバに至るまでとは、イスラエルの北の端から南の端まで、すなわちイスラエル全体がという意味です。

 

主は再びシロでサムエルに現れました。主はシロでご自身のことばによってサムエルに現れたのです。そのころは、主のことばはまれにしかなく、幻も示されていませんでしたが、ここに、その回復が見られます。主はサムエルというひとりの預言者を立て、彼を通してご自身のことばを語り、ご自身を現してくださったのです。本格的な預言者の時代の到来です。サムエルは幼い頃から主の声を聞くことを学んでいましたが、主の声は聞けば聞くほどより鮮明に聞こえてきます。ですから、幼子たちの霊的訓練を怠ってはなりません。それは大人であっても同様です。大人であっても、救いに導かれた霊的幼子たちに対して、みことばによる訓練を怠ってはなりません。そして、主の声を聞く訓練というものを自らに課すことによって、霊的成熟を求めていく者でありたいと思います。