ヨハネの福音書10章~18節 「わたしは良い牧者です」

きょうは、「わたしは良い牧者です」というタイトルでお話しします。すでにお話ししてきたように、ヨハネの福音書には、「わたしは・・・です」という表現が七回出てきます。まず、6章35、41節でしたね、「わたしはいのちのパンです」とありました。それから、8章12節には、「わたしは世の光です」とありました。そして前回見た10章7,9節には、「わたしは門です」とありました。きょうの箇所に出てくる「わたしは良い牧者です」とは、四回目となります。

 

イエス様はここで、ご自分を良い羊飼いにたとえでいらっしゃいます。私たちの周りには羊がいないので、羊飼いとはどのようなものなのかについてあまりよくわかりませんが、当時のパレスチナではよく羊が飼われていたので、イエス様がこのたとえを話された時、これを聞いていた人々はピンときたのではないかと思います。いったい良い羊飼いとはどのようなものなのでしょうか。イエス様はここで良い牧者について三つの特徴を取り上げておられます。

 

Ⅰ.良い牧者は羊のためにいのちを捨てる(11-13)

 

第一に、良い牧者は羊のためにいのちを捨てるということです。11~13節をご覧ください

「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。」

 

この箇所の直前に「わたしは羊たちの門です」とたとえで話されたイエス様は、今度はご自身が羊たちの牧者であると言われました。ただの牧者ではありません。良い牧者です。良い牧者とはどのような者でしょうか。良い牧者は、羊たちのためにいのちを捨てます。牧者ではない雇い人はどうかというと、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりするのです。しかし、良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

 

旧約聖書に登場するダビデは、元々羊飼いでした。その羊飼いであった時に、実際に熊や獅子と戦って羊を守りました。羊飼いは、羊が奪われたとき、ただ羊を食われましたと言うだけではだめでした。その際に実際に野獣と戦った証拠として、その足取り返してきたとか、耳を取り返してきたというのを見せなければなりませんでした。確かにこの人は戦ったけれども仕方なく食われてしまったとか、そこまでいかないと、羊飼いとしての使命を果たしたことにならなかったのです。それで、結構多くの羊飼いが命を落とすことがあったのです。実際にそういうことを見たという方もいます。その様な経験を通してダビデはこう言いました。

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。」(詩篇23:1-4)

主はこのような羊飼いでした。ダビデは実際に羊飼いだったのでそのことをよく知っていました。それにしても、良い羊飼いはどうして羊のためにいのちを捨てるのでしょうか。それは雇い人ではないからです。雇い人ではないので自分の利益や報酬のために生きているのではなく、羊のために仕えていたからです。それで狼などがやって来ると、羊たちを危険から守るためにいのちがけで戦ったのです。また、羊を養うために牧草地へ導いて行ったり、いこいの水のほとりに連れて行きました。その時にも危険が伴いますが、いのちがけで羊を守ったのです。

 

しかし、雇い人はそうではありません。雇い人はそこまでしません。羊よりも自分の方が大切なので、そうした危険に直面するとすぐに逃げ出してしまうのです。そこまでして守りたいとは思いません。彼らはただ雇われているだけなので、羊たちのことなど全然心にかけていないのです。このような牧者に養われている羊たちは可哀想そうですね。何かあったらすぐにどこかにいなくなってしまうのですから。いたとしても羊たちのことなど心にかけていません。そこまでして犠牲を払いたいとは思わないのです。本当に羊のことを心にかけていれば、羊が何百匹いても、その1匹1匹を心にかけるはずです。それが出来るのが良い羊飼いです。

 

エゼキエル書34章に次のようにあります。

「次のような主のことばが私にあった。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、牧者である彼らに言え。『神である主はこう言われる。わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた。わたしの羊はすべての山々、すべての高い丘をさまよった。わたしの羊は地の全面に散らされ、尋ね求める者もなく、捜す者もない。それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。わたしは生きている──神である主のことば──。わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないために、あらゆる野の獣の餌食となってきた。それなのに、わたしの牧者たちはわたしの羊を捜し求めず、かえって自分自身を養って、わたしの羊を養ってこなかった。それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。神である主はこう言う。わたしは牧者たちを敵とし、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。もはや牧者たちが自分自身を養うことはなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らの餌食にさせない。』」まことに、神である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。」(エゼキエル34:1-11)

 

これはエゼキエルを通して語られた主のことばです。イスラエルの牧者たちは何のために牧会しているのか、羊を養うためなのか、それとも自分を養うためなのか?羊たちのことを顧みず、自分を養っている牧者たちに対して、羊を飼うのをやめさせると言われたのです。これは言い換えると、羊飼いになろうとしているのか、雇い人になろうとしているのかということです。非常にきつい言葉です。あなたは羊飼いになろうしているでしょうか、それとも、ただの雇い人でしょうか?

 

私は牧師として、いつもこのことを問われることがあります。一生懸命に養っているようでも、それがただの見せ掛けのような時があるからです。自分の本質を見ると、自分もこのイスラエルの牧者とちっとも変わらない者ではないかと思わされます。真の意味でこのような牧者であり得るのはイエス様だけです。なぜなら、イエス様は羊のためにいのちを捨てられるからです。そうです、これはイエス様の十字架の死の預言だったのです。イエス様は、私たちのために自分のいのちを捨ててくださいました。それほどまでに愛してくださったのです。自分のためにいのちを捨てる方がいることを知るなら、私たちの生き方も少しずつ変えられていくのではないでしょうか。

 

先日、知り合いの牧師が、その話の中で教会に集っている一人の姉妹のことをお話ししてくれました。その姉妹は、自分を受け入れてくれる人には心を開きますがそうでない人には貝のように心を閉ざされるので、自分には心を開いていろいろ打ち明けてくれるのでいいのですが、他の方々には全く心を開かないので困っているとのことでした。それで他の姉妹たちと不協和音が生じ、姉妹たちの中にはそれが原因で教会から出て行こうとする人までいるとのことでした。姉妹たちからすれば、牧師がその姉妹のことで振り回されてしまい、教会全体を見られなくなっているという不満がうっ積していました。とは言っても、他の人が関わってくれるのではあればいいですが、そういう人がだれもいないという状況で、もし自分がやらなければいったいこの姉妹はどうなってしまうのかと思うと放っておくこともできず、結局、牧師自身が追い詰められていたのでした。

その話を聞いていてすごいなぁと思ったのは、この牧師はたとえ自分がどんなに辛くても、その人を決して置き去りにしたり投げ出したりしないで、いつも心にかけ、一つ一つ丁寧に対処しようとしていたことです。また、確かにそのことで教会の中に不協和音が生じても、むしろ、そのことを通してキリストの愛を学ぼうとしていたことでした。ある姉妹がそのことで我慢できなくなり、「わかりました。それじゃ、私はもう教会から出て行きますから」と言ってドアを開けた時、「ちょっと待ってください。このような時こそイエス様の愛を学ぶ時ではないですか。イエス様が互いに愛し合いなさいと言われたように、私たちも互いに愛し合いましょう。」と言うと、その姉妹は、「わかりました」と言ってそのことばを受け止められました。牧師も牧師ですが、姉妹も姉妹ですね。自分の感情に従うのではなくイエス様のみことばに従って行こうという姿勢がすばらしいと思ったのです。

 

そうです、大切なのは、イエス様ならどうされるのかということです。イエス様は私たちのためにいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。私たちの愛は、このイエス様のいのちがけの愛から生まれているのです。イエス様は良い牧者です。であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。

 

Ⅱ.良い牧者は羊のことを知っている(14-15)

 

第二に、良い牧者は羊のことを知っているということです。14節と15節をご覧ください。

「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。」

 

イエス様は、私たち一人一人を心にかけてくださっているだけでなく、私たち一人一人のことをよく知っておられます。私たちの名前はもちろんのこと、私たちの生い立ちも、私たちの性格も、私たちの個性も、私たちが置かれている環境も、私たちの長所も弱さもすべて知っておられます。すべてを知った上で、愛してくださっているのです。愛している方にすべて知られているなら安心ですね。でも、知らないこともあるでしょう。おそらく、人間の社会において一番よく知っているのは夫婦ではないかと思いますが、夫婦はお互いのことを一番よく知っているようで、意外に知りません。「もう何年も一緒にいるのに、うちの旦那は私のことをちっともわからないの・・・」とか、「お父さんは、何年も一緒にいるのにお母さんの好きな料理もわかんないんだから」と言うのを聞くことがあります。分かっているようでわかっていません。

 

しかし、イエス様は私たちのことを完全に知っておられます。どのくらい知っておられるのかというと、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じようにです。父である神は御子であられるイエス様をどれほど知っておられるでしょうか。また、御子なるイエス様は、父なる神をどれほど知っておられるでしょう。父なる神も子なる神も完全であられますから、完全に知っておられるわけです。しかもただ単に知的に知っているということ以上に、そこには親密な交わりがあります。深い関心と愛情をもっておられるということです。イザヤ書の中にこのようなみことばがあります。

「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」(イザヤ49:15)

人があなたのことを忘れても、母親が乳飲み子を忘れても、わたしはあなたを忘れません。あなたに深い愛情を持っておられるのです。これはまさに目からうろこではないでしょうか。

 

しかし、ここには単に牧者であられるイエス様が、羊である私たちのことを知っているというだけでなく、羊である私たちも、牧者であられるイエス様のことを知っているとあります。皆さんは、自分の牧者であるイエス様のことを、どれだけ知っているでしょうか。3、4節には、牧者が自分の羊たちを連れ出し、その先頭に立って行くと、羊たちはそれについて行くとあります。彼の声を知っているからです。今、世の中にはいろいろな声があふれています。けれども私たちは、イエス様の声を聞き分けなければなりません。どうしたらイエス様の声を聞き分けることができるでしょうか。それはいつも本物にふれていることです。何が本物ですか。

 

先月から、中国人の任さんと聖書を学んでいます。中国の娘さんから教会に行ってほしい、イエス様を信じてほしいと言われ、教会を探しているんだけれども、教会にもいろいろあるでしょう、危ない。だから、間違いのない教会を探しているんですと、ある日、教会を訪ねて来られました。すると、この教会は本物かと聞くのです。本物かって、自分たちは本物だと思って聖書を学んでいますが、どの団体も自分たちが本物だと信じているわけですから、何を根拠に自分たちが本物であるかを説明するのは難しいです。

すると、娘さんは中国の教会で、聖歌隊で歌っているのですが、そのユーチューブの動画を見せてくれました。それは「歌いつつあゆまん」という賛美でした。私がそれに合わせて歌ったら、「それ、ホンモノね」と言って、一緒に学ぶことになりました。別に「歌いつつ歩まん」を賛美しているから本物だというわけではないでしょうが、少なくても、イエス様を救い主として信じている教会というのは間違いないということで、信じていただけたのでしょう。でも、本当は聖書を見なければなりません。聖書にあるイエス様とはどのような方なのかを知り、イエス様を信じ、イエス様と共に歩み、イエス様に信頼して生きていくことが大切なのです。そのようにして、私たちがイエス様を深く知る時に、イエス様の心が見えてきます。皆さんもそうではないですか。人と親しく交わっていく時に、その人の気持ちや思いが言わなくても分かってきます。そのような関係が出来てくるのです。私たちはそこまでイエス様のことを深く知っていきたいと思うのです。

 

韓国のアン・リスクさんという人が書いた「たとえそうでなくても」という本があります。著者のアン・リスクさんは日本が韓国で神社参拝を強制した時に、それを拒否し信仰を貫いたために、日本の牢獄に入れられました。その牢獄の中に日本語を話せない満州人の女性がいました。ご主人殺しで捕まったようですが、後ろ手に縛られて食べるのも犬食い。下の物も垂れ流しです。アン・リスクさん自身も本当に辛い苦しいところを通っているのは事実です。しかし彼女の部屋は天国の出張所とも言われていました。というのは彼女の部屋に来る人が皆変わってしまうからです。アン・リスクさんの影響で、怖い顔が穏やかな表情に変わっていくのです。

そんな中でアン・リスクさんはイエス様がここに来られたらだれの所にいくであろうと考えました。当然自分は一番神様を愛しているし、神様に従っているから自分の所に来るかなと思いましたが、直ぐにそうじゃないと気づかされました。それじゃどうされるかと言えばと、あの満州の女性の所に行くのではないかと気づかされたのです。この人こそが一番可哀想な人。イエス様は必ずその人の所に行くと思った時に、自分が今成すべきことは、この人に愛を与えることだと気づかされました。看守達もアン・リスクさんの人格に感動していましたから、かなり彼女の言うことを聞いてくれるようになっていました。それで彼女は看取にあの人を自分の部屋に連れて来て下さいと頼みました。それで連れて来てもらいましたが、その途端から目が痛くて仕方がないのです。アンモニア臭がすごかったからです。彼女はその時から満州語で「私はあなたを愛しています。」と言い続けました。それも本音を言うとそんなには愛していなかったのだけれども、内に来てくれている聖霊様は愛してくれているはずだからと、そのことを言っていたのですが、その内に「あなたを愛しています。」と言う度毎にアン・リスクさんの目から涙が落ちます。そして彼女のことを本当に想い始めて遂にはその人のために、1日1食しか出てこない食事を断食してその人に与えました。3日、4日経っても「ありがとう」も何もない。当たり前のように食べている。しかし5日目、6日目になってきて始めて何故この人が自分にこんなことをするのだろうかと、変わり始めて彼女もまた捉えられていきました。

本当にイエス様の心を知るからこそ、アン・リスクさんはそのように出来たのです。私たちも本当にイエス様の心を知っていくなら、喜んで犠牲を払ったり、人に仕えたりしていくことが出来るのではないでしょうか。これが信仰生活の鍵です。どれほどイエス様を知っておられるかということです。あなたはどうでしょう。どれほど知っておられるでしょうか。私たちもそのように主を知っていく者となっていきたいと思うのです。

 

Ⅲ.良い牧者は一つの群れ、一人の牧者となる(16-18)

 

第三のことは、良い牧者は、一つの群れ、一人の牧者となるということです。16節から18節までをご覧ください。

「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」」

 

「この囲いに属さないほかの羊たち」とは、神の選民であるユダヤ人とは区別された異邦人クリスチャンのことです。イエス様は、それらも導かなければなりません、と言われました。それらも導いて、一つの群れ、一人の牧者となるのです。どういうことでしょうか。イエス様はユダヤ人だけでなく、異邦人をも救いに導き、一つの群れ、一つの牧者となられるというのです。それが、イエス・キリストを頭とするキリストのからだ、教会のことです。どのようにして一つの群れとするのでしょうか。それはイエス様が十字架にかかって死なれることによってです。イエス様はただ単に選民であるユダヤ人を救うためにこの世に来られたのではなく、「この囲いに属さないほかの人たち」、すなわち、異邦人をも救うために来られたのです。そして、それらの人々を一つの群れにするためでした。教会とはまさに、イスラエル人の信者と異邦人の信者が、キリストをかしらとする「新しい一人の人」とされたものなのです。

 

このことについてパウロは、エペソ2章14~16節で次のように言っています。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、

ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(エペソ2:14-16)

 

イエス様がここで「一つの群れ、一人の牧者となる」と言われたのは、このことだったのです。ユダヤ人信者と異邦人の信者によって造り上げられる新しい一人の人です。それがキリストの教会です。それは、キリストの十字架によって成し遂げられました。十字架こそ敵意を打ち砕き、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄し、二つのものを一つにすることを実現してくださるものでした。この十字架によって、私たちは一つになることができるのです。そして一つになることが主のみこころだということがわかると、私たちもまた様々な偏見や憎しみを捨てて、お互いに愛し合い、一つとなるために務め励むことができるのではないでしょうか。

 

教会では先月からイングリッシュ、ワーシップが行われていますが、これはすばらしいことだと思います。なぜなら、様々な国の人たちが一つの所に集まり、言葉の違い、文化の違い、習慣の違いを乗り越えて、イエス・キリストにあって一つになろうとすることだからです。そのために、イエス様が十字架で死んでくださいました。キリストの十字架によってすべての敵意が廃棄されました。キリストの十字架によって私たちは一つとされ、互いに愛し合い、互いに仕え合うことができるようになったのです。ハレルヤ!これがイエス様のみこころです。今、韓国との関係が最悪だと言われています。中国との関係も微妙です。アメリカとの関係も貿易の問題があります。でも、私たちはキリストにあって一つになることができるのです。すばらしいですね。ここに本当の平和があります。本当の平和は政治的にはもたらされるものではありません。経済によっても無理です。ただイエス・キリストによってのみもたらされます。イエス様が十字架にかかって流されたその血によって、すべての敵意が取り除かれたので、私たちは一つになることができるのです。これが本当の平和です。イエス様はそのために来てくださいました。それは、決して教理を無視し、ただ一つになれば良いということではありません。イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、聖書に啓示されてあるキリストのみこころに従って一つになるということです。聖書の御言葉に堅く立ち、御霊による一致を求めることです。そうした御言葉に立っている人たちと一致協力し、世界宣教に励まなければなりません。

 

あなたは、イエス・キリストの十字架によって神と和解しましたか。そして、兄弟姉妹との間に、またあらゆる人との間に平和がもたらされたでしょうか。どうかイエス様を信じてください。イエス様は良い牧者です。良い牧者は私たち羊のためにいのちを捨ててくださいました。また、良い牧者は、羊である私たちのことをよく知っておられます。そして、良い牧者は、さまざまな破れ口に立って、その関係を修復してくださいます。良い牧者であられるイエス様は、いつもあなたを緑の牧場へと導き、いこいの水のほとりに伴ってくださいます。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れることはありません。主がともにおられますから。」この方によって導かれる人生はどんなに幸いでしょう。この方を信じ、この方にすべてをゆだね、この方に全く信頼しましょう。イエス様は必ずあなたを救ってくださいますから。なぜなら、イエス様は良い牧者であられるからです。