ヨハネの福音書12章4~11節「礼拝を妨げるもの」

前回は、イエスが過越の祭りの6日前にベタニアに来られた時、マルタとマリアとラザロがどのようにしていたのかを見ました。すなわち、マルタの奉仕とラザロの証し、そしてマリアの礼拝です。特にマリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。それはマリアにとってイエスがすべてのすべてであったからです。彼女は自分自身を主にささげました。それが礼拝です。なぜ彼女はそのようにしたのでしょうか。それは勿論イエスが兄弟ラザロを生き返らせてくださったことへの感謝もありましたが、それ以上の理由がありました。それは、主が彼女のためにいのちを捧げるほど深く愛してくださったからです。その愛に対する応答でした。彼女にはそれがよくわかりました。いつも主の足もとにひれ伏して、主のみことばを聞いていたのでわかったのです。そしてそれが礼拝となって表れたのです。

 

きょうのところには、それとは裏腹にそうした主への礼拝を妨げる者の姿が描かれています。イスカリオテのユダや、祭司長たちです。いったい何が問題だったのでしょうか。私たちはイスカリオテのユダや祭司長たちのように礼拝を妨げる者ではなく、マリアのようにイエスに心から礼拝をささげる者でありたいと思います。

 

Ⅰ.イスカリオテのユダ(4-6)

 

まず、4~6節をご覧ください。

「弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」

 

ここにイエスの弟子の一人で、イスカリオテのユダという人物が出てきます。新改訳聖書第三版には「ところが」という接続詞があります。残念ながらこの新改訳2017と他の日本語の聖書には訳されていません。英語では「but」(New International Version)、あるいは「Then」(King James Version)と訳しています。原語には、「ουν」という接続詞があって、これは「しかし」とか、「それから」、「ところが」という意味の言葉です。これは訳してほしかったですね。なぜなら、このイスカリオテのユダの行為が3節のマリアの行為と対比されているからです。マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油をイエスの足にぬり、それを自分の髪の毛でぬぐいましたが、一方、弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダはそうではありませんでした。

 

「イエスを裏切ろうと」の直訳は、脚注にもあるように「引き渡そうと」です。ユダはイエスをユダヤ人の当局者たちに引き渡そうとしていました。イエスを裏切ろうとしていたとはそういうことです。「イスカリオテ」とはカリオテの人という意味です。「カリオテ」とはイスラエル南部の地方都市の名前で、「大都会」という意味があります。イエスの弟子たちのほとんどがガリラヤ地方出身の田舎者であったのに対して、彼はユダヤ地方の大都会の出身でした。今で言うとシティボーイです。ですから、それなりにプライドもあったでしょう。何よりも頭が切れていました。会計管理の才能を生かして弟子団の財務担当を担っていたのですから。財務省です。かなり優秀でないとなれません。ですから、人からの信頼も厚かったようです。そのイスカリオテのユダがマリアに言いました。「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

 

これが聖書の中に出てくるユダの最初の言葉です。「どうして」ここに彼のメンタリティーがよく表われているのではないでしょうか。マリアが心から主イエスに対して向き合ったのに対して、彼はそのマリアに「どうして」と言いました。私たちもよく「どうして」と言うことがあるかと思いますが、このように「どうして」という時は気を付けなければなりません。そこにはナルドの香りではなく危険な香りがするからです。他の人を批判して「どうして」と言うのは危険です。彼はマリアを公然と批判しました。「どうして、この香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さないのか。」と。この香油とは、3節で彼女がイエスに注いだナルドの香油のことです。これは純粋で非常に高価なものでした。300デナリもの価値がありました。300デナリとは300日分の労働者の賃金に相当します。つまり年収ですね。マリアはそれをすべてイエスにささげました。おそらく、結婚の準備のためにとコツコツと蓄えていたものでしょう。もしかすと、両親の遺産の一部であったのかもしれません。いずれにせよ、それを全部イエスにささげました。それを見ていたユダは、「どうして、この香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と言ったのです。どうして彼はこのように言ったのでしょうか。

 

6節をご覧ください。ここにその理由が記されてあります。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」彼がこのように言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではありません。彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからです。どういうことでしょうか?貧しい人に施しをするということはユダヤ教では非常に大切なことでした。それは律法にこうあるからです。「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みの中ででも、あなたの同胞の一人が貧しい者であるとき、その貧しい同胞に対してあなたの心を頑なにしてはならない。また手を閉ざしてはならない。必ずあなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。」(申命記15:7-8)

これが律法です。これが主のみおしえなのです。それは主が彼らを祝福してくださるからです。マタイ25:40でイエスが、「すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」と言われたのは、こうした律法の背景があったからです。最も小さい者たちにしたこととは何ですか。空腹であったときに食べ物を与え、渇いたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに服を着せ、病気であったときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれるといったことです。つまり、貧しい人々に施すことです。それは神を信じて生きる者たちにとってとても大切なことだったのです。ですから、イスカリオテのユダが言っていることは正しいのです。

 

しかし、彼には問題がありました。それは、彼がこのように言ったのは貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かっていながら、そこに入っているものを盗んでいたことです。どういうことかというと、ヨハネ13:27-29を見てください。ここには、「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」席に着いていた者で、なぜイエスがユダにそう言われたのか、分かった者はだれもいなかった。ある者たちは、ユダが金入れを持っていたので、「祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていた。」とあります。これは最後の晩餐の席でのことです。イエスは弟子たちの一人が、自分を裏切ると言われました。弟子たちが、それはだれですかと尋ねると、イエスは「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」と答えました。そしてイエスはパン切れをユダに与えると、彼にこう言いました。「あなたがしようとしていることを、すぐにしなさい。」弟子たちはなぜイエスがそのように言ったのかが分かりませんでした。彼らはユダが金入れを預かっていたので、「祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにと、言われたのではないかと思ったのです。でも実際は違いました。彼はその金入りから盗んでいたのです。つまり、フェイントですね。そのように見せかけておいて、実際には自分の利益を追及していたのです。

 

このように、人の言葉には、その裏に、それとは別の本当の意図が隠されていることがあります。ことに、りっぱなことを言う人は、その陰に全く違った動機が隠れている場合があります。ほかの人を批判したり、裁いたりする人も、あたかも正しいことを言っているようですが、実はその言葉の裏には、自分を正当化しようという思いが働いていることがあります。だから注意しなければなりません。イスカリオテのユダは確かにりっぱなことを言いましたが、一つとしてりっぱなことはしませんでした。彼はただ自分の利益を追及していただけだったのです。

 

でもこれはユダだけではありません。私たちにもあります。口ではりっぱなことを言っていても、その動機を探られたら、このユダと五十歩百歩ということがあるのではないでしょうか。たとえば、私はこうやって毎週講壇から説教していますが、それがもし人から称賛されたいからとか、名誉なことだからとか、注目されたい、かっこいいといった動機からだとしたら、このユダと全く変わりません。それはただの見せかけであって、偽善にすぎないのです。私は自分を戒めてこう言っているのですが・・。私たちが奉仕をするのはどうしてでしょうか。もし自分が敬虔なクリスチャンに見せたいからとか、教会のリーダーとして認められたいから、あるいは、何か大きなことを成し遂げたという達成感なり自己満足を得たいからというなら、それはこのユダと少しも変わりません。彼が本当に心にかけていたのは貧しい人々のことではなく自分自身でした。イエスを愛していたのではなく、自分を愛していたのです。彼は霊的なことには全く価値を見出すことができませんでした。だからイエスに対する愛情の表現としてささげたマリアの礼拝を全く理解できず、むしろそれを真っ向から非難して蔑んだのです。礼拝にそんなにお金をかけるなんてもったいない。そんなお金があるんだったら貧しい人々を支援した方がずっといいに決まっている。もっと実際的なことのためにお金を使うべきだ・・。どうですか、皆さん、何だかもっともらしいと思いませんか。でもそれは単なる口実です。彼がそのように言ったのは本当にそのように思っていたからではなく、自分の利益を求めていたからなのです。彼の心を支配していたのは損得勘定でした。本当に貧しい人のことを考えていたわけではありませんでした。

 

礼拝に行けませんという人の多くは同じ問題を抱えています。「忙しくて礼拝になかなか行けません。」「いろいろやらなければならないことが多くて礼拝に行っている時間がないのです。」これらはもっともらしい口実ですが、でも本当の理由はそこにあるのではなく、まさにユダが言っているように、自分のことしか考えていないことです。彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたのではなく、金入れに入ってくるものを盗んでいたのである。つまり、イエスのことを心にかけていたのではなく、イエスを愛しているのではなく、自分を愛していたのです。これが本当の問題です。イエスはこう言われました。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタイ6:24)

 

皆さん、だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を重んじて他方を軽んじることになるからです。私たちは神にも仕え、富にも仕えることはできないのです。それなのに、あたかも神に仕えているかのようにふるまうとしたら、そこにユダのような偽善が生じてしまいます。そのような偽善こそがイエスを礼拝することを妨げてしまうことになるのです。イスカリオテのユダはそういう仮面をかぶり、自分をごまかして、神と人を欺いていました。もし私たちにこうした思いがあるなら悔い改めなければなりません。そして、マリアのように純粋にキリストを愛し、キリストを礼拝する者でなければならないのです。

 

Ⅱ.りっぱなこと(7-8)

 

次に、7-8節をご覧ください。イスカリオテのユダのことばに対して、イエスは何と言われたでしょうか。

「イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」

 

並行箇所のマルコ14:6(新改訳聖書第三版)には、「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」とあります。イエスは彼女がしたことをりっぱなことであるとほめてくださいました。そればかりではなく、「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マルコ14:9)と仰せになられました。これほどほめられた人はそれほど多くはありません。弟子たちでさえここまでほめられた人はいません。しかも、彼女の場合、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょうと言われました。そのことが聖書に記され、賛美歌にもなって語り伝えられるというのです。そんなこと当の本人でさえ想像することができなかったでしょう。彼女のこの奉仕は、彼女自身の小さな感覚をはるかに越えて用いられていったのです。

 

こうしたイエスに対する奉仕は、もしかしたら周りの人たちに理解されず、非難されていたかもしれません。しかし、イエスは理解し、評価して、このように認めてくださるのです。イエスにほめられたら本望です。それで十分です。マリアのようにイエスを礼拝することは、イエスにとってもとてもうれしいことなのです。どうしてマリアはこのような奉仕をささげることができたのでしょうか。

 

ここにもう一つの理由が語られています。それは、マリアは、イエスを埋葬するために、それを取っておいたということです。どういうことですか?マリアがナルドの香油をイエスにささげたのは、イエスの死を予見して埋葬の用意をするような、神の十字架のご計画の中にきちんと組み込まれたタイムリーな奉仕であったということです。

これは本当に驚くべきことです。私たちは11章でラザロの死とよみがえりの出来事を見ましたが、マリアの香油はそのために使われても不思議ではありませんでした。自分の愛する弟が葬られたとき、その死体が腐らないように、あるいは臭いを消すために使われても少しもおかしくなかったのに、マリアはそれを使いませんでした。なぜなら、イエスの葬りのために取っておきたかったからです。マリアはイエスの葬りのために取っておこうと、前もって決めていました。ラザロが死ぬはるか前からです。だから、マリアがイエスに香油を塗ったのは思いつきや気まぐれによってではなく、ずっと前から決めていたことだったのです。

 

同じマリアでもマグダラのマリアは、イエスが復活した朝、イエスのからだに香料を塗ろうと墓に出かけて行きましたが、このベタニアのマリアのように、前もってイエスのからだに香料を塗ることはしませんでした。イエスが死ぬ前に塗ったのか、後に塗ったのかでは大きな違いがあります。また、こんなにイエスを愛したマリアが、イエスが十字架につけられた時そこにいなかったことは不思議です。イエスの十字架のそばには、イエスの母マリアとその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアといったたくさんのマリアがいました。でも、このベタニアのマリアはいませんでした。なぜこれほどイエスを愛していたベタニアのマリアがそこにいなかったのでしょうか。なぜベタニアのマリアは、イエスの死と埋葬に直接関わらなかったのでしょうか。もしかしたら、他の弟子たちのように脅えて逃げ隠れしていたのでしょうか。そうではありません。この12章でユダヤ人たちから迫害を受けることを覚悟してイエスを食事に招いていました。ですから、イエスが十字架につけられるからといって、逃げ隠れするようなことはしなかったでしょう。だったらなぜ彼女はイエスの死と葬りに全く関わらなかったのでしょうか。それは彼女が他のだれも理解できなかったことを理解していたからです。それはイエスが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられるということです。イエスは弟子たちにそのことを語っていました。でも弟子たちのだれ一人としてそのことをまともに受け止めることができなかったのです。でも彼女だけは別です。彼女は、イエスのことばを額面通りに受け入れていました。だから、彼女はイエスが葬られた墓には行かなかったのです。行く必要がなかったのです。なぜなら、イエスは死んでよみがえられるからです。彼女はまさにイエスが語った福音を信じていたのです。皆さん、福音とは何ですか。それはイエスの十字架と復活です。Ⅰコリント15:1~5にこうあります。

「兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」

彼女は、この福音を信じていたのです。彼女はイエスが葬られて終わりだとは思っていませんでした。三日目によみがえることを信じていたのです。死人の埋葬のために香料はとても役に立ちます。でもよみがえってしまうのであれば無駄になってしまいます。それこそもったいない話です。だから、ベタニアのマリアにとっては今がチャンスだったのです。それはまさにタイムリーな奉仕だったと言えるのです。マリアの驚くべき洞察力というか信仰には驚かされます。いったいどうして彼女はそのような知識なり、信仰なり、啓示を持っていたのでしょうか。

 

それは、彼女がいつも、どんな時でも、主の足もとにひれ伏していたからです。そこでただ主のみことばに聞き入っていました。新約聖書には、彼女が登場する場面が3回出てきますが、3回とも彼女はイエスの足もとにいます。それ以外には出てきません。たとえば、その1回はルカ10:39ですが、そこには「彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。」とあります。もう1回は、ちょっと前に学びましたが、このヨハネ11:32です。そこには、「マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」」とあります。ここでも彼女はイエスの足もとにひれ伏しています。そしてもう1回がこの箇所です。ここで彼女は、自分のすべてをイエスにささげています。マリアの信仰は、このラザロのよみがえりを通して揺るがないものになっていました。他のマリアたちはイエスの十字架と復活についてその重要性に気付いていましたが、信じることができませんでした。しかし、このベタニアのマリアだけはその重要性に気付いていただけでなく、それを額面通り信じて受け入れることができました。それは彼女がイエスの足もとにいて、いつもイエスの話に聞き入っていたからです。

 

私たちもイエスの足もとにいて、イエスのことばに聞き入って、イエスを礼拝する者となりましょう。そしてそでイエスとの麗しい関係を体験し、あなたにしかわからない真理をしっかりと受け止めたいと思うのです。

Ⅲ.イエスに敵対する人たち(9-11)

 

最後に9~11節を見て終わりたいと思います。

「すると、大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。」

 

ここにはマルタとマリア、そして兄弟ラザロ、またイスカリオテのユダの他に、あと2種類の人たちが登場しています。大勢のユダヤ人の群衆と祭司長たちです。彼らはイエスに対してどんな応答をしたでしょうか。まず大勢のユダヤ人たちです。彼らは9節にあるように、そこにイエスがおられると知って、やって来ました。いったい何のためにやって来たのでしょう。それはイエスに会うためではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでした。それは過越しの祭りといってユダヤ教三大祭の時でした。ユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、当時250万人のユダヤ人が集まっていたと記録されています。そこはイエスのうわさでもちきりでした。イエスがラザロをよみがえらせたということで、一目そのラザロを見たいと集まって来たのです。彼らはただ好奇心で、興味本位で見たいと思っていただけです。これが人間の性質です。彼らは信じようとして来たのではなく、異常なものを見たいと思って来ました。でもそれを自分のこととして受け止めることができませんでした。いわゆる傍観者にすぎなかったのです。

 

一方、祭司長たちはどうだったかというと、ラザロを殺そうと相談していました。なぜラザロを殺す必要があったのでしょうか。それは彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからです。彼がよみがえったことでイエスの影響があまりにも大きくなっていました。それまでは自分たちが中心でした。しかし、ラザロがよみがえったことでその人気が全部イエスの方に流れていくのを見て、証拠隠滅を図ろうとしていたのです。彼はまさに目の上のたんこぶでした。聖書には、ラザロの言葉は一つも記録されていませんが、彼がそこに存在していたというだけで、大きなインパクトがありました。彼は生きた証人だったのです。それで多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになりました。そこには一般群衆だけでなく、ラビと呼ばれていたイスラエルの教師もいたでしょう。あるいは、宮に仕える祭司たちもいたでしょう。そうした人までもイエスを信じるようになっていくのを見て焦りを感じ、ラザロを殺そうとしたのです。

 

パウロは、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)と言っています。この世は、自分たちと同じ価値観を持たないクリスチャンを迫害します。それは、使徒たちとその後の時代ばかりでなく、現代でも同じです。信仰の自由のない国だけでなく、アメリカや日本でも、迫害は形を変えて存在します。「どうして、この香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」もったいない。礼拝のためにそんなにお金や時間やエネルギーを使うなんて考えられない。そんなお金があれば、もっと実際的なことのために使うべきだ。現に今、台風の災害でどれだけ多くの人々が苦しんでいると思うんだ!そういう人のために使うべきではないかと公然と非難してくるのです。まことの礼拝者はいつの時代でも非難の的となります。ノンクリスチャンからだけでなく、クリスチャンからも非難されることがあります。そのような非難に対して、あなたはどのように応答しますか。マリアは、なりふり構わずイエスに礼拝をささげました。他の人にどう思われても、イエスに自分のすべてをささげたのです。そんなマリアの礼拝をイエスは「りっぱなことをしてくれたのです。」とほめてくださいました。そして、「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」と評価してくださいました。イエスにほめられ、評価されるなら本望です。あなたの礼拝はどうでしょうか。あなたの奉仕はどうでしょうか。そこに打算を越えた、主に対する燃えるような応答の心があるでしょうか。それとも人からの評価を気にして、人との比較の中でささげられる、義務的な奉仕になってはいないでしょうか。キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。でも、イエスが私たちのために成してくださった大きな愛のゆえに、その愛に応答して、マリアのように心からの礼拝をささげる者でありたいと思います。