Ⅰサムエル10章

サムエル記第一10章から学びます。

Ⅰ.サウルの油注ぎと3つのしるし(1-9)

まず、1~9節までをご覧ください。

「サムエルは油の壺を取ってサウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自分のゆずりの地と民を治める君主とするため、あなたに油を注がれたのではありませんか。今日、私のもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばで、二人の人に会うでしょう。彼らはあなたに、『捜し歩いておられた雌ろばは見つかりました。あなたの父上は、雌ろばのことはどうでもよくなり、息子のためにどうしたらよいのだろうと言って、あなたがたのことを心配しておられます』と言うでしょう。そこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで行くと、そこで、神のもとに行こうとベテルに上って行く三人の人に会います。一人は子やぎを三匹持ち、一人は円形パンを三つ持ち、一人はぶどう酒の皮袋を一つ持っています。彼らはあなたにあいさつをして、あなたにパンを二つくれます。彼らの手から受け取りなさい。それから、ペリシテ人の守備隊がいるギブア・エロヒムに着きます。その町に入るとき、琴、タンバリン、笛、竪琴を鳴らす者を先頭に、預言をしながら高き所から下って来る預言者の一団に出会います。主の霊があなたの上に激しく下り、あなたも彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられます。これらのしるしがあなたに起こったら、自分の力でできることをしなさい。神があなたとともにおられるのですから。私より先にギルガルに下って行きなさい。私も全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げるために、あなたのところへ下って行きます。私があなたのところに着くまで、そこで七日間待たなければなりません。それからあなたがなすべきことを教えます。」サウルがサムエルから去って行こうと背を向けたとき、神はサウルに新しい心を与えられた。これらすべてのしるしは、その日のうちに起こった。」

サムエルは、サウルが君主に任じられていることを伝えるために、彼の頭に油を注ぎました。この油注ぎは、物や人を聖別するために行われたものですが、神が王を任命されるときだけでなく、祭司、預言者を任命する時にも行なわれました。ここでは、サウルを神に聖別された王として立てるために、油注ぎが行われました。へブル語の「メシア」という言葉は、「油注がれた者」という意味ですが、人類の救い主として登場するイエス・キリストこそ、究極的な意味で神から油注ぎを受けたお方です。

サムエルはサウルに油を注ぎ、彼に口づけして、彼が神から王として立てられていることを証明するために、三つのことが起こると預言しました。第一に、サウルがサムエルのもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばでふたりの人に会い、彼らが、雌ろばが見つかったことを告げます(2)。また、サウルの父親がサウルのことを心配していることも告げます。

第二に、そこからなお進んで行き、タボルの樫の木のところまで行くと、そこで、神のもとに行こうとベテルに上って行く3人の人に出会います。彼らのうちの1人は子やぎを3匹持ち、もう1人は円形のパンを三つ、もう1人はぶどう酒の皮袋を3つ持っていますが、彼らはサウルにパンを2個くれるので、それを彼らの手から受け取りなさい、ということでした(3-4)。

そして第三に、サウルがギブア・エロヒムに到着すると、そこに琴、タンバリン、笛、竪琴を鳴らす者を先頭に預言をしながら高き所から下って来る預言者の一団に出会いますが、そのときサウルの上に主の霊が激しく下り、彼も彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられるというのです(5-6)。

これが、神がサウルとともにおられるしるしです。これらのしるしが起こったら、自分の力でできることをしなければなりません。「自分の力でできることをしなさい」は、新改訳第三版では「手当たりしだいに何でもしなさい」と訳されています。つまり、時に応じてなんでもしなさい、ということです。サムエルはサウルに、自分より先にギルガルに下って行くように命じました。しかし、彼はそこで七日間待たなければなりません。サムエルが全焼のいけにえを献げるために彼のところへ下って行くからです。それまでの間待たなければなりませんでした。サムエルがそこに着く時、サウルがなすべきことを教えるからです(8)。その結果どうなったでしょうか。サウルがサムエルから去って行こうとしたとき、神はサウルに新しい心を与えられました。これらすべてのしるしが、その日のうちに起こったのです(9)。

ここで問題なのは、6節に、「主の霊があなたの上に激しく下り、あなたも彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられます。」とありますが、サウルは新しく生まれ変わったのかということです。つまり、彼は救われていたのか、ということです。この箇所を見ると、「主の霊が彼の上に激しく下り」とあるので、彼は聖霊を受けたかのように見えますが、これが新訳聖書で教えている新生の体験と同じかどうかは疑問があります。というのは、彼は王権が確立されていくにつれて傲慢になり、ギルガルでサムエルが到着するまでそこで七日間待たなければなりませんでしたがその命令に従わず、サムエルに代わって全焼のいけにえをささげてしまうからです。確かに、聖霊を受けて新しく生まれるという体験をしても罪を犯します。しかし、16:14には、「主の霊はサウルを離れ去り、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた。」とあるように、彼には主からの、わざわいの霊が送られていることを考えると、本当に彼が救われていたのかどうかは疑問があります。確かに救われていても罪を犯します。しかし、救われていれば、その人のすべき第一の反応はその罪を悔い改めることです。そして、そこから学ぶことは何であるのかを求めることです。

けれども、サウルは罪を悔い改めませんでした。結局、彼はダビデに嫉妬し、堕落の道を辿り、最終的に、ペリシテとの戦いの中で致命傷を負い、敵に追い詰められ、一緒にいた護衛兵に殺してくれるよう頼みますがためらわれ、自らの剣で自殺しました(Ⅰサムエル31:4)。彼の問題は何だったのでしょうか。それは、悔い改めなかったということです。彼の問題は、「した」からでなく「しなかった」からなのです。彼は二度にわたって神の命令に背きましたが、問題はそのように神に背いたことではなく、それを悔改めなかったことです。悔い改めるなら、神はすべての悪から清めてくださいます。
「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:8-9)つまり、サウルは元々救われていなかったのです。
 

このことについて、久保有政師がご自身の著書「レムナント」の中で次のように言っています。少し長いですが、引用したいと思います。  「多くの人は、「もし、私が天国に入れないとしたら、それは私が悪いことをしたからだ」とか「罪を犯したからだ」と思っていないでしょうか。しかし、この考え方は聖書の教えるところではありません。もしあなたが、不幸にも死後天国に入れないとしたら、それはあなたが何かを「した」かたではありません。むしろ、あなたがあることを「しなかった」からなのです。

これがダビデと決定的に違う点でした。ダビデも人生の中で罪を犯しました。ダビデの犯した罪は深刻で重いものでした。彼は人の妻を横取りし、姦淫したうえ、彼女の夫を戦闘の最前線に出して故意に死なせたのですから(Ⅱサムエル11章)。しかしダビデの罪は赦され、サウルの罪は赦されませんでした。それは、ダビデが心から悔改めたのに対し、サウルは悔改めなかったからです。彼は自分の罪が発覚したとき、預言者サムエルに「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で、私の面目を立ててください。どうか私と一緒に帰って、あなたの神、主を礼拝させてください」(Ⅰサムエル15:30)と言いました。しかし、それは表面的なことで、真実なものではありませんでした。というのは、そのすぐあとに「私の面目を立ててください」と言っているからです。自己保身をはかりました。「罪を犯しました」というのはタテマエで、「面目を立ててください」がホンネでした。ですから、神はこうした態度を、悔改めととしてお受けにならなかったのです。神はサウルを、王位から退けられました。サウルの晩年は、悲惨さを感じさせるものでした。一方、ダビデは、自分の罪を指摘されたとき、「私は主に対して罪を犯しました」(Ⅱサムエル12:13)と言い、自分のしたことが「主に対する」重大な罪であったということを表明しました。ダビデは自分の面目を保つことを求めず、神の懲らしめに身をまかせました。やがてダビデの家庭と王位には、様々の災いがふりかかりました。しばらくして、息子と家臣がダビデに反逆し、ダビデは王座とエルサレムを去らなければならなくなりました。そのとき、ベニヤミン人のある男がダビデに近寄ってきて、嘲笑とのろいの言葉を浴びせました。さらに、ダビデや家来たちに石を投げつけました。もしダビデが、家来に命じれば、家来はその男を捕らえて黙らせたり、斬り捨てることもできたでしょう。しかしダビデはそうせず、むしろ、その男ののろいの言葉を甘んじて受けてこう言いました。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私の命をねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほおって起きなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」(Ⅱサムエル16:11~12)。これは彼が真に悔い改めていたことを示すものです。ダビデのなした真実な悔改めは、神に知られるところとなり、神はダビデの罪を赦し、彼を再び王座に戻し、誉れと幸福をお与えになりました
サウルとダビデ――この二人の違いは、どこにあったのでしょうか。サウルもダビデも罪を犯しました。しかし、サウルは悔い改めなかったのに対しして、ダビデは悔い改めました。ですから、ダビデは赦され、サウルは神から退けられたのです。サウルが退けられたのは、彼が何かを「した」からではなく、悔改めを「しなかった」からなのです。

ですから、問題は罪の大小ではありません。そこに真の悔い改めがあったかどうかです。確かに、サウルは神に選ばれ、聖霊の油注ぎを受けたにも関わらず、悔い改めることをしませんでした。それが問題だったのです。つまり、彼は表面的には聖霊を受けていたかのように見えますが、実際には神から離れていたのです。彼は最初から救われていなかったのです。もし、自分の罪を悔い改めて主イエスを信じたなら、どんな罪でも神は赦していただけます。サウルは主の霊によって新しい人に変えられましたが、それは新約聖書が教えている新しく生まれるという体験ではなかったのです。

Ⅱ.サウルも預言者の一人なのか(10-16)

次に10~16節をご覧ください。

「彼らがそこからギブアに行くと、見よ、預言者の一団が彼の方にやって来た。すると、神の霊が彼の上に激しく下り、彼も彼らの間で預言した。以前からサウルを知っている人たちはみな、彼が預言者たちと一緒に預言しているのを見た。民は互いに言った。「キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルも預言者の一人なのか。」そこにいた一人も、これに応じて、「彼らの父はだれだろう」と言った。こういうわけで、「サウルも預言者の一人なのか」ということが、語りぐさになった。サウルは預言を終えて、高き所に帰って来た。サウルのおじは、彼とそのしもべに言った。「どこに行っていたのか。」サウルは言った。「雌ろばを捜しにです。どこにもいないと分かったので、サムエルのところに行って来ました。」サウルのおじは言った。「サムエルはあなたがたに何と言ったか、私に話してくれ。」サウルはおじに言った。「雌ろばは見つかっていると、はっきり私たちに知らせてくれました。」しかし、サムエルが語った王位のことについては、おじに話さなかった。」

サムエルが預言した三つの預言は、その日のうちに起こりました。その中でも三番目の預言が最も重要だったので、そのことについてここで詳細に語られています。つまり、彼らがそこからギブアに行くと、そこで預言者の一団が出会ったということです。彼らがサウルの方にやって来ると、神の霊が彼の上の激しく下り、彼も彼らの間で預言しました。以前からサウルのことを知っている人たちは、彼が預言者たちと一緒に預言しているのを見て、びっくりしました。そして、互いにこう言いました。「キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルも預言者の一人なのか。」

サウルが預言を終えて帰宅すると、サウルのおじが彼とそのしもべたちに、「どこに行っていたのか」と尋ねました。サウルが、雌ろばを捜しに行っていたがどこにもいなかったので、サムエルのところに行って来た」と答えると、おじはサムエルが彼に何を言ったのかと聞きました。しかし、彼はただ雌ろばのことを告げただけで、自分が王として油を注がれたことについては話しませんでした。彼は、事態の進展を神とサムエルにゆだね、自分は状況が開かれるのを待とうと思ったのでしょう。なかなかの慎重さが伺えます。

しかし、サウルの変化を過大評価することはできません。なぜなら、先ほども述べたように、それは永遠に続く霊的変化ではなく、一時的で、表面的な変化にすぎなかったからです。使徒パウロも劇的な変化をしました。彼は以前サウルと同じ名前でしたし、ともにベニヤミンの出身でしたが、両者の変化の内容は全く違うものでした。パウロはキリストを信じて霊的に生まれ変わりましたが、サウロはそうではありませんでした。サウルも劇的に変えられましたがそれは聖霊による新生の体験ではなく、表面的で、一時的な変化にすぎませんでした。

Ⅲ.サウルの選出(17-27)

最後に17節から27節までを見て終わります。まず24節までをご覧ください。

「サムエルはミツパで、民を主のもとに呼び集め、イスラエル人に言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『イスラエルをエジプトから連れ上り、あなたがたを、エジプトの手と、あなたがたを圧迫していたすべての王国の手から救い出したのは、このわたしだ。』しかし、あなたがたは今日、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください』と言った。今、部族ごと、分団ごとに、主の前に出なさい。」サムエルは、イスラエルの全部族を近づかせた。すると、ベニヤミンの部族がくじで取り分けられた。 そして、ベニヤミンの部族を、その氏族ごとに近づかせた。すると、マテリの氏族がくじで取り分けられた。そして、キシュの息子サウルがくじで取り分けられた。人々はサウルを捜したが、見つからなかった。人々はさらに、主に「あの人はもう、ここに来ているのですか」と尋ねた。【主】は「見よ、彼は荷物の間に隠れている」と言われた。彼らは走って行って、そこから彼を連れて来た。サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。サムエルは民全体に言った。「主がお選びになったこの人を見なさい。民全体のうちに、彼のような者はいない。」民はみな、大声で叫んで、「王様万歳」と言った。

サウルがイスラエルの王として立てられていることを公にするため、サムエルはイスラエルの民をミツパに集め、王を選出するための行事を行います。彼はまず、王を選出する前にイスラエルの神がどのような方であるかを確認します。すなわち、イスラエルの神はイスラエルの民をエジプトから救い出してくださった方であるということです。さらに彼は、イスラエルに王を立てるということは、この神を退ける行為であることを伝えます。その上で、くじによって王を選ぶ作業に入ります。するとベニヤミン部族が取り分けられ、マテリ氏族が取り分けられ、そして、キシュの子サウルが取り分けられました。そこでサウルを捜しましたが、見つかりませんでした。彼は荷物の間に隠れていたのです。なぜ彼は荷物の間に隠れたのでしょうか。

このサウルの態度は、一見、謙遜であるかのように見えますが、後になってわかるように、これは謙遜ではなく自信のなさの現われでした。自信のなさと傲慢さとは表裏一体です。荷物の間からサウルを連れて来ると、彼は民のだれよりも肩から上だけ高く、威風堂々としていました。それでイスラエルの民は非常に喜び、「王様万歳」と叫んで、彼を王として受け入れました。なぜ彼らはそんなに喜んだのでしょうか。それはただ、サウルの体格が良く、堂々としていたからです。

しかし、後にダビデが次の王として選ばれますが、ダビデはサウルとは違いそれほど背が高くありませんでした。しかし、その時主が言われたことはこうでした。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(16:7)私たちもうわべではなく心を見て判断する者となりましょう。

25-27節をご覧ください。ここには、「サムエルは民に王権の定めについて語り、それを文書に記して主の前に納めた。それから、サムエルは民をみな、それぞれ自分の家へ帰した。サウルもギブアの自分の家へ帰って行った。神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。しかし、よこしまな者たちは、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった。しかし彼は黙っていた。」とあります。

「神に心動かされた勇者たち」とは、その時代の真の信仰者たちです。彼らはサウルに傾倒していたというよりも、今サウルを盛り立てることが自分に与えられた主のみこころであると確信して、彼について行きました。

一方、「よこしまな者たち」とはは、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って彼を軽蔑した者たちです。彼らはサウルに贈り物を持って来ませんでした。彼らは主のみこころを理解せず、いつも自分中心に判断し、動いていたからです。私たちは、よこしまな者にならないで、主に心動かされる者となり、主のみこころが実現するためにへりくだって仕える者となろうではありませんか。