Ⅰ.神との契約(1-9)
「エジプトの地を出たイスラエルの子らは、第三の新月の日にシナイの荒野に入った。彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山を前に宿営した。モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」
エジプトを出たイスラエルの民は、約束の地を目指して旅を続けてきましたが、レフィディムから次の宿営地であるシナイの荒野に入りました。それは、第三の新月の日でした。つまり、3月1日のことです。イスラエルがエジプトを出たのは第一の月の14日でしたから、ここまで来るのに約1か月半かかったことになります。休みながらの移動だったので、相当な時間を要したのでしょう。シナイの荒野に入ると、彼らは山を前に宿営しました。この山とはシナイ山です。かつてモーセはこの山で神から召命を受けました。あれから1年後、モーセは再び神の山に戻ってきたのです。
モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んでこう言われました。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。」
主は、ご自身がイスラエルの民をエジプトから解放するために何をしたのか、また、どのようにここまで導いて来られたのかを語られました。「鷲の翼に乗せて」とは、追って来る敵の手からすみやかに救出したという意味です。また、「わたしのもとに連れて来た」とは、このシナイ山に来たことを指しています。なぜ主は彼らにこのように過去のことを回顧させているのでしょうか。それは、これがこれから民と契約を結ぶ前提となるからです。
5節、6節をご覧ください。ここでは、その契約の内容が語られています。それは、「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」ということです。どういうことでしょうか。もし、神の声に聞き従い、神の契約を守るなら、あらゆる民族の中にあって、彼らは神の宝の民となるというのです。つまり、神が所有される特別な宝となるということです。これは特別な祝福です。というのは、全世界は主のものであり、それゆえに主は、ご自分のみこころのままに人を祝福したり、罰したりすることができるわけですが、イスラエルの民は、その神の特別な宝となるのです。つまり、神の特別な所有財産となるのです。これ以上の特権はありません。
そればかりではありません。ここには、「全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」とあります。祭司とは、神と人を仲介する人のことです。イスラエルの民を見て、神がどのような方であるのかを人々が知るようになり、また人々のためにイスラエルが神に執り成しをするのです。これはアブラハムと結ばれた契約の延長でもあります。かつて神はアブラハムにこう仰せられました。「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)。それは彼らの自己満足のためではなく、すべての国々の中で光となるためであり、他の民族がこの方が主であると認めるためでした。けれどもイスラエルは自分を求めるだけで、この使命を失ってしまいました。
そればかりではありません。ここには、「聖なる国民となる」とも言われました。「聖」とは、分離するという意味があります。つまり、諸国の中から分離された国民となるということです。これまでは他の国民のように自分の欲望と満足のために生きてきましたが、これからは神の民として、真の神を信じ、その神の教えと戒めに従って歩む聖なる国民となるのです。
モーセは、神から告げられたことを民の長老たちに示すと、彼らはどのように応答したでしょうか。8節には「民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主の言われたことをすべて行います。」それでモーセは民のことばを携えて主のもとに帰った。」とあります。民はモーセが語ることばに同意し、自分たちは、主が仰せられたことを、すべて行います、と言いました。すばらしいですね。主が仰せになられたことをすべて行うことは不可能なことですが、それでも彼らはそのようにしたいと応答しました。
それで、モーセは、民のことばを携えて主のもとに戻りました。すると主はモーセに言われました。「見よ。わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む。わたしがあなたに語るとき、民が聞いて、あなたをいつまでも信じるためである。」(9)
主は濃い雲の中にあって、モーセに現われました。それは主がモーセに語られるとき、イスラエルの民がそれを聞いて、彼らがモーセを信じるためです。つまり、モーセが本当に神と語っていることを彼らが知り、モーセのリーダーシップを認めるためです。モーセはここで仲介的な役割を果たしています。民の言葉を神に告げ、主のみことばを民に告げています。同じような役割をイスラエルの民にも与えられていました。それは、神の愛と義を諸国民に示し、また、神と諸国民の間に立って、両者をとりなす役割です。しかし、後の歴史が示しているように、彼らはその使命を果たすことができませんでした。彼らの信仰があまりにも表面的であったというか、みことばに深く根差していなかったからです。確かに彼らは、「私たちは主の言われたことをすべて行います」と応答しましたが、それがどういうことなのかを深く考えることができなかったのです。
イエスは種まきのたとえ話の中で、岩地に蒔かれた種は、土が深くなかったので、すぐに芽を出したが、しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまったと話されました。この時のイスラエルはまさに岩地に蒔かれた種のようでした。神のことばを聞いて「私たちは主の言われたことをすべて行います。」と応答しましたが、それがどういうことなのかを深く考えることをしませんでした。
私たちも同じです。主はご自身を信じる者にすばらしい約束を与えておられますが、その約束を受けるためには、「もし、あなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、」とあるように、神の声に聞き従い、神との契約を守ることが求めてられています。そのためには、神のことばが何と言っているのかを良く聞き、ご聖霊の助けと力を仰ぎながら、神に全く信頼しなければなりません。私たちの表面的な感情や力だけでは、主の御声に聞き従うことはできないのです。神のことばに深く根差しながら、イエス・キリストの救いの恵みに感謝して、神の声に聞き従う者でありたいと思います。
Ⅱ. イスラエルの民の聖別(10-15)
モーセが民のことばを主に告げると、主は何と言われたでしょうか。10~15節までをご覧ください。
「主はモーセに言われた。「あなたは民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、自分たちの衣服を洗わせよ。彼らに三日目のために準備させよ。三日目に、主が民全体の目の前でシナイ山に降りて行くからである。あなたは民のために周囲に境を設けて言え。『山に登り、その境界に触れないように注意せよ。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。その人に手を触れてはならない。その人は必ず石で打ち殺されるか、矢で殺されなければならない。獣でも人でも、生かしておいてはならない。』雄羊の角が長く鳴り響くときは、彼らは山に登ることができる。」 モーセは山から民のところに下りて行って、民を聖別した。彼らは自分たちの衣服を洗った。モーセは民に言った。「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない。」」
モーセが民のことばを主に告げると、主はモーセに、民のところに行き、きょうとあす彼らを聖別し、自分たちの衣服を洗わせるようにと言いました。三日目に、主が民全体の前でシナイ山に降りて来られるからです。彼らは二日間かけて自らをきよめなければなりませんでした。具体的には、衣服を洗うということです。自分の衣服を洗うことが、どうしてきよめることと関係があったのでしょうか。主はきよめるということがどういうことなのかを教えるために、外側のきよめという目に見える形を通して示されたのです。神が聖なる方であるから、彼らにも聖であることを求められました。その聖であるということがどういうことであるのかを理解させるために、外側のきよめを命じたのです。イエスは、外側からのものは厠に流されるだけで、人を汚すのは内側から出てくるもの、嘘、偽り、好色、殺人といった類のものであると言われました。ただキリストの血によって、また神のみことばによって私たちの心はきよめられるのです。
次に主は、周囲に境を設けるようにと言われました。12~13節です。「あなたは民のために周囲に境を設けて言え。『山に登り、その境界に触れないように注意せよ。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。その人に手を触れてはならない。その人は必ず石で打ち殺されるか、矢で殺されなければならない。獣でも人でも、生かしておいてはならない。』雄羊の角が長く鳴り響くときは、彼らは山に登ることができる。」
シナイ山の周囲に境を設ける必要がありました。なぜなら、そこには聖なる主が下りてこられるからです。山に触れる者があれば、その人は石で打ち殺されなければなりませんでした。主はそれほど聖なる方であられるからです。人間も動物も、その境を越えることは許されませんでした。汚れたものが聖なる地に足を踏み入れることは、そのまま死を意味したのです。では、いつ山に登ることができたのでしょうか。このように二日間身を聖め、角笛が長く鳴り響くのを待たなければなりませんでした。
新約の時代に生きている私たちは、別の方法で神に近づくことができます。それはイエス・キリストによってです。イエスは私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。この十字架の血が私たちをきよめることができます。だれでも、神に近づきたいと思うなら、この血のきよめを受けなければなりません。へブル7:24-25には、「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」とあります。これが、私たちが神に近づくことができる唯一の方法です。これ以外の方法で神に近づくことはできません。そのようにすることは、「境」を越えることであり、神の裁きを身に招くことになります。「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)主イエスだけが、罪と死の問題から私たちを解放してくださるお方であり、このイエスによってのみ、すなわち、イエスを信じることによってのみ、神に近づくことができるのです。
モーセは、山から民のところに下って行って、民を聖別し、彼らの衣服を洗いました。そしてこう言いました。「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない。」ここにはもう一つのことが付け加えられています。それは、「女に近づいてはならない」ということです。これはどういうことでしょうか。これは、必ずしも不品行のことではありません。自分の妻との性的な関係を控えなさい、という意味です。夫婦の肉体関係が罪であるとか汚れているということではありません。衣服を洗って身を聖めるように、外側の行ないによって、内側の聖さを示す必要があったのです。
Ⅲ.神の顕現(16-25)
次に16~25節をご覧ください。
「三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは、神に会わせようと、民を宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がいよいよ高くなる中、モーセは語り、神は声を出して彼に答えられた。主はシナイ山の頂に降りて来られた。主がモーセを山の頂に呼ばれたので、モーセは登って行った。主はモーセに言われた。「下って行って、民に警告せよ。彼らが見ようとして主の方に押し破って来て、多くの者が滅びることのないように。主に近づく祭司たちも自分自身を聖別しなければならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」モーセは主に言った。「民はシナイ山に登ることができません。あなたご自身が私たちに警告して、『山の周りに境を設け、それを聖なるものとせよ』と言われたからです。」主は彼に言われた。「下りて行け。そして、あなた自身はアロンと一緒に上れ。しかし、祭司たちと民は、主のところに上ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」
三日目の朝になると、山の上に雷鳴と稲妻と厚い雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がりました。神の臨在に触れたからです。モーセは、神に会わせようと、彼らを宿営から連れ出し、山のふもとに立たせました。するとシナイ山は全山が煙っていました。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからです。煙はかまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えました。ものすごい光景ですね。そして、主がモーセを山の頂に呼ばれたので、モーセが登って行くと、主は、「まず、下って行って、彼らが主を見ようとして主の方に近寄って来て、滅びることがないように警告するように」と言われました。それは祭司たちも例外ではありませんでした。主に近づく祭司たちも、自分自身を聖めなければなりませんでした。主は限りなく聖なるお方なので、この方に近づこうとするなら、主が怒りを発して、滅ばされてしまうからです。
ヘブル12:18~24には、これがどういうことなのかが記されています。
「あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。」
これは、この時のことを述べています。それは、シナイ山が揺れ動くほど恐ろしいものでした。だれも主の山に近づくことなどできませんでした。近づこうものなら、たちまちのうちに滅ぼされてしまうことになります。主はあまりにも聖なる方なので、だれも近づくことができなかったのです。
しかし、私たちには、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。どうやって?イエスの血の注ぎかけによってです。私たちが近づいているのは、地上のシナイ山ではなく、天のエルサレム、「生ける神の都」です。そこでは無数の御使いたちの大宴会が開かれています。これはただ神の恵み、イエスの血の注ぎかけによるのです。つまり、恵みの時代に生きている私たちクリスチャンは、恐れることなく大胆に、恵みの座に近づくことができるのです。これらのことを可能にするのは、すべて、新しい契約の仲介者である主イエスが、ご自身の血を御座にお注ぎになったからです。
私たちは、どのように神に近づいているでしょうか。旧約時代のイスラエルの民のように、自分が何か悪いことをしたのでは神は受け入れてくださらないのではないかと、びくびくしながら近づいてはいないでしょうか?もし、そうであれば、それは神がキリストによって成してくださった神の恵みに対する信仰が薄くなっているからです。私たちが近づいているのは、黒雲と煙が立ち上がっているシナイ山ではなく、シオンの山です。主が、私たちが神に近づくことができるためのすべてのことを、ご自分の血とその肉体によって成し遂げてくださったのです。だから、良心をきよめられて、大胆に神に近づくことができるのです。
神が聖なる方であることを知ることはとても大事です。しかし聖なる方に近づくためにその尊いひとり子の血が流されたことを忘れないでください。この方によって、私たちは大胆に神に近づくことができるのです。これ以外に、私たちが神に近づく方法はありません。天の下で、私たちが救われるべき御名は、人間に与えられていないからです。まだこの神に近づいていない方は、どうかこの神の救い、イエス・キリストを信じてください。キリストが十字架で流された血潮を信じて、すべての罪をきよめていただき、大胆に神に近づこうではありませんか。