今年最後の主日礼拝を迎えました。この1年も主が一人一人と共におられ、みことばをもって励ましてくださったと信じて感謝します。きょう、主が私たちに与えてくださった御言葉は、ヨハネの福音書12章12~19節のみことばです。きょうはこの箇所から、「ろばの子に乗って来られた主イエス」という題でお話ししたいと思います。
ヨハネの福音書は、12章から後半部分に入ります。ここから主イエスの最後の一週間が始まります。主イエスは、過越の祭りの六日前にベタニアに来られました。そこでベタニアのマリアからの驚くべき愛、純粋で非常に高価なナルドの香油を受け、それを自分の髪の毛で拭うという行為を受けると、いよいよエルサレムに入場して行きます。十字架に掛けられて死なれるためです。ここにはその様子が記録されてあります。そして、それによると、イエスは何とろばの子に乗って入場されました。なぜ、ろばの子に乗って入られたのでしょうか。それは、イエスは平和の王として来られたからです。
Ⅰ.群衆たちの叫び(12-13)
まず、12~13節をご覧ください。
「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。『ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。』」
「その翌日」とは、1節から11節までの出来事の翌日のことです。イエス様は過越の祭りの六日前にベタニアに来られました。そこでマリアからの心からの礼拝を受けられました。その翌日のことです。祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行きました。
この祭りとは過越の祭りです。イスラエルには三つの大きな祭りがありました。それは、過越の祭りと七週の祭り(ペンテコステ)、それと仮庵の祭りです。その中でもこの過越の祭りは最も重要な祭りで、盛大に祝われました。それは、神がイスラエルをエジプトの奴隷の中から救い出してくださったことを記念して行われる祭りでした。イスラエルはモーセの時代、400年もの間、エジプトの奴隷でした。彼らはその苦しみの中で主に助けを求めると、主は助けを送ってくれました。それがモーセです。神はモーセを遣わして、彼らをエジプトの奴隷の中から救い出されました。同じように神は救い主を遣わして、罪の奴隷であった私たちを救い出されます。ですから、キリストが十字架にお掛かりになられるのも、この過越の祭りの時でなければならないのです。それは神が予め定めておられたことでした。それはちょうど神がモーセを通してイスラエルをエジプトの奴隷から救い出したように、キリストを通して私たちを罪の奴隷から救い出されるためです。それが過越の祭りでした。その祭りが近づいていたのです。
この祭りには大勢の人々が集まっていました。当時のユダヤ人の歴史家でヨセフスという人の記録によると、250万人以上の人々がこの祭りに集まっていたとあります。それほど大勢の群衆が、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て来たのです。
「なつめ椰子の枝」は「しゅろの木の枝」のことです。英語では「Palm」と言うことから、この日はPalm Sundayと呼ばれています。旧約聖書では、この「しゅろ」は喜びの日、祝いの日、あるいは勝利の日に用いられました。たとえば、レビ記23:40には、仮庵の祭りの時に、このなつめ椰子の木を取って、主の前で喜び楽しむとあります。モーセの時代、彼らはエジプトの奴隷でしたが、神が彼らを救い出してくださり、約束の地に導き入れてくださいました。そしてダビデの時代にその王国が建てられると、その子ソロモンによって確立され、繁栄していきました。しかし、彼らが繁栄すると自分たちを奴隷の中から救い出してくださった主を忘れてしまいました。その結果、イスラエルは様々な国に支配されるようになります。紀元前722年には北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、紀元前586年には、南王国ユダがバビロンに滅ぼされ捕囚として連れて行かれます。その後、旧約聖書は預言者マラキを最後に400年間沈黙の時代を迎えますが、その400年の間にもペルシャ、ギリシャ、エジプト、シリアといった国々に支配されます。その中でも特筆すべきく出来事は、紀元前200年にシリアの王アンティオコスⅣエピファネスが、エルサレムの神殿に豚をささげ、また、ゼウスの偶像でエルサレムの神殿を汚したという出来事です。その時に立ちあがったのがハスモン家の祭司ユダ・マカベアという祭司でしたが、彼は神殿を奪い返すことに成功するのですと、人々はこのなつめ椰市の枝、しゅろの木の枝を手に取って彼を迎えました。つまり、ここで群衆がなつめ椰子の枝を持ってイエスを迎えに出て来たというのは、イエスがあのハスモン家の祭司ユダ・マカベアのように、当時ユダヤを支配していたローマ帝国から独立を勝ち取るための政治的な王として迎えたということだったのです。彼らはラザロのことも聞いていましたから、死人をもよみがえらせることができるこのお方なら、ローマ帝国にも打ち勝つことができるはずだと思ったのです。
それは彼らの叫びにも表れています。13節後半から14節をご覧ください。彼らはこう叫びました。
「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
これは詩篇118:25~27の引用です。「ホザナ」とは、「主よ、今、私たちを救ってください」という意味です。苦しいんです。助けてください。ローマの支配から解放してください。神様、私たちをあわれんでください。この苦しみから解放してください。あなたならおできになります。あのシリアから救い出したマカベアのように、ローマ帝国の圧政から救ってください。そう叫んだのです。そして、「イスラエルの王に」と言って、喜んで迎えました。
しかし、熱狂的に叫べば良いというわけではありません。18節には、彼らがイエスを出迎えた理由が記されてあります。それは、「イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。」からです。「このしるし」とは何ですか。それはイエスがラザロを死人の中からよみがえらせたという奇跡です。その時イエスと一緒にいた群衆がそのことを証し続けていたので、祭りのためにエルサレムに集まっていた群衆はこのように叫んだのです。死人が生き返ったというのは大きなインパクトがありますから、すぐに祭りに来ていた大勢の人たちに広まりました。しかし、それは単なる好奇心でしかありませんでした。みんなが集まっているから自分も行ってみよう。なんか楽しそうだし・・。いわゆる「ノリの信仰」です。イエスのことばに聞こうとするのではなくその流れに乗ろうというものです。群衆心理とも呼ばれます。何か自分のためになることがあるんじゃないかと、ただご利益を求めるだけです。死人がよみがえったなんてすごいじゃないか。いったいこの人はどういう人なんだろう。そうした好奇心から集まっていただけでした。こうした好奇心が全く悪いわけではありません。そこから少しずつ神について知り、本物の信仰に至ればいいわけですから。しかし、この段階では本物ではありませんでした。ですから、自分たちが期待していたメシアではないということがわかると、彼らはどうなりますか。手のひらを返したかのような態度を取るようになるのです。このわずか五日後のことですよ。イエスが捕らえられると、それまで「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」と叫んでいたこの群衆が、今度は、「十字架につけろ。十字架につけろ」と狂ったように叫ぶのです。同じ群衆です。何ということでしょうか。でもイエス様は、人々の心というものがどのようなものであるかをよく知っておられたので、最初からそのような人々に自分をゆだねるということはしませんでした。2章で見たように、イエスのなされた多くのしるしを見て、その名を信じた人たちに、自分をお任せにならなかったのです(2:24)。感情はすぐに冷めてしまいます。だから感情ではなく、イエスのことばに聞かなければなりません。イエスのことばを聞いて、イエスがどのような方であり、何を求めておられるのかを知らなければならないのです。
Ⅱ.ろばの子に乗って来られた主イエス(14-15)
第二のことは、イエスはろばの子に乗って来られたということです。14~15節です。「イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。『恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。』」
イエスはろばの子を見つけ、それに乗ってエルサレムに入場されました。それは遡ること、およそ500年前に書かれたゼカリヤ書の預言にこうあるからです。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」(ゼカリヤ書9:9)この預言が成就するためでした。
先日、テレビを見ていたら、北朝鮮の金正恩総書記が、軍事施設を視察する際に妻と白馬に乗っているのを見ました。そうなんです、王であれば白馬に乗って勇ましく登場しまが、イエス様は馬ではなく、ろばに乗って来られました。しかも、雌ろばの子のろばにです。「ろば」は英語で「donkey」と言いますが、「愚か者」とか「まぬけ」という意味があります。千本松牧場に行くとこの「ろば」を見ることができます。その顔をじっと見ると、実に情けない顔をしています。私はろばの顔を見ながら、それが自分のようであるのを感じて、とても親近感を感じます。ろばは当時荷物の運搬のために用いられました。このろばの子に乗って来られたのです。どうして馬ではなくろばだったのでしょうか。それはイエスが平和をもたらすために来られたことを示すためでした。当時馬は戦争の象徴でした。戦う時はみんな馬に乗って行きます。だれもろばになんて乗って行きません。そんな、のろいろばに乗って行ったら、たちまち敵に打ち負かされてしまいます。だから、戦いに行く時には馬に乗って行くのです。それに対してろばは平和の象徴でした。イエスは戦いのために来られたのではなく、平和の王として来られました。だからろばなのです。これはどういうことでしょうか?
それは、イエス様が2000年前に来られた時は、私たちと神様との間に平和をもたらすために来られたということです。私たちは生まれながら自分の罪のゆえに神に対して敵対していました。神を知らないというだけでなく、神を全く無視していました。いや神にいてほしくなかったのです。なぜなら、神がいると都合が悪いからです。自分の好きなように生きることができません。だから神を認めたくなかったのです。そのようにして神に敵対していたのです。神が私たちに敵対していたのではありません。敵対していたのは私たちの方です。しかし神は私たちをあわれみ、私たちを愛し、私たちに救いの手を差し伸べられました。それがイエス・キリストです。私たちに和解の方法を備えてくださいました。それが十字架と復活です。神のひとり子が人となって来られ、私たちの罪のために十字架で死んでくださり、その死の中からよみがえられました。このキリストを信じる者はだれでも救われます。罪が赦されるのです。これが、私たちの罪が赦される唯一の方法であり、神との平和を持つために神が永遠の昔から持っておられた計画でした。ローマ4:25~5:1にこうあります。
「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
イエスが十字架に掛けられたのは私たちの罪のためでした。そして、よみがえられたのは、私たちが義と認められるためでした。ですから、このイエスを信じる信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っているのです。このようにイエスが2000年前に最初に来られたのは、神と私たちの間に平和をもたらすためでした。ですから、イエスは平和の象徴であるろばの子に乗って来られたです、それはゼカリヤによって預言されたとおりでした。
しかし、イエス様が再び来られる時にはそうではありません。再び来られる時には栄光の主として白い馬に乗って来られると黙示録19:11にあります。
「また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。」
黙示録は同じヨハネが書いたものですが、将来のことを預言しています。そしてここには、白い馬に乗って来られ、義をもってさばき、戦いをされる、とあります。2000年前に来られた時は柔和な方として、平和の王として、私たちと神との和解のために来られましたが、しかし再び戻って来られる時にはそうではありません。罪をさばくために戻って来られるのです。どうして神がおられるのにこんな悲惨なことが起こるのか、どうして神がおられるのに悪が栄えるのか、あんな悪いことをしている者を、どうして神はさばきをなさらないのかと思うことがあるでしょう。しかし、神はさばきをなさらないのではなく、さばきを遅らせておられるのです。そして最後に正しくおさばきになります。それぞれ各々の行いに応じてさばきをされます。それが終わりの時に起こるのです。だれも隠すことはできません。私たちは自分の行いに応じてさばきを受けることになります。しかし、感謝なことに、イエス・キリストを信じた者はさばきに会うことがありません。良いことをした評価は受けます。しかし、さばかれることはありません。なぜなら、あなたの罪はすべて十字架の上に置かれ、キリストが代わりにさばきを受けてくださったからです。これが神の恵みです。何が恵みかって、これが恵みです。あっと驚くべき恵み、アメージング・グレースです。
あの有名なアメージング・グレースを書いたジョン・ニュートンは、かつて奴隷船の船長でした。ある日、奴隷たちを積んで英国に戻る途中、大嵐の中で船が転覆しそうになったとき、彼は神に祈りました。すると、神は彼を助け、無事にイギリスに帰港することができたのです。それから数年経って、彼はその時の経験を思い起こし、何という恵みだろう。こんな自分を救ってくださったと、この讃美歌を書いたのです。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)
だから、今は恵みの時、今は救いの日なのです。信じる者はだれでも罪から救われます。ヨハネ3:17にこうあります。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
さらにこうあります。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」(3:18)
私たちはさばかれません。御子を信じているからです。代わりに御子がさばかれました。御子イエスが身代わりに死んでくださったのです。でも御子を信じない者はさばかれます。それは神のひとり子の名を信じなかったからです。ここには、「すでにさばかれている」とあります。これは有罪が確定しているということです。信じなければその有罪のとおりになります。でも信じるならキリストがすべての罪の身代わりとなって死んでくださったので、さばかれることはありません。神との平和を持つことができるのです。
あなたはどうでしょうか。あなたの罪は赦されているでしょうか。心に罪の責めを感じることはないでしょうか。神の前にさばかれるのではないかという恐れや不安はないでしょうか。きょうは2019年の最後の主の日の礼拝です。私たちの罪の精算をして新しい年を迎えたいですね。その罪の精算とは、私たちの罪を悔い改め、その罪のために十字架で身代わりとなってくださった主に感謝し、主に信頼することではないでしょうか。そうすれば、主はすべての罪からあなたを清めてくださいます。主はあなたをさばきたいのではありません。救いたいのです。あなたを罪から救いたいのです。主イエスはさばくためではなく救うために来られました。ですから、イエスはろばの子に乗って来られたのです。この平和の王であるキリストを信じる時なら、すべての罪が赦され、神との平和を持つことができるのです。
Ⅲ.イエスを平和の王として迎えよう(16-19)
ですから、第三のことは、このイエスを平和の王として迎えましょう、ということです。16~19節をご覧ください。
「これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。さて、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆は、そのことを証しし続けていた。群衆がイエスを出迎えたのは、イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」」
「これらのこと」とは何でしょうか。それは、群衆が大声で「ホサナ。祝福あれ、主の御名よって来られる方に。イスラエルの王に。」と叫んだことです。また、イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入場されたことです。これらのことは、このヨハネを含め、初め弟子たちにもわかりませんでした。弟子たちも群衆たちと同じように、イエスがすぐにローマの圧政から自分たちを救い出してくれるものと思っていたのです。ですから、この後でイエスが捕らえられると、彼らはすぐに逃げ出してしまいます。十字架につけられると自分たちも捕らえられるのではないかと恐れて、部屋に閉じこもってしまいました。彼らもこれらのことがどういうことなのか分かりませんでした。彼らがそれらのことが分かったのは、イエスが栄光を受けられた後でした。
イエスが栄光を受けられたのはいつでしょうか。それはイエスが十字架で死なれ、復活した後、弟子たちの見ている前で天に昇り、神の右の座に着かれた時です。それまでは分かりませんでした。なぜその時に分かったのでしょうか。なぜなら、その時聖霊が降ったからです。聖霊が降ったので、イエスが彼らに教えたすべてのことを思い出させてくださったのです。それは真理の御霊で、この御霊が来ると、すべての真理に導いてくれます。これを書いたヨハネも、この時の様子を見ていました。イエスがろばの子に乗って来るのを見て、「なんでだろう」と思っていました。また、大勢の群衆が「ホザナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」と言うのも聞いていました。でもよく理解していませんでした。それがどういうことなのか分からなかったのです。しかし、イエスが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえり、天に昇って行かれてから、約束の聖霊が降った時、それがあのゼカリヤ書9:9の預言の成就だったということ、また、群衆が「ホサナ」と叫んだのも詩篇118篇の預言の成就だったんだということが分かったのです。それが預言の成就だったんだ、ということを思い出したのです。
今日でも多くのユダヤ人は、旧約聖書に書かれてあるメシアの預言が、イエス・キリストによって成就したということを知りません。いや、認めようとしないのです。それはユダヤ人ばかりでなく私たち日本人も同じです。そのことを受け入れようとしません。それは、聖書に次のようにある通りです。
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。」(Ⅰコリント2:14)
生まれながらの人間は、神の真理を理解することができません。なぜなら、それは神の御霊に属することだからです。御霊に属することは御霊によって判断しなければなりません。ですから、どんなに知的に優れていても、霊的には全く盲目であるということがあるのです。ピントがずれています。しかし、これは決して他人事ではなく、私たちにも言えることで、私たちもピントがズレていないかどうかを検証しなければなりません。
19節をご覧ください。ここには、もう一種類の人たちのことが記されてあります。パリサイ人たちです。「それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」
このパリサイ人とはユダヤ教の宗教指導者たちのことです。彼らはすでにイエスを殺す計画を立てていました。しかし、祭りの間はいけない。多くの群衆がイエスを政治的なメシアとして期待していたので、そこで殺そうものなら大騒ぎになるからです。そうなれば、ローマ軍が攻めて来てエルサレムを滅ぼしてしまうことになります。そうなると自分たちの立場が危うくなります。それで祭りが終わった後でイエスを殺すつもりでした。しかし、あまりにも大勢の人が熱狂的にイエスを歓迎するので、彼らは互いにこう言いました。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」
彼らのイライラ感、焦り、怒り、ねたみが見えます。結局、彼らのこうしたねたみによってイエスは十字架につけられるわけです。その敵意が彼らの中でますます大きくなっていきました。
でも彼らは、イエスを訴える口実を何一つ見つけることができませんでした。それもそうです。イエス様は全く罪の無い方なのですから。言葉にも、行いにも、罪の無い完全な神の子でした。その方が私たちを神と和解させるために、平和の王として来てくださいました。ろばの子に乗って。それは、私たちに神との平和をもたらすためでした。神と私たちとの間にある壁はどんなものをもってしても壊すことができませんが、しかし、キリストはその隔ての壁を打ち破ることができます。そして、神との平和を持つことができるように、平和の王として、ろばの子に乗って来てくださったのです。そして私たちの罪を負い十字架で死なれ、三日目によみがえられました。この方を信じる者はだれでも罪が赦され、神との平和を持つことができるのです。
あなたはどうでしょうか。あなたの罪は赦されましたか。キリストを信じて受け入れましたか。キリストを信じたのであればあなたのすべての罪は赦され、神との平和を持つことができます。そして神との平和が与えられると、今度は周りの人との間にも平和を持つことができます。神との平和がないと、自分の内に平和がないので、いつもイライラすることになり、いつもだれかのせいにしたり、だれかをさばくようになるので、周りの人とも平和がないんです。これは罪の問題なんです。でも神によって罪が赦されると心に平安が与えられます。神の愛が注がれ、赦す心が与えられ、喜びで満たされ、感謝の心に満ち溢れるようになります。平和を作り出す人は幸いです。あなたもその平和を持つことかできます。そのためにイエス様が来てくださいました。この方に心を開き、この方を信じて、神との平和を持ってください。また、キリストをあなたの心の王座に迎え入れ、キリストの平和があなたを支配しますように。そうすれば、「ああ、キリストは本当にすばらしい」とキリストの御名があがめられるようになるでしょう。あなたの心に、神の平和が豊かにありますように。