新年おめでとうございます。この新しい年も、主の栄光が現される年となるように祈ります。この新年の初めに、まず一つのクイズから入りたいと思います。「りんごの種の中にはいくつのりんごがあるでしょうか?」答えは、「無数」です。どうですか、正解だったでしょうか。正解した人はきっといい年になるでしょう。そうでなかった人もいい年になります。主が共におられるなら、すべては「良い」ですから。
きょうは、イエス様が言われた御言葉、「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」(12:24)から、「一粒の麦となって」という題でお話しします。
Ⅰ.イエスとの出会いを求めて(20-21)
まず、20~22節をご覧ください。
「さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。」
この祭りとは「過越しの祭り」です。イエス様は、この祭りの間にほふられる子羊となって十字架につけられて死なれます。この祭りに、何人かのギリシア人がいました。ここには「礼拝のために上って来た人々」とありますから、彼らはユダヤ教に改宗した異邦人であったことがわかります。ここには、「主イエスにお目にかかりたいのです」と言っていることから、彼らはイエス様に会うことを熱心に願っていました。なぜ彼らはイエス様に会いたかったのでしょうか。おそらく、イエス様に対する群衆の熱狂ぶりを見て、自分たちもイエスという方に是非とも会ってみたいと思ったのでしょう。そして、確かに彼らはユダヤ教に改宗していましたが、どこかマンネリ化していたユダヤ教の教えに限界を感じていたのかもしれません。主なる神との生ける交わりを求めていたのです。
様々な人々が、様々な理由でイエス様のもとに来られます。教会には、他の場所には無い安らぎがあります。そこに自分の疲れた身を置き、暫しの安息の時を持ちたいという動機で来られる方もいるでしょう。また、妻や夫や子供が、教会に行きたいと言っているから仕方なく着いてきた、という人もいるかもしれません。あるいは、ただ讃美歌を歌いたくて来た、という人もいるでしょう。それがどのような動機であったとしても、キリストのもとに来るなら、キリストとの出会いを通して真の解決を得ることができます。ですから、それがどのような動機であっても、キリストのもとに来て、キリストと会いたいという人々を、教会は心から歓迎するのです。なぜなら、それらの人々を招かれたのは、他でもない、教会の頭であられるイエス・キリストご自身であられるからです。
このギリシア人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、そのことを頼みました。なぜ彼らは直接イエス様のところへ行かなかいで、ピリポのところに来たのでしょうか。おそらく、イエス様に直接声をかけるのは畏れ多いと思ったのでしょう。それでだれか弟子の一人にお願いしようと思ったのですが、それがピリポだったのです。なぜピリポだったのか?それは、彼がガレラヤのベツサイダという所の出身だったからです。ここにはわざわざ「ガリラヤのベツサイダ出身のピリポ」とあります。ベツサイダという町は、ヘロデ大王の子ピリポが再興した町です。そこはローマ帝国の色彩が強い町でした。このピリポという名前もこのヘロデ大王の子ピリポにちなんで付けられた名前ですがギリシア名であったことから、彼らにとっては近づきやすい存在だったのでしょう。ピリポはその役割を果たすにはピッタリの人物でした。というのは、彼は、人々を執り成す役割をよくしていたからです。弟子のナタナエルをイエス様のところに導いたのも彼でした。神様は、願い求める者に最も相応しい導き手を用意してくださるんですね。
さて、何人かのギリシア人たちに頼まれたピリポはどうしたでしょうか。彼はいきなりイエス様の所には行かないで、まず弟子の仲間のアンデレに話しました。このアンデレも、執り成し手です。覚えていらっしゃいますか。イエス様に最初に着いて行った弟子のうちの一人がこのアンデレでした。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」(ヨハネ1:41)と言いました。そのようにしてアンデレは、自分の兄弟のペテロをイエスのもとに導いたのです。ピリポはこのアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに伝えたのです。
このように、様々な理由でイエス様に会いたいという人を、イエス様のもとに導くこと、これが伝道です。伝道とは、何かすばらしい音楽を聞かせることとか、だれかすばらしい人を紹介するということではなく、人々をイエスのもとに導くことです。私たちは先に救われた者として、このように人々をイエス様のもとに導く役割が与えられています。それは、私たち自身が福音を理路整然と語らなくてはいけないということではなく、人々を、イエスのもとに連れて行くことなのです。具体的には、教会に案内することです。今私たちはこのように教会に来ていますが、最初から一人で来た訳ではありません。必ず、誰かが執り成し手になってくれたので来ることができました。ピリポやアンデレのような人がいたので教会に来てイエス様に出会い、救われることができたのです。
全世界に教会が存在する限り、人々は教会の門を叩いてこう尋ねるでしょう。「本当に、神様はおられるんですか。」「いったい私たちは何のために生きているのですか。」「私たちの人生に確かな望みはあるのでしょうか。」「この世にあって、愛するということが本当に可能なのでしょうか。」「今の私の悩みは、どうしたら解決するんですか。」そうした様々な問い掛けに対して、主イエスが確かな答えを与えてくださるのです。
Ⅱ.一粒の麦(23-24)
では、その答えとはどのようなものでしょうか。23節と24節をご覧ください。ここには、「すると、イエスは彼らに答えられた。『人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。』」とあります。
これが答えです。彼らはいったい何のことを言っているのかと、驚いたのではないかと思います。でも、これが答えなんです。すべての問いに対する答えがここにあります。それは、一粒の麦が、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ねば、実を結ぶということです。どういうことでしょうか。
「まことに、まことに」というのは、イエス様が重要なことを語られる時に言われる言葉です。意味は「アーメン、アーメン」です。まことにそのとおりです、真実です、という意味です。何が真実なのでしょうか。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままですが、しかし、死ねば、豊かな実を結ぶということです。
イエス様はここで旧約聖書の言葉を一切用いず、あえて自然の法則を用いて語られました。それは、語っている相手がギリシア人であったからです。パウロも言っているように、ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシア人にはギリシア人のように語られました。彼らがよく理解できるように、彼らの思考レベルに合わせて語られたのです。それがこの一粒の麦のたとえでした。
時は、過越の祭りの時でしたから3~4月頃です。大麦の収穫が終わり、小麦の収穫が始まる頃です。小麦はギリシア人にとってもとても身近な食べ物でした。その一粒の麦が地に落ちることを死ぬと言っていますが、そのように死ぬことがなければ、多くの実を結ぶことはできません。しかし、死ねば、豊かな実を結ぶのです。
これは一般的な真理として語られただけでなく、ご自分について語られたのです。また、その後の言葉を見ると、これがご弟子たちへの勧めとして、あるいは、覚悟として語られたことがわかります。一粒の麦は、そのまま食べてしまえばそれだけのことです。しかし、もしこれを地中に蒔けば一粒の麦としては食べられなくなってしまいますが、その麦から芽が出て、やがて多くの実を成らせることになります。それと同じように、イエス様が地上の王、政治的な救い主として、この地上のいのちを用いるのであれば、そこにいる人々が一時的に良い生活をすることができるかもしれませんが、それまでのことです。しかし、十字架に掛かって死なれるのなら、多くの人々を救うことになります。それはその時代の人々だけでなく、それ以前に生きた人も、それ以後に生まれて来る人も含めたすべての人です。そのすべての人を救うことができるのです。それはただ単にこの地上で良い生活をすることができるというだけではなく、永遠に神の国において主と共に生きるという、豊かないのちのことです。ですから、これは直前に迫って来ていた十字架上での贖いの死を予告しておられたのです。この一粒の麦のたとえによって、イエス様の死が、殉教の死とか、自己否定の模範としての死ではなく、私たちの身代わりとしての死であるということを、はっきりと示されたわけです。
これが、すべての問いに対する答えであり、私たちに与えられている唯一の答えです。麦が、土の中に姿を隠してしまった。見えなくなってしまった。死んだとしか思えない。しかし、そんなところから緑の芽が芽生え、やがて豊かな実が実るようになるのです。そして、その実が私たちの養いになります。毎年、繰り返されている自然の営みですが、しかし、もし、この一粒の麦が、ここで死んでしまうのは嫌だと言って、倉庫の片隅に、留まっているとしたら、この実りはもたらされません。私たちのいのちが養われることはありませんでした。イエス様ご自身が、一粒の麦として死ぬことが、父なる神様の御心であることを、だれよりもはっきりと知っておられました。
そして、この過ぎ越しの祭りの時こそが、それが成される時でした。ですから、主はここで、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われたのです。「人の子」というのは、イエス様ご自身のことです。「栄光を受ける」とは、イエス様が十字架に掛けられて死なれ、復活されることを意味しています。一般的に「栄光を受ける」という言葉を聞いて私たちが思い浮かべるのは、オリンピックの表彰台ではないでしょうか。優勝者が、金メダルを授けられる場面です。それは人生の頂点に立つようなすばらしい瞬間です。イエス様も、ここで、栄光を受けようとしておられました。しかし、それは華やかな表彰台に上って、金メダルを授けられることではありません。それは、「一粒の麦」として死なれることでした。イエス様が栄光を受けられた場所は、晴れやかな表彰台ではなく、ゴルゴダの丘に立てられた十字架でした。イエス様は、表彰台に上られたのではなく、十字架に上られました。授けられたメダルは金メダルではなく、茨の冠でした。そのどこにも、人々が考えていたような、栄光の輝きはありませんでした。そのように、イエス様の栄光は、最も低い所に現れたのです。主イエスは、最も低い所に立たれました。しかし、私たちは、この主の十字架の犠牲によって罪赦され、希望に生きることができるのです。私たちは、そのことを知っています。つまり、イエスの死と埋葬と復活がなければ、永遠のいのちはないということです。これが答えです。私たちが求めなければならないのは、この十字架につけられたイエス・キリストなのです。パウロはそのことを、次のように言いました。
「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」(Ⅰコリント1:22-24)
いったい私たちは何を求めているでしょうか。ユダヤ人のようにしるしや奇跡でしょうか。あるいは、ギリシア人たちのように、知恵や知識でしょうか。しかし、どんなにしるしを求めても、またどんなに知恵を追及しても、イエスのいのちにあずかることはできません。でも、十字架につけられたキリストを求めるなら、そこにキリストのいのちが溢れるようになります。なぜなら、ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことでも、ユダヤ人であっても、キリシア人であっても、召された者たちにとっては、十字架こそ神の力、神の知恵だからです。十字架につけられたキリストが答えです。この世は知恵とか、知識とか、力とか、しるしとか、奇跡を追い求めるでしょうが、私たちが求めるのは、十字架につけられたキリストなのです。これが答えであり、すべてのニーズに応えるものなのです。
100歳を超えても現役の医師として活躍された日野原重明先生が、最も大切にしていたという御言葉も、これでした。日野原先生は、「私を変えた聖書の言葉」、という本の中で、その理由を書いておられます。
1970年3月30日、羽田から、福岡空港に向かって、飛び立った「よど号」が、日本赤軍によってハイジャックされました。日野原先生は、この飛行機に乗っていました。飛行機は韓国の金浦空港に拘留され、四日間に亘って韓国当局と、赤軍の交渉が続けられました。もし、交渉が上手くいかなければハイジャック犯は、ポケットに持っているダイナマイトを使うかもしれない。そうなったら、命が危ない。そうした緊張と不安の中で、日野原先生は、ハイジャック犯から借りた「カラマーゾフの兄弟」という本を読みました。そして、その本の表紙に書かれていた御言葉がこれでした。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ねば実を結ぶ」。日野原先生は、この御言葉によって平安を与えられました。
無事に、日本に帰還できた日野原先生は、心配してくれた多くの方々へのお礼状で、こう述べました。「許された第二の人生が、多少なりとも、自分以外のことのために捧げられればと願ってやみません」。
この御言葉が、日野原先生に新しい人生観をもたらしてくれたのです。それは日野原先生だけでなく私たちも同じです。この御言葉が、私たちの人生にも新しい人生観をもたらしてくれます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」
Ⅲ.一粒の麦となって(25-26)
ですから、第三のとこは、私たちも一粒の麦となりましょう、ということです。25-26節をご覧ください。ここには、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」とあります。
「自分の命を愛する者」とは、自分が自分の命の主人になろうとしている人のことです。イエス様を自分の命の主人として受け入れない人のことです。この私を生かすために、主イエス様が一粒の麦となって死んでくださったということを受け入れないのです。自分は、自分の力だけで生きている。そう思っている人。それが、「自分の命を愛する者」です。もっと分かり易く言えば、自分中心に生きている人のことです。
一方、「自分の命を憎む者」とは、自分中心の生き方からキリスト中心の生き方へと向きを変えた人のことです。自分が今生かされているのは、一粒の麦が死んでくださったからだ。自分は、キリストによって、生かされているのだ。そういう思いに生きている人のことです。そういう人は、永遠の命に至ることができる、と主は言われたのです。
星野富弘さんが「いのちよりも大切なもの」という詩を書きましたが、それはこの真理を語ったものです。
「いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」
いのちよりも大切なものとは何でしょうか。それはキリストにあるいのち、永遠のいのちです。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者、すなわち、自分中心の生き方からキリスト中心の生き方へと向きを変えた人は、永遠のいのちに至るのです。それがあると知った時、生きるのが嬉しくなったのです。人生のベクトルが自分、自分と、自分の方を向いている時は、これほど楽しいことはないと思うでしょう。でも実際は違います。生きるのが苦しくなります。自分のすべてが満たされていて、もう何もすることがない。これほど辛いことはありません。しかし、イエス・キリストを信じて、永遠のいのちが与えられ、世のため、人のため、そして神の栄光のために自分が生かされているという新しい使命が与えられ、その使命に生きる人は幸いです。そのような人は古い殻が破られて、そこに神のいのちが流れるようになります。そういう人は、生きるのが嬉しくなるのです。
私たちは、どんな人でも犠牲を払うことを好みません。そういう意味では、みな自己保身的であるわけです。これは人間の生まれながらの性質です。しかし、主に従って行こうと思うなら、イエス様のように一粒の麦にならなければなりません。自分がいのちを全うし、自分は少しも傷つかないで、主の弟子という栄誉だけを得ようとしても、それは無理なことなのです。自分のいのちを愛する者は、永遠のいのちを失ってしまいます。しかし、自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠いのちに至るのです。
26節をご覧ください。ここで、主は、このように言っておられます。
「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」
主に仕えようと思う人は、主が行かれるところへ行き、主がおられるところにいなければなりません。なぜなら、私たちはキリストと一つにされた者だからです。それはキリストのいのちに与ったというだけでなく、キリストの死にも与ったということです。キリストの苦しみをも賜ったのです。賜ったのです。イエス様はこのように言われました。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マタイ16:24)
また、こう言われました。
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14:27)
キリストの弟子というのは、十字架を負う者です。自分の十字架を負って、キリストに従う者、それがキリストの弟子です。自分の十字架を負ってキリストについて行かない者は、キリストの弟子になることはできません。
インドの宣教師にエミー・カーマイケルという人がおられますが、彼女は「カルバリの愛を知っていますか」という本の中でこう言っています。「地に落ちて死ぬ。そういう一粒の麦となることをもし拒絶するならば、その時私はカルバリの愛を全く知らない。」一粒の麦として、自己否定、自己犠牲を拒むならば、カルバリの愛、十字架の愛を全く知らない、というのです。
私たちもクリスチャンとしてイエス様のいのちに与りましたが、同時に、イエス様の死にも与っているのです。これがキリストの弟子像です。ですから、キリストの弟子たる者は、イエス様と同じ性質、同じ考え、同じ価値観、同じ歩みをすべきなのです。
よく「才能が埋もれる」とか、「異国の土となる」という言葉を聞くことがありますが、これは骨を埋めるということです。これを聞くと、宣教師たちのことを思い出します。イエス・キリストもさることながら、イエス・キリストによって遣わされた宣教師たちは、まさにこの一粒の麦となって地に落ちてくだいました。日本にも大勢の宣教師が来て、文字通り骨を埋めてくれました。その結果、彼らが蒔いた種によって新しく生まれた人がたくさんいるのです。私もそのうちの一人ですが、最近の宣教師はそれほどでもありませんが、昔の宣教師が日本に来るということはまさに命がけでした。自分を犠牲にして、自分の命を犠牲にしてまで日本を愛し、日本人のために生涯をささげられました。そうした一粒の麦によって、多くの実を結ぶことができたのです。
これは宣教師だけのことではありません。私たちも同じなのです。同じ使命が与えられています。もし豊かな実を結びたいと思うなら、多くのたましいを獲得したいと思うなら、私たちも地に落ちなければなりません。死ねば、豊かな実を結ぶのです。イエスは種まきのたとえの中で、良い地に蒔かれた種は、30倍、60倍、100倍の実を結んだと話されましたが、それが良い地に蒔かれるということです。良い地に蒔かれた種とは、御言葉を聞いてそれを悟る人のことですが、究極的には、このイエス様と同じようになることです。そういう人は豊かな実を結びます。そればかりではありません。ここには、「わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます」とあります。これは、主が与えてくださる報いのことです。自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従うなら、父なる神はその人を重んじてくださいます。「重んじてくださる」は、新共同訳では「大切にしてくださる」と訳しています。主に従い、喜びも、悲しみも共にし、どんな時も主と共にいる者を、父なる神様が大切にしてくださるのです。
父なる神様がおられ、そして、主イエスがおられる。この聖なる交わりの中に、私たちを招いてくださるために、主は、一粒の麦となって死んでくださいました。それほどまでに、神は私たちを愛してくださいました。イエスは言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」
大正から、昭和の前半にかけて、素晴らしい働きをした人で、升崎外彦(ますざきそとひこ)という伝道者がおられます。この人の伝記、『荒野に水は湧く』という本に、一粒の麦のように生きた、若い女性の話が書かれています。
キリスト教に対する迫害の激しかった出雲の地で、秘かに信仰を持った旧家の娘がいました。名前を香代と言いますが、その香代が、若くして結核にかかり、死も間近と宣告されます。
そこで、最後の願いを聞いてあげよう、ということになりました。香代は、土地の人たちから迫害されていた升崎牧師からバプテスマを受けたい、と言いました。その願いがかなえられ、香代は、病床でバプテスマを受けました。
ところが、その後、奇跡的に、病状が回復し、香代は、元気を取り戻したのです。そこで、困ったのは、家の人たちです。「香代さんが、ヤソになった」、という噂が村中に知れ渡り、大問題になったからです。家の人たちは、香代に、信仰を捨てるようにと、強く迫りました。でも、彼女は、頑として、信仰を捨てませんでした。そこで、家の人たちは、彼女を座敷牢に閉じ込めてしまいました。
ある冬の寒い朝、香代が、祈りの姿勢のままで死んでいるのが発見されました。その後、香代の遺品を整理したところ、彼女の日記が出て来ました。その日記は、死の二日前までのことが、綴られていました。そこには、家の者に対する恨みや辛みは、一言も書かれておらず、それどころか、どのページも、両親のための祈りと、神様への賛美の言葉で満ちていました。
家の人たちは、それを読んで、激しい感動を覚えました。彼らの心は、一変しました。そして、何と、一家11人が、イエス様を信じたのです。香代の墓標には、この24節の御言葉が、記されています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」
香代は、大正時代の出雲の村で豊かな実を結んだ、一粒の麦だったのです。イエス様は一粒の麦が地に落ちて死ぬように、十字架で死なれました。しかし、それによって、私たちは、永遠の命に生きる者とさせて頂くことができたのです。この主イエスの愛を自分のものとして受け取って生きる時に、私たちも一粒の麦としての生き方に招かれます。周りの人たちのために、自分を献げて生きる生き方へと招かれるのです。
先ほど、日野原先生のことを話させていただきました。日野原先生も、命の危険が迫る中で、この御言葉に出会い、平安へと導かれました。そして、その後の人生を、自分のためだけに生きるのではなく、多少なりとも、自分以外のことのために、献げたいという願いに導かれていったのです。私たちも、主イエスという、一粒の麦によって、生かされた者です。そうであるなら、周りの人たちの救いのために、小さな実を結ぶことを、願う生き方へと、導かれてまいりたいと思うのです。この新しい年がそのような一年になりますように。主の聖霊によって、主イエスの価値観と考え方をもって、与えられた人生を全うさせていただきたいと思うのです。