Ⅰサムエル記11章

 今回は、サムエル記第一11章から学びます。

 Ⅰ.アンモン人ナハシュの圧力(1-5)

 まず、1~5節までをご覧ください。
「さて、アンモン人ナハシュが上って来て、ヤベシュ・ギルアデに対して陣を敷いた。ヤベシュの人々はみな、ナハシュに言った。「私たちと契約を結んでください。そうすれば、あなたに仕えます。」アンモン人ナハシュは彼らに言った。「次の条件でおまえたちと契約を結ぼう。おまえたち皆の者の右の目をえぐり取ることだ。それをもってイスラエル全体に恥辱を負わせよう。」ヤベシュの長老たちは彼に言った。「イスラエルの国中に使者を遣わすため、七日の猶予を与えてください。もし、私たちを救う者がいなければ、あなたのところに出て行きます。」使者たちはサウルのギブアに来て、これらのことばを民の耳に語った。民はみな、声をあげて泣いた。ちょうどそのとき、サウルが牛を追って畑から帰って来た。サウルは言った。「民が泣いているが、いったい何が起こったのか。」彼らは、ヤベシュの人々のことばを彼に告げた。」

サウルは王として油注ぎを受けたとき、神に心を動かされた勇者たちは彼について行きましたが、よこしまな者たちは、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って軽蔑し、彼について行きませんでした(10:26-27)。彼は自分の町ギブアに帰り、農夫としての仕事を続けながら、神の時が来るのを待っていました。

すると、アンモン人ナハシュが上って来て、ヤベシュ・ギルアデに対して陣を敷きました。ヤベシュ・ギルアデは、ヨルダン川東岸にあるイスラエルの町です。アンモン人が住んでいるところのすぐそばにあった町です。そのヤベシュ・ギルアデに対して、アンモン人が戦いを挑んで陣を敷いたのです。

ヤベシュの人々は自分たちに勝つ見込みがなかったので、和平条約を申し入れます。それは、自分たちと契約を結んでほしいということでした。そうすれば、あなたがたに仕えます・・・と。するとアンモン人ハナシュは、無理難題を突き付けてきました。何と右の目をえぐり取ることを条件に契約を結ぼうというのです。右目をえぐり取られるとは、戦うことができなくなることを意味していました。それは非常に屈辱的な要求でした。それで、ヤベシュの長老たちは7日間の猶予をもらい、イスラエル全土にこの状況を伝え、救いを求めました。

彼らはまず、サウルのいるギブアに使者を遣わしました。ヤベシュからの使者たちの知らせを聞いたギブアの人たちはみな、声を上げて泣きました。自分たちに近いヤベシュの町があまりにも屈辱的な状況に直面していたからです。

すると、ちょうどそのとき、サウルが牛を追って畑から帰って来ました。そして、民が泣いているのを見て、「何が起こったのか」と尋ねると、彼らはヤベシュの人々のことばを彼に告げました。ここから、サウルの王としての活動の火ぶたが切られることになります。神は思いもかけない方法で、その道を開いてくださいました。サウルは、自分が王になったことを言いふらさなくても、その機会が自然に向こうからやってきたのです。それは神の導きにほかなりません。このように、こうした機会は意外と問題を通してやって来ることがあります。しかし、問題が起こると私たちは恐れを抱いてしまうため、それを見逃してしまうことがあるのです。私たちは信仰によって恐れを克服し、神の機会を見失うことがないようにしなければなりません。

Ⅱ.アンモン人との戦い(6-11)

次に、6~11節までをご覧ください。
「サウルがこれらのことばを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。彼の怒りは激しく燃え上がった。彼は一くびきの牛を取り、それを切り分け、使者に託してイスラエルの国中に送り、「サウルとサムエルに従って出て来ない者の牛は、このようにされる」と言った。主の恐れが民に下って、彼らは一斉に出て来た。サウルはベゼクで彼らを数えた。すると、イスラエルの人々は三十万人、ユダの人々は三万人であった。彼らは、やって来た使者たちに言った。「ヤベシュ・ギルアデの人にこう言いなさい。「明日、日が高くなるころ、あなたがたに救いがある。」使者たちは帰って行って、ヤベシュの人々に告げたので、彼らは喜んだ。ヤベシュの人々は言った。「私たちは、明日、あなたがたのところに出て行きます。あなたがたの良いと思うように私たちにしてください。」 翌日、サウルは兵を三組に分け、夜明けの見張りの時に陣営に突入し、昼までアンモン人を討った。生き残った者は散り散りになり、二人の者がともにいることはなかった。」

サウルがヤベシュの人々のことばを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下りました。このように、旧約聖書においては、神がゆだねられたある使命を果たさせるために、その人物の上に激しく下ることがありました。その結果、サウルの怒りが激しく燃え上がりました。それはそうでしょう。同胞が敵に虐げられているのを見て黙ってなどいられるはずがありません。これは聖なる怒りとも言うべきものです。

それでサウルは一くびきの牛を取り、それを切り分けて,使者に託してイスラエルの国中に送ってこう言いました。「サウルとサムエルに従って出て来ない者の牛は、このようにされる」これによって、イスラエルの全部族を招集したのです。それにしても、なぜサウルはここでサムエルの名前を加えたのでしょうか。まだ自信がなかったのでしょう。まだサウルのことを認めていない人たちがいたので、サムエルの名前を出せば、民の敬意と服従を得られるのではないかと思ったのです。

すると主の恐れが民に下って、彼らは一斉に出てきました。その数を数えるとイスラエルの人々が30万人、ユダの人々が3万人でした。彼らは、やって来た使者たちにこう言いました。「明日、日が高くなるころ、あなたがたに救いがある。」ヤベシュの人たちはどれほど心強かったことでしょうか。使者たちが帰って行って、ヤベシュの人たちにそのことを告げると、彼らは非常に喜びました。

すると、ヤベシュの人々がサウルに、「私たちは、明日、あなたがたのところに出て行きます。あなたがたの良いと思うように私たちにしてください。」と言ったので、翌日、サウルは兵を三組に分け、夜明けに奇襲攻撃をかけて、昼までアンモン人を討ちました。その結果、アンモン人は散り散りになり、二人の者がともにいることはありませんでした。

サウルは戦争の経験がない王様でしたが、その彼がこの戦いに勝利することができたのはどうしてでしょうか。それは、神の霊が彼の上に下り、知恵と力を与えてくださったからです。「聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまでわたしの証人となります。」(使徒1:8)私たちも宣教においてアンモン人という敵の前にすぐに怖気着くような者ですが、神の聖霊によって勝利することができます。神の使命を果たそうとする時、恐怖心が湧いてくることがありますが、そのような時、聖霊の導きを信じて一歩踏み出すなら、聖霊が勝利をもたらしてくださるのです。

Ⅲ.サウルの王権の更新(12-15)

最後に、12~15節までをご覧ください。
「民はサムエルに言った。「『サウルがわれわれを治めるのか』と言ったのはだれでしたか。その者たちを引き渡してください。彼らを殺します。」サウルは言った。「今日はだれも殺されてはならない。今日、主がイスラエルにおいて勝利をもたらしてくださったのだから。」サムエルは民に言った。「さあ、われわれはギルガルに行って、そこで王政を樹立しよう。」民はみなギルガルに行き、ギルガルで、主の前にサウルを王とした。彼らはそこで、主の前に交わりのいけにえを献げた。サウルとイスラエルのすべての者は、そこで大いに喜んだ。」

イスラエルがアンモン人を討ち破ると、民はサウルに言いました。「『サウルがわれわれを治めるのか』と言ったのはだれでしたか。その者たちを引き渡してください。彼らを殺します。」この者たちとは、10:27に出てきた「こいつがどうしてわれわれを教えるのか」と言ってサウルを軽蔑した人たちです。その時サウルは黙っていました。言いたい者には言わせておこうと思ったのでしょう。しかし、そんな者たちにギャフンと言わせる絶好の機会が訪れました。

しかし、サウルは神に栄光を帰し、「きょうはだれも殺してはならない」と言いました。そして、彼らの提案を退けました。これは神の知恵による寛大な処置でした。悔い改めた敵対者たちを殺すよりは、自分の味方につけた方が何倍も良いからです。復讐は何の益ももたらすことはありません。

そして、イスラエルの民にこう言いました。「さあ、われわれはギルガルに行って、そこで王政を樹立しよう。」王政を樹立するとは、王権を新しくすると言う意味です。サウルは既にミツパで王としての油注ぎを受けていました。それをギルガルで更新しようというのです。ギルガルは、かつてイスラエルの民が約束の地に入り、割礼の儀式を再開した場所です。そこで民は再びサウルを王としました。これは王権を確立したということでしょう。彼らはそこで、主の前に和解のいけにえをささげ、サウルが王になったことを喜びました。

この日の喜びは、サウルが神の知恵によって寛大な心を示し、また、この勝利を自分の手柄としないで「主がイスラエルにおいて勝利をもたらしてくださった」と語り、主に栄光を帰したことでもたらされました。サウルの王としての歩みは、最初は順調であったというか、非常に良かったのです。しかし、最初の思いを忘れてしまうことで、この後で致命的な失敗を犯してしまうことになります。黙示録2章には、主がエペソの教会に書き送った手紙がありますが、その中で主は、「あなたは初めの愛から離れてしまった。」(2:4)と言われました。「だから、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。」(2:5)

これはサウルだけのことではありません。私たちも同じです。初めの愛から離れてしまうことがあります。ですから、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなければなりません。そうすれば、主が赦してくださいます。問題は、私たちが何をしたかではなく、何をしなかったかです。悔い改めて、初めの愛に帰ることを神は願っておられるのです。