出エジプト記20章

出エジプト記20章を学びます。ここには、神の律法(モーセの律法)が記されてあります。モーセの律法は613からなっていますが、十戒は、その最初に出てくるものです。この十戒に関して多くの誤解や混乱があります。たとえば、ある人たちは十戒の規定は今も有効であると考え、土曜日に礼拝しなければならないと主張したり、逆に、律法そのものを悪と見る人たちもいます。そのような人たちは、旧約は終わったのだから新約だけを読めばいいと言います。しかし、神の救いの計画を正しく理解するためには、モーセの律法に関して正しく理解しなければなりません。

Ⅰ.十戒の前提(1-2)

まず1~2節をご覧ください。
「それから神は次のすべてのことばを告げられた。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」

ここには、これから十戒を与えられる神がどのような方であるかが記されてあります。それは、「あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」ということです。これはどういうことかというと、神はイスラエルの民をエジプトから贖われた方であるということです。すなわち、神によって救い出された者たち、神の所有とされた民であるということです。イスラエルの民は、神の力と恵みを体験しました。それゆえ、その神との信頼関係をベースとして契約が結ばれるのです。つまり、これは贖われた者たちに対する神の命令であるということです。これは彼らが救われるためではなく、すでに救われた者たちに対する戒めであるということです。しかもここには、「あなたの神、主である」とあります。あなたがたの神ではなく、あなたの神です。神との個人的な関係があって、その上で語られている戒めなのです。

これはクリスチャン生活にも同じことが言えます。私たちは神に愛され、赦されました。それゆえに、神の愛への応答として献身の生涯を歩むのです。パウロはローマ12:1~2節で、「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」と言っています。彼は1~11章にかけて、神の救いとはどういうものか、すなわち、すべての人は罪を犯したので、神からの栄光を受けることがでず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いによって、義と認められる、ということを語りました。そのような神の恵みがベースになり、自分自身を神にささげるという霊的な礼拝が始まるのです。ですから、これがなかったら、ただの律法となってしまいます。私たちが神の命令に従うのは、私たちが救われるためではなく、私たちが神の恵みによって罪から救われたのだからということを覚えておかなければなりません。

Ⅱ.十戒の内容(2-17)

では、その神の戒めとはどのようなものでしょうか。3~17節には、十戒の内容が記されてあのます。

まず、3節をご覧ください。ここには、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」とあります。いったいまことの神、主のほかに、神がいるでしょうか。いません。イザヤ45:22には、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」とあります。イスラエルの主だけが神であり、ほかにはいません。それなのに、なぜこのようなことが命じられているのでしょうか。それは、人間は神以外のものを神にしたがる傾向があるからです。思い出してください。彼らがエジプトにいた時には、そこには多くの神々がいました。ナイルの神、かえるの神、牛の神など、あらゆるものが礼拝の対象とされていました。あの十の災いは、そうした神々に対するさばきでもあったわけです。

当時は、自分たちの欲望を満たすものをみな神としていました。たとえば、カナンの土着信仰として有名なのは「バアル」と「アシュタロテ」です。バアルとアシュタロテは男神と女神の夫婦であり、双方が交わることによって、子どもや家畜、作物の高収穫がもたらされると信じられていました。いわば、家内安全、商売繁盛の神といったところでしょうか。新年にはこの日本の多くの人が初詣に出かけますが、そこで何を祈るのかというと、この家内安全、商売繁盛です。それが自分の欲望を満たすものです。それを神としたがるのです。聖書には「マモン」という神も登場します。これはお金の神です。ここから「money」という言葉が派生しました。もしお金がすべてだと考えているとしたら、それはこのマモンという神を持っていることになります。

つまり、もし私たちが主なる神よりも大事にするものがあるとしたら、それが神になってしまうということです。自分が大事にしているもの、最も情熱を傾けているものがあれば、それが神になってしまうことがあるのです。

第二の戒めは、自分のために偶像を作ってはならないし、それらを拝んではならない、ということです。4~6節にあります。
「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」

「偶像」とはヘブル語で「ベセル」と言います。意味は刻んだものです。神のイメージにかたどって造られたもの、それが偶像です。神を真似たもの、神のイメージに刻んだものです。ギリシャ語ではこれを「エイドーロン」と言いますが、ここから英語の「idol」という語が生まれました。これは現代語にもなっています。それは崇拝されるものです。ですから、偶像とは、崇拝されるために神にかたどって刻まれた像のことです。でも、彫刻などの美術を禁じているわけではありません。

なぜ神様は偶像を造ることを禁じているのでしょうか。それは間違った方法で神を礼拝してほしくないからです。自分のイメージで、自分の考えで、自分の思いつきで、自分の概念で、勝手に礼拝してほしくないのです。どちらかというと、人は神に対して勝手なイメージを持ちがちです。たとえば、何か神々しいものをみると、神はこういうものであるにちがいないと思い、それを神にしたがります。
32章を見てください。モーセが山から下りてくるのに手間取っていると、民はアロンに言いました。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」(32:1)
それで彼はイスラエルの民がつけていた金の耳輪を持って来させると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にして、こう言いました。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」(32:4)アロンはなぜこんなものを造ったのでしょうか。それは彼がエジプトにいた時、牛が神だったからです。アビスという神です。そういうイメージを持っていたのです。バカじゃないかと笑えません。意外と日本人の多くもこんなイメージを持っているからです。このようなものを造って神にしたがるのです。

ヨハネの福音書4章の中てで、主はサマリヤの女に、「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(4:24)」と言われました。神は霊ですから、私たちの目には見えない方です。ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。私たちはこの見えない神を、真理の御言葉をとおして礼拝することができます。なぜなら、御言葉には、見えない神を見せてくださったキリストについて記されてあるからです。このキリストを見た者は神を見たのです。このキリストを礼拝する者は、神を礼拝するのです。

けれども、人は目に見えないものよりも、見えるものに頼りたくなります。神のご臨在を強く意識することができるからです。それが偶像です。そういうものを神としてはいけません。間違った方法で神を礼拝してはいけないし、正しい方法で神を礼拝しなければならないのです。

5節をご覧ください。ここには、なぜ偶像を造ったり、それらを拝んではならないのかの理由が記されてあります。それは、「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」からです。神はねたむ神です。この「ねたむ」というのは、それらの偶像に嫉妬するということではありません。そうではなく、あなた自身をねたまれるということです。なぜなら、神はあなたの神だからです。神はあなたを奴隷の家から連れ出された方です。そのために大切な御子イエス・キリストを犠牲にされました。それほどにあなたを愛してくださったのに、それなのに、そのあなたが他の神々に仕えるというようなことがあるとしたら、悲しまれるのは当然のことでしょう。

また、ここには、「わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」とあります。とあります。どういうことでしょうか。これもよく誤解されることです。もし偶像を拝むようなことがあれば、あなたの家は呪われることになるのでそれを断ち切らなければならないと、呪いを断ち切る祈りをする人がいますが、ここで教えていることはそういうことではありません。神を憎む者の咎が親から子に、子から孫に代々受け継がれていくということではありません。影響が及んでいくということです。逆に、神の命令と教えとを守るなら、良い影響が及んでいきます。その人が神の命令を守らないのに、必死になって呪いを断ち切ろうとしても、何の意味もありません。あなたとあなたの家族が主を信じ、主に従うなら、あなたは救われます。その良い影響はあなたの子孫にまで及ぶのです。そうでなければ、その影響はあなたの子孫にも伝わっていくということです。ですから、呪いを断ち切るのではなく、あなたが悔い改めて神に立ち返ることが求められているのです。

第三の戒めは、主の御名をみだりに唱えてはならないということです。7節をご覧ください。「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない」主の御名をみだりに唱えるとはどういうことでしょうか。

ユダヤ人は、この戒めを文字通りに唱え、主の御名を呼びません。主とはヘブル語で「יהוה ヤハウェ」と言いますが、英語のアルファベットで表記すると「Y」「H」「W」「H」の四つの文字で表します。これは「神聖四文字」、テトラグラマトンと呼ばれています。これはあまりにも神聖なためヤハウェと呼ばず、「アドナイ」と呼びました。日本語では「エホバ」と表記されています。ユタヤ人は「ヤハウェ」があまりにも神聖なので、この戒めに従って一切口にしないのです。

しかし、たとえばエレミヤ33:2~3節には、「地を造った主、それを形造って堅く立てた主、その名が主である方が言われる。 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」とあります。この「主」は「ヤハウェ」です。この主が、「わたしを呼べ」と言っておられるのです。「呼べ」とは、主の御名によって祈れということです。ですから、主の御名をみだりに唱えてはならないというのは、主の御名を一切口にしてはいけないということではありません。ではこれはどういうことなのでしょうか。

ここで鍵になるのは「みだりに」ということばです。これはヘブル語で「シャーブ」ということばですが、意味は「中味がない」とか、「実体が伴わない」、「価値がない」、「空虚である」という意味です。名前には意味があります。よく「名は体を表す」と言われますが、神の名前には神のご性質や神の働きがどのようなものであるかが反映されているのです。それは、「わたしは、「わたしはあるというものである」という意味です。主は他の何にも依存することなく、それ自体で存在することができる方です。その神の名が空虚なものになってはいけないということです。つまり、これは「主の御名を無価値なものにしてはならない」とか、「無意味なものにしてはならない」ということであって、「主の御名」を唱えてはならないということではないのです。むしろ私たちは主の御名によって祈らなければならないし、祈るべきです。ただ口で唱えるというのではなく、神の御名が崇められるように祈らなければなりません。

では、いったいどういう時に神の御名が無価値なものになるでしょうか。主よ。主と呼びながら、主の言われるとおりにしない、そのとおりに生きようとしなければ、それは主の御名をみだりに唱えていることになります。マタイ7:21~23には、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」とあります。
ここで問題となるのは、主よ。主よと呼びながら、実体がないことです。主の御名を呼びながら、主のみこころに反することを行っています。そういう人に対して主は、「不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」と言われるのです。これが主の御名を、みだりに唱えるということです。ここに「罰せずにはおかない」とあります。主の御名によって罪を行うことがあるとしたら、それこそ大きな過ちなのです。

ですから、私たちも注意しなければなりません。信仰の実体が伴うように生きていくことを求めていかなければなりません。キリスト教的であるとか、そうした雰囲気ではなく、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛し、主に仕えなければならないのです。

第四の戒めは、安息日に関する規定です。8~11節までをご覧ください。「安息日を覚えて、こ
れを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」

安息日を覚えて聖なる日としなければなりません。なぜですか?なぜなら、主が六日のうちに、天と地と海と、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからです。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言されました。

これを読むと、主が創造のみわざをなされ七日目に休まれたので、私たちにも休みが必要だというように捉えがちですが、意味は全然違います。「安息日」はヘブル語で「「שבת「シャバット」と言いますが、ここから英語の「Sabbath (Day)」ということばが派生しました。これはもともと休むではなく、「止める」という意味です。神は六日間働いて七日目にその働きを止めたので、私たちも止めなければならないのです。なぜ神は七日目に休まれたのでしょうか。それは疲れたからではありません。神は疲れることなく、たゆむことのない方です。ですから、神様は休む必要などないのです。それなのにその手を休まれたのは、創造のみわざを完成され、その御業の数々をご覧になって満足なさるためでした。

ですから、申命記5:15には、同じ十戒が書かれてありますが、出エジプトには書かれてないことが記されてあるのです。それは、彼らがエジプトの地で奴隷であったこと、そして、彼らの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、彼らをそこから導き出したことを覚えていなければならない、ということです。それゆえ、主は安息日を守るようと命じたのです。すなわち、神が安息日の戒めを定められたのは、その手を休めて、普段やっていることを止めて、この日を特別の日にするためです。いつもしている六日間とは別に、この日だけはそれらの日と区別して、主なる神はどのような方なのかを覚え、礼拝するためなのです。

ここに「安息日を覚えて」とあるのはそのためです。安息日には、このことを覚えなければなりません。この日は創造主なる神を覚える日なのです。これが命令されているということは、私たちは忘れやすいからですね。自分が造られたものにすぎないということを忘れ、自分が神であるかのように思い込んでしまいます。そうではなく、あくまでも自分たちは造られたものにすぎないということを覚え、私たちを造ってくださった方をほめたたえなければなりません。これが、安息日が目指していることです。この日、私たちは主のものであり、私たちに与えられたもののすべては神様のものであって、すべてが恵みだということを思い起こすのです。これが結果として休息、安息につながるわけです。日常的なことを休むので、その結果、体が休みます。休息、安息となるのです。

けれども、どちらかというと私たちは休まない傾向があります。何かしていないと気が済みません。あれもしなければならない、これもしなければならない、時間がない、忙しいといって走り回っています。特に日本人は勤勉で有名ですが、このような人間に神様は休むことの豊かさを教えてもいるのです。ユダヤ人は金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日として、この日にはいっさいの仕事をしませんでした。これは珍しいことなのです。日本では日曜日に休むようになったのは明治時代に入ってからのことでした。しかもそれは官公庁に限られていました。一般の社会では働くことが美徳でした。働いていないとだめです。ちょっとでも休んだりすると「だらしない」と思われていました。

ですから、どちらかというと休むことができないのです。「そんなビジネスチャンスの時に休んでなどいられるか。」「若いんだから、今働かなければいつ働くんですか。」「もっと年をとったら休みます」と言って、休もうとしません。マナを集めに行ったイスラエルの民も、七日目は主の安息だから休めるようにと、神は前日に二日分のマナをちゃんと用意してくださったのに、「こんな稼ぎ時に休んでいられるか」と行って集めようとした人がいました。人間は休まないで働こうとする。しかし、そこに祝福はありません。一週間に1日は普段の生活を止めて、その日を主の日として聖別して、その日を、主を礼拝する日として休むようにすること。それがこの安息日の規定です。

それなのに、いつしかこの戒めの本質が見失われ、これはユダヤ人に対する戒めであってクリスチャンには関係ないとか、これを厳格に日曜日と理解して、日曜日は聖日だからクリスチャンは聖日を厳守しなければならないとか、(これはすばらしいことだが、日曜日だけが安息日なのではないことに気づいていない。その本来の目的を見失っている)、安息日は土曜日なんだから土曜日に礼拝を守らなければならないと主張する人たちもいます。しかし、このような考えには、この安息日の本来の意味が見失われています。

新約聖書には、安息日論争が繰り広げられています。一つは福音書の中で、イエス様ご自身が律法学者やパリサイ人と論争されている箇所が出てきます。主は、安息日は人のためにあるのであり、人が安息日のためにあるのではない、と言われました。ユダヤ教は、この安息日についての規則を細部に至るまで定めています。その結果、安息をもたらすはずの喜びの日が、自分でも負いきれないほどの重荷となっていました。

そして、新約聖書ではもう一つ安息日についての論争がありました。教会が誕生し、ユダヤ人だけでなく異邦人にもキリストの救いが広がって行ったとき、ある問題が提起されたのです。それは、異邦人クリスチャンも安息日を守るべきなのかどうか、ということです。それに対する使徒たちの答えは、明白でした。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。」(コロサイ2:16-17)
つまり、安息日は、次に来るものの影であり、その本体はキリストにある、とパウロは論じたのです。

これは、クリスチャンが礼拝に行かなくても良いということではありません。旧約の神は、新約の神でもあります。使徒の働きや手紙の中には、初代教会の信者たちが週の初め、つまり日曜日に集まっていたことが記録されています。それはキリストが復活された日が日曜日であり、また聖霊が臨まれて教会が誕生した日も日曜日だったからでしょう。日々の働きを止めて、礼拝に集い、主をともにあがめることはとても大切なことです。神が休まれたので、神が止められたので、私たちも日々の働きを止め、安息の主を覚えて、これを聖なる日としなければならないのです。

次に12節をご覧ください。ここには、第五の戒めが記されてあります。それは、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」というものです。これまでは神と人との関係についての戒めでしたが、ここからは人と人との関係、対人関係についての戒めが語られます。この順番が大切です。人と人との関係が正されるためには、まず神との関係が正しくなければなりません。

その対人関係の最初に出てくる戒めは、父と母との関係に関するものです。なぜ父と母との関係に関する戒めが対人関係の最初に語られているのでしょうか。それは、父と母が、神の代表として立てられている存在だからです。神に対して恐れと尊厳をもって仕えるように、神の代理者である父母に対しても恐れと尊厳をもって仕えなければならないのです。それは神が定められた秩序です。その秩序を重んじるようにというのが、この戒めが意図しているところです。ですから、これは単に父母を敬えというだけでなく、神が定められた社会の秩序において、上に立てられた権威に従うことも含まれているのです。家庭における両親、社会における年長者、組織における責任者、国における政治を司る人々のことです。そうした人々を敬わなければなりません。

ところで、「父と母を敬う」とはどういうことでしょうか。それは、神が私たちの上に立てられた人々に対して、私たちが尊敬と服従と感謝を表すことです。特に両親を尊敬しなければなりません。それは、私たちが今この世にこうしているのは両親のお陰でもあるからです。だから、両親を尊敬しないものは、人間として最も基本的にところに欠けていると言えます。

創世記9章に出てくるノアの3人の子どもの内、ハムは父を尊敬しませんでした。彼は父ノアがぶどう酒を飲んで酔っぱらい、裸で寝ていたとき、「あざ笑った」とあります。当時、裸をさらすということはのろいに値することでした。その父の裸を見て彼はあざ笑ったのです。これは父の名誉を傷つけることでした。他の2人の子どもセムとヤペテはそうではありませんでした。彼らは父の裸を見ないようにそれを覆いました。父を尊重するように、その弱さ、醜さ、罪を見ないように覆ったのです。しかし、ハムはあざ笑いました。それゆえに彼は呪われてしまいました(9:25)。ここでハムではなくその子孫であるカナンが呪われているのは、その呪いが子孫にまで影響を及ぼしているということです。父と母を敬わない人は、その人の人生だけでなく、その子孫にまで影響を及ぼすことになるのです。

この戒めには特別な祝福が約束されています。それは、「あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」というものです。これは単に長生きするということではなく、質の高い豊かな人生を味わうことができるという意味です。たとえば、神に従わなかった最初のアダムは930歳まで生きましたが、神に従った第二のアダム(イエス・キリスト)は、33歳でこの世を去られましたが神の右の座に引き上げられました。そういう生涯が約束されているのです。

この戒めについて注意すべきことは、使徒パウロがエペソ6:1で言っているように、「主にあって」従うということです。つまり、この服従は信仰の行為としてなされなければならないということです。と同時に、親が信仰に反対し、神の律法を犯すようなことがある時には、当然、私たちは真の権威者であられる神に従わなければなりません。それは両親ばかりでなく、家庭であれば夫であり、会社であれば上司、学校であれば先生など、あるゆる場合において言えることです。そして、そうした人たちのために、私たちはとりなしの祈りをささげるべきなのです。それこそ、父母を真に敬うということであり、愛することなのです。

第六の戒めは、「殺してはならない。」(13)です。当たり前と言えば当たり前のことでいすが、どうして神はこのように言われたのでしょうか。この「殺してはならない」という戒めをめぐっては、いろいろな誤解があります。たとえば、ここに「殺してはならない」とあるので、これは一切、人を殺してはならないということであって、それは戦争で武力を行使することや、警察がいわゆる正当防衛で犯人を殺してしまうことも含まれる、つまり、聖書は戦争をしてはならないと教えているという解釈です。

けれども、これはそういうことではありません。この「殺してはならない」ということばはヘブル語で「ラツァック」ということばですが、英語では”murder”と翻訳されているように、明らかに人が故意に、計画的に、不法に人を殺害する場合を指しています。つまり、自分の身を守ろうとする正当防衛や、他国からの攻撃に対して自国を守るための反撃、また殺人を犯した罪による死刑は、これらに該当しないのです。もちろん、戦争や死刑制度などは神様が望むはずはありませんが、人間に罪がある以上、悪がはびこることは避けられないことです。そうした悪が増殖するのを防ぐための抑止力として神様が用いられることがあるのです。

また、旧約聖書をみると、イスラエルがカナンの地に入っていくとき、その地の住民を皆殺しにするようにと命じています。女も、子供も、家畜に至るまで。これを「聖絶」と言いますが、ただ読んだだけでは、聖書の神は何と残酷なことをされるのかと思ってしまいます。神は愛だと言いながら、みな殺しにせよというのはひどいじゃないか・・・と。そのような記述を読むと、聖書は矛盾しているのではないかと感じたりします。そして、求道者はそのようなことに躓いてしまうのです。
しかし、あの箇所をよく見ると、あれは神のイスラエルに対するあわれみのゆえの命令であったことがわかります。つまり、カナンの地は偶像に満ちていました。そのような偶像に満ちていた地には昔からの習慣があって、そうした習慣から彼らを守るための神の計画だったのです。

また、この前の章には、「山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。」(19:12)とあり、21:12には、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければいけない。」とあります。一方で殺してはいけないと命じておきながら、もう一方で殺しなさいと言うのは矛盾しています。その他にも、聖書には数多く、神ご自身が殺しなさいと命じている箇所があります。普通に読めば、ここは殺意を持って、不法に殺すこと、つまり殺人を禁じている箇所です。警察が、他の人や自分を殺そうとしている凶悪犯に最後の手段として銃を使って殺すことや、また攻撃してくる外国の敵に対して自国の軍隊が反撃することではありません。もちろん、これらのことも理想的な状態ではあるとは言えません。しかし、現実には罪のゆえにこうしたケースが起こるわけで、そうしたことに対してはきちんと対処することを、聖書は禁じてはいないのです。

もう一つの誤解は、ここに「殺してはならない」とあるので死刑制度はおかしいのではないかという考えです。しかし、創世記9:6には、「人の血を流す者は、人によって、血をながされる。神は人を神のかたちにお造りになったから。」とあることから、人の血を流す者は、人によって血を流されなければなりません。これが、神が定めている死刑制度です。これは律法が定められる前のことであり、神が人類に与えておられる普遍的な原則なのです。このみことばは、カインの殺人事件にまで遡ります。ご存知のように、人類最初の殺人事件はアダムとエバの子カインがアベルを殺したことに端を発します。自分のささげたものを神は受け入れずアベルのものを受け入れたことを知ったカインは、弟アベルに襲いかかり、彼を殺しました。その時神は何と言われましたか。「カインを殺す者は、七倍の復讐を受ける」(4:15)と言って、だれも彼を殺すことがないように守ってくださいました。そして、その子孫のレメクにはこう言っている。「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」(4:24)。これはどういうことかというと、俺は何をしても赦される。だれも俺に手を出すことなどできないと宣言しているのです。つまり、彼は神のあわれみをねじ曲げそれを利用するかのようにして、自分のやりたい放題のことをしたのです。カインが人を殺しても死刑にならなかった。カインが殺されなかったのであれば、自分も何をしても赦される、という思いです。そして、その結果がノアの時代に続きます。創世記6:5に、「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」とあります。何をしてもいい。人を殺したって大した問題ではないといった思いです。そうした人間を神はどうされたかというと、大洪水で滅ぼされたわけです。人を殺してはならない。人を殺せば、自分も殺されると。残酷なようだけども、人を殺すなら、その責任を負わなければなりません。もちろん、だからといって救われないということではありません。悔い改めて、イエス・キリストを信じるなら救われます。しかし、この地上での責任は負わなければならないのです。これが神の定めた死刑制度なのです。

もう一つの誤解は、この戒めは自分には関係ないと思っていることです。そのような人に対してイエス様はこのように言われました。マタイ5:20~26です。イエスさまは「殺してはならない」の戒めの真意を、山上の垂訓でさらにお語りになっています。もし兄弟に向かって、馬鹿、と言ったら、あなたがたは最高法院に引き出される、と言われました。つまり物理的に殺さなくとも、殺意を抱けばそれでこの戒めを破ったことになるのです。「こいつさえいなければ、幸せなのに」と思ったとき、私たちは、実は人を殺していることになるのです。そういう意味では、私たちはどれだけの人を殺しているでしょうか。そういう意味では、この戒めは私たちとも無関係ではありません。私たちは人を憎んだり、馬鹿者と思ったりする弱い者ですから、この律法を完全に守ることなどできません。だから、イエス様の赦しを、イエス様の義を求めなければならないのです。人を殺している人を見て、何てひどいことを・・と思いますが、実は私たちもそのような者なのだということを覚えて、イエスの十字架の赦しの中に生きなければならないのです。

次は、「姦淫してはならない」(14)です。これは第七の戒めとなります。これは婚外交渉をしてはいけないということです。結婚前に性交渉を持つことも含まれます。結婚の外でのありとあらゆる性行為や不健全な性行為全般のことです。それが禁じられているのです。神は天地を創造されたとき、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地に従えよ。」と命じられました。ですから、生殖行為は神から与えられた賜物ですが、それを神が定めたところ以外で用いることを、禁じているのです。この世ではばからしいと感じられるかもしれません。この世では全く反対の動きがあります。この世の性的な価値観は聖書のそれとはかなりの違いがあります。

この教えについても、自分には関係がないと、人ごとのように感じておられる方もいるかもしれません。しかし、イエス様はこの戒めの真意を次のように教えられました。マタイ5:27~28です。ここには、「情欲をもって女を見るならば、姦淫の罪を犯したことになる」とあります。当時の律法学者たちは、外側の行ないが良ければ律法を守ったことになる、としていました。しかし、聖書は私たちの内面を取り扱っています。心の中で情欲をもって女を見るなら、姦淫を犯すことになるのです。つまり、殺人もそうですが、こうした姦淫も心の中が問われているのです。心の中でそうした思いを抱くので、それが外側に行為となって表れるのです。ですから、心の中でそのような思いを抱いた段階で罪を犯すことになるのです。そういう意味では、本当に私たちは弱い者に過ぎず、主イエスの助けと赦しがなければ生きていくことはできません。

この「姦淫してはならない」という戒めを破ることのおそろしい点は、これが自分自身を滅ぼすことにつながっていくことです。箴言6:32には、「女と姦通する者は思慮に欠けている。これを行う者は自分自身を滅ぼす」とあります。この「自分自身」ということば「自分のたましい」という意味です。「ネフェシュ」ということばが使われています。自分のたましいを滅ぼすことになります。それは肉体的な面だけでなく、感情的な面でも、人格の面でも、それ以上に霊的な面にまで及びます。主イエスは、あなたの目がつまずかせるなら、それを取ってしまいなさいと言われましたが、こうした情欲を抱かせる者に対しては徹底的に捨てる、遠ざける必要があります。

第八番目の戒めは、「盗んではならない」(15)です。これも自分とは関係がないと思う人が多いかもしれませんが、実は私たちと深い関わりがあります。というのは、これは物を盗むことだけではなく、所有権を犯すことだからです。もちろん、泥棒、詐欺、万引きは盗みですが、たとえば借りたものを返さないこともそうなのです。試験でカンニングするのもそうです。キセルも料金も盗む罪です。脱税や税金をごまかすことも、会社の備品を持って帰ることも含まれます。カイザルのものはカイザルに、そして、神のものは神に返さなければなりません。

詩篇24:1には「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」とあります。この地のすべては主のものです。ですから、私たちは主のものを主のものとして返さなければなりません。それを返さなかったら盗んでいることになるのです。それが十分の一献金です。十分の一を主にお返しすることによって、私たちは主のものを主のものと認めているわけです。それをしなかったら盗んでいることになります。マラキ書4章で十分の一をささげていなかったイスラエルに対して神は何と言われましたか?「あなたがたは盗んでいる」と言われました。彼らはドキッとしたでしょう。

その神のものを神のものとせずに盗んでいた人に対して、どんなさばきがあったでしょうか。ヨシュア6,7章には、アカンの罪について記されてあります。アカンは、アカンことをしました。イスラエルがエリコの町を占領したとき、彼は神のものに手につけたのです。神はすべてのものを聖絶するようにと命じられましたが、彼は一部の物を取っておきました。その結果、次のアイとの戦いにおいて、イスラエルは大敗を喫しました。原因はアカンが神の命令に背いて、自分のために取っておいたことです。神のものを神のものとしませんでした。神のものを盗んでいたのです。そういうことには神のさばきが伴うのだということを覚えておきたいと思います。

第九番目の戒めは、「偽りの証言をしてはならない」ということです。「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」(20:9)とあります。これは法廷において事実と異なる証言をすることを禁じることですが、ここではそれ以上の意味が込められています。

ハイデルベルグ信仰問答書があります。その112問に次のような問答があります。
「十戒の中の第九戒では、何が求められていますか?」
それに対する答えはこうです。
「私がだれに対しても偽りの証言をせず、誰のことばをも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと。かえってあらゆる嘘やごまかしを悪魔のわざとして、神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、裁判やその他あらゆる取引においては真理を愛し、正直に語り、また告白すること。さらにまた、私の隣人の栄誉と威信とを、私の力の限り守り、促進するということです。」

よくまとめられていると思います。ですから、これは単に嘘を言ってはならないということではないのです。その具体的な例として、マタイ26:59~63で、イエスを訴えるための偽証をあげることができます。ここで問題だったのはどんなことでしょうか?それは彼らが自分たちに都合がいいようにイエス様のことばを勝手に解釈し、それをねじ曲げたことです。確かにイエス様は「わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる」と言いましたが、それは目に見える神殿のことではなく、御自分のからだのことを指して言われました。十字架と復活のことです。それなのに、彼らはそれを、イエス様を訴える口実として利用しました。偽りの証言のいやらしさがここにあります。彼らの動機が間違っていました。彼らはイエス様を訴えるためにそれを用いたのです。

これが悪魔のすることです。ヨハネ8:44には、悪魔は真理に立っていない、とあります。自分にふさわしい話し方をしているが、偽っているわけです。最初の人アダムとエバもそうでした。悪魔はエバに、「神は本当に言われたのですか」と神が言われたことを引用して、それを用いて騙しました。それを食べるそのとき、あなたの目が開かれ、神のようになる・・・と。嘘も方便ということばがありますが、半分本当でも、半分嘘なのです。自分に都合がいいように勝手にねじ曲げました。それが悪魔のやることです。

しかし、嘘が必ずしも悪いことではありません。ヨシュア記をみると、カナンの娼婦であったラハブはイスラエルのスパイをかくまったとき、嘘をついて彼らを守りました。そして、それゆえに称賛されています。かつてナチス・ドイツのユダヤ人大虐殺の事件のときも、コーリー・テンブーン家族はユダヤ人をかくまって守りました。そのように人のいのちを生かすとき、他者の利益のために、嘘をつくことがありますが、よほどのことがないかぎり、嘘をついてはいけないのです。なぜなら、それはサタン的だからです。

黙示録12:10を開いてください。ここには「私たち兄弟たちの告発者」とあります。これはサタンのことです。皆さん、サタンは告発者なのです。神の前に訴える者です。私たちの犯した罪を並び立てて訴えるのです。だれでも罪を犯したり、失敗したりします。ですから、そのように訴えられたら弁解しようがないわけです。しかし、偽りの証人は自分にとって都合がいいように事実をねじ曲げます。半分は事実ですが、半分は間違っています。その動機が間違っています。Iヨハネ2:1には、私たちには弁護人がいます。義なるキリストです。私たちはどうしようもない罪人です。しかし、そんな私たちのために罪を清めてくださった方がおられる。それがキリストです。これも事実なのです。それなのにサタンは半分しか言いません。これがサタンの巧妙なわざです。

これは私たちも注意しなければなりません。クリスチャンならみな天国に行きます。にもかかわらず、あのクリスチャンが、このクリスチャンが、と悪く言うとしたら、神はどう思われるでしょうか。そうした偽りの証言を、神はどれほど忌み嫌われることでしょうか。箴言19:5には、「偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者も、のがれられない。」とあります。半分の事実だけを取り上げて、ねじ曲げて、その人のことを悪く言うとしたら、それはサタンと同じようなことをしていることになります。神は、そういうことを忌み嫌われるのだということを覚えておきたいと思います。

ではどうしたらいいのでしょうか。イエス様はこのように言われました。マタイ5:37です。「はい、は、はい。いいえは、いいえ、はいいえと言いなさい。」と。口は災いのもとと言われますが、そうです。これは物を盗むことよりも被害が大きくなることがあります。人の噂話によって広がっていき、ある人の信用を傷つければ、その人は一時的に物を失うよりももっと長い、いや死ぬまで続くほどの害を被ることさえあります。ヤコブは、「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」(3:6)と言いました。

ですから、自分が偽りの証言をしないように、いつも主が自分の口を守ってくださるように祈らなければなりません。詩篇119:29,120:2,箴言3:8を参照してください。このように祈ることが偽りの証言から自分の身を守る秘訣なのです。

17節をご覧ください。十番目の戒めです。「あなたの隣人の家を欲しはならない。あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲してはならない。」(17)
最後の戒めは、むさぼってはならないという戒めです。この戒めの特徴は心に関することであるということです。他の戒めは行為に関することですが、これは心から出るむさぼりを取り扱っています。欲しがること、あるいは、むさぼりは他の戒めを破ることにつながる、最初の欲望です。盗むのは他人のものをむさぼっているからです。姦淫するのも、他人の妻をむさぼっているからです。嘘をつくのは、自分がむさぼっていることを隠したいからです。父母をののしるようなことをするのは、父母に与えられた神の権威を欲しがっているからです。今あるもので満足すること、神の恵みが自分に十分にあることを知ることが、むさぼりから守られる秘訣です。ヘブル13:5にはこう書いてあります。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」

マタイ19:16~22には、金持ちの青年がイエス様のもとに来て、救われるためにはどうしたら良いと尋ねる場面が出てきます。それに対してイエス様が律法を守るようにと言うと、彼はそのようなものはみな守っています、と答えました。そこでイエス様は最後にこの戒めを言うのです。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」すると彼は悲しんで去って行きました。財産と霊性は切っても切り離せない関係にあります。お金の使い方でその人の霊的状態がわかります。いま持っているもので満足しなさい。神を第一に求めていくこと、それが、この戒めが指摘していることだったのです。

Ⅲ.神への恐れ(18-26)

すると、民はどのように応答したでしょうか。18~19節をご覧ください。
「民はみな、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山を目の前にしていた。民は見て身震いし、遠く離れて立っていた。彼らはモーセに言った。「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」

イスラエルの民は十戒を聞いて、神が恐くなり、たじろぎ、遠く離れました。律法によって神に近づけられたのではなく、神から遠ざかろうとしたのです。これは単に、彼らが雷や稲妻などの物理的な現象に驚いていたからではありません。神の聖さに触れたからです。あの預言者イザヤも、高く上げられた御座に着いておられる主を見たとき、「ああ、私は滅んでしまう」と叫びました。「この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」(イザヤ6:5)聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主の栄光を見たとき、彼もたじろぎました。ここでも、イスラエルの民は、聖なる神の臨在に触れた時、自分たちがいかに汚れた者であるかがわかったのです。

神の律法に触れると、私たちにも同じようになります。律法は聖なるものであり、正しいものであり、そこには神の聖いご性質が表れています。したがって、律法の鏡に写し出されてみてはじめて、自分がいかに罪深い者であるかを知ることになるのです。そして、律法を守ることによっては神に正しいと認められることなどできないということ、むしろ自分がいかに汚れ、罪人であり、死罪に値する者であるかに気づかされます。私たちは地獄があるなんて恐ろしく、神がそこに人を入れるなんてひどいと思うかもしれませんが、律法が与えられるとき自分が地獄に行かなければならない存在であり、永遠のさばきを受けなければいけない存在なのだと気づくのです。

そして、神のあわれみにすがるようになります。「どうかあなたのあわれみによって、私の罪を赦してください。」と。その結果、神の救い、キリストの十字架による贖いの死を信じる信仰へと導かれます。ローマ8:3に、「肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」とある通りです。
このように、律法は私たちを清める力はありませんが、私たちを救い主の許へと導きます。ですから、パウロはガラテヤ書で、律法はキリストへ導く養育係であると言っているのです。イスラエル人と違い、私たちは神に大胆に近づくことができます。それは、キリストの血によって、神の御座がさばきの座ではなく、恵みの座になったからです。おりにかなった助けを受けるために、神の御座に大胆に近づくことができるのです。信仰により、恵みによって義とされていることを感謝しましょう。

20~21節をご覧ください。「それでモーセは民に言った。「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」民は遠く離れて立ち、モーセは神がおられる黒雲に近づいて行った。」

モーセは、「恐れてはいけません」と言いました。神が来られたのは彼らが恐れるためではありません。彼らを試みるためです。彼らがいかに罪深い者であるかを悟り、自分の義ではなく神の義に頼るかどうか、そして、神に従って生きるようになるためだったのです。それなのに神を恐れて、「やっぱりだめだ。自分は汚れている。とても神様に従うことなんてできない」と思ったら本末転倒です。そうではなく、彼らが神を恐れ、神の愛と恵みに生きることを神は願っておられたのです。

最後に、22~26節をご覧ください。
「主はモーセに言われた。「あなたはイスラエルの子らにこう言わなければならない。あなたがた自身、わたしが天からあなたがたに語ったのを見た。あなたがたは、わたしと並べて銀の神々を造ってはならない。また自分のために、金の神々も造ってはならない。あなたは、わたしのために土の祭壇を造りなさい。その上に、あなたの全焼のささげ物と交わりのいけにえとして、羊と牛を献げなさい。わたしが自分の名を覚えられるようにするすべての場所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。あなたはわたしの祭壇に階段で上るようにしてはならない。その上で、あなたの裸があらわにならないようにするためである。」

ここで神はどのように神を礼拝したらよいかを語られます。彼らは、神が天から語ったように銀の神々や金の神々を造ってはなりません。彼らは、神のために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛を全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければなりませんでした。そうすれば、主が彼らに臨み、彼らを祝福してくださるというのです。どういうことでしょうか。これは、彼らが神を礼拝する時には、シンプルでなければならないということを意味していました。金や銀で出来たあでやかな祭壇ではなく、土で出来た質素な祭壇です。なぜなら、もし金や銀で祭壇を作るなら、そうしたものに心が奪われ、神に集中することができなくなってしまうからです。神は、自分以外に人々の注意がそれることを望まれませんでした。神を礼拝するときは、それを妨げる要素をなるべくなくさなければなりません。それで土の祭壇です。私たちの礼拝はどうでしょうか。礼拝堂は金や銀のようにあでやかになってはいませんか。賛美をリードする人は、神ご自身よりも自分の音楽技術を披露するようなことにはなっていないでしょうか。牧師が説教する時、神のみことばではなく、自分の体験談ばかり話たりして、神の栄光に陰りが出ていないでしょうか。神を礼拝する時は、神に集中できるように、土で祭壇を造らなければなりません。また、その上に、全焼のいけにえと、和解のいけにえをささげなければなりません。なぜなら、神への礼拝は動物の犠牲によって成り立つからです。この動物のいけにえこそイエス・キリストを指し示していました。私たちは、言えうす・キリストの犠牲のゆえに神のものとされ、神に受け入れられる礼拝をささげることができるのです。

そのことは、次の所でも言われています。25節には、「もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。あなたはわたしの祭壇に階段で上るようにしてはならない。その上で、あなたの裸があらわにならないようにするためである。」とあります。ここには、もし祭壇を築いて主を礼拝しようするなら、次の三つのことをまもらなければならないと命じられました。すなわち、石で祭壇を造るなら、それは切り石で築いてはならないということ、また、それにのみを当ててはならないということ、そして、主の祭壇に階段で上るようにしてはならないということ、つまり、高くしてはならないということです。そして三つ目のことは、その上で、あなたの裸をあらわにしてはならないということです。

切り石で築いてはならないとか、のみを当ててはならないというのは、加工された石を使ってはいけないということです。それは先ほども申し上げたように、そのようなものに心が奪われ、神に集中することができなくなってしまうからです。祭壇は、その上でいけにえをささげるためのものです。ですから、それに人が勝手に手を加えることなど出来ないのです。ここには「わたしの祭壇」とあるように、それは主の祭壇であって、そこでは主のいけにえがささげられるのです。キリストの十字架がたてられたのは、土や石のあるゴルゴタの丘でした。切り石で築いたきれいな丘ではありませんでした。自然の石の上に立てられたのです。同じように、主の祭壇も、切り石やのみを当てたりしない自然の石ので築かなければなりません。

それから、主の祭壇に階段で上るようにしてはいけませんでした。高くしてはならないということです。世界各地に残っている当時の祭壇は、高く、きれいなものであることが多いです。そこに、裸の祭司が上って、いけにえをささげる事が多かったのです。太陽礼拝、月礼拝などの祭壇は、特に高く造られていました。バベルの塔がそのいい例です。それは、ほんとうの神への挑戦を意味していました。この世での様々な宗教においては、誰からも見えるところに造られたのです。でも、主が定めた祭壇の掟は、むしろ簡素な、目立たないものでした。これは、人の側の謙遜を意味するものでした。後のところで、幕屋と祭壇が作られますが、それは、幕屋の中の、隠されたところにありました。当時の人々は、神を礼拝する事を、人に見せびらかすため、そして、神にアピールするために行っていました。それはとても派手で、華々しく、仰々しい事だったでしょう。祭司が高い祭壇に上って行き、そこで儀式が行われたのです。しかし、神を礼拝するのは神にアピールするためでも、人に見せびらかすためでもありません。イエス様は、「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。」と言われました(マタイ6:6)そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と言われたのです。これが祈りです。これが礼拝です。それは人に見せることでも、神に見せることでもありません。ただ単純に神を恐れ、単純に神を愛し、単純に神を求め、単純に神に感謝し、ささげものをし、そして、常に謙遜であることです。それは、形式でもありません。祭壇は、すぐに崩れてしまうようなもので十分でした。きらびやかなものである必要はなかったのです。高い所に造る必要もありませんでした。

そして、ここには、「その上で、あなたの裸があらわにならないようにするためである。」とあります。私たちの裸があらわにならないようにするために必要なのは、そのようにして造られた祭壇の上に、全焼のいけにえと交わり(和解)のいけにえをささげることによってです。それは、私たちのために十字架で死んでくださったキリストの贖いを示しています。私たちが神を礼拝できるのは、このキリストの犠牲のゆえなのです。アダムとエバが罪を犯した時、彼らはいちじくの葉で綴り合せたもので腰の覆いを作りましたが、そんなものは2,3日で枯れてしまい、全く役に立たなかったでしょう。しかし、神はそんな彼らのために動物の皮で作った着物を着せてくださいました。まさに、その動物こそがキリストの血を象徴していたのです。そのように神がしてくださいました。

ですから、私たちに必要なのは、私たちが何か神のためにするということではなく、神が私たちにしてくださったことを思い、そのことに感謝し、神を神として、心から神に感謝をささげることです。これが神を礼拝するということです。神を神として畏れ、ひれ伏す事。神を神として、価値のある方、素晴らしい方として礼拝する事。神を王の王、主の主、すべてを支配なさる方として敬う事です。その神の前で、わたしたちは、ちっぽけで、罪深く、価値のない、虫けらのような存在であることを自覚する事です。そして、その虫けらのわたしたちを愛してくださる主に、心から感謝する事なのです。