きょうは、「光があるうちに」というタイトルでお話しします。「光」とはイエス様のことです。イエス様は、「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。」(35)と言われました。また、「光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(36)と言われました。きょうは、この「光があるうちに」ということで三つのことをお話ししたいと思います。
Ⅰ.イエスの祈り(27-28)
まず、27~28節をご覧ください。
「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」」
イエス様は、過越の祭りを祝うためにエルサレムに来られました。これがイエス様にとっての最後の過越の祭りです。イエス様は、この祭りの間にほふられる子羊となって十字架で死なれるからです。すると、そこに何人かのギリシア人がいて、弟子のピリポを通して、「イエスにお目にかかりたいのです」(21)と頼みました。ピリポはアンデレと一緒にイエス様のところに行きそのことを伝えると、イエス様は驚くべきことを言われました。それがあの有名な「一粒の麦」の話です。24節、「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」それは、イエス様の十字架上での死のことを表していましたが、そのことをもっと明確に示すために、それに続いてこう言われました。27節、「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」
これはイエス様の告白であり、祈りです。イエス様の心は騒いでいました。なぜなら、間もなくご自分が十字架につけられることを知っていたからです。ヨハネの福音書では、この「時」のことがずっと語られてきました。例えば、カナの婚礼では、母マリヤに対して、「わたしの時はまだ来ていません。」(2:4)と言われました。しかし、今その時が来ました。十字架につけられる時です。それで心が騒いでいたのです。神の御子であるならどうして心を騒がせる必要があったのでしょうか。それは、たとえ神の御子であっても、たとえ、それが永遠の神のご計画であるということがわかっていても、十字架で死ぬことがどんなに恐ろしいものであるかを知っていたからです。それを知っていたなら苦しみ悶えるのは当然のことです。それは、十字架での死というものが単に肉体的な苦しみを意味していただけでなく、それ以上に父なる神から見捨てられることを意味していたからです。イエス様は、「わたしと父はひとつです。」(10:30)と言われましたが、そのように言うことができる方が、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)と叫ばなければならないのです。それほど理不尽なことはありません。それは、イエス様にとってもっとも恐ろしいことでした。それゆえ、「この時から私をお救いください。」と祈らずにはいられなかったのです。
イエス様はここで、「この時からわたしをお救いください」と祈られましたが、あのゲッセマネの園でも同じように祈られました。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」(ルカ22:42)それは、同様の理由からです。人類の罪を背負って十字架で死ぬということが、どれほど恐ろしい神の刑罰なのかをよく知っておられました。だから、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」と祈らずにはいられなかったのです。ここでも同じです。
しかし、イエス様の祈りはそれだけではありません。それに続いてこう祈られました。「いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。」それがどんなに苦しく恐ろしいものであっても、それが神の御心であり、ご自分がそのために来られたことを確信していたので、イエス様はこのように祈ることができたのです。あのゲッセマネの園での祈りで「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)と祈られたのと同じです。これはご自身がメシアであることの確信を表していました。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだと。だから、「父よ、御名の栄光を現してください。」と祈ることができたのです。私たちもこのように祈りたいですね。自分の願いよりも、御名の栄光が現されるようにと。そのためには、自分が何のためにここにいて、この時に至ったのかを確信しなければなりません。そうでないと、ちょっとでも嫌なことや苦しいことがあると、すぐにつぶやいてしまうことになってしまいます。しかし、ここにいるのは神がそのように導いてくださったからだと、信仰によって確信することができるなら、イエス様のように、「父よ、御名の栄光を現してください」と祈ることができるようになるのではないでしょうか。
米沢の恵泉キリスト教会から送られてきた週報に、脳梗塞で入院しておられた佐藤信幸さんという方の証しが掲載してありました。それには「神さまのご計画」という題が付けられていましたが、つぎのような証でした。
11/24(日)の夜9時30分頃、午後はずうっとソファに横になっていたので筋トレして浴室に向かった。あれっ右手が経験したことのない感覚。物がつかめない。すぐ直るだろうと思い、シャワーを済ませて上がった。この日は、気温が高く浴槽にお湯は貼らなかった。その後リビングで家内と会話をしている時、ろれつがまわらないのではと家内が問いかけてくれた。その時、自分でもおかしいと自覚できた。病院に行こう。市立病院に電話をし、救急車で来て下さいと言われましたが、家内の車で11時に到着。ほとんど待たずに診察室にベッドに乗せられて入った。その後CT検査をし、自分に起こった現実を見ることになった。左側の脳に出血が広がっていた。信じられなかった。診察されたドクターは、厳しい口調で話された。天井ばかり見ていました。でもなぜか心は平安でした。「神さまは最善以下になさらない」このことばが、思い浮かばれ安心感がありました。あとで、聞いたのですが、家内は主治医に深刻なことを言われたそうで、家に一人でかえって一晩中泣いていたそうです。
入院翌日、千田先生が見舞いに来てくださいました。必ず良くなる、また車の運転をお願いしたいとおっしゃってくださいました。とても嬉しかったです。この日から、回復が始まっていました。3日目からリハビリが始まっていました。最初に手のリハビリでした。積み木を右から左へ、またその逆を片手で移動するテストでした。評価は、左右ともに98点、右が左より逆に2㎏強かった。次は、脚部のリハビリ、何の障害もなく楽しくトレーニングをしました。次は頭のリハビリでした。図の認識、漢字捜しで今までこんなにできる患者さんは初めてと評価を頂きました。最後は車の運転テストでした。シュミレーションドライブできるのかと期待しましたが、縦横6マスで36組の交差点を埋めていく絵合わせテストでした。何の問題もないと評価して頂きました。5日目にリハビリの先生方と看護師と主治医の方々が集まり、評価してくださったそうで、リハビリは特に問題ないので早めの退院可能となりました。12/1看護師長と面談があり、明日にでも退院してもよいとおっしゃっていただき、12/4に退院することができました。感謝でいっぱいです。
今回の病気を通して、家内のやさしさが身に染みました。夫婦の絆がさらに強まったと思います。また、同室のKさんと友達になれました。私より2日遅れて私の真向かいに来られた方で、昨年の夏前から茨城から米沢に来られた日系ブラジル人男性で、日本語、英語、ポルトガル語の3か国語が話せる方です。退院したら福田町チャペルで会おうと約束してくださいました。
そしてこの病気を通して神さまは、わたしに忠実になりなさいと言ってくださいました。
「主は二日後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ちあがらせる。私たちは御前に生きるのだ。」(ホセア書6:2)
12/17退院2週間後に再診査を受けた。CT画像から白い部分は無くなっていた。順調に回復していますとのことであった。そして翌日から仕事に復帰しました。感謝です。
ハレルヤ!この病気を通して、御名の栄光が現されました。驚異的な回復もさることながら、この病を通して主が兄弟に忠実になりなさいと語ってくださり、みことばの約束の通りに、兄弟を立ち上がらせてくださいました。そればかりか夫婦の絆が強められ、同室の方と友達になり、その方と教会で会うことまで約束できました。すばらしいですね。私たちもこのように祈ろうではありませんか。「父よ、御名の栄光を現してください」と。
28節をご覧ください。すると、天から声が聞こえました。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」どういうことでしょうか。神様は、イエス様の生涯を通して栄光を現されました。特にヨハネはこれまでイエスが神の子である証拠としての奇跡を七つ記してきました。
最初のしるしは、ガリラヤのカナの婚礼で、水をぶどう酒に変える奇跡でした。それから、カペナウムでは病気で死にそうだった役人の息子を癒されました。また、ベテスダの池では、38年間も病気で伏せていた人を癒されました。さらに、男だけで五千人、女の人や子供を合わせるとゆうに1万人を越えていたでしょう、その人たちの空腹を5つのパンと2匹の魚で満たされました。そればかりか、余ったパン屑を拾い集めてみると、何と大きなかごが12個にもなりました。
五番目の奇跡は、弟子たちが舟でガリラヤ湖を渡っていると、夜中の3時頃ですが、イエス様が湖の上を歩いて近づかれたことです。近づいて何をするのかと思ったら、そのまま通り過ぎるおつもりであったなんて、何とも意地悪な感じもしないでもないですが、弟子たちが強風で恐れているのを見て、「わたしだ。恐れることはない。」(6:20)と言われ、舟はほどなく目的地に着きました。また、生まれつきの盲人を見ると、地面に唾をして泥を造り、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアムの池に行って洗いなさい。」(9:7)と言われました。すると、彼は見えるようになりました。
そして、七番目のしるしは、死んだラザロが生き返るという奇跡でした。死んだばかりの状態ではなく、死んで四日も経っていたラザロを、蘇生することは全く不可能だったラザロを生き返らせたのです。
これら7つのしるしによって、神はご自分の栄光を主イエスにあって現わされました。しかし、ここではもう一度栄光を現わそう、とおっしゃっています。どのようにしてもう一度栄光を現されるのでしょうか。それは十字架の死と復活を通してです。十字架での死と復活が、どうして神の栄光なのでしょうか。人々にあざけられ、苦しめられて死んでいくのです。その十字架が、いったいどうして神の栄光なのでしょうか。その理由が、次の29~33節で語られます。それは、この十字架こそ、私たちをキリストのもとに引き寄せてくれるからです。
Ⅱ.イエスの十字架での死(29-33)
そのことが、続く29節から33節に述べられています。
「そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」と言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。」
天からの声が聞こえてきたのは、そう何回もあるわけではありません。主イエスの地上での生涯においては3回だけでした。それはイエス様がバプテスマを受けられた時と、ペテロとヤコブとヨハネの三人の弟子たちを連れて高い山に登られ、そこで御姿が変貌したとき、そして、今回です。今回というのは、きょう学んでいるこの箇所においてです。
いったいなぜ神様はこの時、御声を発せられたのでしょうか。ここにその理由が記されてあります。29節です。「イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。」どうしてこれが私たちのためなのでしょうか。31,32節で主はこのように言われました。「今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」どういうことでしょうか?
イエス様は、続く33節のところで、「これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。」と言っておられます。つまり、イエス様がここで語っておられることは、十字架で死なれることでした。イエス様が十字架で死なれることによって、「この世を支配する者」が追い出されるのです。「この世を支配する者」とは誰ですか?それは言うまでもなく、悪魔、サタンのことです。この悪魔に下るわざ、悪魔にくだるさばきが十字架なのです。アダムとエバが罪を犯して以来、悪魔はずっと人を神から引き離していました。しかし、イエス様が十字架で死なれることによってその悪魔の仕業を、根本的に、完全に打ち破られました。なぜなら、イエスの十字架の死によって、罪によってこれまで断絶していた神との関係が産められ、神と一つになることができるようになったからです。イエスの十字架の死によって、悪魔の力は完全に無力になりました。それが、「この世に対するさばきが行われ」ということです。この世を支配していた悪魔が追い出されるのです。イエス様が十字架で死んでくださったので、私たちは悪魔に完全に勝利することができるようになったのです。
勿論、それは直ちに悪魔がこの世から完全に追い出されて、もはや何の誘惑もなくなったということではありません。悪魔が完全に力を失い、誘惑することができなくなるのは主の再臨の時であり、それまで待たなければなりませんが、しかし、イエス様が十字架で死なれた時、これまでわがもの顔にふるまっていた悪魔が、そのようにはできなくなりました。ですから、悪魔をあなどることは極めて危険なことですが、そうかと言って、びくびくする必要もないのです。イエス様が十字架で死なれたことによって、悪魔はすでに征服され、ある限られた力しか持っていないからです。
そればかりではありません。32節には、「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」とあります。「わたしが地上から上げられるとき」とは、イエス様が十字架に付けられる時のことを指していますが、そのときイエス様はすべての人をご自分のもとに引き寄せられるのです。これは、ニコデモとの会話と同じです。イエス様は、人が新しく生まれるためには、水と御霊によらなければならないと言われましたが、その御霊によって生まれるために、神の救いの御業を信じなければなりません。それが十字架にあげられるということです。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」(3:14)と言われました。「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(3:15)ここでも同じことが言われています。イエス様が地上から上げられる時、すべての人がイエス様のもとに引き寄せられます。ユダヤ人だけではありません。すべての人です。ユダヤ人も異邦人も、すべての人を、ご自分のもとに近づけてくださり、イエスをキリスト、救い主と信じることができるようにしてくださるのです。
ヨハネは、この書の冒頭で「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(1:12-13)と言いました。この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子としての特権が与えられますが、それは血によってではなく、また人の願いや意志によってでもなく、ただ、神によってです。私たちがキリストを信じるのは、自分の意思や力によってではありません。私たちが信仰を持つことができるのは、永遠の神の御子がこの世に来られ、私たちと同じ人間の姿を取ってくださり、あらゆる悩み、あらゆる苦しみをつぶさになめられ、ついには私たちが受けなければならない罪の刑罰を身代わりに引き受けて十字架で死なれるという、たぐいまれな出来事によってなのです。キリストの十字架によって、私たちは主のみもとに引き寄せられたのです。ですから、十字架こそ、私たちの救いの土台なのです。十字架で死なれたイエス・キリストこそ、神が人となってこの世に来られた、まことの救い主にほかなりません。
Ⅲ.光があるうちに歩みなさい(34-36)
ですから、第三のことは、この光があるうちに、光の子どもとなるために、光を信じなさいということです。34節から36節までをご覧ください。34節には、「そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きると聞きましたが、あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」」とあります。
これを聞いていた群衆は、イエス様が言われたことをよく理解することができなかったのか、イエス様に質問しました。それは、「私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きると聞きましたが、あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」ということでした。
旧約聖書には、確かに救い主(キリスト)は永遠に生きておられると教えられています(詩篇110:4、イザヤ9:6-7)が、しかし、イザヤ書53章には、このメシアが苦しみを受けて、断たれることについても教えられています。つまり、救い主は苦しみを受けてから栄光に至るというのが、旧約聖書全体で語られていましたが、彼らはそれを無視し、メシアの永遠性についての預言にのみ目を留めていたのです。ですから、イエス様が語られた内容を理解することができなかったのです。それで、「あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」と問うたのです。
それに対してイエス様は、彼らの質問には答えられないで、その人の子がご自分であることを前提にこのように言われました。35,36節です。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」」
ここには、「闇があなたがたを襲うことがないように、光があるうちに、光を信じなさい。」とあります。「襲う」という言葉は、1章5節では「打ち勝つ」と訳されています。そこには、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(1:5)と言われています。イエス様がこの世に来られた時、この闇の中で輝いておられました。このように、イエス様が闇に打ち勝たれたお方であるなら、私たちも自動的に闇に打ち勝つことができるのではないかと考えやすいのですが、この箇所で言われていることはそうではなく、まだしばらくの間、光であられるイエス様があなたがたの間におられるのですから、闇があなたがたを襲うことが無いように、光があるうちに、光を信じなさいということです。つまり、闇に征服されてしまわないために、光であるわたしを信じなさいということです。
今日、私たちにとって光のない生活など考えることなどできません。昔の人々は、日が昇ると起き出し、日が沈むと寝るという生活をしていました。それから、ランプを考え出すと、たとえ太陽が西に沈んでも、そのランプの光によって、生活することができるようになりました。そして、エジソンが電気を発明してからは、夜も電気の光で昼間と変わりがないような生活をすることができるようになりました。今では電気のない生活は考えられません。もし災害等で停電にでもなったりしたら、あるいは、街灯も何もない夜道を懐中電灯も何もなしで歩かなければならないとしたら、月の光でもあればまだしも、真っ暗闇の夜などは歩けるものではありません。時々、那須の会堂で夜学び会がありますが、それが終わって消える頃になると辺りはレストランの営業も終わり真っ暗闇になります。会堂の電気を消して駐車場に歩いて向かう時には真っ暗で何も見えず、どこを歩いているのかさえわかりません。光のない生活など考えられません。
その光こそイエス・キリストです。イエス・キリストを持たない人の人生は、「闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません」とあるように、何のために生きているのか、どこに向かって生きているのか、そういった人生の目的がわかりません。ですから、闇があなたがたを襲うことがないように、光があるうちに、光の子供となるために、光を信じなければなりません。
イエス様がここで、「光があるうちに」とおっしゃっているのは、直接的には、光であられるイエス様が十字架に付けられて死なれるまでのことを意味していますが、私たちにとって、それは死という闇が襲ってくる時か、あるいはイエス・キリストが再び来られる時(再臨)の時かのいずれかの時です。その間にイエス・キリストを信じなければ、永遠に救いのチャンスは無くなってしまいます。
また、ここにはもう一つのことが勧められています。それは、闇があなたがたを襲うことがないように、光があるうちに歩きなさいということです。まず、光があるうちに、光の子どもとなるために、光であられるイエス様を信じなければなりません。そして、そればかりではなく、この光がある間に歩かなければなりません。「歩く」というのは「生活する」ということです。イエス・キリストを信じた者は、イエス様が歩まれたように歩まなければなりません。それは具体的にどういこうとかというと、この文脈に従って見るなら、イエス様が語られたあの一粒の麦のように生きなければならないということです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」(12:24)
つまり、自己中心的な生き方ではなく、神中心の、神のために生きるということです。この世の価値観よりも神の国の価値観を本当に重視した生き方です。それがなかなかできないのは、本当に「光のある間」というものがあるのだということを、信じられないからではないです。だれも自分が死ぬなんて考えられません。自分だけはこのままずっと生き続けるのではないかと思っています。しかし、それはすべての人にやって来ます。100%です。
詩篇90篇には、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。」(詩篇90:10)とありますが、私たちの人生は本当にはかないものです。それは草花のようにすぐに枯れてしまいます。その時この世のものはどんなに価値あるものでも、すべて過ぎ去ってしまうのです。ただそこには永遠の御国、神の国だけが残ります。また、神が私たちにもたらしてくださる報いだけが待っているのです。ですから、光がある間に、光を信じなければなりません。そして、光であられるキリストの弟子として、どこに行くのかわからないような生き方ではなく、天の御国を目指して歩まなければならないのです。
私たちはいつでも決断できると考えではなりません。その決断はいつするのですか。「今でしょ。」確かに今は恵みの時、救いの日です。信仰の決断も、できなくなる時がやってきます。闇があなたを襲うことがないように、この光がある間に、光であられるイエス様を信じ、イエス様が歩まれたように歩む決断をなさってください。あなたにとって今なすべきこととは何でしょうか。光がある間に光を信じること、それが、私たちにとって今なすことなのです。