イザヤ書13章1節~22節 「バビロンは滅びる」

きょうは、イザヤ書13章全体から学びたいと思います。タイトルは、「バビロンは滅びる」です。1節を見ると、「アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告」とあります。これまでイザヤは南ユダ王国を中心に神の言葉を語ってきましたが、この13章から23章までは、イスラエルを取り囲んでいた周辺諸国に対する神の宣告の言葉を語っています。その最初に登場するのがバビロンです。なぜバビロンが最初なのでしょうか?当時、世界を支配していたのはアッシリやでした。バビロンはまだ台頭していませんでした。なのにアッシリやではなくバビロンに対する宣告から語られているのです。  それは、バビロンが単に一つの国としてのバビロンではなく、神に敵対する勢力の象徴であったからです。黙示録17章と18章には出てくるあの「大バビロン」です。イザヤは、ただ自分の時代におけるバビロンだけでなく、神に敵対するサタンの代表者としてのバビロンが必ず滅びるという終末的な視点から、諸国に対するさばきのメッセージを始めなければならなかったのです。  きょうは、このバビロンに対する神のさばきの宣告から、三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.神はあらゆるものを用いられる(1-5)

まず第一のことは、神はあらゆるものを用いられるということです。まず1節から5節までのところに注目してください。2節をお読みします。

「はげ山の上に旗を掲げ、彼らに向かって声をあげ、手を振って、彼らを貴族の門に、入らせよ。」

どういうことでしょうか。「はげ山の上に旗を掲げ」というのは、戦いの開始の旗が良く見えるように、はげ山の上に主の旗を高く掲げよという意味です。「彼らに向かって声を上げ」の彼らとは、神の全軍のことです。ここではクロス王率いるメディヤとペルシャの連合軍のことです。4節に「寄り合った王国」とありますから、これはバビロンの次に台頭した連合軍、そう、メディヤとペルシャのことです。手を振って、彼らを貴族の門に、入らせよというのです。もちろん、この貴族の門とはバビロンのことです。豪華絢爛、難攻不落と言われたバビロンの城壁に入り、これを攻め落とせというのです。バビロンの城壁は高くそびえ立っていたのでだれも侵入できないであろうと思われていました。しかし、驚くべきことが起こったのです。ペルシャのクロス王が、この難攻不落と言われたバビロンを、絶対に落ちることはない、滅びることはないと思われていたバビロンを滅ぼしてしまったのです。どうやって?その高くそびえた城壁を破壊してではありません。何と水路を使ってそこから入り込み、まんまとバビロンを落としてしまったのです。手を振ってとは、そのことを表しています。絶対に滅ぶことがないと思われていたバビロンが、いとも簡単に滅びました。皆さん、「絶対」はありません。絶対は神だけです。他に絶対はありません。絶対大丈夫と思われていた高速道路の橋桁も、絶対安心だと言われていた原発も、もろくも崩れ落ちました。絶対神話は崩れたのです。絶対はありません。アメリカという超大国が滅びることは絶対にないのでしょうか。違います。歴史を見ればわかりますが、どんなに偉大な国でも滅びます。栄枯盛衰の繰り返しです。それはこのバビロンも例外ではありませんでした。絶対に滅びるはずがないと思われていたバビロンも滅んだのです。

そして、そのために用いられたのがクロス王でした。3節をご覧ください。「わたしは怒りを晴らすために、わたしに聖別された者たちに命じ、またわたしの勇士、わたしの勝利を誇る者たちを呼び集めた。」

これは、ペルシャの王クロスのことです。45章1節に、「主は油注がれた者クロスに」とあります。主は、かつて北イスラエルを懲らしめるためにアッシリヤを用いたように、高慢なバビロンをさばくためにペルシャの王クロスを用いたのです。異教徒の王であっても神のしもべとして、神の道具として用いられるのです。このクロスは元々異教徒でした。偶像崇拝者です。にもかかわらず、主の道具として、バビロンをさばくために用いられました。そして、ただバビロンを滅ぼしただけでなく、神の民を解放しました。70年間のバビロンに捕えられていたイスラエルを解放しました。彼らを祖国エルサレムに帰らせてくれました。解放者となったわけです。

それだけではありません。5節をごらんください。「彼らは遠い国、天の果てからやって来る。彼らは全世界を滅ぼすための、主とその憤りの器だ。」 ここには、「彼らは遠い国、天の果てからやって来る」とあります。あれ・と思いませんか。彼らとはメディヤ・ペルシャの連合軍のことかと思いますが、ここでは別の者たちのことが言われていることがわかります。というのは、メディヤ、ペルシャは遠い国ではなく、このバビロンに隣接していた国であったからです。ではこの遠い国からやってくる者たちとはだれのことなのでしょうか。6節を見ると「泣きわめけ。主の日は近い。」とありますが、これは、日曜日のことではありません。これは、終末の神のさばきの日のことです。世の終わりの患難時代のことです。神のさばきがキリストを拒絶した世界に、その怒りが注がれる時のことを指しているわけです。その日、どんなことが起こるのでしょうか。全能者からの破壊が来ます。その時に神が用いられるのが何かというと、何と獣と呼ばれている反キリストなんです。黙示録17章16節、17節にこうあります。

「あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行う思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。」

何と神はその支配権を反キリストに、獣に、一時的に与えます。それによってイスラエルはこの方こそメシヤ、キリストだと信じますが、やがて手を返したかのようにユダヤ人を激しく迫害し始めるのです。それによって多くのユダヤ人は患難を通のですが、そのような中で彼らは悔い改め、まことの救い主である主を信じるようになるのです。こうしてイスラエルはみな救われるという聖書の約束が実現するのです。そのために神は、反キリストさえも用いられるのです。

神はクリスチャンしか用いられないというのは大間違いです。ノンクリスチャンをも用います。この人は異教徒だから、偶像崇拝者だから神になんて用いられないということはありません。ノンクリスチャンの言うことなんて何の意味もない、役に立たない、相手にもならないということではないのです。そのように言って見下してはなりません。神は、時に、ノンクリスチャンでさえ用いるのです。神のみこころを成し遂げるために、あえて神はそのような人たちを道具として使うことがあるのです。

ということは、あなたや私も神に用いていただけるということです。異教徒でも、ノンクリスチャンでも用いられるのであれば、なおさらのこと、ご自身のしもべであるクリスチャンを用いてくださるのは当然のことです。たとえあなたがろばのように鈍感でも、石のような堅い頭でも、絶対に用いていただけるのです。 私たちは神の道具として用いられるために、へりくだって、神に従うべきです。

Ⅱ.神は罪人たちを根絶やしにされる(6-16)

第二に、神はどのように悪をさばかれるのか、バビロンをさばかれるのかについて見ていきましょう。神は、罪人たちを根絶やしにされます。6節から16節までのところに注目してください。まず6節から8節までをお読みします。

「泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る。それゆえ、すべての者は気力を失い、すべての者の心がしなえる。彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲う。彼らは驚き、燃える顔で互いを見る。」

先ほど申し上げましたように、この「主の日」というのは世の終わりの患艱時代のことです。神のさばきがキリストを拒絶した世界に、その怒りが注がれる時のことを指しているわけです。その日、どんなことが起こるのでしょうか。全能者からの破壊が来ます。それゆえ、すべての者は気力を失い、すべての者の心がしなえます。彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲うのです。

それは9節にも描かれています。9節から12節までです。「彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲う。彼らは驚き、燃える顔で互いを見る。見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。」

これらはすべて、世の終わりの患難時代に起こることです。特に、後半の3年半を大患難時代と言いますが、その時には激しい神の怒りと憤りがこの世に臨みます。それは残酷な日です。しかし、神はそのように怒りと憤りによって地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにされます。その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰するのです。神が愛に満ちておられる方ならば、いったいどうしてそのような恐ろしいことをされるのでしょうか?そんな恐ろしいことをするなんて考えられないと思われるかもしれません。しかし、神の愛は神の義、あるいは全く聖なる方であるというご性質から発しているのです。神は全く正しく、聖い方であらるので、不義、汚れをそのままにしておくはできません。それを正しく裁かれるのです。しかし、裁かれることがないように、神はそのひとり子をこの世に送ってくださったことの中に、ご自身の愛を現してくださいました。ですから、聖書は「ここに愛がある」と言うのです。ですから、神は不義をいつまでもそのままにしてはおかれません。必ずそれを裁かれる時がくるのです。それは主イエスご自身も言われたことでした。

「その日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」(ルカ21:23-27)    天の万象が揺り動かされます。まさに天変地異が起こるのです。天の星は光を放たず、太陽も月も光を失い、暗くなります。その時、人の子が輝かしい栄光を帯びてやって来るのです。つまり、これはイエスが地上に再臨される直前に起こることなのです。イザヤはその時のことを預言していたのです。その時、このようなことが文字通り起こります。いったいそれは何のためですか?罪人たちをそこから根絶やしにするためです。キリストに敵対する者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くするためです。

ですから、12節をご覧ください。「わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。」とあります。人間を純金よりもまれにするとか、オフィルの金より少なくするというのは、全世界の人口が少なくなるということです。その患難時代の始まりに、地上の四分の一の人が剣とききんと死病で殺されます。(黙示録6:8)川の水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、多くの人が死んでいきます。(黙示録8:11)そして、恐ろしい軍隊がやって来て、人類の三分の一が殺されます。(9:18)また、激しい太陽光線によって焼かれ、多くの人が死にます。(16:8)このようにして、全世界の人口が減少するのです。純金よりも、オフェルの金よりも少なくなるのです。ユダヤ人もこの中を通ります。エレミヤはこれを「ヤコブの苦難」と言っています。ユダヤ人はこの苦難の中で、自分が槍で突き刺した方を仰ぎ見るようになります。その苦しみの中で彼らは悔い改め、主に立ち返るようになるのです。ナザレのイエスこそメシヤであると受け入れるようになるのです。こうして、ユダヤ人はみな救われるという聖書のみことばが成就するのです。

神はいつまでも悪を放置される方ではありません。正しくさばかれる時がやって来るのです。その神の怒りから救われる道は、ただ神が遣わされた方を信じる以外にはありません。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

ここには、さばきに会うことがないと約束されてあります。キリストのことばを聞いて、神が遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移るのです。信じた瞬間に神の義、神の赦しをいただいて、神の恐ろしいさばきに会うことがないように守っていただけるというのです。

何とすばらしい約束でしょうか。あなたは、この救いを受けていますか?神が遣わしてくださった救い主イエス・キリストを信じていますか。神のさばきではなく、神の怒り、憤りではなく、神の救い、永遠のいのちを受けていますか。

13節には、「それゆえ、わたしは天を震わせる。万軍の主の怒りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。」とあります。しかし、主イエスを信じた人には、決して揺り動かされることのない御国が与えられるのです。あなたもこの御国をいただいてください。ここにあなたの安心の保障を置いていただきたいのです。

Ⅲ.主のほかに神はいない(17-22)

ですから第三のことは、この方を仰ぎ見て救われよということです。17節から19節をご覧ください。神のさばきが臨んだ結果、バビロンはどのようになってしまうのでしょうか。ここには、「見よ。わたしは彼らに対して、メディヤ人を奮い立たせる。彼らは銀をものともせず、金をも喜ばず、その弓は若者たちをなぎ倒す。彼らの胎児もあわれまず、子どもたちを見ても惜しまない。こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。」とあります。

これはバビロンがメディヤとペルシャの連合軍によって滅ぼされることを預言しています。果たしてそれがB.C.539年に実現しました。しかし、ちょっと待ってくださいよ。イザヤがこれを預言したのはアハズ王が死んだ年のB.C.715年のことです。14章28節を見るとわかります。ということは、イザヤは176年も先のことを正確に預言していたことになります。日本で言えば、江戸時代の人が平成時代のことを預言するようなものです。それを正確に預言していたことになります。考えられません。しかも45章1節を見てください。ここには、その時のペルシャの王様の名前まで記されてあるのです。「主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。」

もちろん、クロス王はこの時にはまだ生まれていません。176年も前のことですから・・・。まだ生まれていないのに、イザヤはクロスという名前を告げているのです。そんなことがあるはずがないと、ある人たちは、これは誰かが後から書き加えたのではないかと疑いますが、そうではありません。第二イザヤ、第三イザヤむしろ、このように先のことをはっきりと告げられたということは、この方こそ神であり、神には何でもおできになる方であるということの証明なのです。神は全知全能者です。すべてのことを知っておられ、何でもおできになられるのです。これこそ聖書が神のことばである理由なのです。証拠なのです。イザヤ41章23節を開いてみましょう。

「後に起ころうとする事を告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう。」

後の起こることを告げることができるのは、神だけです。そのことによって神は、ご自分こそがまことの神であることを示しておられるのです。

また、45章21節、22節も開いてください。ここには、「告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてはほかにはいない。地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」とあります。

他の宗教書にもいいことがたくさん書いてあります。真理かと思えるようなことも書いてあります。しかし、預言は書かれてありません。しかし、聖書にははっきり書いてあります。これが聖書のユニークさです。神でなければ未来のことを正確に知ることができないからです。その預言が外れれば、それは真理ではありません。信じるに値しない、価値のないものだということです。ノストラダムスの大予言のようにいかようにもとれるというのは、いかにもうさん臭いのです。いかがわしい占いのようなものです。聖書はいかようにもとれない、もう「クロス」とはっきりと書いてあるわけです。そのように未来のことを先取りしてあらかじめ語ることができるようなものは、聖書の神以外には、イスラエルの神以外にはいないのです。

イザヤ46章9節、10節も見てみましょう。「遠い大昔のことを思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う。」

これが私たちの信じている神です。この神にすべてをお任せしようではありませんか。すべてはこの方の御手の中にあります。あなたの過去も、あなたの現在も、あなたの未来も、すべてこの方の御手の中にあります。だから、私たちはこの方にすべてをゆだねることができるのです。何でも知っておられ、何でもできるからです。これから先何が起こるのか、神は知っておられます。先見の目を持っておられます。その神さまに、私の人生を、あなたの人生をお任せするのです。将来がよくわからない、先が見えないことほど不安なことはありません。そういう時に私たちは心配します。思い煩います。でも先がわかっている、何もかもすべてわかっている方がおられるなら、その方にすべてをお任せしたいと思うのは当然ではないでしょうか。先行きどうなるかわかりません。経済的にも不安です。でも神さまは何もかも知っておられるのです。この神さまにすべてお任せすることが、私たちに確かな平安をもたらすのです。

そして、19節から終わりのところまでを見てください。「こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。そこには永久に住む者もなく、代々にわたり、住みつく者もなく、アラビヤ人も、そこには天幕を張らず、牧者たちも、そこには群れを伏させない。そこには荒野の獣が伏し、そこの家々にはみみずくが満ち、そこにはだちょうが住み、野やぎがそこにとびはねる。山犬は、そこのとりでで、ジャッカルは、豪華な宮殿で、ほえかわす。その時が来るのは近く、その日はもう延ばされない。」

これはどういうことかというと、バビロンは完全に滅ぼされるということです。ここには「永久に住む者もなく」と言われています。永久に廃墟になることが預言されているのです。そこにはアラビヤ人も天幕を張らず、牧者たちも、群れを伏させません。荒野の獣が伏すようになります。それほど荒廃するという預言です。この預言のとおり、バビロンは少しずつ荒廃していき紀元後3世紀には完全な廃墟となりました。キリストに敵対する者は、完全に倒れ、人を寄せ付けないほどに荒廃するのです。

「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。」(黙示録18:2)

であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。「わたしのほかに神はいない」と言われる方を信じ、恐れかしこんで生きることです。この神の御前にへりくだって生きることです。どんなに隆盛を極めたバビロンでも滅びました。私たちが信じ、私たちが拠り所とし、私たちが見つめて離さないのは、どんなことがあっても滅びることのないまことの神であり、この方が約束してくださった天の御国なのです。どんなことがあっても、決して揺り動かされることのない御国をいただき、ここにすべての安心の保障を置いて生きること。それがあなたに求められているのです。