きょうはイザヤ書14章の御言葉からご一緒に学びたいと思います。タイトルは、「いこわせてくださる神」です。1節に「まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。」とあります。イザヤ書は13章から新しい段落に入りました。ここからイスラエルを取り囲む周辺諸国に対する宣告が語られています。その筆頭に登場したのがバビロンでした。なぜバビロンなのか。それはバビロンというのが単に一つの国を越えた神に敵対する勢力を表しているからです。いわゆる「大バビロン」のことです。そのバビロンに対する裁きの宣告が13章ときょうの箇所に記されてあるわけです。 そして1節には、神がバビロンをさばかれる理由が記されてあります。それは神がイスラエルを選ばれたからです。神がイスラエルを選ばれたので、その約束のとおりにバビロンから解放と自分たちの土地にいこわしてくださるのです。 きょうは、このことについて三つのポイントでお話したいと思います。
Ⅰ.いこわせてくださる神(1-8)
まず第一のことは、神は私たちをいこわせてくださる方であるということを覚えておきたいと思います。1節から8節までのところですが、もう一度1節を見てください。「まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。在留異国人も彼らに連なり、ヤコブの家に加わる。」 ここに「再び」とあります。「再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる」のです。それは、前にもこのようなことがあったということを表しています。それは出エジプトの出来事です。イスラエルはかつて430年もの間エジプトの奴隷として捕らわれていましたが、神はご自身のしもべモーセを立ててその中から解放してくださいました。その時と同じように、バビロンに捕らえられていたイスラエルを再び選び、彼らを自分たちの土地にいこわせてくださるというのです。果たせるかな、それがこのイザヤが預言した時(B.C.715年)から176年の後に(B.C.539年)に成就しました。神はペルシャの王クロスによって彼らをバビロンの手から解放し、祖国エルサレムへと帰還させてくださったのです。イザヤがこれを預言したのはB.C.715年です。28節に「アハズ王が死んだ年、この宣告があった」とあることからわかります。アハズ王が死んだのは、B.C.715年のことでした。また、ペルシャの王クロスがバビロンからイスラエルを解放したのがB.C.539年です。ですから、イザヤがこれを預言した時から176年後にこれが実現したことになります。
その時、どのようなことが起こるのでしょうか。2節を見ると「国々の民は彼らを迎え、彼らの所に導き入れる。イスラエルの家は主の土地でこの異国人を奴隷、女奴隷として所有し、自分たちをとりこにした者をとりこにし、自分たちをしいたげた者を支配するようになる。」とあります。かつてイスラエルをしいたげ、彼らをとりこにした国々の民が、逆に、イスラエルの支配下で生きることを求めるようになるというのです。なぜそのようなことになるのでしょうか?3節、それは「主が、あなたの痛み、あなたへの激しい怒りを除き、あなたに負わせた過酷な労役を解いてあなたをいこわせ」てくださるからです。
ここに「いこわせる」とあります。この言葉は1節と7節にも出てきます。「いこう」いい言葉ですね。からだや心を休めること。休息すること。くつろぐことです。英語では「rest」とか「relaxation」です。たばこの銘柄ではありません。休息することです。主が、彼らの痛み、激しい怒りを除き、彼らに負わせた過酷な労役を解いていこいを与えてくださるからです。
その時あなたはバビロンの王について、このようなあざけりの歌を歌うでしょう。4節から8節です。「しいたげる者はどのようにして果てたのか。横暴はどのようにして終わったのか。主が悪者の杖と、支配者の笏とを折られたのだ。彼は憤って、国々の民を打ち、絶え間なく打ち、怒って、国々を容赦なくしいたげて支配したのだが。全地は安らかにいこい、喜びの歌声をあげている。もみの木も、レバノンの杉も、あなたのことを喜んで、言う。『あなたが倒れ伏したので、もう、私たちを切る者は上って来ない。』」
8節の「あなたが倒れ伏したので」の「あなたは」は、バビロンのことです。もみの木もレバノンの杉も、喜びの歌声を、歓声をあげています。もみの木やレバノンの杉が喜びの歌声をあげるのには理由があります。それは、かつてバビロンがもみの木や杉を切り倒したのは必要な木材を得るためではなく、暴力的になぎ倒していたからです。命ある自然を暴力的に破壊することを、自然界がどれほど悲しんでいたことでしょう。そのバビロンが滅んだので、そうした破壊がなくなったので、もみの木もレバノンの杉も喜びの歌声をあげるのです。
いったいどのようにして暴力的で破壊的なバビロンは倒れたのでしょうか。主が悪者の杖と、支配者のしゃくとを折られたからです。主がバビロンをさばき、その圧政の下でうめき苦しんでいたイスラエルを救われたからなのです。主があわれんで、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせてくださいました。
ダビデは、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」(詩篇23:1-2)と告白しました。 皆さん、主は、あなたの羊飼いです。羊飼いであられる主は、あなたを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとり、いこいのみぎわに伴われます。この羊飼いによってあなたはいのちを得、またそれを豊に持つことができます。主はあなたをあわれんで、真の安息を与えてくださいます。かつてご自分の民であるイスラエルをバビロンから解放して約束の地にいこわせたように、私たちを罪のなわめから解放し、いこいの水のほとりに伴ってくださることを覚えましょう。
Ⅱ.どうして天から落ちたのか(9-15)
第二に、敵である悪魔の問題は何だったのかについて見ていきたいと思います。9節から15節までのところに注目してみましょう。まず9節から11節をご覧ください。「下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。
「下界のよみ」とか「死者の霊たち」というのは、霊的な世界のことです。死後の世界です。神のさばきが行われる所で、そこにバビロンの王が落ちて行きました。すると、死者の霊たちはみな、バビロンの王に告げて言うのです。「『あなたもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者になってしまった。』あなたの誇り、あなたの琴の音はよみに落とされ、あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。」
ひどい描写です。かつては大帝国の絶対的な権力者であったバビロンは死んで、下界のよみ、死者の霊たちがさまよい苦しんでいる世界に落ちました。栄光を極めた者が、そこに落ちたわけです。誇りもプライドも何もかも打ち砕かれました。すべてそぎ落とされ、すべて失いました。そこにはうじが敷かれていて、虫けらが体を蝕(むしば)んでいきます。イエスもこの下界のことを次のように言いました。マルコの福音書9章48節です。「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」「そこ」とは前の節を見ていただくとわかりますが、「ゲヘナ」のことです。「ゲヘナ」とは地獄のことです。「火の池」とも呼ばれています。そこにはうじがわいていて、彼らを食ううじは尽きることはありません。ずっとうじに食われ続けるのです。それが下界のよみ、ゲヘナ、地獄です。
そして、12節から15節までのところを見てください。「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」
ここにも、バビロンがよみの穴の底に落とされることが書かれてあります。しかし、このところをよく見ると、これはバビロンの王というよりも、その背後で働いていた霊のこと、その背後でバビロンの王を動かしていた張本人のことであるのがわかります。それが「暁の子、明けの明星」です。「明けの明星」と訳された言葉は、ヘブル語で「ヘーレル」です。この言葉は旧約聖書ではここにしか用いられていないため、正確な意味はわかりませんが、これが「輝く」を意味する「ハーラル」という言葉から派生したので、夜空にいちばん明るく輝く星の一つである金星を表している考えられてきました。それで「明けの明星」と訳されているわけです。これはラテン語では「ルシファー」と言います。「ルシファー」の「ルシ」は「光」、「ファー」は「運ぶ者」という意味なので、これは、「光を運ぶ者」とか、「輝く者」と考えられています。ですから、この明けの明星とは輝く天使のことです。天使たちの最高位に位置していた天使長、それがルシファーです。このルシファーが堕落しました。神に反逆したので天から落ちたのです。それがサタン、悪魔です。悪魔の起源はこれです。よく、神さまは天地万物を造られたのならば、悪魔も造られたということですか?という質問を受けることがありますが、それは違います。神さまが悪魔を造ったのではありません。神さまは良い天使たちを造られました。神さまが造られたものはすべて非常に良かったのです。しかし、神さまは天使を人間と同じように自由意志を持つものとして造られました。そして、ルシファーは何を血迷ったのか天に上ろう、いと高き方のようになろうと高ぶりました。神に反逆したのでよみに落とされてしまいました。暁の子、明けの明星であった天使長ルシファーは、堕落して天から落ちたのです。
このルシファーがどれほとの輝きを放っていたのかについて、エゼキエル書28章12節から17節までのところに次のように記されてあります。ルシファーについて言及されているのは、イザヤ書とこのエゼキエル書の二箇所だけです。「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、これらはあなたが造られた日に整えられていた。わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。あなたの行いは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた。あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」
ここで「あなた」というのは、ツロの王のことですが、正確に言うと、ツロの王の背後で働いていたサタンのことです。13節に「あなたは神の園、エデンにいて」とあるのを見てもわかります。神が天地を創造された時からいました。このルシファーについてここでは何と言われているかというと、「あなたは全き者の典型であった」とか、「知恵に満ち、美の極みであった」とあります。「あらゆる宝石があなたをおおっていた。」これが堕落する前のルシファーの姿です。ルシファーは光を運ぶ者、輝く者、まるで宝石の塊であるかのように美しい存在でした。全き者の典型、美の極みでありました。彼には生まれつきタンバリンと笛とが与えられていました。すなわち、ルシファーは生まれながらの賛美リーダーで、賛美の父でした。天の聖歌隊のリーダーだったわけです。彼は油注がれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置かれていました。この守護者ケルブも御使いです。最高位の御使いの一人です。ですから、これはツロの王のことではないことがわかります。あなたの行いは、あなたが造られた日からあなたに不正が見い出されるまでは、完全だった。そのルシファーが罪を犯したのです。堕落したのです。明けの明星であるルシファーはもともと金星のように輝いていましたが、罪を犯したことで天から落とされたのです。 何が問題だったのでしょうか?もう一度13節と14節を見てみましょう。「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」
彼が天から落ちのは彼が高ぶったからです。彼は心の中で言いました。「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」ルシファーは神のようになろうとしました。神のようになろうとすること自体は問題ではありません。イエスも、マタイの福音書5章48節のところで、このように言われました。「天の父が完全なように、完全でありなさい」天の父が完全であられるように、あなたがたも完全でありなさい、と言われたのです。また、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」(Ⅰペテロ1:16)」とあります。神のように完全であること、神のように聖であること、神のようになることは大切なことです。問題は何のために神のようになるのかということです。そこがポイントです。その動機が問われます。ルシファーは神を神として敬い、神に従う者として神のようになることではなく、自分が神の座に着き、神のようになろうとしたことが問題だったのです。
かつて悪魔がエバを誘惑した時、何と言って誘惑したか覚えていますか?「あなたがこれを食べるその時、あなたの目が開け、あなたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)これはどういうことでしょうか。これは、あなたがこれを食べるその時あなたは神のようになり、神から何の指図を受けることもなく、何でも自分で自由に判断し、自由に行動することができるということです。つまり、神から独立して、自分の判断で、自分の知恵で動けるようになるということだったのです。そういう意味で神のようになると言ったわけです。それが問題でした。なぜなら、本来人間は神のかたちに造られ、神を敬い、神を信じ、神に従い、神と交わりわ持って生きるように造られているからです。なのにその神に聞こうとしないで、自分勝手に生きるとしたら、その本来の目的が失われさまよい歩いてしまうことになるからです。これが罪の本質なのです。神さまなんていらない。私は自分を信じて、自分で判断して、自分の思うように生きていく、自分で納得できる人生を生きていくから大丈夫。自分が神さまになっているのです。イエス様を信じている人と信じていない人の違いはここにあります。イエス様を信じていない人は、自分が神のようになっているのです。それはこのルシファーと同じです。それはそのまま悪魔から来ている考えなのです。
この13節と14節の御言葉ですが、実はここに訳されていない言葉があります。それは「私」という言葉ですね。「私は天に上ろう。私は神の星々のはるか上に私の王座を上げ、私は北の果てにある会合の山にすわろう。私は密雲の頂に上り、私はいと高き方のようになろう」「私」という言葉が5回も使われていますが、それが訳されていません。しかし、これこそが罪の本質であり、宝石のような輝きを放っていたルシファーがよみに落とされた理由なのです。
昔、ある教会で行われていた英語のクラスのチャペルタイムでお話してほしいと招かれたことがあります。英語のクラスなので、何か英語の単語からお話できないかと思いました。そして、「Sin」という単語を思いつきました。罪です。このsinという単語は、罪とは何かを端的に表しています。それはその真ん中に何があるかです。真ん中にあるのはです。つまり「私」なんです。自分が中心であることが罪の本質なのです。神が中心ではなく自分が中心であること、常に自分のことばかり考え、自分が注目されたい、自分が感謝されたい、自分がほめられたい、自分が認められたいという思い、それが罪なのです。ですから、自分の思うように事が進まないと憤るわけです。ふて腐れます。自分がけなされたり、自分の権利が侵害されたりすると頭にくるわけです。常に自分が中心だからです。自分を捨てることができないので、すぐに嫌になってしまうのです。
これに似た言葉に「誇り」とか「高ぶり」があります。これを英語で何というかというと、「Pride」です。「P.r.i.d.e」真ん中にある文字は何ですか。やはりIですね。それが高ぶっていることです。神さま中心ではなく、自分が中心になっていること、それが罪であり、誇りであり、高慢です。
イエスは、そのような私たちを罪から解放してくださるために来て下さいました。そして、十字架にかかって死んでくださったのです。ピリピ人への手紙2章6節から8節までのところに次のようにあります。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」
キリストは自分中心ではありませんでした。むしろ自分を捨てられました。自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。いや、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。これが罪から解放された者の姿であり、そのような人たちが目指すべき心構えです。ですから、パウロはこのように言っているのです。
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:3-4)
自分が中心になるのではなく、虚栄を張ったりするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思うこと、自分のことだけでなく、他の人のことも顧みること、それが罪から解放された者が歩む道なのです。
そのためには、私たちは自分を捨てなければなりません。イエスは言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)自分を捨てなさい。自分の十字架を負いなさい。自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。イエスはそのように言われたのです。自分はもういいのです。自分はイエスが十字架につけられた時にいっしょにつけられました。自分もうはないのです。使い物になりません。私が今生きているのは、私を愛し、私のためにご自分のいのちをお捨てになられた神の御子を信じる信仰によるのです。あなたの道を歩ませてください。あなたに従います。あなたを愛します。そう告白して、神を神として生きることが、あなたの人生の真の祝福へとつながっていくのです。それは自分を卑下することではありません。自分はだめだとひげすることではなく、神に信頼してい切ること、すべての栄光を神にお返しして生きる姿です。
もしあなたの心の中にルシファーのように「私は天に上ろう」とか、「私は神のようになろう」という思いがあるなら、悔い改めてください。それは神への反逆です。神はそのような高ぶりを必ず砕かれます。神はバビロンの王を動かしその背後にあって働いていた悪魔をよみに落とされたように、高ぶる者を退けられるのです。
Ⅲ.勝利の神(16-23)
第三のことは、神は敵である悪魔に勝利してくださるということです。16節から23節までのところを見てください。まず16節から21節です。「あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。『この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。』すべての国の王たちはみな、おのおの自分の墓で、尊ばれて眠っている。しかし、あなたは、忌みきらわれる若枝のように墓の外に投げ出された。剣で刺し殺されて墓穴に降る者でおおわれ、踏みつけられるしかばねのようだ。あなたは墓の中で彼らとともになることはない。あなたは自分の国を滅ぼし、自分の民を虐殺したからだ。悪を行う者どもの子孫については永久に語られない。先祖の咎のゆえに、彼らの子らのために、ほふり場を備えよ。彼らが立って地を占領し、世界の面を彼らの町々で満たさないためだ。」
どんなに地を震わせ、どんなに王国を震え上がらせても、どんなに世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者であっても、最終的には墓の外に投げ出されます。剣で刺し殺されて墓穴に下る者でおおわれ、踏みつけられるしかばねのようになるのです。これはバビロンの王のことについて語られているようですが、その背後に存在していたサタンのことが言われています。悪魔は必ず滅ぼされます。天から地に落とされ、地から地獄に落とされます。それがサタンの宿命です。19節を見ると、「忌み嫌われる若枝のように墓の外に投げ出された」とあります。「若枝」というのは前にも出てきましたが、メシヤの称号でした。イエス・キリストの肩書きでもあります。「ネイツァー」ナザレの語源でもありました。しかし、ここでは単なる若枝ではなく「忌み嫌われる若枝」です。これは実をつけない、花もつけない、ただ樹液だけを吸い取って木を衰えさせる枝のことです。何の役にも立たないで、ただ労力だけを吸い上げる枝のことです。実を結ばない不要の枝です。忌み嫌われる若枝です。これは「反キリスト」のことです。反キリストとは、「アンティキリスト」と言いますが、この「アンティ」とは「取って変わる」という意味なのです。キリストに取って変わる存在、神にとって変わろうとする存在、それが反キリストです。一見キリストにも似ていて、キリストではないかと思われますが実のところは反キリストです。そのように見せかけて人を騙します。そして、自分の思うように人を操るわけです。神に取って変わろうとする存在、キリストに取って変わろうとする存在。それが反キリストです。忌み嫌われている若枝の正体です。しかし、そうした忌み嫌われる若枝は、墓の外に投げ出されます。必ず滅ぼされるのです。
22節と23節には、そのさばきの様子が次のように描写されています。「わたしは彼らに向かって立ち上がる。―万軍の主の御告げ―わたしはバビロンからその名と、残りの者、および、後に生まれる子孫とを絶ち滅ぼす。―主の御告げ― わたしはこれを針ねずみの領地、水のある沢とし、滅びのほうきで一掃する。―万軍の主の御告げ―」
すごいですね。ここでは滅びのほうきとあります。神はバビロンの王と彼に属するすべてのものを滅びのほうきで一掃されます。現代では掃除機がありますから、掃除機で吸い取るというところでしょうか。あるいは、お掃除ロボットくんで部屋の隅から隅まできれいにするでしょうか。あまりピンときません。滅びのほうきで一掃するです。滅びのほうきで一掃し、そこを針ねずみの領地とするのです。完全に廃墟と化するということです。
これが神がバビロンに、また、その背後で働いている悪魔になさることです。神はヤコブをあわれんでおられるので、再び彼らを集め、彼らを自分たちの土地にいこわせてくださいます。それを妨げるすべての勢力に神は立ち向かい、完全に滅ぼしてくださいます。
最後に、黙示録12章9節から11節を開いてみたいと思います。「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あのふるい蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」
「彼の使いども」というのは悪霊たちのことです。12章4節をみると、彼に付き従った天使たちの三分の一もいっしょに堕落したとあります。その三分の一の天使たちが悪霊となりました。その悪霊たちのかしらが悪魔です。悪魔=悪霊ではありません。悪魔はサタンとも呼ばれます。ですから悪霊も元天使なわけです。その悪霊どもも悪魔とともに投げ落とされました。そのとき、こう告げる声があります「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」
「私たちの兄弟たちの告白者」というのもサタンの肩書きです。サタンは日夜私たちを告発します。「あなたはまた同じことを言った。」「同じことをやった」「また同じ罪を繰り返した。」そのように告発します。誘惑した上で罪を犯させたかと思うと、罪を犯したとたんに責め立てるわけです。嫌らしいやつですね。クリスチャンに一生懸命に罪を犯させようと日夜働いているのです。私たちを堕落させようと、ありとあらゆる誘惑を講じてくるわけです。そして罪を犯したとたんに、今度は責めまくります。どうしようもない相手です。それがサタンです。そんなサタンに対してどうやって戦ったらいいのでしょうか。11節です。
「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝ったとあります。サタンに打ち勝つ方法は、小羊の血とあかしのことば、神のことばです。神の言葉の約束のゆえに、小羊の血にすがることによって、サタンに打ち勝つことができるのです。どんなにサタンがあなたの耳元でささやいて、「おまえはとんでもないやつだ。それでもクリスチャンか」「おまえはそれでも教会に行くつもりなのか」「もう教会に来る資格などない」「それで奉仕などできるのか」「とんでもない」「よくぞそんな平気な顔でクリスチャンたちと交わりができるものだ」と、サタンはいろいろなことを言って私たちを責め立て、神から引き離そうとしますが、それに対して私たちはサタンにこう言い返すことができます。「おまえが私の罪を責めるのはもっともかもしれない。確かに私は罪を犯した。罪深い者であるのは間違いない。でもおまえは私のすべての罪を知ってはいないじゃないか。もし知っていたらすごく驚くだろう。なぜなら、私の罪はそんなものじゃないからだ。私はおまえが思う以上にもっと最悪な人間だ。もっと最低で、もっと汚い、もっとひどい人間だ。こんなおぞましい者は他にいないだろう。間違いなく罪人のかしらだ。でもそんな私の罪の代価をイエス・キリストが十字架の上ですべて支払ってくださった。過去も、現在も、未来にも、もっともっと犯すであろう罪の一切を、イエス・キリストが十字架で血を流して洗い清めてくださったのだ。そんな私を神はあわれみ、恵みをくださったのだ」と。小羊の血がその恵みです。私たちはこの小羊の血によってサタンに勝利することができるのです。
神はあなたをあわれんでくださいました。神は小羊なるキリストの血によってあなたを贖ってくださいました。あなたは神に愛されているのです。どんなにサタンがあなたの罪を責め立てても、あなたをキリストにある神の愛から引き離すことはできません。あなたは小羊の血によってサタンに勝利することができるのです。神は、あなたがこの神に信頼し、神の御前にへりくだって生きることを求めておられます。それが神の恵み、神のあわれみに答えて生きるクリスチャンの姿なのです。