イザヤ書15章1~9節 「わたしの心は叫ぶ」

きょうは、イザヤ書15章から学びます。タイトルは、「わたしの心は叫ぶ」です。イザヤは、13章からイスラエルを取り囲む周辺諸国に対する神からの警告のことばが語っています。その筆頭にあげられていたのはバビロンでした。バビロンはまだこの時点では台頭してはいませんでしたが、まずバビロンから語らなければなりませんでした。それは、バビロンが単に一つの国としてのバビロンではなく、神に敵対する勢力としてのバビロンを表していたからです。そして次にアッシリヤに対して、そしてペリシテに対して語られました。きょうは、それに続くところです。モアブに対して語られています。  きょうは、このモアブに対する神のさばきの警告から、三つのポイントで学んでいきたいと思います。

Ⅰ.一夜のうちに起こるさばき(1-4)

まず第一のことは、神のさばきは突然にして起こるということです。1節をご覧ください。ここには、「モアブに対する宣告。ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅びうせた。ああ、一夜のうちにキル・モアブは荒らされ、滅びうせた。」とあります。

「アル」とか、「キル・モアブ」というのは、モアブにあった町の名前です。巻末の地図を見ていただくとわかりますが、モアブという国は死海の東側にある国ですが、そこにこのアルとキル・モアブいう町の名が記されてあります。それらの町々が荒らされ、滅びうせるというのです。聖書の預言は曖昧ではありません。抽象的ではないのです。具体的に町の名前があげられ、それらの町がどうなるのかを明確に語ります。そして、アルは荒らされ、キル・モアブは滅び失せるのです。果たせるかな、このみことばが文字通り実現します。モアブはアッシリヤによって滅ぼされてしまいます。その後、アッシリヤが滅亡すると一時的に回復を果たしますが、やがてまたバビロンの王ネブカデネザルに征服されることになるのです。そしてB.C.1世紀に、マカベア家アレクサンドロス・ヤンエウスという人物によって完全に滅びることになるのです。

それはどのようにして起こるのでしょうか。ここには、「一夜のうちに」とあります。このことばが二回も繰り返して使われています。一夜のうちにアルは荒らされ、一夜のうちにキル・モアブは滅び失せる・・・と。真夜中に敵の奇襲を受けて、一夜にして滅びてしまうというのです。考えられません。まさに想定外です。しかし、私たちの人生にはまさかと思うようなことが起こるのです。人生には三つの坂があるそうてだす。上り坂、下り坂、そして、まさかです。そのまさかと思われる出来事が起こったのです。人生にはこのような想定外のことが起こるのです。

ルカの福音書12章20節を開いてみましょう。ここには、「しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」とあります。 ある金持ちの身に起こった悲劇です。たくさん貯め込んで、これからだ、老後の蓄えも十分だ、安泰だ、安心だと、今からは好きなようにおもしろ、おかしく、暮らしていこうと思っていたとき、突然神が言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜、おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、だれのものになるのか」と。

その日は突然やって来ます。昨日まであんなに元気だったのに、まだまだ長生きすると思っていたのに、まだ若いのに、余命3ヶ月ですとか、または車の事故とかで、突然いのちを失ってしまうことが起こるのです。あるいは、昨年のような災害によって、一瞬にしていのちが奪われてしまうようなこともあります。一夜にして死んでしまうということが起こるのです。これは決して他人事ではありません。いつあなたの身に起こるかわかりません。それはモアブにだけ起こった特殊な出来事ではなく、だれにでも起こりうることなのです。もしかしたら、今晩、あなたの身にも起こるかもしれません。あるいは、あなたの愛する人の上に起こるかもしれません。きのうまで元気だったお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんに、何があるかはだれにも予想できないのです。人生にはまさかと思うこと、想定外のことが起こるのです。そのようなことが突然起こっても大丈夫でしょうか。彼らは福音を聞いているでしょうか。聞いて、イエス・キリストを個人的な救い主として受け入れているでしょうか。

もう一箇所ですが、第一テサロニケ5章2、3節もお開きいただきたいと思います。ここには、「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦の産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」とあります。  皆さん、主の日は盗人のようにくるということをご存知でしょうか。イエス・キリストが再臨され、私たちを迎えに来るのは、盗人のように、真夜中に突然来るのです。人々が「平和だ。安心だ」と言っているそのような時に、突如として滅びが彼らに襲います。それはちょうど妊婦の産みの苦しみが臨むようなものです。それを逃れることはできません。私たちはイエス様がいつ来られてもいいように、いつでも備えておきたいと思います。今度イエスが来られる時には世を救うために来られるのではありません。世をさばくために来られるのです。もちろん、イエスを信じて救われた人は暗闇の中にはいないので、そのさばきの対象ではありません。4節には、「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」とあります。イエスを信じて光の中に歩む者は、このさばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。しかし、信じない者はさばかれます。こんなことはあまり言いたくありません。しかし、これは事実なのです。救いはイエスにあります。この神の御子であられるイエスを信じなければ、そのさばきが襲うようになります。それは突如としてやってきます。ですから、その前に、さばきが襲うことがないように備えておかなければなりません。あなたはどうでしょうか。キリストが突然にして来られても大丈夫でしょうか。その準備はできているでしょうか。まだまだ先だと、自分はまだまだ長生きするから大丈夫だと、そう思っていませんか。しかし、それは違います。それは一夜のうちに起こるのです。こんなはずじゃなかった、想定外だったと言って、後で泣いて歯ぎしりすることがないように、今、その準備をしていただきたいのです。

2節から4節までのところには、そうした神の突然のさばきがやって来たとき、彼らがどのような状況になったかが記されてあります。「モアブは宮に、ディボンは高き所に、泣くために上る。ネボとメデバのことで、モアブは泣きわめく。頭をみなそり落とし、ひげもみな切り取って。そのちまたでは、荒布を腰にまとい、その屋上や広場では、みな涙を流して泣きわめく。ヘシュボンとエルアレは叫び、その叫び声がヤハツまで聞こえる。それで、モアブの武装した者たちはわめく。そのたましいはわななく。」

「宮」というのは、モアブの神ケモシュが祭られていた宮のことです。それはディボンという町の高き所に置かれていました。大抵、そうした偶像の宮は高い所に祭られているわけですが、このケモシュという偶像も高い所にありました。突然、アッシリヤが襲って来たとき、彼らは自分たちの神ケモシュに助けを求めるために宮に上るのですが、その偶像は救ってくれません。何の助けもしてくれないのです。それまで自分たちが拠り頼んでいたものは全く頼りにならないのです。全く頼りにならないということを知った人たちは愕然とし、ただ泣きわめくしかありません。

ネボとメデバもモアブにあった町の名前です。かつてモーセは、このネボ山から約束の地を見てその生涯を終えました。(申34章)そのネボ山から南東に6キロほど離れたところにあった町がメデバです。このネボやメデバが攻められたということを聞いたモアブの民は、そうした偶像の宮や高き所に上って嘆きます。ここには「頭をみなそり落とし、ひげもみな切り取って。」とあります。これは、嘆きや悲しみを表すときに行った行為です。当時、髪をたくわえ、ひげを伸ばすというのが男の人の尊厳、身だしなみでした。そうした髪をそり落とし、ひげを切り取るというのはとても屈辱的で、耐え難い苦しみでした。それほど悲しく、辛いことだったのです。「そのちまたでは、荒布を腰にまとい、その屋上や広場では、みな涙を流して泣きわめく。」とあります。これは喪に服す行為ですが、アッシリヤによって、その残忍な方法によってそれらの町々が攻め落とされたとき、彼らはまさに喪に服すような嘆き、悲しんだのです。

4節のヘシュボン、エルアレ、ヤハツといった町々は、かつてヨシュアの時代にイスラエルが占領した町々ですが(民21:27)、その町々をこのイザヤの時代にはモアブが支配していました。つまり、モアブ人によって占領されていたわけです。モアブは常にイスラエルを脅かす存在でした。その町々を今度はアッシリヤが攻めます。アッシリヤがやって来て、ヘシュボンとエルアレを打ち破ったという知らせが遠く30㎞以上離れた遠方のヤハツにまで聞こえたとき、モアブの丙子たちに恐れと恐怖に包まれ、全く士気を失い、泣きわめいたのです。

神のさばきは突然にしてやって来ます。まさかと思うような時に、一瞬にして起こります。夜中に盗人がやって来るように起こるのです。ですから、私たちはそれがいつ来てもいいように備えておかなければなりません。そうでないと、かつてモアブが泣きわめいたような嘆きに、悲しみに襲われるようになるのです。

Ⅱ.わたしの心は叫ぶ(5-6)

第二のことは、神はひとりの人も滅びることを願わず、すべての人が救われることを願っておられるということです。5節をご覧ください。「わたしの心はモアブのために叫ぶ。その逃げ延びる者はツォアルまで、エグラテ・シェリシヤまでのがれる。ああ、彼らはルヒテの坂を泣きながら上り、ホロナイムの道で、破滅の叫びをあげる。」

ここに不思議なことが記されてあります。「わたしの心はモアブのために叫ぶ。」ということです。私とはもちろん神です。その神がモアブのために嘆くというのです。その後のところに、「その逃げ延びる者はツォアルまで、エグラテ・シェアリムまで逃れる」とあります。彼らはルヒテの茶菓を泣きながら上り、ホロナイムの道で、破滅の叫びをあげる。」とあります。アッシリヤの攻撃を受けて逃げ惑うモアブの姿を見て泣いておられるのです。ケモシュという偶像を礼拝していたモアブは滅ばされても当然なのに、そうしたモアブの姿を見て泣いておられるのです。叫んでいるのです。これはいったいどういうことでしょうか。

それは、たとえ彼らが契約の民ではなくとも、神が造られた、神がこよなく愛しておられる人間だからです。決して誤解しないでください。確かに神は罪を罰せられる義なる方、聖なる方です。しかし、それは神は滅びる者を見て何とも思わない冷徹な方であるということではありません。神は義であるというご性質のゆえに罪をさばかなければならない方ですが、それは本当に辛く、苦しいことなのです。泣きながら、さばいておられるのです。なぜなら、神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるからです。Ⅱペテロ3章9節を開いてみましょう。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

神は、ひとりでも滅びることを望んでおられません。神は、すべての人が救われることを願っておられるのです。それはモアブに対しても同じです。自分に背を向け、自分に逆らう者を容赦なく、何の痛みも覚えずに、どんどん地獄に投げ込む、それが私たちの神ではありません。神はひとりも滅びることを望んではおられないのです。ですから、悔い改めないがゆえに、滅ぼさざるを得ないそうした人たちを見て、泣いておられるのです。

聖書にヨナ書という書があります。預言者ヨナは、アッシリヤのニネベという町へ遣わされました。そこでヨナは悔い改めのメッセージを語りました。すると、ニネベの人たちは一斉に悔い改めました。でもヨナは本当はそれをしたくなかったのです。なぜなら、アッシリヤがイスラエルに対してどんなひどいことをしたかを知っていたからです。ですからヨナは逆に復讐を望んでいました。神に滅ぼしてもらいたかったんです。だから行きたくないとごねて、タルシシュという最果ての国に逃亡しようとしました。その後のストーリーは皆さんもよくご存じです。嵐が船を襲います。その原因はヨナにありました。ヨナが神様に従わなかったので、神が怒られたのです。そこで彼は海の中に投げ込まれました。大きな魚にのみ込まれ、そのお腹の中で三日三晩いて、悔い改めました。そしてニネベに行って、神のことばを伝えるのです。「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と。するとどうでしょう。ニネベの人々は神を信じ、身分の高い人から低い人まで悔い改めました。  ところが、そのことがヨナを非常に不愉快にさせました。だから言ったことじゃない。神様は情け深く、あわれみ深い方であり、怒るのに遅く、恵み豊かな方だから、彼らに対するわざわいを思い直されることを知っていたのです。イスラエルの敵であるニネベなんて、アッシリヤなんて、滅んで当然、ざまぁみろ、と思っていたのに、救われてしまったのです。  その時神は一本のとうごまを備え、ヨナの上を覆うように生えさせました。それは頭の上の陰となったのでヨナは非常に喜びました。しかし、神はその翌日に一匹の虫を備えられました。そしてその虫がとうごまをかんだので、とうごまは枯れてしまいました。太陽が昇ったとき、太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え、「私は生きているより、死んだ方がましだ」と言いました。すると神はヨナにこう仰せられたのです。

「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(ヨナ4:10-11)

たとえ神に敵対しているような人間であっても、神は愛しておられるのです。そして、その人も滅びることなく、すべての人が救われることを願っておられるのです。それが神の心であります。

それだけではありません。「わたし心はモアブのために叫ぶ」このモアブというのは、単に、神が造られた民であるというだけでなく、神の民であるユダヤ人ととても深い関係にある人たちなんです。このモアブ人のことをよく調べてみると、その祖先はアブラハムの甥ロトなんですね。創世記19章37,38節に、「姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。」とあります。モアブは、ロトとロトの娘との間に生まれたこどもです。姉との間に生まれたのがモアブで、妹との間に生まれたのがアモンです。そして、イスラエルの王ダビデにはこのモアブ人の血が八分の一流れています。ダビデの曾おばあちゃんがモアブ人のルツだったからです。ですから、このモアブ人というのはイスラエルの敵でもありましたが、実はユダヤ人と深い関係のある、ユダヤ人のすぐ近くにいた民族なのです。そういうモアブに主はあわれみの心を持っておられたのです。

ということはどういうことかというと、私たちの回りにもこうしたモアブ人がたくさんいるということです。まだイエス様を信じてはいないけれども、イエス様を既に信じているクリスチャンのすぐ近くにいるのです。たとえば、まだ信じていない家族などです。そのような人は家族の中にだれかクリスチャンがいるというだけで、いつでも神を求めることができる特別な所にいるのです。特別に神に愛されていると言ってもいいでしょう。求めさえすれば、神の救いに預かることができるのです。誰でもそのような環境に置かれているかというとそうではありません。ある人は神から遠く離れた所にいて、救いとは全く関係のない所に置かれている人もいます。もちろん、そういう人でさえ神の恵みから漏れることはありませんが、クリスチャンがすぐ近くにいる人に比べたら、簡単なことではないのです。ですから、近くにクリスチャンがいる、知っているということは、大きな恵みなのです。そういう人はこのモアブ人と同じです。神は、そのような方が主イエスを信じて救われるようにと、涙して折られるのです。

Ⅲ.のがれた者と残りの者とに獅子を向ける(7-9)

第三のことは、それでも悔いらためないならどうなるかというとこです。それでも悔い改めないなら、神の容赦ないさばきが臨むということです。7節から9節までをご覧ください。

「それゆえ彼らは、残していた物や、たくわえていた物を、アラビム川を越えて運んで行く。ああ、叫ぶ声がモアブの領土に響き渡り、その泣き声がエグライムまで、その泣き声がベエル・エリムまで届いた。ああ、ディモンの水は血で満ちた。わたしはさらにディモンにわざわいを増し加え、モアブののがれた者と、その土地の残りの者とに獅子を向けよう。」

「ディモンの水は血で満ちた」というのは、殺された人がどれだけ多かったかを表しています。しかし、モアブへの神のさばきはそれだけでは終わりません。神はのがれた者と、その土地の残りの者たちに獅子を送られるのです。この獅子とはアッシリヤのことですが、それを送られるのは神様です。神は、神のさばきの道具としてアッシリヤを用いているだけです。ここでのポイントは、神はいつまでも神に敵対し、悔い改めない人に対して獅子を送り、徹底的にさばかれるということです。

これはさきほど見てきた神のあわれみと矛盾するものではありません。これは神の聖なる怒りなのです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。そのために神は、忍耐深くあられるのです。今も、私たちが悔い改めるようにと待っておられます。しかし、そこには限りがあることも覚えておかなければなりません。時が満ちる時がやってきます。そのときまでに悔い改めないと、神はモアブに対してさばかれたようなさばきを行われるのです。神様はそのあわれみのご性質のゆえに、その滅びをとても悲しまれます。しかし、神はご自分の聖なるご性質のゆえに、滅ぼさなければならないものを滅ぼされるのです。けれどもそのさばきを喜んでおられるのではなく、むしろ悲しんでおられます。それが神の心です。その心を私たちは知らなければなりません。その心を知って、私たちは神に立ち返らなければなりません。

ノアの箱舟を思い出してください。主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になって、ノアに「あなたとあなたの家族とは、箱舟に入りなさい。」と言われました。当時の人々があざける中、ノアは神が命じられたとおりに箱舟に入ると、主は、「彼のうしろの戸を閉ざされました。」(創世記7:16)もう二度と入ることができない戸が閉じられたのです。これは人生にとって最も厳粛な時です。そのとき、私たちは初めて事の重大性に気付かされることでしょう。しかし、その時では遅いのです。うしろの戸が閉ざされる前に入らなければなりません。あなたも、あなたの家族と一緒に箱舟の中に入ってください。入って、救われてください。それが神の心、神の叫びなのです。