きょうは、イザヤ書16章のみことばからご一緒に学んでいきたいと思います。タイトルは「涙であなたを潤す」です。9節に、「わたしはわたしの涙であなたを潤す」とあります。先週からモアブに対する神の宣告のことばを語られていますが、きょうのところはその続きです。きょうはこのモアブに対する宣告のことばから、三つのポイントから学びたいと思います。
Ⅰ.小羊を送れ(1-5)
まず第一のことは、へりくだって主に信頼せよということです。1節から5節までのところに注目してください。1節をお読みします。「子羊を、この国の支配者に送れ。セラから荒野を経てシオンの娘の山に。モアブの娘たちはアルノンの渡し場で、逃げ惑う鳥、投げ出された巣のようになる。」
どういうことでしょうか?「この国の支配者」とはイスラエル、具体的には南ユダ王国のことです。今モアブはアッシリヤからの攻撃を受けて、多くの人たちが国外へ逃れようとしています。そこで主はモアブに、シオンの娘の山、エルサレムに助けを求めるようにと呼びかけておられるのです。「子羊」とは、そのためにモアブが貢ぎ物として納めていたものです。アッシリヤの攻撃を受けて彼らがしなければならなかったことはイスラエルに貢ぎ物を送り、へりくだって彼らに助けを求めることでしたが、なかなか決断することができないでいたのです。それが彼らが生き延びることができる唯一の方法だということはわかっていても、素直に認められなかった、いや、認めたくなかったのです。まだ自分たちの力でできるという思いがあったのです。
しかし、2節には、「モアブの娘たちはアルノンの渡し場で、逃げ惑う鳥、投げ出された巣のようになる。」とあります。彼らの思いとは裏腹に、状況はますますひどいものになっていきました。彼らは逃げまどう鳥のように、投げ出された巣のようになったのです。
そこで、やっとのことでモアブはユダに助けを求めることを決めます。3節の「助言を与え、事を決めよ。」とは、モアブの使者たちがユダの王に助言と助けを求め、どうしたらいいか事を決めるように求めています。彼らは、自分たちの緊迫した状況を次のような比喩をもって説明しています。「昼のさなかにも、あなたの影を夜のようにせよ。」つまり、自分たちは太陽に照らされた強い日差しのもとにさらされているような状態なので、日陰にかくまわれる必要があるとい るというのです。だから、「散らされた者をかくまい、のがれて来る者を渡すな。」 つまり、ユダの地に散らされた者をかくまい、彼らを敵に引き渡すことがないようにと求めているのです。4節の「あなたの中に」とは、イスラエルのこと、南ユダのことです。あなたの中に、モアブの散らされた者を宿らせ、荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となるように、というのです。
私たちの周りにも、こうした状況からのがれて、各地に散らされながら、さまよっている方々がおられます。先日、同盟の総会で福島第一聖書バプテスト教会の佐藤先生から、原発事故から一年間、どのように日本各地をさまよい続けて来られたかのお話がありました。米沢で数日間過ごしてから東京の奥多摩にあるキャンプ場で1年を過ごしました。そのキャンプ場の責任を持っておられたドイツ人の宣教師が、すべての予約をキャンセルして教会の皆様を受け入れてくださったそうです。ドイツの本国からは退避命令が出されるなか、それに反するとクビになるかもしれないという状況の中で、クビを覚悟して約六十名の方々を受け入れました。その間、主にある家族が天に召されたり、また、他の場所へと移り住んでいくという別れを余儀なくされましたが神様の恵みとあわれみによって、この3月に福島県いわき市にアパートを建て、この秋には新しい教会堂も完成し、新しい歩みをすることができるようになりました。 それにしても、そのような状況にある方々を受け入れることにはかなりの決断も必要だったかと思いますが、このドイツ人宣教師が「荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となれ」とのみことばに応答するかのごとく、かくまい、支えてくださったのは見事です。 そうした使命が私たちにも与えられています。私たちは、のがれて来る者の隠れ家となって、この神のみこころに応えていく者でありたいと願います。
ところで、こうしたモアブの使者たちの要請に対して、イザヤは何と答えたでしょうか。4節の後半から5節にかけて、次のようにあります。「しいたげる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消えうせるとき、一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行う者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。」
「しいたげる者」とはアッシリヤのことです。「しいたげる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消えうせるとき」、イザヤはまず現在の危機が過ぎ去ることを預言すると、次のような不思議なことを言いました。それは、「一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行う者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。」ということです。どういうことでしょうか?ダビデの王座が堅く立てられるということです。もちろん、これはメシヤ預言です。イエス・キリストのことです。つまり、モアブが将来において安全で、安心した生活をしたいと思うなら、ダビデに対する主の約束の安全性の中に身を置かなければならないということです。現実の厳しさと不安定の中から逃れる唯一の道は、イエス・キリストに対する信仰と希望の静かな確実性の中に逃れ場を求めるべきであるということです。なぜなら、それは恵みによって堅く立てられた王国なので、どんなことがあっても揺れ動くことのないものだからです。人間が作ったものはそうではありません。人間が作ったものは絶対はないのです。ゆえに、それらのものはいつも揺れ動く不安定なものです。しかし、これは恵みによって堅く立てられた王国なので、決して揺れることはありません。第二に、この王座に着座しておられる方が比類のない王だからです。この方はダビデの系図から生まれ、統治の権利を持ち、何よりもダビデに与えられた約束を受け継いでおられる方です。単なる気まぐれで治めるのではなく、真実をもって、これを行うのです。ペテロ第一2章6節に、「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。」とあるとおりです。
あなたが信頼を置いているものは何ですか。何に信頼しているでしょうか。だれに助けを求めておられるでしょうか。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(詩篇91:1)主に身を避ける人は幸いです。そのような人はどのような困難の中にあっても、主の平安の中に真の安息を得ることができるのです。
Ⅱ.涙であなたを潤す(6-16)
このイザヤのことばに対して、モアブはどのように応答したでしょうか?6節から12節までに注目してください。まず6節です。「われわれはモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ。その誇りと高ぶりとおごり、その自慢話は正しくない。」
モアブは、主が設けてくださった逃れの道を拒みました。長年のことイスラエルにへつらい、ようやくのことそのくびきから解放されたというのに、どうしてまたイスラエルに対して身を低くしなければならないのかというのです。ここには「高ぶり」、「高慢」、「誇りと高ぶり」、「自慢話」ということばが何度も繰り返して出ています。いったい彼らは何を自慢していたのでしょうか。7節、8節には、「それゆえ、モアブは、モアブ自身のために泣きわめく。みなが泣きわめく。あなたがたは打ちのめされて、キル・ハレセテの干しぶどうの菓子のために嘆く。ヘシュボンの畑も、シブマのぶどうの木も、しおれてしまった。国々の支配者たちがそのふさを打ったからだ。それらはヤゼルまで届き、荒野をさまよい、そのつるは伸びて海を越えた。」とあります。
モアブは、ぶどうをはじめとする農作物で豊かなところでした。そこにはたくさんのワイナリーがありました。彼らはそれを自慢していたのです。そこには偶像の神殿が祭られていました。それらはすべて彼らが誇りとしていたものです。自慢していたものです。そうしたすべてのものが破壊されるのです。
人ごとと思ってはなりません。私たちは何を誇りとしているでしょうか。何を自慢しているでしょうか。このモアブの姿は、まさに私たち日本人の姿でもあります。モアブはぶどうの農作物によって豊かになり安定した社会を築き上げたことで高ぶりましたが、日本もまた、戦後の高度経済成長を成し遂げ、経済大国になったことで高ぶりました。
かつて日本にも不安定な時代がありました。戦国時代です。室町時代が終わり、戦国時代に入ると、明日はどうなるかわからないという不安定な社会の中で、人々はこぞって天を仰ぎました。そのときにやって来たのがキリスト教です。1549年(以後、よく来るキリスト教)フランシスコ・ザビエルが最初に来日して福音を伝えたとき、まさに渇いた砂が水を吸収するように多くの人々が救い主を求めました。当時の宣教師であり、歴史家でもあったルイス・フロイスは、「このままいくと、あと数年で日本はキリスト教国となるであろう」と書き記したほどです。それほどに人々は飢え渇いていました。信者が急増したのです。まさにイエスが「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」といわれた通りです。日本のキリスト教の歴史の中で、その時ほど霊的に覚醒された時はありません。私たちの生活の中に不便が生じ、変化を強いられ、もみくちゃにされるという辛い経験は苦しいことですが、実は幸せなことなのです。そのことによって主を求め、主に従うことができるようになるからです。そのことによって新鮮な命が芽生えるからです。
第二次世界大戦後もそうでした。戦争に破れて、国全体が低くされたとき、人々は主に助けを求めました。しかし、その後経済が成長し、再び安定した社会を取り戻すと、この国は再び高ぶってしまいました。そうした高ぶりは砕かれるのです。プイドは必ず打ち砕かれます。もし私たちが自分の持ち物なり、自分の経済力なりを自慢し、神以外のものにすがっていれば、神は必ず砕かれるのです。
12節には、「モアブが高き所にもうでて身を疲れさせても、祈るためにその聖所に入って行っても、もうむだだ。」とあります。高きところにもうでるとは、偶像礼拝を表しています。たいてい、偶像の宮は高いところにありました。そうした偶像に頼ってもむだなのです。何の応えもありません。これさえあれば、お金さえあれば、とすがっても、もうむだなのです。健康だけがとりえです。健康第一ですと、自分が健康であることを自慢していても、いつかそれらが取り去られる日がやって来るのです。
ところで、ここには不思議な言葉があります。9節と11節です。「それゆえ、わたしはヤゼルのために、シブマのぶどうの木のために、涙を流して泣く。ヘシュボンとエルアレ。わたしはわたしの涙であなたを潤す。あなたの夏のくだものと刈り入れとを喜ぶ声がやんでしまったからだ。」
ここで主はモアブのために泣いておられるのです。涙であなたを潤すとあります。これまであなたに嫌な思いをさせてきた人がいるでしょうか。この人のせいで私は大変な思いをしてきたとか、あの人のせいで私は本当に悩み苦しんできたということがあるでしょうか。もしそのような人が不幸な目に会い、大変な思いをしている時に、あなたはどのような反応をされますか?「ざまあ見ろ」と言って喜びますか?けれども神はそのような方ではありません。神はその不幸を非常に悲しまれ、涙を流して泣かれるのです。「わたしはわたしの涙であなたを潤す」というのです。
11節には、もっと激しい神の嘆きが描かれています。「それゆえ、わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく。」とあります。「はらわた」とか「内蔵」というのは感情の中心を表しています。その人の心の一番深いところです。それがわななくのです。この「わななく」ということばは、「痛む」という意味のことばです。ここから「神の痛みの神学」という言葉が生まれました。北森嘉蔵(きたもりかぞう)、日本を代表する神学者の一人です。彼は、これを「神の痛みの神学」と呼びました。イスラエルとしばしば敵対関係にあったモアブのために、神のはらわたはわななき、痛むのです。いったいなぜ神はこれほどまでに痛まれているのでしょうか。先週のところで見てきました。それは神はひとも滅びることを願わず、かべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるからです。また、このモアブという民族は、特にイスラエルと深い関係のある民族でした。創世記19章37節を見ると、モアブ人の先祖はモアブで、それはアブラハムの甥ロトとその娘との間に生まれた子どもです。ある意味でイスラエルと遠い親戚にあたります。あのルツはモアブ人でした。ですから、ダビデにはこのモアブ人の血が流れていたことになります。そして、その子孫であるイエス・キリストの中にも、このモアブ人の血がわずかばかり流れていたのです。そうしたモアブが滅びることを神はとても悲しまれました。神のはらわたは、内蔵はわなないたのです。
「断腸の思い」ということばがありますね。断腸の思いとは、腸がちぎれるほど、悲しくつらい思いのことです。昔、晋(しん)の時代、武将桓温(かんおん)が舟で三峡を渡ったとき、従者が猿の子を捕らえて舟にのせました。それを見ていた母猿が悲しい泣き声をたてながら岸沿いにどこまでも追ってきて、ついに舟に跳び移ることができましたが悶死(もんし:もだえ苦しむこと)してしまいました。その母猱の腹をさいてみると、腸がずたずたであったという故事から、この断腸の思いということばが生まれました。まさに神は滅んでいく人間の姿を、断腸の思いで見ておられるのです。腸がずたずたにちぎれるような悲しい思いで見ておられるのです。
あなたには、この神の思いが届いていますか。その目の涙が見えますか。どうか神が痛むことがないように、わななくことがないように、涙を流すことかせないように、悲しまれるとこがないように、へりくださって神のみことばに聞く者でありたいと思います。
Ⅲ.神に聞き従う(13-14)
ですから、第三のことは主に聞き従いましょう、ということです。13節と14節をご覧ください。「これが、以前から主がモアブに対して語っておられたみことばである。今や、主は次のように告げられる。「雇い人の年期のように、三年のうちに、モアブの栄光は、そのおびただしい群衆とともに軽んじられ、残りの者もしばらくすれば、力がなくなる。」
ここに「以前から」とあります。モアブに対するさばきのことばは以前から語られていました。前もって語られていたのです。民数記24章17節を開いてください。ここには、「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。」とあります。これは偽預言者バラムがモアブについて預言したことばです。偽預言者でもメシヤ預言を語ります。不思議なことです。「ヤコブから一つの欲しが上がり」とは、イエスのことです。「イスラエルから一本の杖が起こり」、これもイエスのことです。同時に、バラムはモアブについても預言しました。「モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く」これが以前からモアブに対して主が語っておられたことばです。突然宣告のことばがあったのではありません。以前から、ずっと以前から語られ、警告されていたのです。なのに彼らはそれを聞きませんでした。それが問題なのです。主は前もって語っておられるのに聞く耳を持たないのです。それで主はこのように言われるのです。
「雇い人の年期のように、三年のうちに、モアブの栄光は、そのおびただしい群衆とともに軽んじられ、残りの者もしばらくすれば、力がなくなる。」
雇いの期間とは、きわめてはっきりした期間のことです。同じように主はこのモアブを滅ぼすための期間をはっきりと定めておられます。その期間とはどのくらいでしょうか。3年です。3年のうちに、モアブの栄光は、そのおびただしい群衆とともに軽んじられ、残りの者もしばらくすれば、力がなくなるのです。
同じように、この世の終わりの時も、父なる神によってはっきりと定められています。その日がいつなのかを私たちにはわかりませんが、それは神によってはっきりと定められているのです。あなたはその時の準備ができているでしょうか。主はすでにあたなに語られました。そのみことばは必ず成就します。一点一画も決してすたれることなく、全部が成就します。問題はあなたがそれを信じるかどうかです。信じて受け入れるかどうかなのです。モアブは受け入れなかったために滅ぼされました。そういことがないように、私たちは神のことばを信じて受け入れ、そのことばに従って生きる人生を選択しようではありませんか。