イザヤ書14章24節~32節 「主に身を避けて」

きょうは、イザヤ書14章の後半部分からお話したいと思います。タイトルは、「主に身を避けて」です。イザヤ書は、13章から新しい段落に入りました。13章から23章まで、イスラエルを取り囲む周辺諸国への宣告を語っています。その筆頭に上げられたのはバビロンでした。それはバビロンが単に一つの国としてバビロンではなく、神に敵対する勢力としてのバビロンを象徴していたからです。 きょうのところは、そのバビロンの次にアッシリヤとペリシテに対してさばきの宣告が告げられているところです。きょうはこのところから主に身を避けることの幸いについて、三つのポイントで学んでみたいと思います。

Ⅰ.主の計ったとおりに成就する(24-27)

まず第一に、主が計画されたことは必ず成るということです。24節から27節までをご覧ください。「万軍の主は誓って仰せられた。「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する。わたしはアッシリヤをわたしの国で打ち破り、わたしの山で踏みつける。アッシリヤのくびきは彼らの肩から除かれる。これが、全地に対して立てられたはかりごと、これが、万国に対して伸ばされた御手。万軍の主が立てられたことを、だれが破りえよう。御手が伸ばされた。だれがそれを戻しえよう。」

これはアッシリヤに対する宣告です。アッシリヤに対しては10章のところでも語られていました。そこでは、イスラエルを懲らしめるための神の道具としてのアッシリヤの姿が画かれていました。神の道具にすぎないアッシリヤがその立場をわきまえず、高ぶってイスラエルを滅ぼそうとしたので、神はそのような枯れらの高ぶりを罰しました。そして、ここに再びそのアッシリヤに対するさばきが語られています。

25節には、「わたしはアッシリヤをわたしの国で打ち破り、わたしの山で踏みつける。」とあります。「わたしの国」とは、イスラエル、南ユダ王国のことです。であれば、「わたしの山」とはシオン、エルサレムのことになります。これはいったい何を指しているのでしょうか。

これは、36章と37章に出てくる出来事を指しています。つまり、B.C.722年に北イスラエルを滅ぼしたアッシリヤはその勢いで今度は南ユダ王国に迫っていくわけですが、ヒゼキヤ王の必死の祈りによって、アッシリヤの兵士十八万五千人が殺されたという出来事です。それは神の奇跡でした。主がヒゼキヤの祈りに応えてくださったのです。ここに書いてあるとおりに、主はアッシリヤをわたしの国で打ち破り、わたしの山で踏みつけられたのです。そしてB.C.605年に、アッシリヤはついにバビロンの王ネブカデネザルによって滅ぼされることになるのです。このようにして、アッシリヤのくびきは彼らの上から除かれ、その重荷は彼らの肩から除かれるのです。主が言われたとおりになるのです。

これが、全地に対して立てられた主のはかりごとであり、これが、万国に対して伸ばされた御手なのです。それはアッシリヤだけでなく、バビロンであろうと、世界中のどの国であろうとも同じです。主が立てられたはかり事は必ず成り、必ず、主が考えたとおりに事はなるのです。

箴言19章21節には、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」とあります。私たちは今起っている出来事に心を捕らわれるのではなく、神様のご計画に心を留めていたいものです。そして、私たちの思いや予想を遥かに超えてなされる神様の御心に従っていこうではありませんか。

だいぶ前に出席した集会で、一人の先生が言われました。「聖書とはこの宇宙に含まれている全ての物をお造りになられた創造の神、全知全能の神様と人間の歴史です。その歴史の中に私たち一人一人のストーリーも含まれているのです。」なるほど、この歴史というのは、この宇宙に含まれている全ての物をお造りになられた創造の神と私たち人間の歴史なのです。その歴史の中に私たち一人一人のストーリーも含まれているのです。私たちのすべての歴史が、この神様の御手に握られているのです。    兄弟に妬まれ、エジプトに売られたヨセフが、やがてエジプトで第二の地位に就くことなど、いったいだれが想像することができたでしょう。しかし、神はイスラエルのいのちを救うために、家族より先にヨセフをエジプトに遣わしてくださいました。それはイスラエルのために残りの者を残してくださり、また、大いなる救いによってイスラエルを生きながらえさせるためだったのです。それが神の計画でした。そのような大きな神さまのご計画の中で導かれているのが私たちの人生であり、私たちの歴史なのです。であれば、私たちはこの神の御手を信じて、私たちの想像や思いをはるかに越えて働いておられる神に、すべてをゆだねなければなりません。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

主は私たちに対して完全な計画を持っておられます。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。ですから、私たちは自分の人生をこの方にゆだねることができるのです。私たちが神の御言葉を疑うのは、神の力を認めず、確信していないからです。これがまさに私たちが不信仰に陥る二つの原因でもあります。しかし、このように神の御言葉は必ず成るということを知るとき、私たちは神が真実な方であり、力ある方であることを確信し、この方にすべてのことをゆだねることができるのです。

あなたは、神がなさるすべてのことが最善であると信じていますか?主のはかりごとは必ず成るのです。そう信じて、私たちは何が神のはかりごとなのかを知り、この方にすべてをゆだねて歩む者でありたいと思います。

Ⅱ.喜ぶな、ペリシテの全土よ(28-31)

次にペリシテに対する主の宣告を見ていきたいと思います。28節と29節をご覧ください。「アハズ王が死んだ年、この宣告があった。「喜ぶな。ペリシテの全土よ。おまえを打った杖が折られたからと言って。蛇の子孫からまむしが出、その子は飛びかける燃える蛇となるからだ。」

アハズ王が死んだ年は、B.C.715年です。その年に、イザヤはこれを預言しました。「喜ぶな、ペリシテの全土よ。おまえを打った杖が折られたからと言って。」「おまえを打った杖」とは、イスラエルのことです。昔からペリシテ人はいつもイスラエルの敵でした。彼らはイスラエルを叩くことしか考えていませんでした。しかし、ペリシテは基本的に小さな国だったので、力関係ではいつもイスラエルに負けていたのです。しかし、そのイスラエルが打たれました。いつも戦いに負けていた彼らにとって、宿敵イスラエルが折られたことはこの上もない喜びであって、手をたたいて喜んでいたわけです。ちょうど、喧嘩の強い相手が、もっと強い相手にやっつけられているのを見て喜んでいるのと同じです。「ヤッター。ざまあ見ろ!」と憎しみを込めた喜びの叫びを上げていたわけです。しかし、喜ぶのはまだ早いのです。なぜなら、蛇の子孫からまむしが出、その子は飛びかける蛇となるからです。どういうことかというと、イスラエルは打たれましたが、その代わりにもっと残虐な者が出て、彼らを苦しめることになるからです。それがアッシリヤでした。そう、アッシリヤは、木から木へと飛ぶように移動する荒野の蛇のように、ペリシテに飛びかかるというのです。

その結果どうなるのでしょうか?30節と31節です。「寄るべのない者たちの初子は養われ、貧しい者は安らかに伏す。しかし、わたしは、おまえの子孫を飢えで、死なせる。おまえの残りの者は殺される。門よ、泣きわめけ。町よ、叫べ。ペリシテの全土は、震えおののけ。北から煙が上がり、その編隊から抜ける者がないからだ。」

「寄るべのない者たちの初子」は、何を意味しているのかよくわかりません。ただ「寄るべのない者たち」とは「貧しい者たち」のことを指しているので、アッシリヤやバビロンによって滅ぼされて衰え、貧しくされ、弱くなっていたイスラエルのことを指しているのではないかと思われます。確かにイスラエルは罪を犯し、神に背いたので、神からの懲らしめを受けましたが、神は枯れらをあわれんで、緑の牧場に導かれ、安らかに伏すようにされるのです。

それに対してペリシテはそうではありません。ペリシテに対しては、このように言われます。「わたしは、おまえの子孫を飢えで、死なせる。おまえの残りの者は殺される。」ここには明らかに違いが見られます。イスラエルに対しては懲らしめを与えますが、やがて安らかに伏させてくださる、神の救いの中に入れてくださいますが、ペリシテの場合はそうではありません。ペリシテの場合は、完全に滅ぼされることになるのです。この預言の通りに、ペリシテはB.C.701年にアッシリヤによって滅ぼされてしまいました。そしてB.C.6世紀にはエジプトの支配下に入り、B.C.332年にはアレクサンドロス大王に攻略されるのです。そして、ペリシテ人は歴史上から姿を消しました。この聖書の言葉の通りになったわけです。

興味深いことに、民族的には違いますが、今でもこの名前を使っている人々がいます。誰ですか?パレスチナ人です。「パレスチナ」という言葉は、「フィリスチナ」つまりこの「ペリシテ」に由来しているのです。彼らはペリシテ人が昔住んでいたガザ地区に今も住んでいます。もともとペリシテ人はエーゲ海にある島々、クレテ島やキプロス島から渡って来た白人で、海の巨人として恐れられていました。あのゴリヤテもペリシテ人ですが、白人の大巨人です。今のパレスチナ人はアラブ人ですから民族的には違います。けれども、今も民族を変えてイスラエルを脅かす勢力として存在しているのがパレスチナ、ペリシテ人なのです。おもしろいですね。ということはどういうことかというと、この聖書の預言にあるように歴史は動いていくということです。ここでペリシテ人がたどった運命を、今のパレスチナもたどるようになるのです。

Ⅲ.主に身を避けて(32)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、主に身を避けてということです。32節をご一緒に読んでみましょう。「異邦の使者たちに何と答えようか。『主はシオンの礎を据えられた。主の民の悩む者たちは、これに身を避ける。』」

そのアッシリヤに抵抗するために周辺諸国の間では、互いに連合してこれに対抗としようとする動きが起こっていました。当然ペリシテはイスラエルに敵対していましたが、北の大国アッシリヤに抵抗するために何らかの対策を考えなければなりませんでした。それで南ユダ王国と同盟を結ぼうとしたのです。これが人間の考えることです。人は窮地に追い込まれると、このように誰か人に頼ろうとします。目に見えない神さまではなく、目に見える物に頼ろうとするのです。それは信仰者でも同じです。目に見えない神を信じていても、いざとなると目に見える物に頼ろうとするのです。そのような時になぜ祈らないのでしょうか。なぜ神に叫ばないのでしょうか。なぜ神にその解決を求めないのでしょうか。    幸い北イスラエルは滅ぼされたし、これまで南ユダを治めていたアハズ王は死にました。ですからペリシテは、ここはアハズの子ヒゼキヤに友好同盟を結ぶことでアッシリヤに対処しようとしたのです。南ユダ王国もアッシリヤに攻め込まれ崩壊寸前のところまで来ていたので、ヒゼキヤ王もきっとこの話に乗ってくるだろうと思ったのです。そこで使者を送り一緒にこれと戦おうと申し出ました。何だか国の政治に似ていますね。そこにはいつも与党と野党の駆け引きがあります。国民のことを考えるよりも、自分たちの立場、利益だけを求めていく姿があります。ヒゼキヤはきっぱりとこれを断りました。彼はこのように言いました。「主はシオンの礎を据えられた。主の民の悩む者たちは、これに身を避ける。」と。

このような危機を乗り越えることができるのは人と人との同盟によってではなく、あるいは国と国との同盟によってでもなく、ただ主ご自身に身を避けることによってだと言ったのです。主こそが礎であり、避け所なので、主に身を避けると答えたのです。これはものずこい告白です。というのは、この当時、アッシリヤが支配していた地域はかなりの範囲に及んでいたからです。ユダの西にあるペリシテの地域、東にあったモアブ、南のアラビヤ、さらにはエジプトとエチオピアに至る地域にまで及んでいました。アッシリヤの地図を見ると非常に興味深いのですが、この時アッシリヤが支配した地域はちょうどパン粉を膨らませたようにユダの周辺諸国にまで膨らんでいましたが、その中にあってユダの地域だけが、エルサレムだけがその支配を受けておらず、大海の孤島のようにぽつんと残っているような状況だったのです。

なぜこのようなことが起こるのでしょうか?主がユダを、エルサレムを守っておられたからです。「主はシオンの礎を据えられた。主の民の悩む者たちは、これに身を避ける。」というヒゼキヤの信仰に、主が答えてくださったからです。

主に身を避ける人は幸いです。なぜなら、主がその人を守ってくださるからです。あなたはどこに礎を置いていますか?何を避け所としておられますか?主があなたの避け所であり、そこに主がともに住んでくださるので、あらゆる災いから守ってくださるのです。ややもすると私たちはそのような状況に置かれると、主に身を避けるのではなく、人に信頼したり、物に、お金に、この世のものに頼りがちになりますが、私たちが本当に頼りとしなければならないのは、主なのだということをしっかりと覚えておきたいと思うのです。

ところで、この旧新約聖書66巻全体のちょうど真ん中にある聖句は何かご存知ですか?ヘンリー・H・ハーレイ著作(聖書図書出版)の「聖書ハンドブック」によると、聖書の真ん中の節は詩篇118篇8節です。聖書の真ん中が詩篇であるということは、これが私たちの信仰生活の中心でもあるということです。開いてみましょう。

「主に身を避けることは、人に信頼するよりよい。」

主に身を避けることは、人に信頼するよりもいいのです。その次の9節には、「主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。」とあります。これが聖書の真ん中に書かれてあることです。それは、これが私たちの信仰生活の中心でなければならないということなのです。

イエス様は、「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からたのことで、何を着ようかと心配してはいけません。いのちは食べ物よりもたいせつなもの、からだは着物よりもたいせつなものではありませんか。」(マタイ6:25)と。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」(マタイ6:26-30)   きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのですから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがないのです。主イエスは、「なぜあなたは心配しているのか。神があなたの人生を悲劇で終わらせるだろうか」と言っておられるのです。

私たちは一輪の花よりも、一羽の雀よりも、尊い存在です。私たちは神の子どもであり、御使いもうらやむほどのものを与えられているのです。であれば、どうして神が養ってくださらないということがあるでしょうか。そのように思うのは、私たちが神を信じていないからです。不信仰の問題なのです。神が私の人生を満たしてくださらないかもしれないと考えて、自分で自分の人生を満たそうとするのです。

ローマ人への手紙8章32節には、神の私たちに対する関心がよく記されています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

これが神の私たちに対する関心なのです。神は、ご自分の御子をさえ死に渡してくださいました。であれば、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことはないのです。

私たちは自分の生活を見ると、なかなか問題が解決されないことがあります。こじれにこじれて、困難ばかりが重なってくるように感じるてしまうのです。「神が約束してくださったのに、いったいなぜこんなことになるのだろうか。なぜ私の人生はこんなにみじめなのだろうか。なぜ私の人生は悩みでいったぱいなんだろうか」と思うことがあるのです。しかし、聖書を通して、しっかりと応えを得てください。すなわち、それは神が私たちに関心がないからではなく、私たちが神を信頼していないからなのです。人は、自分が神を信頼していないとは考えないで、神が自分を助けてくださらないとばかり不満を抱くのですが、そうではないのです。    今、この瞬間から、神を信頼してください。だれでも信じる価値のあるものは信じられます。しかし、信じられないことを信じるのが信仰です。エリコの城壁を六回回った時までは、何の変化もありませんでした。それが信仰の現実です。しかし、七度目に回ると、城壁が崩れ落ちたのです。ツァラートに犯されていたナアマン将軍は、ヨルダン川で七度身を洗いなさいと言われたとき、六度までは何の変化もありませんでした。そのとき、人は不安になり、心配し、恐れます。しかし、七度目に入ったとき、神は約束とおりのことをしてくださいました。それが信仰です。そして、そのような信仰が奇跡を起こすのです。

あなたは何に信頼していますか。かつてヒゼキヤが緊迫した状況の中で主に身を避けたことで、すばらしい主の奇跡を体験したように、あなたもその苦しみの中で主に身を避けることによって、どうか主のすばらしい奇跡を体験してください。主に身を避けることは、人に信頼するよりも良いのです。主があなたにもすばらしい計画を持っておられることを信じ、この方に信頼して歩んでいこうではありませんか。