イザヤ書17章1節~11節 「救いの神を忘れないで」

きょうは、イザヤ書17章からお話します。タイトルは「救いの神を忘れないで」です。イザヤは、これまでイスラエルを取り囲んでいた周辺諸国に対する神のさばきのことばを語ってきました。まずバビロンに対して、次にアッシリヤとペリシテ、そしてモアブに対して語られました。きょうのところでは、ダマスコに対して語られているところです。

Ⅰ.この世と調子を合わせてはならない(1-3a)

まず1節から3節までをご覧ください。「ダマスコに対する宣告。見よ。ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる。アロエルの町々は捨てられて、家畜の群れのものとなり、群れはそこに伏すが、それを脅かす者もいなくなる。エフライムは要塞を失い、ダマスコは王国を失う。アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる。―万軍の主の御告げ―」

これは、ダマスコに対する宣告です。ダマスコというのはシリヤの首都です。今も連日話題になっているあのシリヤです。聖書の時代にはアラムと呼ばれていました。アラムというのは今日のシリヤのことです。そのシリヤの首都がダマスコであります。現在、2,190万人が住んでいる大きな町です。このダマスコ、あるいはダマスカスとも呼ばれている有名な町です。

このダマスコはキリスト教とも縁(ゆかり)のある町ですね。サウロがクリススチャンを迫害するために出かけて行った町です。当時彼はユダヤ教に熱心で、それは神の教会を迫害したほどでした。そのサウロがクリスチャンというクリスチャンを捕らえて縛り上げ牢屋の中にぶち込もうとして出かけて行った町、それがダマスコです。結局、彼はそのダマスコに向かう途中で復活の主に出会い回心に導かれました。目から鱗の体験をしたわけです。サウロからパウロに変えられました。そのダマスコです。

そのダマスコに対してどんなことが語られているのでしょうか。「見よ。ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる。アロエルの町々は捨てられて、家畜の群れのものとなり、群れはそこに伏すが、それを脅かす者もいなくなる。エフライムは要塞を失い、ダマスコは王国を失う。アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる。」ということです。

ここで注目していただきたいことは、このダマスコは取り去られて廃墟となると言われていることです。先ほど申し上げたように、このダマスコは世界最古の町ですが、その歴史においてはまだ一度も廃墟になったことがありません。昔からずっと今に至るまで人が住み続けているわけです。しかし、ここにははっきりと「廃墟となる」と言われています。ということは、この預言はこれから起こるということです。ですから、これはイザヤの時代に起こることではなく、遠い未来に起こることが預言されているわけです。とはいっても、イザヤがこれを預言したのはアハズ王が死んだ年(14:28)、すなわちB.C.715年ですから、もう2700年も経っているわけです。それはそう遠くない未来に起こることでしょう。毎日テレビのニュースを観ていると、このシリヤの情勢が非常に緊迫しています。2007年にはシリヤが核を保有しているということでイスラエルが空爆を行いました。このみことばの実現に向かって刻一刻と進展しているわけです。もしダマスコが壊滅したということを聞いたら、このみことばが成就したんだと思ってください。イザヤの時代には遠い未来のことでしたが、現代に生きている私たちにとっては、これは近い未来に起こる出来事なのです。ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟になります。アロエル、これもシリヤの町のことですが、アロエルの町々は捨てられて、家畜がたむろするようになるのです。

ところで、3節を見てください。突然ここにエフライムが出てきます。エフライムとは北イスラエルのことです。今ダマスコに対して語られているのに、突然エフライムのことが出てきます。「エフライムは要塞を失い、ダマスコは王国を失う。アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる。」と。

いったいどうしてここにエフライム(北イスラエル)のことが言及されているのでしょうか?実はこのときエフライムはアラムと手を組んでいました。隣国アッシリヤの攻撃に対処するために、彼らは同盟を結んだのです。もちろん、南ユダ王国にも動揺がありました。けれども、そのような危機的状況の中でもヒゼキヤ王は神に信頼し神に助けを求めて祈ったので、神が奇跡的に助けてくださいました。しかし、エフライムはそうではありませんでした。彼らは神に信頼しないでアラムと手を組んだのです。そのために彼らは、アラムとともに滅ぼされることになったのです。ダマスコはB.C.732年に、エフライムはB.C.722年にそれぞれ陥落しました。エフライムは要塞を失い、ダマスコは王国を失ったのです。

これはどういうことかというと、たとえ神の民であっても異教の国と手を組むようなことがあると、滅ぼされてしまうということです。これまでのイスラエルの歴史をみるとき、主が災いを下されるときにはいつもイスラエルを他の民族と区別して、イスラエルには災いが下ることがないようにしてくださいましたが、ここでは違います。ここではダマスコと一緒にさばかれているのです。神を信じているクリスチャンでもこの世と調子を合わせたり、この世の中に埋没していくことがあるとすれば、エフライムのような結果を招くことになるということです。

ローマ人への手紙12章1節と2節を開いてください。ここには、「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。

「この世と調子を合わせてはいけません」口語訳では「妥協してはならない」です。これはこの世から離れなさいとか、遠ざかりなさいということではありません。イエス様は「あなたがたは地の塩、世の光です」と言われました。この世にあって塩のように、また、光のように生きなければならないのです。なぜなら、クリスチャンはこの世から救い出され、神の国の中に入れられたからです。国が違えば、法律も違います。どの世界に住んでいるかによって、その生活のスタイル、原理原則は違います。クリスチャンは神の国のものですから、神の国の原則に従って生きているのであって、この世の原則に従ってはいません。だから、神から離れたこの世の思想や流行に合わせるのではなく、神のみこころは何なのか、何がよいことで神に受け入れられるのかをわきまえ知らなければなりません。そのために必要なことは何でしょうか。心の一新によって自分を変えることです。神の御霊によって心を変えていただかなければなりません。日々、あなた自身を神にささげてください。あなたのからだを、神に受け入れられる生きた供え物としてささげてください。それが霊的な礼拝です。その霊的な礼拝によって、あなたの中に聖霊が臨み、あなたは新しく変えられ、神のみこころをわきまえ知ることができるようになるのです。

ロトの妻は、この世と調子を合わせてしまったので、塩の柱になってしまいました。(創世記19:26)彼女は、主がアブラハムのゆえにロトとその家族を救おうとされたとき、御使いから「いのちがけて逃げるように。うしろを振り向いてはいけない。」と言われたのに、従いませんでした。うしろを振り向いてしまったのです。なぜでしょう。この世に未練があったからです。彼女はソドムの人々の罪深い生活が気に入っていたので、そこから立ち去りたくありませんでした。彼女は神の警告を無視したために、塩の柱になってしまったのです。

あなたの中にこのロトの妻と同じような思いはありませんか。この世があまりにも魅力的なので、そこからなかなか抜け出せないでいるということはないでしょうか。あなたを神にささげてください。この世と調子を合わせるのではなく、神に焦点を合わせてください。神のみこころは何か、何が良いことで、神に受け入れられることなのかをわきまえ知り、そのみこころに歩もうではありませんか。そうでないと、エフライムがダマスコと一緒に滅びたように、この世と一緒に滅んでしまうことになってしまうのです。

Ⅱ.アラムの残りの者(3b-6)

第二のことは、そのような中でも神様は残りの者を残しておられるということです。3節後半をご覧ください。ここには、ダマスコは王国を失うと言われた後で、「アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる。」とあります。

エフライムとアラムは、神ではなく人に頼ったので、神はエフライムとアラムを裁かれました。しかし、そのようなさばきの中にあっても、わずかに残りの者を残し、彼らをイスラエル人の栄光のように扱われるというのです。4節から6節をご覧ください。「その日、ヤコブの栄光は衰え、その肉の脂肪はやせ細る。刈り入れ人が立穂を集め、その腕が刈り入れる時のように、レファイムの谷で落穂を拾うときのようになる。オリーブを打ち落とすときのように、取り残された実がその中に残される。二つ三つのうれた実がこずえに、四つ五つの実りがある枝に残される。―イスラエルの神、主の御告げ―」

ここに「その日」という言葉があります。これはイザヤ書におけるキーワードの一つであるということは前にもお話したとおりです。もっと具体的に言うならば、これはイザヤがおかれていた時代のことと同時に、世の終わりのことが預言されているわけです。その日、ヤコブの栄光は衰え、その肉の脂肪はやせ細ります。刈り入れ人が立穂を集め、その腕が穂を刈り入れるときのように、レファイムの谷で落ち穂を拾うときのようになるのです。そこにわずかながら穂が残るという意味です。ボアズの畑で落ち穂拾いをしたルツは、この残りの穂を拾ったのです。また、オリーブの実を刈り取るようになります。オリーブの実を刈り取るとき、すべての実が完全に落ちるかというとそうではありません。そこに二つ、三つの実が残されます。それと同じように、アラムの中にもわずかながらですが、残りの者が残されるのです。神は、アラムが異邦人だからといってすべてを刈り取るようなことはなさいません。そこにイスラエルの真の神を信じ、従う、敬虔な民を残しておられるのです。

あの有名はアラムの将軍ナアマンはその一人です。彼は全身重い皮膚病で苦しんでいましたが、イスラエルの神を信じて救われました。神の預言者エリシャのことばを信じてヨルダン川に七度身を浸して救われたのです。

皆さん、私たちが落胆するのは、どういう時でしょうか?礼拝にあまり人が来ない時です。祈祷会に人がいない時です。救われる人がいない時です。しかし、それで落胆してはいけません。神様はその中にもちゃんと残りの者を残しておられるからです。

エリヤの時代、イスラエルは最悪の暗黒時代を迎えていました。神様に従う人々は激しい弾圧を受け、国中が神様から離れて、バアルとアシェラ像を拝んでいたのです。福音を伝え続けて疲れ果てたエリヤは、神様の御前にこのように嘆きました。「主よ。私は万軍の神、主に熱心に仕えてきました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りました。」(Ⅰ列王19:14)彼は、私しか残っていないと嘆いたのです。すると、神様は言われました。「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」(同19:18)どういうことでしょうか?神様は、イスラエルと結ばれた契約を捨てなかった、ということです。神は、信仰を持って祈る人を残しておかれたのです。  今の時代も同じです。信じている人がだれもいないように見える中で、神様は残りの者を残してくださり、その人たちを通して神のみわざを行っておられるのです。これが神の方法です。

最近、和歌山県にある美浜グレイスキリスト教会、これは日本バプテスト教会連合に所属する教会ですが、献堂式を行ったという記事を読みました。この教会は戦後間もなくアメリカ人宣教師フランシス・B・ソーリーという宣教師によって開拓され1971年には旧会堂を建設しましたが、宣教師が帰国したあと、20数年にわたり無牧の状態が続き、一時は礼拝出席者が2名にまで減少しました。また台風による旧会堂の床上浸水などの試練にも遭い、解散もしくは合併の危機に直面しました。しかし、この残りの民である二人が最後までこの教会を守ると決心をし、祈り続ける中で、3年前から近隣にあるバプテスト教会連合の教会の牧師による兼牧が始まりました。そのうちに、受浸者や転会者が起こされ、現在会員が8名にまで回復、この8人と客会員、彼らの家族が力を合わせて、今回の新会堂献堂に至りました。おおよそ、教会形成の理念や戦略といったものには全く無縁の教会ですが、兄弟姉妹たちの神様の力を信じきるまっすぐで単純な信仰、そしてあきらめない祈り、そして神様への素朴な献身が豊かな実を結んだのです。教会は、このような残りの民によって守られ、支えられ、前進していくのです。

皆さん、「残りの民」は必ずいるのです。世の終わりまで、主が来られる時まで信仰を堅く守り、神様の御前に従う約束の民は必ずいます。どんなに大きな迫害や、どんなに苦しい状況があったとしても、神の恵みによって「残りの民」は保たれているのです。

このシリヤのダマスコですが、現在人口が2,190万人の大都市です。そのほとんどはイスラム教徒ですが、その中にもクリスチャンがいるんですね。クリスチャンの割合は10%です。ですから、もちろんクリスマスは公休日です。信教の自由がないこの国で10%ものクリスチャンがいることは、神の約束がいかに真実であるかを物語っているのではないでしょうか。日本では信教の自由が保障されているのにクリスチャンは1%にも満ちていません。プロテスタントだけで言うと0.2%です。それでも0.2%はいるのです。ほんのわずかですが、神様はちゃんと残りの民を残しておられるのです。

ですから、たとえ教会が小さいからと言って、そこにあまり人が集まっていないからと言って、落胆してはいけません。神様はどこにでもこの「残りの者」を残しておられ、ご自分の御業を進めておられると信じて、そのみことばに従っていかなければならないのです。

Ⅲ.救いの神を忘れないで(7-11)

では誰が「残りの者」なのでしょうか?最後に、それは神の救いの恵みを覚え、そこにしっかりととどまっている人だということをお話して終わりたいと思います。7節と8節をご覧ください。「その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。」

「その日」、アラムの人々は偶像を捨てイスラエルの偉大な主に立ち返るようになります。悔い改めがイスラエルだけでなく、異邦人であったアラムの人々にも起こるわけです。これは、異邦人であっても主に信頼して救われる残りの民が現れるという希望のメッセージです。

それに対して9節のことばはイスラエルに対して語られています。「その日、その堅固な町々は、森の中の見捨てられた所のようになり、かつてイスラエル人によって捨てられた山の頂のようになり、そこは荒れ果てた地となる。」

「その堅固な町々」とは、イスラエルが占領したカナンの町々のことです。エリコの町は、城門が堅く閉ざされた堅固な町で、だれひとり出入りするものがありませんでした。しかし、たとえそのような堅固な町であっても偶像崇拝を行っていたので、イスラエルによって滅ぼされてしまいました。そして、今度はそれと同じようなことがイスラエルの身に起こるというわけです。イスラエルは神の民でしたが神の背き神から離れてしまったので、神の民としての特権を奪われ、そこは荒れ果てた地になってしまうというのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。10節と11節にその原因が記されてあります。「あなたが救いの神を忘れてあなたの力の岩を覚えていなかったからだ。それで、あなたの好ましい植木を植え、他国のぶどうのつるをさす。あなたが植えたものを育てるときに、朝、あなたの種を花咲かせても、病といやしがたい痛みの日に、その刈り入れは逃げうせる。」

どういうことでしょうか。彼らがそのようになってしまったのは、救いの神を忘れてしまったからです。力の岩を覚えていなかったからなのです。非常に重要な警告です。決して犯してはならない過ちです。救いの神を忘れてはなりません。私たちにとって一番大きな危機は何でしょうか。この救いの神を忘れてしまうことです。それによって、私たちの霊的な運命が決まってしまうからです。

ルカの福音書に、十人のらい病人がいやされた話があります。イエスが、サマリヤとガリラヤの境にある村を通り過ぎていた時です。十人のらい病人が、声を張り上げて叫びました。「イエス様、先生、どうぞ憐れんでください。」彼らの必死の叫びを聞かれたイエスは、彼らを憐れんで言われました。「行きなさい。そして自分の身体を祭司に見せなさい。」このみことばを聞いたらい病人たちは、祭司長の所に行く途中で完全に癒されました。ところが、こうして癒された十人の中で、神をほめたたえるためにイエスのもとに戻って来たのは、たったひとりだけでした。しかもそれはサマリヤ人だったのです。それを見たイエスは言われました。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」それからイエスはそのサマリヤ人に言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」結局このサマリヤ人は病が癒されたばかりでなく、救いを得る恵みを受けるようになりました。

今日、大きな恵みを受けてもすぐに忘れてしまうこの9人のような人がたくさんいます。ことわざに「恵みは水に記し恨みは石に刻む」という言葉があります。恵みはすぐに忘れても、恨みは絶対に忘れないという意味です。多くの恵みを受けても、その恵みをあまりにも容易に忘れてしまうのです。特に親や兄弟、夫婦のようにごく身近な人たちから受けた恵みは、受けて当然のものと考えています。 そうして他人と比較しては、あれがない、これがだめだと不足な部分を探し出し、それに対する恨みを心に根強く持ち続けることが多いのです。神の恵みを忘れてはいけません。

主エスは「わたしを覚えてこれをおこないなさい」と言われました。聖餐式は、イエスの恵みを覚えるものです。神がイエスを通してあなたに何をしてくださったのかを、いつも覚えておかなければなりません。私たちはらい病人のように 腐り果てる罪人でしかありませんでした。罪のゆえに本当に虚無的で悲劇的な人生を送らなければならなかったのです。しかし、そんな私たちのために神はイエス・キリストをこの世に送り、十字架につけてくださることによって、罪を処罰してくださいました。この主イエスの犠牲的な愛と恵みによって神から離れて死に向かっていた私たちは、その罪から救われ天国に入れていただけるようになりました。私たちは罪と死によって全く絶望的な壁にぶつかり、砕け散るしかないような存在でしたが、永遠のいのちを受ける者とされたのです。神はイエス・キリストによって、私たちの霊魂の中に真の喜びをもたらしてくださいました。私たちは、この救いの神を忘れてはならないのです。いつもこの救いの神を覚え、感謝をささげる者でなければなりません。

アメリカのバージニア州に、貧しい母子が住んでいました。牧師であった父親は子どもが幼い時に天に召され、母親が女手一つで他人の洗濯や掃除などをして苦しい家計から学費を捻出しました。子どもである息子は、いつも母親の労苦に感謝して熱心に勉強に励み、努力してプリンストン大学を卒業しました。卒業式では大学の総長から賞を受け、卒業生総代としてスピーチをしました。彼はスピーチの最後にこう言いました。「お母さん感謝します。お母さんのお陰でこうしてボクは卒業することができます。ですからこれは僕が受けるのではなく、お母さんが受け取るべきです。」そう言うと彼は、学長から受けた金メダルを、みすぼらしい服を着た母親の胸にかけてやりました。やがてその息子は、弁護士になり、大学教授になり、ついには大統領になりました。彼こそ二十代アメリカ大統領ウィルソンです。後に彼はノーベル平和賞も受賞しました。

「わたしを覚えてこれを行いなさい。」あなたは救いの神を忘れないために何をしていますか。こうして日曜ごとに礼拝に出席すること、また、聖餐の恵みに預かること、これは主イエスの救いの恵みを忘れないために大切なことなのです。きょうはこの後で婚約式が行われますが、7月15日は二人にとって決して忘れられない日になるでしょう。いや忘れてはいけません。7月15日という日にちではなく、そのように導いてくださった神の恵みを忘れてはならないのです。  どうか救いの神を忘れることがありませんように。いつも主の救いの恵みを覚え、主に感謝をささげることができますように。それが残れた者のしるしであり、さらに多くの祝福を受ける人なのです。