イザヤ書18章1~7節 「わたしは静まってながめよう」

きょうは、イザヤ書18章から学びたいと思います。タイトルは、「わたしは静まってながめよう」です。1節を見ると、「ああ。クシュの川々にある羽こおろぎの国」とあります。これは、下の欄外の説明にもあるように「エチオピヤ」のことです。当時のクシュというのは現在のエチオピアよりももっと広範囲で、現在のスーダンやソマリヤを含む地域でした。クシュの川々とはナイル川の支流のことで、そこは「羽こおろぎの国」と呼ばれていました。この「羽こおろぎ」とは何なのかははっきりわかりませんが、この国に多いツェツェばえのことではないかと言われています。エチオピアは非常に蒸し暑く、羽こおろぎが多いことで有名です。  きょうは、このクシュに対する神のさばきの宣言から、圧倒的な主の力について三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.静まってながめよう(1-4)

まず第一のことは、ただ神に信頼せよということです。1節と2節をご覧ください。「ああ。クシュの川々にある羽こおろぎの国この国はパピルスの船を水に浮かべて、海路、使いを送る。すばやい使者よ、行け。背の高い、はだのなめらかな国民のところに。あちこちで恐れられている民のところに。多くの川の流れる国、力強い、踏みにじる国に。」

ここにはクシュ、エチオピアが使いを送るとあります。いったいどこに、また何のめに送るのでしょうか?イスラエルです。南ユダ王国にです。その当時、アッシリヤが隆盛を極めていて、アッシリヤはB.C.732年にシリヤを滅ぼすと、B.C.722年には北イスラエル、そして、B.C.701年にはペリシテを、さらにはヨルダンの東にあったモアブ、そして、南のアラビヤを支配すると、今度は南下を続け、ついにエジプトにまで迫っていました。そこでそのアッシリヤに対抗するに南ユダ王国に使いを送り同盟を結ぼうとしたのです。つまり、これはアッシリヤの脅威に対するクシュの外交活動だったのです。

それに対してユダの王はどうしたでしょうか?2節の後半から4節にかけて次のようにあります。「すばやい使者よ、行け。背の高い、はだのなめらかな国民のところに。あちこちで恐れられている民のところに。多くの川の流れる国、力強い、踏みにじる国に。世界のすべての住民よ。地に住むすべての者よ。山々に旗の揚がるときは見よ。角笛が吹き鳴らされるときは聞け。「わたしは静まって、わたしの所からながめよう。」」

ここでは「全世界のすべての住民よ」と呼びかけられています。もうクシュだけではありません。全世界が主のわざが行われることに注目するように、主が戦いを宣告されるというのです。

クシュにしても、南王国ユダにしても、アッシリヤの脅威に対して、とてもじゃないけど太刀打ちできないという焦りの中で、かなり動揺していました。心騒がせていました。パニクッていたのです。そんなクシュの人たちに対して、主が言われたことはこうでした。「わたしは静まって、わたしの所からながめよう。」

ここで神は全く動揺していません。パニくってもいません。焦ってもいません。ただ静観しておられます。「わたしは静まって、わたしの所からながめよう」と言っておられるのです。まさに高みの見物です。その状況をすべてご存知の上で、ただ静かにながめておられるのです。神様はあわてたり、動揺したりする必要などないからです。彼らがどんなに軍隊を組んで攻めてこようが、そんなのは小さな蟻が軍隊を組んで人間を攻撃するようなもので、何の役にも立ちません。一息で吹っ飛ばしたり、足で踏みつけることができるのです。人間がどんなに騒いでも、神にとっては全く動じることはないのです。神様は圧倒的な力を持っておられる方なのです。

詩篇2篇1節から6節までを開いてみましょう。ここには、「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」とあります。

これは有名なメシヤ詩篇と呼ばれるものです。なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのでしょうか。地の王たちは立ち構え、相ともに集まり、主と、主に油注がれた者とに逆らおうとするのでしょうか。これは世の終わりの最終戦争、ハルマゲドンの戦いの預言です。世界中からハルマゲドンに集結して、主と、主に油注がれた者、これはメシヤなるキリストのことですが、それに対抗しようとします。しかし、主は彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てるのです。全く相手になりません。彼らがどんなに一つになって攻めても、主は一息で滅ぼされます。鼻息だけで吹っ飛ばしてしまうのです。神は、それほどに力ある方なのです。なのになぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのでしょうか。圧倒的な力を持っておられる主にゆだねることこそ、真の解決なのです。

今、あなた心を騒がせているものは何ですか。私たちの周りには、私たちの心を騒がせるものがたくさんあります。しかし、それがどんなものであっても、私たちの主はそうしたものに全く動揺することがなく、簡単に解決することがおできになるのです。であれば、私たちはどんな状況にあっても心を騒がせることなくすべてをこの方にゆだね、主が解決してくださるのを静かに主の解決を待ち望む者でありたいと思うのです。

2章22節には、「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値打ちがあろうか。」とあります。鼻で息をする人間とはすぐに死んでいくもろい存在のことです。そうしたものは、きょうきれいに咲き誇っていても明日には枯れてしまう花のようなもので、もろいのです。そんなものにいったい何の値打ちがあるというのでしょうか。どんなに偉大な指導者も頼りにはなりません。人はみな死ぬ運命にあるからです。呼吸が止まり、いのちの火が消えた瞬間に、その人の人生の計画は、すべて水の泡になってしまいます。本当に頼りになるのはこの天と地を造られた創造主なる神であって、この人類の歴史を通して私たちをとことん愛しておられる神なのです。

今、ちょうど祈祷会で出エジプト記を学んでおりますが、エジプトにいるイスラエルを救い出すために神はモーセを召されました。ところが、モーセはいろいろな言い訳をして行こうとしないんですね。行きたくないのです。行きたくないので、その召命を断る理由をあげるのです。まず彼があげた理由は、「わたしはいったい何者なのでしょうか」ということでした。私にはそんな力なんてありませんよ、というのです。それに対して主は、「わたしはあなたと共にいる」と約束してくださいました。あなたが何者であるかなんて関係ない。このわたしがあなたとともにいて、エジプトにいる彼らを救い出す、と言われたのです。  それにた対してモーセが言ったことは、「わかりました。でも、あなたがたの父祖の神が、私をあなたのところに遣わされたと言えば、その名は何かというでしょう。何と答えたらいいんですか。すると神はこう言われたのです。「わたしはあるというものである。」「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた」と言いなさい。どういう意味でしょうか。「私はあるというものである」とは・・。これは、他の何にも依存せずに存在することができる方であるという意味です。人間はそうじゃないでしょ。人間は食べ物があって、飲み物があって、息をして、他の人に頼って、他のものに依存してやって生きることができるわけですが、本当の神様はそのような方ではありません。他の何にも依存せずに存在することができるのです。存在の根源なる方です。永遠から永遠まで生きておられる方です。過去においても、現在においても、未来においても、ずっと存在しておられる方です。この方はすべてのものを創造された神なのです。その方が私を遣わされたと言え、と言われたのです。

皆さん、これが神の名前です。永遠にわたって呼ばれる神の御名なのです。「わたしはあるというものである」神は、他の何ものにも依存せず、ただそれだけで存在することができる方なのです。永遠から永遠まで存在しておられ、この天地万物のすべてを創造された神なのです。 私たちが真に信頼することができるのは、この方なのです。この方は、あなたを愛し、あなたのために御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。であれば、神は御子といっしょにすべてのものを恵んでくださらないわけがありましょうか。神は、あなたのために、あなたの必要のためにすべてのものを与えてくださるのです。あなたが本当に信頼しなければならないのは、この方なのです。

ダビデは、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」(詩篇62:1-2)と言いました。ダビデはなぜこのように告白することができたのでしょうか。それは、彼が自分を愛してやまない創造主なる神様こそ、信頼に値する方であるということを自分の体験を通して知っていたからなのです。

皆さん、皆さんを愛してやまない方がいらっしゃいます。どんなことがあってもあなたを見放さず、見捨てないと言われる方がおられるのです。その方が主、この天地を造られた創造主なる神です。あなたがこの方の腕の中に飛び込めば大丈夫だという信頼があるとき、あなたもダビデのような賛美が生まれてくるのです。さまざまな「恐れと不安」という呪縛から解放され、この方の腕の中に安らぐことができるようになるのです。

Ⅱ.神には時がある(5-6)

第二に、しかし神には時があるということです。5節と6節までをご覧ください。「刈り入れ前につぼみが開き、花ぶさが育って、酸いぶどうになるとき、人はその枝をかまで切り、そのつるを取り去り、切り除くからだ。それらはいっしょにして、山々の猛禽や野獣のために投げ捨てられた。猛禽はその上で夏を過ごし、野獣はみな、その上で冬を過ごした。」

どういうことでしょうか?これは、ぶどうの剪定(せんてい)のたとえです。パレスチナではぶどうが収穫されるのは五月頃で、すでに花が散ったぶどうの木にぶどうがなり始めますが、その時、農夫は熟した良いぶどうができるように、実を結ばない枝を剪定するわけです。切り取ってしまうのです。そして、実を結ばない枝は、山に住む猛禽の夏の餌として、野に住む野獣の冬の餌として与えられるのです。つまり、これまで高いところから静かにながめておられた主が、刈り込みをなさる時があるということなのです。

皆さん、神は時が熟するのを待っておられます。イスラエルがエジプトにいた時も、神は待っておられました。ヤコブがエジプトに下って来てから約四百年の間、確かに神が働いておられましたが、神からの直接的な介入がありませんでした。エジプトでの激しい苦役のもと、もう見捨てられたのではないかと思っていたとき、神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こし行動を起こされたのです。時が熟するまでに長い時がありました。しかし、その時が満ちたとき、神はモーセを立てて彼らをエジプトから救い出されたのです。

また、彼らがエジプトから脱出するときも、すぐに出て行くということができませんでした。神は何度も何度もパロの心をかたくなし彼らを出て行かせませんでした。いったい何のためだったのでしょうか。神の栄光が現されるためです。そのようにして神は最後にイスラエルを紅海の水を真っ二つに分け、その乾いた道を通ることによって救い出されたのです。そして、エジプトの軍隊をその水で滅ぼされました。これが神のなさることなのです。このように神は、神の偉大なみわざをイスラエルに、また全世界に知らしめるために、あえてその時を設けておられたのです。

イエスが愛してやまなかった人たちの中に、マルタとマリヤの姉妹がいましたが、その弟ラザロが病気だった時も同じです。マルタとマリヤはイエスのところに使いを送り、そのことを告げるのですが、イエスはというと、ラザロが病んでいるということを聞いても、そのおられたところになお二日とどまっておられました。それでラザロは死んでしまうのです。後日、イエスが彼らの家に行ってみると、マルタはイエスに言いました。「主よ。もしあなたがここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」なぜ早く来てくださらなかったのですか。なぜ兄弟が生きているうちにいてくださらなかったのですか。それは神の栄光が現されるためです。もう死んで四日も経っていましたが、イエスは彼らに言われました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光をみる。」(ヨハネ11:40)人は死ねば終わりだと考えます。しかし、イエスを信じる者は死んでも生きるのです。死んでも生きる・・・。そう言われた主は、ラザロが葬られていた墓の前に立ち、大声で言われました。「ラザロよ。出てきなさい。」すると、死んでいたラザロが生き返ったのです。手と足を長い布で巻かれたまま出てきました。  なぜイエスは早く行かなかったのでしょうか。それは、神の栄光が現されるためです。これが神のなさることであります。私たちは、その時を神にゆだねなければなりません。信じなければならないのです。信じるなら、神の栄光をみるようになるからです。

私たはち一見、神様は私たちのことを救ってくださらない、何もしてくださらないというふうに感じるときがありますが、そうではありません。逆に神様は私たちを救おうとして、その時が熟するのを待っておられるのです。そして神の栄光がはっきりと現れるようにしてくださいます。私たちはそのことを覚えておかなければなりません。そして、状況が全く変わらないような時でも、この神の時を忍耐して待ち望む者でありたいと思うのです。

Ⅲ.シオンの山に贈り物が(7)

最後に、そんなクシュでありますが、このクシュにも神の恵みが注がれているということを見て終わりたいと思います7節をご覧ください。「そのとき、万軍の主のために、背の高い、はだのなめらかな民、あちこちで恐れられている民、多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじる国から、万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれて来る。」

これはどういうことでしょうか?アッシリヤの攻撃に対して南ユダ王国に使いを送り、自分たちと同盟を結びこれに対抗しようと騒いでいたクシュに対して、主はイザヤを通して言われました。そんなことしなくてもいい。わたしはすべてのことをちゃんとながめていて、その時になったら打ち倒すから。だから、あなたがたは静かにしていなければならない。ただ神を信じて、静かに待っていなければならないのだ・・・と。

しかし、クシュはこの神のことばを受け入れませんでした。そして20章をみるとわかるのですが、エジプトともにアッシリヤに滅ぼされてしまいます。あのモアブの時と同じように、なぜ自分たちがイスラエルの神を信じなければならないのか、なぜ力のある我々が彼らの神の助けを期待しなければならないのかと言って、神のことばを拒んだのです。

しかし、ここをみると、そのクシュ、エチオピアが、シオンの山に贈り物を運んでくるようになるというのです。この贈り物とは回心のことです。そんなエチオピア人も主に立ち返るようになるということなのです。これは終わりの日のエチオピアの姿です。終わりの日に、「万軍の主のために、背の高い、はだのなめらかな民、あちこちで恐れられている民、多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじる国から、万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれて来る。」 クシュは、「万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれて来る。」ようになるというのです。

果たせるかな、それが文字通り実現します。使徒の働き8章26節から38節をご覧ください。少し長いところですが、お読みしたいと思います。これはエチオピアの宦官が救われた話です。彼は礼拝のためにエルサレムに上り、そこから帰る途中で、馬車に乗りながら、イザヤ書を読んでいました。すると、御霊がピリポに言われました。「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と。ロンドンオリンピックの開催ももうすぐですが、ピリポはずいぶん足が速かったんですね。馬車に近寄ることができました。オリンピックに出たら金メダルも取れる速さです。そして、宦官が読んでいた箇所からイエスのことを宣べ伝え、バプテスマを授けました。エチオピア人の宦官が、主イエスを信じたのです。そのためエチオピアにはクリスチャンが増え、コプト教会という古代教会もあるほどです。傲慢で、イザヤの預言をなかなか受け入れなかったクシュ人、エチオピアですが、そのような中にも主を信じる人を起こしてくださり、シオンの山に贈り物が運ばれて来るようになったのです。

これは異邦人の救いの型です。やはり主はイスラエルだけでなく、このエチオピアや周辺の諸国にも救いをお与えになろうと考えておられたのです。私たちはこのことを覚えて、傲慢になって、神のことばを拒んだりせず、こんな者でもあわれんでくださる神の恵みとあわれみに感謝して主の救いにあずかる者でありたいと思います。

ここには、シオンの山に、贈り物が運ばれてくるとありますが、主が最も喜ばれる贈り物とは何でしょうか。それは金や銀ではありません。それは私たち自身です。私たち自身のたましいなのです。そのたましいが神のみもとに立ち返り、神とともに生きるようになるとき、神は最も喜んでくださるのです。

先日、東京にいる娘が戻って来た際、祈祷会に出て証してくれました。娘は今、東京にあるジーサス・ライブ・ハウスという教会に行っているのですが、この教会では毎週月曜日と火曜日、そして木曜日の夜に、ストリートライブをして伝道しています。路傍伝道ですね。娘は火曜日のライブに参加しているのですが、それは六本木で行われています。六本木というのは居酒屋が多いらしいのです。そして、その居酒屋の定員さんが外に出てチラシを配っているのです。娘達が集まっていたとき、そこにその定員さんが来て、「とても雰囲気が良くて、楽しい居酒屋があります。どうぞ来てください。」と言ってチラシを手渡したそうです。するとそこにいた教会の若いメンバーが、こっちはもっと楽しくて、雰囲気が いいところです。どうぞ来てください、と言って教会の案内を手渡したそうです。すると、次の日曜日の礼拝にその方が来られました。その教会では午前11時と、12時45分、3時半と、5時半の4回礼拝が行われているのですが、その方は12時45分の礼拝に来られました。そして、その後3回の礼拝全部に出られたそうです。そして、その教会では毎回の礼拝で決心を募ります。「どうですか。イエス様を信じる方は手をあげてください」するとその方は手を上げませんでした。次の礼拝でもあげませんでした。しかし、最後の礼拝の時に招きに応じて手をあげたのです。  娘たちはとても喜んで歓迎しました。するとその方がこう言われたそうです。「いや、みんなとても輝いていたので、何かあるなぁと思って来てみたけど、本当にここは輝いています」と。何よりも神様がどれほど喜んでおられたことかと思います。神様が最も喜ばれるのは砕かれた、悔いた魂です。私たちのたましいが主のみもと似立ち返り、神とともに生きるようになることを、主は臨んでおられるのです。

万軍の主のある所、シオンの山に、送りものが運ばれて来る。この国も必ずそのようになります。私たちのたましいが主への贈り物として運ばれていく時がやって来るのです。そう信じて、私たちは神のみことばに従順に従いましょう。そして、静まって、主がみわざを行ってくださる時を待ち望もうではありませんか。