イザヤ書19章1~25節 「わたしの民エジプト」

きょうは、イザヤ書19章のみことばからご一緒に学びたいと思います。タイトルは「わたしの民エジプト」です。25節のところで、主はエジプトを祝福してこう言っておられます。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」本当に不思議なことばです。ここで主はエジプトを「わたしの民」と呼んでいるのです。「わたしの民」というのは普通イスラエルに対して言われていることなのに、ここではエジプトにも、いやアッシリヤにも使われているのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。  きょうは、このエジプトに対する神の宣告から三つことをお話したいと思います。

Ⅰ.エジプトに対するさばき(1-15)

まず第一に、エジプトに対するさばきの宣告から見ていきましょう。1~15節までをご覧ください。1節をお読みします。

「エジプトに対する宣告。見よ。主は速い雲に乗ってエジプトに来る。エジプトの偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底からしなえる。」

ここで主は、「速い雲に乗ってエジプトに来る」と言っておられます。これは神がエジプトをさばかれるために速やかに来られるという意味です。エジプトの問題は何でしょうか。偶像です。偽りの神々であります。ですからここに、「エジプトの偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底からしなえる。」とあるのです。また、3節にも「エジプトの霊はその中で衰える。わたしがその計画をかき乱す。彼らは偽りの神々や死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てる。」とあります。これはがエジプトの姿でした。エジプトはいろいろな偶像で満ちていました。太陽の神、ナイルの神、かえるの神、ブヨの神、アブの神までいました。エジプトの王パロ自身も神でした。エジプトは何でもかんでも神になり、なんでもかんでも拝んでいました。

なぜエジプトはそんなに偶像を拝んでいたのでしょうか。それは、そうした偶像が自分自身を投影していたからです。皆さん、偶像というのは自分の欲望の投影として生まれてくるのです。何かをするとき、それがうまく行くようにと偶像を造るわけです。商売繁盛を願う人、大学受験で希望の大学に合格するようにと神社に行き、絵馬などを奉納している姿をよく見ます。それも同じです。「車のライセンスが最短距離でとれますように」、「できるだけ安くあがりますように」などと、みんな自分の願いを書いて絵馬に託すわけです。自分の願いを聞いてくれる神が必要だから、その神を人間が造るのです。ですから、偶像というのは人間の欲望を投影させて形にあらわしたものなのです。私たちの住むこの日本にも偶像がたくさんあります。日本は八百万の国ですから、神々が八百万もいるのです。何でも神になります。自分の欲望を満たしてくれるなら、それでいいわけです。そういうのを神にしてしまうのです。それがこの罪の世の姿なのです。そうした偽りの神々を、主は速い雲に乗って来られ、さばかれるのです。

どのようにさばかれるのでしょうか。2節をご覧ください。「わたしは、エジプト人を駆り立ててエジプト人にはむかわせる。兄弟は兄弟と、友人は友人と、町は町と、王国は王国と、相逆らって争う。」

「エジプト人を駆り立ててエジプト人にはむかわせる」どういうことでしょうか。エジプトに内乱を起こすということです。エジプト人同志が戦って、自分たちの国力を弱めていくというのです。今もエジプトでは内紛が絶えません。先に行われた大統領選挙を無効とする裁判所と軍が、大統領と議会側と激しく対立しています。エジプトの歴史をたどってみるとずっとそうなんです。たとえば、あの有名な古代エジプト第18王朝のファラオであったツタンカーメン(Tutankhamun、紀元前1342年頃 – 紀元前1324年頃)はものすごい財宝を誇る王でしたが、内乱につぐ内乱で、自分たちの国力を消費してしまい、ツタンカーメン以降、ついには衰退の一途をたどり、ほとんど世界に力をもつことができなくなりました。それは神を計算に入れないで、自分たちの賢さによって歩もうとした彼らに対する神の審判、さばきだったのです。

もう一つは、外国の侵略によるさばきです。4節をご覧ください。ここには、「わたしは、エジプト人をきびしい主人の手に引き渡す。力ある王が彼らを治める。―万軍の主、主の御告げ―」とあります。内側だけでなく、外側からも踏みにじられるというのです。実際にイザヤの時代にはアッシリヤが台頭してきていて、エサルハドンという王がエジプトを攻め、首都テーベを取ります。(B.C.664)そして、その後もバビロンやペルシャによって非常な脅かしに遭い、ついにはギリシャの王アレキサンダー大王によって統一されてしまいます。この預言のとおりになるわけです。

そればかりではありません。5節から10節までのところを見ると、ナイル川が干上がるとあります。「海から水が干され、川は干上がり、かれる。多くの運河は臭くなり、エジプトの川々は、水かさが減って、干上がり、葦や蘆も枯れ果てる。ナイル川やその河口のほとりの水草も、その川の種床もみな枯れ、吹き飛ばされて何もない。漁夫たちは悲しみ、ナイル川で釣りをする者もみな嘆き、水の上に網を打つ者も打ちしおれる。亜麻をすく労務者や、白布を織る者は恥を見、 この国の機織人たちは砕かれ、雇われて働く者はみな、心を痛める。」

ご存知のとおり、世界最古の、そして最長のエジプト文明が発達したのは、ナイル川のおかげです。毎年ナイル川がの洪水によって上流から栄養分をたっぷり含んだ土が流れてくるので、肥沃な土壌と水によって、豊かな農作物がもたらされました。前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスは、「エジプトはナイルの賜物」と言いましたが、エジプトの経済はすべてこのナイルに依存していたのです。 そのナイルが干上がるというのです。これはイザヤの時代には起こりませんでしたが、近年、これが成就しました。1970年にアスワン・ハイ・ダムが作られたことで、ナイル川の生態バランスが破壊され、すべての環境が変わってしまいました。川の氾濫によってもたらされていた豊かな土壌は流れてこなくなり、かえって地中海からの塩水が入って来るようになったので、農業を台無しにしてしまいました。それは農業だけではありません。漁業も同じです。そして葦から得られる繊維で衣類を作っていた産業も大きな打撃を受けます。経済全体に損失が波及するのです。

それはエジプトが偽りの神々、偶像を拝んでいたからです。真の神を恐れず、敬わず、礼拝せず、自分たちが造った神々を拝んでいたからなのです。ここで私たちはもう一度自問自答しなければなりません。いったい私たちの生活の中心には何があるのか・・・と。これがあるから私の今の生活は豊かになっているという「これ」とは何かということを自問自答しなければなりません。もしそれがエジプトのように偶像の神々であったとしたら、神は同じようにさばかれるのです。

11節から15節までをご覧ください。エジプトの問題はそうした偶像だけではありませんでした。彼らは人間の知恵を頼りとしていたことがわかります。「ツォアンの首長たちは全く愚かだ。パロの知恵ある議官たちも愚かなはかりごとをする。どうして、あなたがたはパロに向かって、「私は、知恵ある者の子、昔の王たちの子です」と言えようか。あなたの知恵ある者たちはいったいどこにいて、あなたに告げ知らせようというのか。万軍の主がエジプトに何を計られたかを。ツォアンの首長たちは愚か者、ノフの首長たちはごまかす者。その諸族のかしらたちは、エジプトを迷わせた。主が、彼らの中に、よろめく霊を吹き入れられたので、彼らは、あらゆることでエジプトを迷わせ、酔いどれがへどを吐き吐きよろめくようにした。それで、頭も尾も、なつめやしの葉も葦も、エジプト人のために、なすべきわざがない。」

エジプトは偶像や魔術だけでなく、知恵においても有名でした。さまざまな学問がエジプトで発達しました。40歳になるまでエジプトの宮殿で生きていたモーセも、エジプトのあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力があったと言われています。(使徒7:22)また、イスラエルの王ソロモンは知恵者で有名ですが、それがどれほどの知恵であったかは、「エジプトのすべての知恵とにまさっていた」(Ⅰ列王4:30)と言われていたほどです。

しかし、それがどれほど立派な知恵のようであっても、神様が下されたさばきに対する解決案を見出すことはできませんでした。彼らは自ら知恵があると言いながらも、万軍の主がエジプトに計られたかを告げることはできません。ヨセフの時代に、エジプトのどの知恵ある者もパロの夢を解き明かすことができなかったのと同じです。(創世記41:8)それは神から出たことであったので、神の霊によらなければわきまえ知ることができなかったのです。Ⅰコリント1章18節から25節を開いてください。ちょっと長いですがお読みしたいと思います。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

皆さん、自分の知恵によっては神を知ることはできません。ただ神の知恵、神の力であられるキリストによってのみ神を知ることができるのです。十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力なのです。

私たちは、この世で起こっていること、また自分の身の回りで起こっていることを知りたいという欲求があります。しかし、私たちがまずしなければならないことは、今起こっていることは主から来ているのだということを知り、それを認めることです。たとえ何が起こっているのかがわからなくても、主がご計画をもって導いておられるこということを認め、その神の知恵によって生きることなのです。十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた救い主イエス・キリストを信じて心に受け入れ、この方にあって生きることが知恵の始まりだからです。

そうでないと、エジプトのようにこの世の幼稚な学問に振り回されてしまうことになります。14節に「主が、彼らの中に、よろめく霊を吹き入れられたので、彼らは、あらゆることでエジプトを迷わせ、酔いどれがへどを吐き吐きよろめくようにした。」とあるように、酔っぱらった時のように、識別力や分別力を失ってしまうのです。そして15節に「それで、頭も尾も、なつめやしの葉も葦も、エジプト人のために、なすべきわざがない。」とあるように、国全体が今、何をすればよいかが分からない状態になってしまうわけです。「頭」とはここに出ている知恵者や指導者たちのこと、「尾」とは一般民衆の気持ちを支える占いや魔術のことでしょう。つまりそうした知恵者、政治的指導者たちも何をすべきなのかがわからず、国全体がよろめいてしまうというのです。

何だか、日本のことが語られているようですね。しかしこれは日本だけでなく、今の世界の姿を現しているのです。神から離れて偶像に走り、自分の知恵を誇るこの世です。何をすべきなのかがわからない状態です。

あなたは、あなたの人生に危機的な状況が押し寄せるとき、何によって解決しようとしていますか。この世の知恵によって解決しようとしてはいないでしょうか。しかし、この世の知恵には限界があることを悟り、神の知恵に拠り頼む者でありたいと思います。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

Ⅱ.エジプトの救い(16-22)

第二に、エジプトの救いです。イザヤの預言はエジプトに対するさばきから一転して、エジプトの回復について語ります。16~22節までのところに注目してください。まず16節と17節をお読みします。

「その日、エジプト人は、女のようになり、万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手を見て、恐れおののく。ユダの地はエジプトにとっては恐れとなる。これを思い出す者はみな、万軍の主がエジプトに対して計るはかりごとのためにおののく。」

ここから19章の終わりまで、「その日」ということばが立て続けに5回も出てきます。これはイザヤ書におけるキーワードのひとつで、世の終わりの患難時代のことが預言されているということをお話しましたが、世の終わりには次のようなことが起こるのです。

「その日、エジプト人は、女のようになり、万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手を見て、恐れおののく。」のです。女のようになるとは弱くなるということです。最近では逆のケースも少なくありませんが、基本的に女性は弱いです。その日、エジプトは、女の人のようになるのです。自分たちの知恵、力を誇り、高ぶっていたエジプトのプライドは砕かれて、女の人のように弱くなります。万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手を見て、恐れおののくようになるのです。それだけではありません。18節から22節までには驚くべき事が記されてあります。

「その日、エジプトの国には、カナン語を話し、万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こり、その一つは、イル・ハヘレスと言われる。その日、エジプトの国の真ん中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。」    ここには、その日、エジプトの真ん中に、主のために、ひとつの祭壇が建てられ、すべてのエジプト人が、主にいけにえをささげるようになるとあります。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は彼らのために戦って彼らを救い出されるというのです。その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって主に仕えるようになるのです。

皆さん、これはエジプトに対して語られていることばです。かつて偶像を拝み、自分知恵、力を誇っていたエジプトがイスラエルのようになると、主は約束しておられるのです。神とイスラエルとの間の個人的な関係が、ここではエジプトにも適用されるというのです。アメージングです。こんなことがあるのでしょうか。あるのです。それはエジプト人ばかりでなくだれもです。彼らが主に立ち返れば、主は彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやしてくださるのです。ということは、エジプトに対する神のさばきの目的は何だったのでしょうか。それは、彼らを滅ぼすことではなく、彼らが救われること、彼らがいやされることだったのです。主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされるのです。これが神様が私たちを救われる方法です。

いったい私たちになぜ苦しみがあるのでしょうか。どうしていろいろな問題が起こってくるのでしょうか。それは私たちが救われるためです。私たちがいやされてためなのです。主はわたしたちを打たれ、その後でいやされるのです。これが主の救いの方法です。間違わないでください。主はあなたをあなたをさばこうとしておられるのではないのです。主はあなたを救おうとしておられるのです。救おうとしておられるので、時として、懲らしめを与えられるのです。ヘブル人への手紙12章7節から11節をお読みします。

「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

デイリーブレッドという小冊子に、ミシガン州のコーナーストーン大学の学長で、誰りもイエスを愛し、 何よりも神のみことばを語ることを大切にしているとジョー・ストウェル氏 (Joe Stowell)氏が、子どもの頃にあった出来事を書いておられます。  私には、子どもの頃のはっきりとした思い出があります。幼稚園の先生に何と言われたのかは覚えていませんが、私は彼女に向かって「黙れ!」と言ったのです。そのときのことは忘れもしません。彼女は「家に帰りなさい」と言いました。そこで私は、教室を出て、数十メートル先の我が家に向かって歩き出しました。そして歩道を進んでいくと、裏庭の草むしりをしている母の姿が見えました。さあ、どうしましょう。私はここで、戦略的な選択に迫られました。そのまま進んで幼稚園を早引きした理由を母に話すか、それとも幼稚園に戻って先生と対峙(たいじ)するかです。  教室に戻るとすぐ、先生は私をトイレに連れて行き、私の口を石鹸で洗いました。このような体罰は今日ではありえないことでしょうが、この方法は実に効果的でした。今でも、私は自分が何をしゃべるかには慎重で、口を開くときは注意を払っています。ジョー・ストウェル氏の今があるのは、あの出来事のおかげたというのです。石鹸で口を洗うなんて考えられないことですが、それによって彼は、「ああ、お口を正しく使わないといけない」ということをしっかりと学んだのです。

皆さん、神は、私たちを子どもとして扱っておられるのです。神の子どもとして正しく成長するようにと、熱い思いを持っておられるのです。そのため、時には懲らしめを与えることがありますが、それによって着実に「平安な義の実」(ヘブ12:11)を実らせることができるように、私たちの人生を正しい方向に向けられます。神の戒めは、より良い人生への希望なのです。ですから、神に戒められたなら、その御手を拒まないようにしましょう。あなたがどんな人間になっていくのかを気にするほどに、神は、あなたを愛しておられます。ですから、神が叱ってくださったなら、それを感謝して受け止め、その中で主に立ち返り、主の名を呼び求めましょう。そうすれば、主はエジプト人を打って、いやされたように、あなたもいやされるのです。

Ⅲ.わたしの民エジプト(23-25)

第三のことは、それだけではありません。主はこのエジプトに対して、わたしの民と呼んでいることです。23節から25節までをご覧ください。

「その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。 その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」

このところを見ると、神の救いはエジプトだけにとどまっていないことがわかります。エジプトからアッシリヤへの大路ができ、エジプトとアッシリヤは互いにその大路を行き交い、ともに主に仕えるようになるというのです。アッシリヤといったら周辺諸国の中でも一番の悪です。他の諸国も悪いことをしていましたが、それらの国々を飲み込み、ほしいままに略奪し、滅ぼしていったのがアッシリヤです。そのアッシリヤもまた主に立ち返るようになり、神の救いの中に入れられるようになるのです。かつてヤクザだった人たちが主に立ち返り、ミッション・バラバという団体を作り、よい証をしておられます。その人たちの証を聞いていて思うことは、人生どんなに落ちても大丈夫ということです。アッシリヤはとんでもない悪でしたが、それでも悔い改めた時に救われました。だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)たとえあなたが過去にどんなひどい人生を歩んでいたとしても、人生やり直すことができます。悔い改めて、主に立ち返るなら、主はあなたの罪を赦し、すべての悪から聖めてくださるのです。そして、かつて敵対関係にあったアッシリヤとエジプトが、信仰によって敵対関係を清算し、平和に共存するようになるのです。略奪と占領のために通った道が、ともに神を礼拝するために通る道に変えられるのです。すばらしい約束です。    極めつけは25節のことばです。「万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」これほどすばらしいことばがあるでしょうか。「わたしの民」といったら普通イスラエルに対して使われることばです。それがここではエジプトに、また、アッシリヤに対して用いられているのです。神に敵対していたら彼からが、神から遠く離れていた彼らでも、神の恵みによって神の民としていただけるのです。

「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(エペソ2:11-13)

皆さん、どんな人でも神の恵みから漏れる人はありません。以前は肉においては神から遠く離れていた異邦人でも、キリスト・イエスの中にあることによって、キリストを信じることで、神の民としていだたけるのです。神の救いは全世界に及ぶのです。それはこの日本も例外ではありません。イスラエルから見たら地の果てにすぎないような日本、しかもここには八百万の神があり、偶像があり、罪が溢れていて、もう救いようがない国であっても、イエス・キリストの血によって、イエス・キリストを信じることによって、神の民とさせていただくことができるのです。この日本にも神の愛のまなざしが注がれているのです。神の救いは地の果てにまで及んでいるのです。ですから、イザヤはこう叫びました。

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)

どうですか。あなたはこの神を仰ぎ見ていますか。仰ぎ見て、救われているでしょうか。神の恵みは、あなたにも届いているのです。どうかイエス・キリストを信じて、たとえ今神から遠く離れていても、神の民にさせていただこうではありませんか。

また、この救いが地の果てのすべての人に差し出されているのであれば、私たちは、これをどうしたら具体的にくまなく広げることができるのかを考えていかなければなりません。自分たちのことばかり考えていてはいけないのです。全世界に目を向けなければなりません。主イエスは言われました。「受けるよりも、与えるほうが幸いである。」(使徒20:35)自分たちは直接地の果てまで行くことはできないかもしれません。けれども、この国にいて、他国の人々と接する機会がよくあります。それらの人々の多くは、仏教であったり、イスラム教であったりとそうしたバックグランドを持っており、本当の神様を知らない人たちがほとんどです。そうした人たちに出会うとき、私たちはどのように接しているでしょうか。漠然とした拒否感によって彼らに接していることはありませんか。私たちはそうした人も神が「わたしの民」とみなされることを信じて、キリストの愛をもって接していかなければなりません。神の救いは全世界に及んでいるのです。それは、私たちがこのことを神からのみこころとして受け止め、そのための通りよき管となることを真剣に求めているかどうかにかかっているのです。