私たちはキリストのようになりたいと思います。それがクリスチャンの究極的な目標です。しかし、キリストのように裸にされて、ののしられて、つばきをかけられて、殴られて、むち打たれて、あげくのてに十字架にはりつけにされる。 きょうはイザヤ書20章からお話します。タイトルは「裸の預言者」です。裸の王様という童話はありますが、裸の預言者というのは聞いたことがありません。しかし、この20章には裸の預言者が登場します。イザヤは神から「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」と命じられると、彼は三年間、裸になり、はだしで歩きました。いったいなぜ彼はそんな姿になったのでしょうか。きょうはこの裸になった預言者イザヤの姿から、ご一緒に学びたいと思います。
Ⅰ.腰の荒布を解き、足のはきものを脱げ(1-4)
まず第一に、1節から4節までをご覧ください。「アッシリヤの王サルゴンによって派遣されたタルタンがアシュドデに来て、アシュドデを攻め、これを取った年―そのとき、主はアモツの子イザヤによって、語られた。こうである。「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた。そのとき、主は仰せられた。「わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く。」
イザヤは、18章でクシュに対して預言し、19章ではエジプトに対して預言しました。クシュに対してもエジプトに対しても、もし彼らが悔い改めて神に立ち返るなら、神は彼らを赦し、彼らを救ってくださると語りました。特に、19章の最後のところでは、神はエジプトに対して「わたしの民エジプト」と呼ばれました。異教の民であるエジプトでも、神の救いから漏れることはないのです。しかし、そのクシュとエジプトは悔い改めませんでした。そこで神はこの20章において、この二つの国に対するさばきを宣告されます。しかし、その宣告の方法は極めて珍しいものでした。
1節の「アシュドテ」というのはペリシテにあった町です。アッシリヤの王サルゴンがこのアシュドテを取った年、これは前711年のことですが、そのとき、主はイザヤに不思議なことを言われました。「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ」
どういうことでしょうか。荒布とは、イザヤがふだん来ていた衣服のことでしょう。それはある時には嘆きの荒布を表し、またある時には、預言者たちの質素な生活を表していました。その荒布を解き、足のはきものを脱げというのです。つまり、裸になれというわけです。いったいなぜ神はイザヤにこんなことを命じたのでしょうか。それは、このようなことによって神からのメッセージを人々に強く印象づけるためでした。これは預言者の「象徴的行動」と呼ばれるものです。預言者はしばしば、自分たちの語ったことばを人々に強く印象づけるために、このように目に見える形で表現したのです。
預言者エゼキエルは左脇を下にして390日間横になりました。それが終わると今度は右脇を下にして40日間です。(エゼキエル4章)なぜこんなことをしたのでしょうか。それはイスラエルの罪を示すためです。1年を一日として、390日間、また、40日間、イスラエルはずっと神に背き罪を犯し続けていることを示そうとしたのです。 また、エレミヤも亜麻布の帯を買い、それをユーフラテス川のほとりに行って隠しました。そして、しばらくすると、今度はその隠した帯を取り出したのです。その帯は腐っていました。いったいなぜこんなことをしたのでしょうか。その帯のように、イスラエルは腐ってしまうことを表すためです。(エレミヤ13章) このように預言者はしばしば、神からのメッセージを、より強く人々に訴えるために、それが目に見える形で表したのです。
最近、巡回伝道者のアーサー・ホーランド先生が重い十字架をかついで日本を縦断しているという話を聞きました。以前にも同じ事をして話題になったことがありますが、同じです。人々がそれを見るとき、「これはいったい何ですか」と尋ねるでしょう。これは、実はイエス様がゴルゴタの丘に向かって歩いていた時の、その姿の再現なんです。この国の人々がイエス様を信じるようにと祈りながらこうしてるんです・・・。と証しているのです。それは言葉以上にインパクトがあります。十字架こそ神の愛のしるしであり、あなたの救いであるというメッセージを、伝えているわけです。まあ、どれだけの人がそれを理解しているかはわかりませんが・・・。
ここでは脇を下にして横たわるのでもなく、帯を腐らせるのでもなく、あるいは、十字架をかついて歩くのでもありません。腰の荒布を解き、足のはきものを脱げというのです。裸になって歩き回るのです。裸とはいっても真っ裸ではなく、部分的に下着を身につけていたでしょう。それにしても奇異な行動です。いったいこれはどういうことだったのでしょうか。3節と4節をご覧ください。ここには「そのとき、主は仰せられた。「わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く。」とあります。
これはクシュとエジプトのことが預言されていたのです。すなわち、クシュとエジプトはアッシリヤとの戦いに敗れ、裸にされ、はだしで、連れて行かれるということです。イザヤが裸になり、はだして歩いていたように。その屈辱的な姿が表されていたのです。
それにしても、3年間も裸で歩き回るのは普通ではありません。一般的には考えられないことでしょう。しかし、時として神様は、ご自身のみことばを伝えるために、このような手段を用いることがあるのです。私たちは、できれば見栄えのいい方法でみことばを伝えたいと願うものですが、時にはこのように常識を越えたことを示されるがあります。そのような時に私たちは、一見それが恥ずかしいことのようでも、それに従う勇気と従順な信仰が求められるということを覚えておきたいと思います。
Ⅱ.裸の預言者(2)
それに対してイザヤはどのように応えたでしょうか。次にイザヤの応答について見ていきたいと思います。2節の後半をご覧ください。「それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた」
いくら神様の命令とはいえ、また、いくら神に仕える預言者とはいえ、公衆の面前で三年間も裸で歩き回るなんて考えられません。狂気の沙汰としか思えないでしょう。特にイザヤは貴族の出身で人々から尊敬と信頼も受けていましたから、裸になって歩き回ることには、かなりの抵抗があったと思います。なのに彼は神の命令に従いました。裸になり、はだしで歩いたのです。3年間も。なぜ彼はそのようにしたのでしょうか。それは、神様に従うということは神様が言われることを額面通りに受け入れ、そのとおりにすることだということをよく理解していたからです。たとえそれが恥ずかしいことでも、人から見たら気が狂っているんじゃないかと思われることでも、主が語られたことであるならばそれに従うという信仰があったのです。
皆さん、私たちの中には、イザヤのようになりたいという思いがあります。イザヤのように神のみことばをまっすぐに解き明かし、神に用いられる器になりたいという思いがあります。しかし、その一方でこのようなイザヤの姿をみると、やっぱりやめておこうという思いにもなります。そんな恥ずかしいことはしたくない。気が狂っているんじゃないかと思われます。馬鹿にされます。そんなの嫌です!そういう思いになります。しかしあなたがイザヤのようになりたいのなら、イザヤのように神に用いられる器になりたいと思うなら、神が言われることに従わなければなりません。神が言われる一部だけに従うのではなく、神が言われるすべてのことに従わなければならないのです。人からどう思われようと、人から嫌われようと、拒否されようと、神がそうせよと言われるなら、それをします!それが私たちのなすべき態度なのです。
それはイエス様のお姿でもありました。イエス様は文字通り裸でこの世に来てくださいました。全宇宙を造られた栄光の主が裸となって、私たちと同じ人間の姿で生まれてくださったのです。そして30歳になられた時、ご自分を公に現わされました。神の国の福音を語り、病人をいやし、悪霊を追い出し、死人を生き返らせ、身を粉にして、人々に仕えられました。 しかし、イエスが来られたのはイスラエルをローマの圧政から救い出すためではないことがわかると、群衆は手のひらを返したかのかのように、もうイエスなど必要がないと十字架につけて殺しました。イエス様は衣服をはぎ取られ、むち打たれ、それこそ真っ裸にされて、重い十字架を背負いながら、悲しみの道「ヴィア・ドロローサ」を歩かさせられました。そして、裸のままで両手両足を十字架に釘付けされ、人々のさらしものとなったのです。それはちょうど過ぎ越しの祭の時でしたから、全世界から大勢の人々がエルサレムに集まっていた時です。そのような時に、イエス様は裸で十字架につけられ、人々のさらしものになったのです。いったいなぜイエス様は裸にされて、十字架の死にまでも従われたのでしょうか。それは私とあなたのためです。ここにいるすべての人のためです。いや、ここにいない人も含めたすべての人のために贖いの代価となるためでした。イザヤは三年間裸で歩きましたが、イエスもおよそ三年間公の生涯を歩まれ、最後は裸で死なれたのです。
私たちは病人をいやしたり、悪霊を追い出したり、さまざまな奇跡を行って人々を助け、人々の役に立つことならば喜んで行いますが、人々から蔑(さげす)まれたり、あざけられたり、むち打たれたり、つばをかけられたり、十字架にさらしものになったりするようなことはしたくありません。私たちは自分の見た目を気にします。人からの評判も気になるのです。しかし、イエス様はそうではありませんでした。イエス様は人からどう思われようと、どのように見られようと、ただあなたと私が救われるために、その一心で十字架を忍ばれたのです。人々からきちがいだとか、悪魔だとか、いろいろな誹謗中傷を受けても、あなたの救いのために裸になられたのです。であれば、そのあしあとに従う私たちは、たとえ恥ずかしいと思うようなことであっても、人から馬鹿にされるようなことがあっても、その人が永遠の滅びから救われるのであれば何でもするという覚悟がなければなりません。
ピリピ人への手紙1章12節から15節までのところを開いてみましょう。ここには「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。」とあります。
これはパウロの経験です。「私の身に起こったこと」とは、彼が投獄されたことを指しています。彼はえん罪で自分が投獄されましたが、そのことを喜んでいると言いました。なぜでしょうか。それは、彼がそのように投獄されたことによって、かえって福音を前進させることになったからです。というのは、そのことで兄弟たちに確信がもたらされ、ますます大胆に神のことばを語るようになってからです。ですから、どんな理由であるにせよ、福音が前進するのであれば、それはすばらしいことだと告白したのです。いったいなぜパウロはそのように受け止めることができたのでしょうか。20節と21節にそのカギがあります。
「それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」
これがパウロの生き方でした。彼はただキリストがあがめられることだけを求めていました。自分はどうでもいいのです。自分がどんな目に会っても、何をされても、裸にされても、ばかにされても、卑しられても、辱められても、変人だと言われようとも構いません。自分の身によってキリストのすばらしさが現されるのならそれでいい。私のために、あなたのために、裸ににされて十字架にかかって死んでくださったキリストがあがめられるなら本望だ。パウロにとって、生きることはキリスト、死ぬことも益だったのです。
すばらしい告白ではないでしょうか。もし私たちがパウロのようにただキリストがあがめられることだけを求めているなら、キリストの福音が前進することだけを求めて生きているなら、自分のことはもうどうでもよくなるはずです。恥ずかしいとか、かっこ悪いとか、ヘンな人だと思われるとか、関係ありません。もうヘンな人なんですから心配いりません。それがイエス様によって神の御国の民とさせていただきました。私たちはキリストの福音にふさわしく生きることだけを求めていけばいいのです。
それは嫌です。そうではなく、キリストのように大衆の面前で奇跡を行ったり、病人をいやしたり、ミラクルメーカーのようになって人々の称賛を受けたいのです。スポットライトをあびたいのです。すばらしい人、いい人だと思われたいのです。人の役に立ちたいのです。感謝されたいのです。でも人々からのけものにされ、拒絶され、裸にされる。罪もないのに罪を着せられる。そういったことはごめんです。イザヤのようになりたいです。イザヤのように用いられたいです。でもイザヤのような裸になって三年間も歩き回りたくありません。白い目で見られるのは嫌です。しかし、私たちはキリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。もちろん信仰はいつも苦しみだけということではありません。でも時にキリスト・イエスにあって敬虔に生きようと思えば、みな迫害を受けるとあるように、私たちは裸にならなければならないことがあるのです。辱めを受けなければならないときがあります。人から冷ややかな目で見られて、蔑(さげす)まれなければならない時があるのです。聖書をプレゼントしたのに送り返されて来たとか、この人に救われてほしいと思うから一生懸命に相談にのってあげたり、訪問したり、援助してあげたのに、それらがすべて水泡に帰するかのように、もうあなたとは付き合いたくありませんとか、二度と顔も見たくありません。もう電話もしないでほしい、もう教会には誘わないでくれ、そんなふうに言われることがあります。しかし、その何もかもイエス様が通られた道であったということを忘れてはなりません。
ですから、裸になることを恐れないでください。イエスもあなたのために裸になられました。パウロは、「私は、福音を恥とはしない」と言いましたが、福音を恥としてはいけません。イエスはあなたを救うために恥を忍んで、文字通り、裸になられました。あなたはつばきをかけられたことがあるでしょうか。目隠しをされてぼこぼこに殴られ、だれが殴ったかあててみろなんてバカにされたことはありますか。背中を鞭で打たれたことがあるでしょうか。骨が砕け、内臓が飛び散るほど打たれたことがあるでしょうか。真っ裸にされて高いところでさらしものにされたことがあるでしょうか。両手両足を釘で打ち付けられたことはあるでしょうか。キリストはこれらすべての辱めを受けられました。これらすべてはあなたのためだったのです。
なのに私たちは福音を恥じて、こんなことを言ったらヘンな人だと思われるんじゃないかとか、職場や家庭で関係がギクシャクするのではないかと恐れます。嫌われたくありません。バカにされたくありません。いい人でいたいのです。有能な人間として、立派な人に思われるように、人の評判を気にしています。人からどう思われているかが最大の関心事です。けれども、福音を恥としてはいけません。もし福音を恥とすれば、人の子も、そのような人を恥としますと主イエスは言われました。(ルカ9:26)イザヤは「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ」と命じられたとき、それがどんなに恥ずかしいことであっても、卑しめられることであっても、非常識だと思われるようなことであってもそれに従いました。私たちも、主が命じられるなら、たとえそれが自分にとって受け入れがたいことであっても従っていくことが求められているのです。
Ⅲ.まことの拠り所(5-6)
最後に5節と6節をご覧ください。ここには、イザヤが三年間、裸になり、はだしで歩き回ったというのはエジプトとクシュに対するしるしであったばかりでないことがわかります。それはイスラエルに対するしるしでもありました。イスラエルがまことの神を拠り所とするためだったのです。
「人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。その日、この海辺の住民は言う。『見よ。アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げて来た私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうしてのがれることができようか。』」
5節に出てくる「人々」とはイスラエル、南ユダ王国のことです。アッシリヤの攻撃に備えてエジプトとクシュに頼っていたイスラエル(南ユダ)は、恥を見るようになるというのです。なぜなら、その味部ととクシュがアッシリヤによって滅ぼされ、裸で連れて行かれるようになるからです。それを見るイスラエルは、6節にあるように、「見よ。アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げて来た私たちの拠り所は、この始末だ」と言うようになるのです。これは海辺の住民たち、具体的にはアシュドテを含むペリシテの町々の住民のことです。しかし、それがイスラエルであろうと、海辺の住民であろうと、まことの神以外のものを拠り所にする人たちは、同じように嘆くことになるのです。
そして、このようなことが私たちの生活にも起こります。これまで安全だ、安心だと信じて疑わなかったものがもろくも崩れ去るのを見て、「これまで自分たちが信じてきたものはいったい何だったのか」と言って嘆くようになるのです。ですから、私たちはそういことがないように、このイザヤの預言のことば、神のことばを聞いて、それに従うべきです。
第二次世界大戦後しばらく、日本人の生活の価値判断は、何が善で何が悪であるかということでしたが、その後は今日まで、何が得で何が損になるかということで測られてきました。ところが最近はそうではなく、何がホンモノかどうかで判断される時代になってきました。何がホンモノなのかがわかりません。ホンモノまがりのものがたくさんあるからです。あれも、これも、たぶん、きっとホンモノに違いないと思わせるものがたくさんあります。単に人を集め、派手な活動をしていても、それがホンモノであるとは限りません。ホンモノとは「何があってもびくともしないもの」、「決して滅びることがないもの」です。いつまでも続く永遠のものです。それは、この天地を造られたまことの神様です。この方こそまことの拠り所であり、この方に信頼するなら決して失望させられることはありません。
これがあなたが選択しなければならない道です。この方に信頼するなら、あなたは決して失望することはないのです。詩篇32篇7節、8節、「この人生にどんな嵐が吹き寄せようと、私は神様のもとに身を避けます。そこでは勝利の歌が響き、苦しみに巻き込まれることがないからです。神様はこう言われます。「私はあなたを教え、最善の人生航路へと導いてあげよう。助言を与えて、一歩一歩を見守ってあげよう。」
神が教え、神が助言を与えて一歩一歩導いてくださる人生、これこそ間違いのないホンモノなのです。どうかこの方に身を避けることができますように。それがイザヤが裸になってまでも伝えたかった神のメッセージだったのです。