きょうは、イザヤは書21章からお話したいと思います。タイトルは「朝が来ない夜はない」です。イザヤは13章からイスラエルを取り囲む周辺諸国に対して神のさばきの宣告を語っています。これまでバビロン、アッシリヤ、ペリシテ、モアブ、ダマスコ、クシュ、エジプトに対して語られてきました。きょうのところには、再びバビロンに対して、そしてドマ、またアラビヤに対して語られています。きょうは、こうした国々に対する宣告のことばから、この時代を生きる希望と力について三つのことをお話したいと思います。
Ⅰ.神にはえこひいきなどない(1-10)
まず1節から10節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。「海の荒野に対する宣告。ネゲブに吹きまくるつむじ風のように、それは、荒野から、恐ろしい地からやって来る。きびしい幻が、私に示された。裏切る者は裏切り、荒らす者は荒らす。エラムよ、上れ。メディヤよ、囲め。すべての嘆きを、私は終わらせる。」
「海の荒野」とはバビロンのことです。バビロンは沙漠でありながらチグリス・ユーフラテス川という海のような大河が流れていたので、海の荒野と呼ばれていました。そのバビロンに対する宣告です。バビロンに対してはすでに13章と14章で語られましたが、ここで再び語られています。
いったいどんなことが言われているのでしょうか。それはきびしい幻です。2節に、裏切る者が裏切り、荒らす者が荒らすようになるとあります。「エラム」とはペルシャのことです。そのペルシャがメディヤとともにバビロンを攻めるというのです。これはイザヤが預言した時から二百年後に実現しました。44章と45章には、ペルシャのクロス王によって滅ぼされると実名をあげて預言されていますが、その通りになったのです。イザヤがこれを預言した当時は、メディヤとペルシャはまだ小国でした。その当時隆盛を極めていたのはアッシリヤでした。それからバビロンが台頭してくるわけですが、そのバビロンがその後のメディヤとペルシャの連合軍によって滅ぼされてしまうのです。ここで語られたとおりになります。聖書の預言のすばらしさはここにあります。主によって語られたことは必ず成就するのです。
3節から5節までをご覧ください。ここには、そのバビロンが滅びる様子が描かれています。5節、「彼らは食卓を整え、座席を並べて、飲み食いしている。『立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ。』」「彼ら」とはバビロンの王ネブカデネザルの孫にあたるベルシャツァルのことです。彼らは宮殿で大宴会を催していました。そこに突然、メディヤとペルシャの連合軍が攻め入りました。詳しいことはダニエル書5章に記されてありますので後でご覧ください。ベルシャツアルは、祖父のネブカデネザルがエルサレムから持ってきた金や銀の器を使って酒を飲み、木や石で造られた神々をあがめていました。そこに突然人の手が現れたかと思うと、何やら壁に文字を書きました。がくがくと震えたベルシャツァルは、「いったいこれはどういうことか」とダニエルを呼んでそれを解読させます。それは、あなたの悪は積み上げられた、あなたの治世は終わった、この国は二つに分割するというメッセージでした。そして、その夜、メディヤとペルシャがやってきてこれを滅ぼすのです。
難攻不落と言われていたバビロンが、あっという間に滅びてしまいました。高さ90㍍、幅24㍍、長さ数十㎞にも及ぶ石の壁に囲まれていたバビロンは、誰もこの石垣を破壊することはできないと油断していましたが、メディアとペルシャはその城壁を破壊して攻めてきたのではなく、何と水路を使って城壁に侵入してきたのです。そのようにして攻めてくるなど夢にも思ってもいなかったバビロンは、一夜にして滅びました。ダニエル書にある預言のとおり、ベルシャツアルの治世は終わったのです。
それにしても、そのバビロンの様子を語るに当たり、イザヤはこう言っています。3節、「それゆえ、私の腰は苦痛で満ちた。女の産みの苦しみのような苦しみが私を捕らえた。私は、心乱れて聞くにたえない。」 それがあまりにも残酷だったので、イザヤの腰は苦痛で満ち、その心は震えました。聞くに堪えないほど、見るにたえないほど、イザヤは心を痛めたのです。神の警告に一向に耳を傾けず、滅ぼされていくバビロンの姿に、心を痛めているのです。
私たちはどうでしょうか。救い主イエス・キリストを信じなければ永遠に滅びていくたましいを見て心痛んでいるでしょうか。自分はイエス様を信じて救われるから大丈夫だ。でも家族や友人はどうでしょうか。そのままでは滅びてしまいます。地獄に落とされてしまうのです。イエス・キリスト以外に救われる御名はないからです。このイエスを信じないで地獄に行くようなことがあるとしたら、それこそ悲しいことです。心が痛みます。まさに見るにたえない、聞くにたえなくなるのです。そういうことがないように、私たちはこの救いのことばを伝え、一人でも多くの人がイエス・キリストを救い主として信じるように祈らなければなりません。そういう人たちを見て何とも思わないとしたら、私たちはあわれみのない人間でしかありません。神様と同じ心で感じる者でありたいと思います。
6節から9節までは、そのバビロンにメディヤとペルシャが侵入する時の様子が記されてあります。「主に私はこう仰せられた。「さあ、見張りを立たせ、見たことを告げさせよ。戦車や、二列に並んだ騎兵、ろばに乗った者や、らくだに乗った者を見たなら、よくよく注意を払わせよ。すると獅子が叫んだ。「主よ。私は昼間はずっと物見の塔の上に立ち、夜はいつも私の見張り所についています。ああ、今、戦車や兵士、二列に並んだ騎兵がやって来ます。彼らは互いに言っています。『倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた』と。」
メディヤとペルシャの連合軍は、戦車や騎兵だけでなく、ろばとらくだを使いました。それを見張っていた見張り人は叫びます。9節の「獅子」とは見張り人のことです。見張り人は、メディヤ、ペルシャの連合軍がやって来てバビロンを討ち滅ぼしたとき、興奮してこう叫びました。「倒れた。バビロンは倒れた。」バビロンが倒れたことを二回叫んでいます。それほど興奮していたのです。絶対に滅びることがないと思われていたバビロンが滅びたことに対する驚きが、ここに表されています。決して滅びないと言われたバビロンは、このようにして滅びました。これはイザヤの時代から二百年後に起こったことですが、同時に、この世の終わりに起こる出来事をも預言しています。すなわち、黙示録18章2節にある大バビロンは滅びるということです。この大バビロンというのは、神に敵対する勢力、悪のシステムのことです。この世の終わりには、必ず悪はさばかれるのです。
ところで、10節に注目してください。ここには「踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。」とあります。「踏みにじられた私の民」とはイスラエルのことです。「打ち場の私の子らよ」というのもイスラエルのことを指しています。イザヤはイスラエルの周辺諸国にこれから起こることをあらかじめ預言している中で、それはそうした周辺諸国だけのことではない、それはイスラエルも聞かなければならないことだと言っているのです。人ごとだと思ってはなりません。対岸の火事だと思ってはならないのです。自分たちは神に選ばれた聖なる国民だから大丈夫だ、関係ないと思ってはなりません。むしろあなたがたは周辺諸国と何ら変わらないのだから、注意してこのメッセージを聞き、これを厳粛に受け止めなければならないというのです。
これは新約聖書で言われていることでもあります。ローマ人への手紙2章5節から11節を開いてください。ここには、「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行うすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。」
神にはえこひいきなどはありません。神の民だから、イスラエルだから、聖なる国民だから何をしてもいいということではないのです。たとえ神の民であっても真理に従わないで不義に従うようなことがあると、その人の上に神の怒りと憤りが下さるのです。神にはえこひいきなどないからです。艱難と苦難とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行うすべての人の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行うすべての人の上にあるのです。たとえイスラエルの民であっても、たとえクリスチャンであっても、罪を犯し、いつまでもかたくなになって悔い改めないなら、バビロンのようにさばかれてしまいます。だからイザヤは、ここで「あなたがたに告げたのだ」と言っているのです。人ごとだと思ってはなりません。あなたがたも彼らと同じようになれば、同じような目に遭うのです。
イザヤは言いました。「踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。」私も皆さんに告げています。あなたは救われていますか。永遠のいのちを確かにいただいていますか。間違いなく100%天国に行くと確信を持っていますか。それがないなら、ぜひ、恥ずかしがらずに、今、決心してほしいと思います。イエスを主と信じ、口で告白するなら、あなたは救われます。永遠の運命がそれで決まります。イエス・キリストをどう見るかによって、あなたの人生は決定づけられます。イエスを主と告白する人は天国の国民になります。そうでない人はさばかれます。地獄に行ってしまうのです。私は天国にも地獄にも行きたくない、私は中国に行きたいという人がいますか。そういうのはありません。天国か地獄のどちらかを選択しなければならないのです。
Ⅱ.朝が来ない夜はない(11-12)
第二のことは、朝が来ない夜はないということです。11節を12節をご覧ください。「ドマに対する宣告。セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」
これはドマに対する宣告です。ドマとは「エドム」のことです。エドムというのは、ヤコブとエサウの双子の兄弟のおにいちゃんのエサウが先祖になりました。エサウの子孫がエドム人、ヤコブの子孫がイスラエル人です。このドマというのはエドムの別名です。巻末の地図を見ていただくとわかりますが、モアブの南に位置しています。このドマに対する宣告です。
「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」「夜回り」とは、見張り人のことです。日本語で夜回りといったら「夜警」のことです。夜の警備をしている人たちです。何年か前に、夜回り先生という本が流行りました。元高校教師の水谷修という人のことです。非行問題に取り組み、夜の繁華街で生徒を指導していたことから「夜回り先生」と呼ばれるようになりました。ここでは、イザヤが夜回りと呼ばれています。「夜回りよ。今は夜の何時か・・・」と。
今は夜の9時です、ということではありません。夜はあとどれくらいあるかのかということです。アッシリヤの侵攻が夜にたとえられているわけです。あの大帝国に完全に呑み込まれてしまう。もうお先真っ暗だ。私たちは征服されてしまうんだ。もう先がない。夜が来る。いつになったら夜が明けるんだ、ということを聞いているのです。
それに対してイザヤは何と答えているでしょうか。12節です。「夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」
何を言っているのかピンときません。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」「朝が来」というのは、朝は必ず来るということです。これは希望です。朝が来ない夜はありません。必ずやって来ます。アッシリヤに滅ぼされてしまうかもしれないが、それでも必ず朝はやって来ます。捕囚の民となっている者は必ず解放される、それが朝です。でもまた夜が来てしまいます。朝が来るということは、夜も来るということなのです。それがこの地上で起こることです。アッシリヤは確かにエドムを攻めてエドムを吸収していきますが、それだけでは終わりません。アッシリヤの支配が終わると、今度はバビロンに支配されることになります。朝が来てもまた夜がやって来るのです。それがこの夜回りの宣告です。尋ねたければ尋ねよ。これから世界情勢がどうなっていくのか。神のことばがそれを告げてくれます。もう一度、来るがよい。これがエドムに対する預言でした。
これは世の終わりにおいても必ず起こることです。世の終わりにも夜がやって来ます。神のさばきがかつてなかったほどのスケールでやってきます。未曾有の災害が、天変地異がやって来ます。もうやって来ているのかもしれません。しかし、もっと大きなスケールでやってきます。それが世の終わりの最後の患難時代に起こります。そのような時代がこれからやって来るのです。夜がやって来る。
私たちの時代は、間違いなく夜に向かっています。完全に真っ暗闇になる日が近いのです。世の中はどんどんどんどん暗くなって行きます。毎日ニュースを観ていても暗いニュースばかりです。明るいニュースはほとんどありません。毎日のように凄惨な事件が起きています。先日もコロラド州デンバーの映画館で銃の乱射事件がありました。何人も死んで、何人も怪我をしました。そういうことが日常茶飯事に起きています。一昔前には考えられないような凶悪事件が後を絶ちません。もうそんなニュースを観ても。聞いても何とも思わなくなってしまいました。もう慣れてしまいました。それほど日常的になっています。あ、またか、また起こったんだ・・。それほどに世の中は病んでいます。どんどん暗くなって来ているのです。しかし、それはイエス・キリストに言わせれば、それらは世の終わりの前兆です。マタイの福音書24章には、世の終わりには、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷えていく」(12節)とあります。冷たくなるのです。まさに今はそのような時代ではないでしょうか。親が子供を平気で殺します。子供も親を平気で殺します。そういう時代です。
第二テモテ3章1節から5節までを開いてください。ここにも世の終わりにはどういう状態になるかが記されてあります。「 終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」 これが世の終わりです。世の終わりは困難な時代です。その時人々は自分を愛する者、自分さえよけむればいい。自己愛ですね。自分勝手になります。自己顕示欲が強くなります。だれも注目してくれない、だから通り魔殺人のようなことが起こるのです。人々の注目を浴びるためにだれでも良かった。殺したかった、目立ちたかった、マスコミに取り上げられたかったといった、そんな理由で人が殺されているのです。自分を愛しているのです。金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神を汚す者、両親に従わない、感謝することを知らない。神よりも快楽を愛する者、そういった者たちがはびこるというのです。思春期だからしょうがないとか、最近の若者はなっていないなど、私たちはいろいろな理由を探りますが、本当の理由は違うのです。愛がないのです。愛が冷えているのです。世の終わりが近づいているからです。
聖書ではっきりと言われていることは、この世はよくならないということです。こんなに文明が発達し生活が便利になったんだから、世の中はもっと明るくなるはずだ。違います。世の中はもっと暗くなっています。もっと困難な時代がやって来るのです。世の終わりが近づいているのです。古き良き時代はやって来ません。どんなに人間が努力しても、社会はもっと悪くなっていく一方です。私も保護司をやっていて、毎年この時期になると街頭に出て「社会を明るくする運動」をします。テッシュとかを配って啓蒙活動をします。中学生との対話を通して、中学生が希望を持てるように励まします。でも社会は明るくなりません。ますます暗くなっているのです。
じゃ、どうせこの世は終わるんだからと自暴自棄になったり、隠遁生活をしたらいいのでしょうか。いいえ、社会がどんなに暗いからといって私たちは決してあきらめたり、否定的にはなったりはしないのです。むしろ私たちはクリスチャンとして朝が来ることを期待するのです。夜が来るのは避けられませんが、朝が来ることを期待して待ち望むのです。
その朝とは何でしょうか。主イエスのご再臨です。主イエスが私たちを迎えに来て来てくださいます。花嫁である教会を迎えに来るために再び戻って来られるのです。そのとき私たちは主イエスと同じ復活のからだ、朽ちないからだ、栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会います。そして、いつまでも主とともにいるようになるのです。それは私たちの救いが完成するときであり、最高の喜びの時なのです。これこそクリスチャンにとっての朝です。希望の朝です。なにそんな夢みたいなことを信じてるのと、ノンクリスチャンにとっては信じられない話かもしれません。荒唐無稽でしょう。そんなことが起こるはずはないと思うかもしれません。しかし、聖書にはそうなるとちゃんとそのように書いてあるのです。
「神は、私たちが御怒りに会うように長ダメになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)
キリストは明けの明星と呼ばれていますが、暗闇を突き破る一番星です。朝なのです。ですから、キリストを信じる者にとってこの世の終わりは「お先真っ暗」といった絶望的なことではなく、むしろもうすぐ朝がくるという期待に胸をふくらませ、希望に輝く時なのです。この世がどんなに暗くても、必ず朝がやって来ます。朝が来ない夜はありません。
ですから、今の時代をどうみるのかです。一千兆円もの借金を抱えて、この国はいったいどうなるのかという不安があるでしょう。自分には何の借金もありませんと言っても、ひとり何百万という借金を、赤ちゃんも含めてこの国の国民みんな課せられているのです。いつかこの国は破綻するかもしれません。年金も当てにならないかもしれません。若者たちには未来がありません。円高も進んでいます。これから先、何の希望も持てない、世の中は暗くなる一方です。でもクリスチャンには希望があります。絶望的にならなくても、何もかもあきらめて自殺なんてしなくてもいいのです。私たちには生きる希望があるのです。しかも永遠に生きる希望が与えられているのです。イエス・キリストを信じれば希望があります。そしてクリスチャンにもたらされる朝は夜にならないものです。黙示録を読んでいただきますと、天国には夜がないということがわかります。小羊なるイエス・キリストが光となって照らしておられるからです。
このような希望が私たちには与えられています。いつか必ずそのようになります。しかもそれは近い未来です。主イエスは、今晩にも戻って来られるかもしれません。あなたにはその準備ができているでしょうか。主イエスがいつ来られてもいいように、私たちは目を覚まして備えておくべきです。光の子ども、昼の子どもとして、信仰と愛を胸当てとして着け、救いをかぶととしてかぶって、慎み深くしながら、この朝を待ち望むべきです。(Ⅰテサロニケ5:8)
聖書に戻ってください。セイルから夜回りに告げる声がありました。「夜回りよ。今は夜の何時なのか」もうかなり夜が更けて、朝が近づいています。クリスチャンは、夜回りとして、このことを人々に伝えなければなりません。今晩、街に行ってみてください。うろうろしているのは若者たちだけではありません。路頭に迷っている人たち、何のために生きているのかわからない人たち、ただ死を迎えようとしている人たちがたくさんいます。最近は学校のいじめの問題が大きく報じられています。彼らには夜回りのメッセージが必要です。人生はまだまだ長い。自分だけは死なないと思っている人たちに、あなたは夜回りとしてこの希望のメッセージを伝えていく必要があります。いつか人は死にます。思ったより人生は短いということを伝えていく必要があるのです。
Ⅲ.主に身を避けて(13-17)
最後に、アラビヤに対する宣告を見て終わりたいと思います。13節から17節までをご覧ください。「アラビヤに対する宣告。デダン人の隊商よ。アラビヤの林に宿れ。テマの地の住民よ。渇いている者に会って、水をやれ。のがれて来た者にパンを与えてやれ。彼らは、剣や、抜き身の剣から、張られた弓や激しい戦いから、のがれて来たのだから。まことに主は私に、こう仰せられる。「雇い人の年季のように、もう一年のうちに、ケダルのすべての栄光は尽き果て、ケダル人の勇士たちで、残った射手たちの数は少なくなる。」イスラエルの神、主が告げられたのだ。」
アラビヤとは、今のサウジアラビヤのことです。その意味は「沙漠」です。その沙漠にアッシリヤが攻めてきます。そこでデダンの商人に、アラビヤの林に宿れ、と語られています。ところが、同じアラビヤの町テマには、そのようにして逃れてくるデダンの商人たちに会って、水やパンを与えるようにと言われているのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。
デダンの商人たちが守られるべき理由は、彼らが戦渦を逃れる避難民であるということです。かつてモアブに対して語られたメッセージの中でも、「荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となれ」(16:4)とありました。のがれて来る者の隠れ家となり、避難所となって彼らを助けてあげることは、神のみこころなのです。
それにしても、このデダンとテマは、直線距離にして約130㎞です。デダンから南東に130㎞離れたところにテマがありました。わずか130㎞しか離れていないこの二つの町が、一方は避難民で、もう一方はそうした避難民をかくまう隠れ家であるとはどういうことなのでしょうか。この二つの町を調べてみると、同じ沙漠の中にある町でも、テマはオアシスの町で、豊かな地下水が流れていました。その地下水からの噴水は有名です。なぜテマが援助として述べられているのかというと、それはこの「水」に関係があったのです。同じ沙漠の中にある町でも、このテマには渇いた者の渇きを癒すための十分な水があったのです。
皆さん、キリストは「わたしは生ける水」だと言われました。キリストが与える水を飲む者は渇くことがありません。キリストが与える水は、その人の中で泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。キリストこそ真の隠れ家なのです。この方に身を避けるなら、この方が私たちに必要な水とパンを与えてくださいます。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)
あなたはだれのもとにのがれていますか。キリストのもとに来なさい。そうすれば、あなたも決して渇くことはありません。世の中がどんなに真っ暗であっても、必ず朝が来るのです。このキリストのもとに来てください。それがこの時代を生きる希望であり、力なのです。