きょうは、イザヤ書22章の前半の部分からお話をしたいと思います。タイトルは、「必要なのは神」です。1節を見ると、「幻の谷に対する宣告」とあります。この「幻の谷」とはエルサレムのことです。エルサレムでは預言者たちによって神からの幻や預言が語られました。また、エルサレムは周囲が山々に囲まれた谷のようなところなで「幻の谷」と呼ばれていたわけです。
ところで、これまでの宣告はイスラエル(エルサレム)を取り囲む周辺諸国に対する預言だったのに、ここでは突然エルサレムに対して語られているのはどうしてなのでしょうか。それはエルサレムが、これまでもイザヤが語ってきたように、真の神を信じないで、人間の力に拠り頼んでいたからです。その点では、彼らも異教の国々と何ら変わりはありませんでした。そのような彼らにも同じように主のさばきが下るのです。神の民だからといって安心していてはいけません。そのことを示すために、主はエルサレムにも警告のことばを語っているのです。きょうはこのエルサレムに対する警告の言葉から三つのことを学びたいと思います。
Ⅰ.騒がしい町エルサレム(1-4) まず1節から4節までをご覧ください。1節と2節の前半です。「これはいったいどうしたことか。おまえたちはみな、屋根に上って。喧噪に満ちた、騒がしい町、おごった都よ。」
エルサレムの家は、屋根はフラットになっていて屋上に上ることができました。そこで人々は夕涼みをしたり、ビアガーデンのようにしてお酒を飲んだり、お祭りをながめたり、人々をもてなしたりしていました。彼らはその屋根に上っていたのです。何のためでしょうか。ここには「喧噪に満ちた、騒がしい町、おごった都よ。」とあります。喧噪とは、うるさいとか、やかましい、騒がしい、落ち着きがない、にぎやかであること、ざわめいているという意味です。彼らは、この世の楽しみに興じてドンチャン騒ぎをしていたのです。しかし、預言者イザヤにとっては、エルサレムの住民が屋根に上ってドンチャン騒ぎをすることはとても不可解なことでした。というのは、当時彼らはそのような状況に置かれてはいなかったからです。彼らの罪のために神のさばきが下り、アッシリヤという国によって滅ぼされる危機にありました。彼らはそうした罪を悲しんで主に対して悔い改めなければならなかったのに、全く逆の態度をとっていたのです。
2節と3節を見てください。「おまえのうちの殺された者たちは、剣で刺し殺されたのでもなく、戦死したのでもない。おまえの首領たちは、こぞって逃げた。彼らは弓を引かないうちに捕らえられ、おまえのうちの見つけられた者も、遠くへ逃げ去る前に、みな捕らえられた。」
これはアッシリヤの脅威に脅かされていた時と、その後のバビロンによってエルサレムが包囲された時のことが描かれています。ユダが滅ぼされた時に戦うことをしなかったというのは、バビロンによって滅ぼされ、捕囚として捕らえ移された時のことです。彼らが死んだのは敵の剣で刺し殺されたからではなく、互いにわすがな食べ物を奪い合って同士討ちしたからです。時の王はそのすきを見て逃げましたが、結局、途中で捕らえられ、バビロンに捕らえ移されました。
いったいなぜこのようなことになってしまったのでしょうか。それは彼らが神のことを考えず、自分のことしか考えていなかったからです。エルサレムは「幻の谷」と呼ばれているように、本来、神からの幻を受け取るところです。なのに彼らはその幻を受け止めて、主の御前にひれ伏すことをせず、世の楽しみに心が引き寄せられていたのです。皆さん、たとえ神の民であっても、この世の人のように生きるなら、そこに神のさはぎが下ることになります。なぜなら、ローマ人への手紙2章11節に「神にはえこひいきなどはないからです」とあるからです。ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、患難と苦悩とは、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、善を行うすべての人の上にあるのです。神の民だからといって、神のさばきから免れることはありません。神の民であっても、この世と同じように生きるのであれば、神のさばきがその上に下ることになるのです。
私たちはどうでしょうか。主の幻を受け取るごとに、それが主からのみこころと受け止めて、へりくだって主の御前に進み出ているでしょうか。それとも自分の生活や満足を優先にしてはいないでしょうか。イスラエルの問題はここにありました。神の民だということに安心して、そこに信仰の実体が伴っていませんでした。屋上に上って安逸をむさぼっていたのです。自分のことばかり考えて、神のことを考えていませんでした。神の恵みによって、主イエスの尊い救いに与った私たちは、何が良いことで神に受け入れられることなのかをわきまえ知り、そのみこころに歩む者でありたいと思います。
4節をご覧ください。ここには「それで私は言う。『私から目をそらしてくれ、私は激しく泣きたいのだ。私の民、この娘の破滅のことで、無理に私を慰めてくれるな。』とあります。これは預言者イザヤのことばです。イザヤは、エルサレムにふりかかる神のさばきを見て激しく泣きました。それは「無理に私を慰めてくれるな」と、慰めを拒絶するほどでした。愛する者に神のさばきが下る。そのことを思うだけで、彼は悲しみで取り乱したのです。あなたは自分の娘の破滅のことで、イザヤのように激しく嘆くということがあるでしょうか。愛する者がさばかれて地獄に堕ちるということに、どれだけ深い悲しみを抱いておられるでしょうか。神の家族である教会のメンバーが、神から離れこの世の人たちのように生きているのを見て、どのように思っておられるでしょうか。イザヤのように、張り裂けんばかりの悲しみと嘆きをもっているでしょうか。彼らが主に立ち返るように祈らなければなりません。
Ⅱ.必要なのは神(5-11)
次に5節から11節までをご覧ください。5節から7節をお読みします。「なぜなら、恐慌と蹂躙と混乱の日は、万軍の神、主から来るからだ。幻の谷では、城壁の崩壊、山への叫び。エラムは矢筒を負い、戦車と兵士と騎兵を引き連れ、キルは盾のおおいを取った。おまえの最も美しい谷は戦車で満ち、騎兵は城門で立ち並んだ。」
大丈夫だ、これからも今までと同じようにのうのうと暮らしていけると思っていたエルサレムの住民にある日突然、危機が迫りました。アッシリヤがやって来てエルサレムを包囲したのです。エルサレムの谷が戦車や兵士、騎兵で満たされ、エルサレムの城門の前に立ち並び、その城壁を崩そうとしていたのです。エラムとかキルというのは、アッシリヤの軍隊としてエルサレムの攻撃に参加していた町のことです。
そのような状態になったとき、イスラエル(エルサレム)はどのように対応したでしょうか。8節をご覧ください。「こうしてユダのおおいは除かれ、その日、おまえは森の宮殿の武器に目を向けた。」そのような状態に陥ったとき、彼らがまず目を向けたのは武器庫でした。このような時こそ主なる神に立ち返れば本当にすばらしいことですが、彼らが目を向けたのはその神ではなく武器だったのです。どのようにして戦ったらいいかという戦略でした。
そればかりではありません。9節をご覧ください。ここには、「おまえたちは、ダビデの町の破れの多いのを見て、下の行けの水を集めた」とあります。これはどういうことかというと、水源を確保したということです。ユダの王ヒゼキヤは、アッシリヤが攻めてきたとき水源を断たれたら終わりだと、当時エルサレムの城壁の外にあったギホンの泉と呼ばれていた泉から城壁の中に水を引くために水路を作りました。これが有名なヒゼキヤの水路と呼ばれているものです。ヒゼキヤはギホンの泉から水をひいて、二重の城壁の間に貯水池を造ったのです。この池が新約聖書ヨハネの福音書9章7節に出てくる「シロアムの池」です。イエス様が生まれつきの盲人の目をいやされたとき、つばきで泥を作り、その泥を盲人の目に塗って、「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と言われました。盲人は行って、洗うと、見えるようになりました。あの池です。これはヒゼキヤがアッシリヤの攻撃に備えるために作った池だったのです。
そればかりではありません。10節を見てください。ここには「また、エルサレムの家を数え、その家をこわして城壁を補強し、」とあります。これはどういうことかというと、城壁を補強したということです。
この時のヒゼキヤの果敢な行動には感心します。彼はありとあらゆる防御策を考え、アッシリヤの攻撃に備えました。しかしです。11節後半をご覧ください。ここには、「しかし、おまえたちは、これをなさった方に目もくれず、昔からこれを計画された方を目にも留めなかった。」とあります。
主なる神様は、このヒゼキヤの行動を評価されませんでした。なぜなら、彼は一番肝心な神に目を留めなかったからです。それは、これをなさった方に目もくれず、昔からこれを計画された方を目にも留めなかったということです。「これをなさった方」とは、英語では「Maker」です。造られた方です。エルサレムを造られた方、武器を造られた方、水を造られた方、城壁を造られた方、その根源なる創造主なる神に目もくれませんでした。昔からこれを計画された方を目にも留めませんでした。武器や、水源の確保、城壁の捕集といった目に見えるものに頼ったのです。
しかし、この箇所の背景となっている第二歴代誌32章を見ると、確かにヒゼキヤはアッシリヤの王セナケリブの攻撃に備えて水源を確保したり、くずれていた城壁を建て直したり、大量の投げやり等を作りましたが、同時に主に信頼していたこともわかります。開いてみましょう。第二歴代誌32章7節と8節です。
「強くあれ、雄々しくあれ。アッシリヤの王に、彼とともにいるすべての大軍に、恐れをなしてはならない。おびえてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである。彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。」民はユダの王ヒゼキヤのことばによって奮い立った。」(歴代誌Ⅱ32:7-8)
すごいことばじゃないですか。これはアッシリヤの王セナケリブが攻めてきた時に、ヒゼキヤが民の隊長たちに言ったことばです。ここでヒゼキヤは、たとえアッシリヤが攻めて来るようなことがあってもおびえることはない。私たちとともにおられる方は、彼らとともにいる者よりも大いなる方であると宣言しました。これぞ信仰から出たことばです。信仰がなければこのようなことは言えません。なのに神に目を留めなかったとはどういうことなのでしょうか。
このことばを見る限り、確かにヒゼキヤは神に信頼していたように見えます。しかし、神に信頼するとはどういうことなのかがわかっていませんでした。確かに彼は神は偉大な方であり、彼らとともにおられる方は敵とともにいる者よりも大いなる方であると認めていました。その神が戦ってくださると信じていました。しかし、へりくだって祈っていなかったのです。本当に必要なのはあなたです、と心を注いで祈っていませんでした。口では私たちの主は大いなる方であると告白しながらも、目に見える武器や水源の確保、城壁の修復といったことにとらわれていたのです。そんな彼が本当に主に目を向けるようになったのはいつのことですかその後セナケリブがエルサレムの隊長たちに「おまえたちは何に拠り頼んでいるのか。そんな神がおまえたちを救い出してくれるとでも思っているのか。ヒゼキヤのことばにだまされるな。彼を信じてはならない。」と言った時です。 その時ヒゼキヤはどうしたでしょうか。同じ第二歴代誌32章20節にこうあります。
「そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた。」
そのような絶体絶命の中で、ヒゼキヤ王は、主の御前に心を注ぎだして祈り、天に叫び求めたのです。それで主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を打って全滅させたのです。つまり、ユダが救われたのは、ヒゼキヤが心を注ぎだして必死で祈ったからです。ただ頭だけで主は大いなる方であると理解していただけでなく、その神に全面的におゆだねしたからなのです。敵の攻撃に備えて武器を用意したり、水源を確保したり、城壁を補修したりするといったことが悪いのではありません。そのように自分たちにできることをすることは大切なことです。しかし、それがすべてではありません。そうしたことをしっかりとした上で、なおかつ、主にすべてをゆだねなければならないのです。「主よ。私にはあなたが必要です。あなたこそ私の助けです。私の岩、私の盾、私の避けどころ、私の救いです」と告白し、へりくだって祈ることが必要なのです。
あなたの生活の中に問題が起こるとき、あなたはそれをどのように解決していますか。自分にできるだけの解決策を考えてそれを実行しますか。しかし、それでもあなたの中に不安が拭えないのはなぜでしょうか。あなたがまだ恐怖にかられているのはなぜでしょうか。それは、あなたが神の前にひれ伏して祈っていないからです。必死になって「神様、助けてください。あなたが救いです。あなただけが助けです」と祈っていないからです。いざという時には貯金を下ろせばいいやとか、あれをすればいい、これをすればいいと思っているからなのです。しかし、本当に必要なことは「あなただけが救いです」と祈ることなのです。問題の解決を求めて必死で取り組むこと自体は悪くありません。しかし、最終的に私たちは主の前にひざまずいて、へりくだって、主に祈り求めなければならないのです。
Ⅲ.神の呼びかけ(12-14)
ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、悔い改めて、神を求めましょう、ということです。12節から14節までをご覧ください。
「その日、万軍の神、主は、「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ」と呼びかけられたのに、なんと、おまえたちは楽しみ喜び、牛を殺し、羊をほふり、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」と言っている。そこで万軍の主は、私の耳を開かれた。「この罪は、おまえたちが死ぬまでは決して赦されない」と、万軍の神、主は仰せられた。」
「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ」とは、悔い改めるようにとの促しです。主はイスラエルに、断食をして、悔い改めるようにと言われたのに、彼らの取った態度は全く逆のものでした。どうせ明日は死ぬんだから、好きなものをたらふく食べよう、やりたいことは何でもしようと、最後まで快楽を求めたのです。
これが神を信じない人たちの姿です。神を信じない人たちにとってはこの世がすべてです。この世に生きている間に楽しめるものを楽しまなければならないと思うのです。
Ⅰコリント15章32節を開いてください。ここには「もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです。」とあります。死者の復活を否定する偽りの教えがコリントの教会に入り込んでいましたが、そんな彼らに対してパウロは、もし死者の復活がないとしたら、それはただこの地上の快楽を求めるだけの生き方になってしまうと警告しているのです。復活の希望、永遠のいのちは、単なる教理ではありません。私たちの日々の生活を決定付ける重要な教えなのです。
パウロは、「毎日が死の連続でした」と告白しています。伝道者としての彼の生涯は、まさに迫害と困難の連続でした。毎日、毎日、死ぬような経験を通りました。いったいなぜ彼はそのような道を通ることに甘んじたのでしょうか。それは、キリストのために死ぬ者は、キリストにあるいのちによみがえらされる。キリストのために死ぬ者は、天国に行ってから大いなる報いを受けるという希望があったからです。そういう希望があったからこそ、彼はこの戦いに耐えることができたのです。でもこの希望がなかったら、この希望を信じていなかったらどうでしょう。この地上のことがすべてになります。死んだら終わりだ。何も無くなってしまう。ただ灰になるだけだ。だったらせめて生きている間だけでも好きなことをして楽しもうということになるのです。
そこで主は何と言われたでしょうか。14節です。「そこで万軍の主は、私の耳を開かれた。「この罪は、おまえたちが死ぬまでは決して赦されない」と、万軍の神、主は仰せられた。」
どういうことでしょうか。「私の耳を開かれた」と言う言い方は、とてもユニークです。直訳すると「私の耳においてご自身を明らかにされた」となります。これは、預言者に対して神が特に強く語られてことを表わしています。その内容はどんなことでしょうか。「この罪は、おまえたちが死ぬまでは決して赦されない」というものでした。この罪は、神の警告を無視し、この世の快楽を求めて走り回っていることです。神の栄光を現すために造られた者が、その神を敬うことをせず、自分の欲望のままに生きることです。この罪は、死ぬまで赦されません。ということは、死んだら赦されるのかというとそうではありません。死んでからはその機会は全くないのです。その死ぬまでの間にも、悔い改めの機会が残っていないということです。それほど重大な罪を犯していることになるということなのです。いったんお酒におぼれると、そこから立ち直ろうとしても、身体が思うように効かなくなるのと同じです。
その結果どうなってしまうのでしょうか。死ぬまでそのままの状態にされます。それがバビロン捕囚でした。自分は神の民だから大丈夫だ、自分はクリスチャンだから大丈夫だと思っていても、神のみこころから離れ、自分勝手に生きる手射るようなことがありますと、私たちも同じようにされます。
ですから、悔い改めて、神に立ち返りましょう。そうすれば神は赦してくださいます。「泣け。悲しめ。頭を丸くして、荒布をまとえ。」神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神は、それをさげすまれません。必要なのはただあなただけです。あなただけが救いですと、神の前にへりくだって生きること、それが私たちに求められていることなのです。